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2008
11/25
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前回でリリー博士に関しては最大の山場を越えたが、まだいくつか興味深い部分が残っているので『イルカと話す日』から抜き書き風に進めよう。
第一章 イルカに関する新学説の展開
イルカに関する学説を最初に記録したのはアリストテレスである。その著作『動物誌』の中で、アリストテレスはイルカに関して鋭い観察を数多く書き記しており、イルカが胎生であること、授乳すること、呼吸をすること、水中で音をやりとりしてコミュニケーションを交わすことなどを述べている。
これは本当。さすがは万学の祖と言おうか、一般の学者たちがアリストテレスの観察に追いつくには、その後1800年ぐらいかかっている。第17回で少し言ったが、知識が時間を追うごとにどんどん進歩するという常識は、近代以前に関してはあまり通用しない。
アリストテレスはさらに「少年たちとイルカとはおたがいに愛情を抱いている」とまで述べており、背中に少年を乗せて海中を泳ぐイルカの話を紹介している。(中略)現代になってこのアリストテレスの観察の正しさは裏づけられたが、それは私がイヴァン・トースと一緒に、彼の映画『フリッパー』をバハマ諸島で撮影中のときのことだった。
(中略)
私たちが水に入るとすぐにイルカたちは近づいてきて、二人の少年たちは母親イルカの背びれのうしろに乗れるようになった。母イルカは二人を乗せて海の深い方まで連れていくと、水中に潜ってみせたが、二人の息が切れる前に水面に上げてやり、また海岸の端の浅瀬に送りとどけた。(中略)その結果は映画『フリッパー』全編と、同じ題名のテレビの連続番組(邦題は『わんぱくフリッパー』)にうかがえる。こうしてアリストテレスの観察の正しさは証明されたのである。
私たちは水中で人間に遭遇した現代のイルカが、二〇〇〇年前のイルカと同じ行動をとることを明らかにした。紀元前四〇〇年頃から一九六二年まで、イルカと人間の関係は変化していないのである。その間実に二〇〇〇年以上もの時間が経過しているのだ。アリストテレスのイルカについての学説は、海で本物のイルカを観察したことが基盤になっている。アリストテレスのイルカについての記述のほとんどが正しかったことが今世紀に入って確認されている。しかしそれ以前、彼の観察は疑いの目で見られていた。
リリー博士の名は知らなくても『わんぱくフリッパー』を見たり聞いたりしたことがあるという人は珍しくないはずである。彼が作ったものと知ってショックを受ける人もいるかもしれない。
後で見るように彼の思想は(それなりに)真面目な学問の世界にも少なからぬ影響を残したが、今日のガイア教にはむしろこうした大衆文化を通じて与えた影響の方が重要である。*1
それにしてもイルカ・シャチのショー及びその映像に慣れ親しんでいる我々の感覚からすると、イルカに乗る人間が数十年前までファンタジーと見なされていたというのは、とても不思議な気分だ。我々は彼が作った*2世界の中で生きている。あまりユリカさんを笑えないようだ。
少年たちがイルカに乗るところを自分の目で観察しておきながら、それを信じることができないなどというばかな話があるだろうか。こうした権威主義的な物の見方はいまでも横行していて、イルカについての研究を阻んでいる。
十九世紀の終わりから二十世紀の初めにかけて、いくつかの水族館がイルカ類を飼育していた。ビクトリア期のイギリスではイルカのショーが禁止された。イルカの性行為を一般公開してはならないというのが禁止の理由であった。どうやらこのイルカたちは、今日水族館に入れられたイルカ同様にさまざまな形の性行為をしきりと見せたようだ。
この記述だけで言うわけではないが、リリー博士のイルカの性に関する描写からは、彼が性的に自由奔放であることを「善い生物」の属性と見なしていることは明らかである。*3
これもまた彼の属したニューエイジ的文化の特徴にフリーセックスが含まれていること(第24回)を踏まえていなければ意味不明になってしまうところだ。
皮肉ではあるが、彼の言うとおり時代に応じて変わったのはイルカではない。ロンブローゾがかつてそうしたように(第23回)、そして我々が現在もそうしているように、人間が勝手に擬人化してその時々の文化的基準を自然・動物に投影しているのである。
このことはまたリリー博士も時代の子であり、ただ単に狂っていたわけでも本当に異星文明からやってきたわけでもないことの傍証ともなるだろう。我々の倫理観はリリー博士のそれとは様々な点で違っているかもしれないが、ビクトリア朝のそれに比べれば、互いに遙かに似通っているのだ。
第二章 実験で得られた新学説
セント・トーマスの研究所が完成した頃、人類学者のグレゴリー・ベイトソンがイルカの研究に興味を示してきた。ベイトソンはセント・トーマスへの移住に同意し、研究所の運営にたずさわった。(中略)ベイトソンは研究所に一八ヶ月間勤務して、三頭のイルカの行動を観察し、いくつもの重要な発見をした。
グレゴリー・ベイトソンって知ってるか? ポストモダン界隈ではむしろリリー博士より有名な人物だ。彼はこのシリーズにそれほど重要な役割は果たさないが、そのベイトソンの妻はかの有名なマーガレット・ミードなのだ。
後でもう少し詳しく取り上げるように、いわゆる「マーガレット・ミード的」な原始社会および性に関する見方は、世界中のリベラルな人々の間で広く受け入れられ、ピークはとうに過ぎたとは言え、現在もガイア教の重要な構成要素となっている。「世間は狭い感」(第23回)を感じてしまう場面である。
『人間とイルカ』は一九六〇年に執筆された。アメリカで出版されたあと、この本は数ヵ国語に翻訳された。ロシア語訳はロシアの科学者や大衆のあいだで広く読まれ、漁業大臣が黒海とアゾフ海でのイルカの捕獲を禁止するほどであった。フランス語版(“L’Homme et Dauphin”)が出版されたことで、ロベール・メルルの『イルカの日』が生まれた。この小説はおそらく私たちの研究をもとに書き上げられたものである。その後、一九七〇年代になって、この小説はアメリカで映画化された。(中略)一九六六年、私は『イルカの心』を執筆し、私たちの研究の進展を詳しく述べ、多数の科学論文をも掲載した。
いい加減信じてもらえるようになってきたと思うので言うが、リリー博士は当時、決して異常な例外でも孤立した狂人でもなかった。私が叩きやすい対象としてわざわざ可哀想な老人を捜してきて晒し者にしているわけではないのである。
逆に、今まで私に対してこの程度の疑いも持っていなかった人はちょっと人が良すぎる。そんな人は今は私の意見に賛成してくれても、別の誰かに別のうまい話を聞かされたらまたコロッとそっちに転ぶに決まっているので、私にとってあまり有り難い読者ではない。(つづく)
*1:もっとも今回の文脈では学問と文化の区別は必ずしも明白ではないのだが。このことも、もう実例を見てもらって納得してもらうしかない。
*2:重要とは言えないまでも決して無視できない一部分を。
*3:仮にイルカが、長い婚約期間や複雑な求愛儀式を要求し、飼育下では絶対に交尾しないような「お堅い」動物(実際にそういう動物は珍しくない)だったらそのエピソードを同じように本で取り上げただろうか。もちろん憶測にしかならないが、私は否だと思う。
おまけ
イルカ→ジャンプ→飛び込み









木戸孝紀