2008 11/25

(今日の一コマ)

 前回でリリー博士に関しては最大の山場を越えたが、まだいくつか興味深い部分が残っているので『イルカと話す日』から抜き書き風に進めよう。

第一章 イルカに関する新学説の展開

 イルカに関する学説を最初に記録したのはアリストテレスである。その著作『動物誌』の中で、アリストテレスはイルカに関して鋭い観察を数多く書き記しており、イルカが胎生であること、授乳すること、呼吸をすること、水中で音をやりとりしてコミュニケーションを交わすことなどを述べている。

 これは本当。さすがは万学の祖と言おうか、一般の学者たちがアリストテレスの観察に追いつくには、その後1800年ぐらいかかっている。第17回で少し言ったが、知識が時間を追うごとにどんどん進歩するという常識は、近代以前に関してはあまり通用しない。

 アリストテレスはさらに「少年たちとイルカとはおたがいに愛情を抱いている」とまで述べており、背中に少年を乗せて海中を泳ぐイルカの話を紹介している。(中略)現代になってこのアリストテレスの観察の正しさは裏づけられたが、それは私がイヴァン・トースと一緒に、彼の映画『フリッパー』をバハマ諸島で撮影中のときのことだった。

(中略)

 私たちが水に入るとすぐにイルカたちは近づいてきて、二人の少年たちは母親イルカの背びれのうしろに乗れるようになった。母イルカは二人を乗せて海の深い方まで連れていくと、水中に潜ってみせたが、二人の息が切れる前に水面に上げてやり、また海岸の端の浅瀬に送りとどけた。(中略)その結果は映画『フリッパー』全編と、同じ題名のテレビの連続番組(邦題は『わんぱくフリッパー』)にうかがえる。こうしてアリストテレスの観察の正しさは証明されたのである。

 私たちは水中で人間に遭遇した現代のイルカが、二〇〇〇年前のイルカと同じ行動をとることを明らかにした。紀元前四〇〇年頃から一九六二年まで、イルカと人間の関係は変化していないのである。その間実に二〇〇〇年以上もの時間が経過しているのだ。アリストテレスのイルカについての学説は、海で本物のイルカを観察したことが基盤になっている。アリストテレスのイルカについての記述のほとんどが正しかったことが今世紀に入って確認されている。しかしそれ以前、彼の観察は疑いの目で見られていた。

 リリー博士の名は知らなくても『わんぱくフリッパー』を見たり聞いたりしたことがあるという人は珍しくないはずである。彼が作ったものと知ってショックを受ける人もいるかもしれない。

 後で見るように彼の思想は(それなりに)真面目な学問の世界にも少なからぬ影響を残したが、今日のガイア教にはむしろこうした大衆文化を通じて与えた影響の方が重要である。*1

 それにしてもイルカ・シャチのショー及びその映像に慣れ親しんでいる我々の感覚からすると、イルカに乗る人間が数十年前までファンタジーと見なされていたというのは、とても不思議な気分だ。我々は彼が作った*2世界の中で生きている。あまりユリカさんを笑えないようだ。

イルカのペニス

 少年たちがイルカに乗るところを自分の目で観察しておきながら、それを信じることができないなどというばかな話があるだろうか。こうした権威主義的な物の見方はいまでも横行していて、イルカについての研究を阻んでいる。

 十九世紀の終わりから二十世紀の初めにかけて、いくつかの水族館がイルカ類を飼育していた。ビクトリア期のイギリスではイルカのショーが禁止された。イルカの性行為を一般公開してはならないというのが禁止の理由であった。どうやらこのイルカたちは、今日水族館に入れられたイルカ同様にさまざまな形の性行為をしきりと見せたようだ。

 この記述だけで言うわけではないが、リリー博士のイルカの性に関する描写からは、彼が性的に自由奔放であることを「善い生物」の属性と見なしていることは明らかである。*3

 これもまた彼の属したニューエイジ的文化の特徴にフリーセックスが含まれていること(第24回)を踏まえていなければ意味不明になってしまうところだ。

 皮肉ではあるが、彼の言うとおり時代に応じて変わったのはイルカではない。ロンブローゾがかつてそうしたように(第23回)、そして我々が現在もそうしているように、人間が勝手に擬人化してその時々の文化的基準を自然・動物に投影しているのである。

 このことはまたリリー博士も時代の子であり、ただ単に狂っていたわけでも本当に異星文明からやってきたわけでもないことの傍証ともなるだろう。我々の倫理観はリリー博士のそれとは様々な点で違っているかもしれないが、ビクトリア朝のそれに比べれば、互いに遙かに似通っているのだ。

第二章 実験で得られた新学説

グレゴリー・ベイトソン

 セント・トーマスの研究所が完成した頃、人類学者のグレゴリー・ベイトソンがイルカの研究に興味を示してきた。ベイトソンはセント・トーマスへの移住に同意し、研究所の運営にたずさわった。(中略)ベイトソンは研究所に一八ヶ月間勤務して、三頭のイルカの行動を観察し、いくつもの重要な発見をした。

 グレゴリー・ベイトソンって知ってるか? ポストモダン界隈ではむしろリリー博士より有名な人物だ。彼はこのシリーズにそれほど重要な役割は果たさないが、そのベイトソンの妻はかの有名なマーガレット・ミードなのだ。

 後でもう少し詳しく取り上げるように、いわゆる「マーガレット・ミード的」な原始社会および性に関する見方は、世界中のリベラルな人々の間で広く受け入れられ、ピークはとうに過ぎたとは言え、現在もガイア教の重要な構成要素となっている。「世間は狭い感」(第23回)を感じてしまう場面である。

 『人間とイルカ』は一九六〇年に執筆された。アメリカで出版されたあと、この本は数ヵ国語に翻訳された。ロシア語訳はロシアの科学者や大衆のあいだで広く読まれ、漁業大臣が黒海とアゾフ海でのイルカの捕獲を禁止するほどであった。フランス語版(“L’Homme et Dauphin”)が出版されたことで、ロベール・メルルの『イルカの日』が生まれた。この小説はおそらく私たちの研究をもとに書き上げられたものである。その後、一九七〇年代になって、この小説はアメリカで映画化された。(中略)一九六六年、私は『イルカの心』を執筆し、私たちの研究の進展を詳しく述べ、多数の科学論文をも掲載した。

 いい加減信じてもらえるようになってきたと思うので言うが、リリー博士は当時、決して異常な例外でも孤立した狂人でもなかった。私が叩きやすい対象としてわざわざ可哀想な老人を捜してきて晒し者にしているわけではないのである。

 逆に、今まで私に対してこの程度の疑いも持っていなかった人はちょっと人が良すぎる。そんな人は今は私の意見に賛成してくれても、別の誰かに別のうまい話を聞かされたらまたコロッとそっちに転ぶに決まっているので、私にとってあまり有り難い読者ではない。(つづく)

*1:もっとも今回の文脈では学問と文化の区別は必ずしも明白ではないのだが。このことも、もう実例を見てもらって納得してもらうしかない。
*2:重要とは言えないまでも決して無視できない一部分を。
*3:仮にイルカが、長い婚約期間や複雑な求愛儀式を要求し、飼育下では絶対に交尾しないような「お堅い」動物(実際にそういう動物は珍しくない)だったらそのエピソードを同じように本で取り上げただろうか。もちろん憶測にしかならないが、私は否だと思う。

おまけ

 イルカ→ジャンプ→飛び込み

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2008 10/27

(今日の一コマ)

 歴史上存在した生物の由来に関する理論は、創造論と進化論のふたつだけというわけではない。

 もちろんそれは最も重要な境目には違いないが、『種の起原』が出版されたと同時にスイッチが切り替わるように前者が後者に置き換えられ、以後そのままであるかのような印象を抱いているなら誤りだ。

 それはあくまで第28回で少し触れたような、我々が歴史を理解しやすくするために必要な簡便法に過ぎない。

 実際には、生物学が聖書を捨て去ってから現代の進化論にたどり着くまでには様々な紆余曲折があった。その中で今回の話は、進化論の歴史に常につきまとってきた、今日でも完全に消え去ってはいない根深い一つの誤りに関係がある。

 なんだか大げさな話になってきたように聞こえるだろうが、そんなに身構えることはない。実はそのことに関する話はすでに大部分終わっているからだ。

 その間違いとは、第2回からずっと注目してきた2番目の存在の大いなる連鎖の時代の考え方、つまり「生命は下等な生物から始まって、より高等な人間を目指して一直線に進化の階層を向上してきた。」とする見方である。

 この人間中心の進化観では“万物の霊長”たる人間のような、大きな脳を持ち、高い知能と高度な精神を有する生物に到達することが、良いことであり、進化の目標であると考える。

 したがって、人間が属する哺乳類は“進化の進んだ高等な生物”であり、他の生物も、

  • 人間に似ているか?
  • 人間の祖先に系統が近いか?
  • 人間のように脳が大きいか?

 という基準に従って、鳥類・爬虫類・両生類・魚類の順でより“進化の後れた下等な生物”であると、一直線的にランクづけされることになる。

 では、一度も人間の先祖であったことのない鳥類は、なぜ爬虫類の上・哺乳類の下にランクづけされるのか?

 もちろん鳥類は、哺乳類と同じく爬虫類を祖先に持ち、人間の属する哺乳類と同じく温血だから、爬虫類より「高等」である。しかし、どう見ても哺乳類より脳が小さく頭が良くないので、哺乳類よりは「下等」である。

 現在の地球で最も多種多様な生態学的地位を占め、圧倒的な繁栄を謳歌している節足動物(昆虫*1など)が、なぜ魚類より下にランクづけされるのか?

 そりゃあ人間と類縁のかけ離れた、脳と呼べるほどのものさえ持たない虫けらだから「下等」に決まってるだろう。もちろん全く脳など持たない植物はさらに「下等」である。

 うむ、偶然だけど(笑)科学以前から人間が抱いてきた先入観ともピタリ一致するな。でも客観的な科学がそう言うんだから仕方ないね。これで安心、めでたしめでたし。

 ……とまあ、このような今日の視点からすると非常に人間中心的・目的論的で、単なる偏見と宗教的ドグマの影響を受けまくりの素朴な進化観は、意外に最近まで大手を振ってまかり通っていた。そして多くの社会政策にまでも直接・間接に影響を及ぼした。その一部はこれまでも見た通りだ。

 生物学が様々な技術・理論の進歩によって進化の本当の仕組みを知り、真の系統樹を突き止め、実際の生物界の多様さを理解するようになって、このような見方を脱却したのは、本当についつい最近の出来事なのである。

 このあたりの話は非常に面白くかつ重要なことなので、どんなに詳しく取り上げてもやり過ぎということはないのだが、それではいつまで経ってもここから先に進めないので、興味がある人は独自に勉強してほしい。私はここでリリー博士に戻ろう。

 さて、第一次(二次じゃないぞ!)世界大戦中に生まれ、歴史上第2と第3の存在の連鎖間の橋渡しを主導する役割を果たした彼は、もちろん自分自身の片足をまだこの第2の連鎖の考え方に突っ込んでいる。*2

 そろそろ次の展開が予想できるだろう。この言わば一つ古いバージョンの進化論に基づいて考え直せば、博士のイルカ・クジラに対する推論は、俄然違った色彩を帯びてくるのである。

(やる気がある人は次の段落に進む前に前回の引用部をもう一度読み直してこよう。)

 進化というのは人間のような大きな脳・高度な知能を目指して前に進むものである。したがって、人間よりも大きな脳を持つクジラ・イルカは、当然人間よりも知能が高く・進化の進んだ生物である。そしてクジラ・イルカより小さな脳しか持たない人間は当然クジラ・イルカより知能が低く・進化の後れた生物である。これは全く自明の単なる事実である。推論ですらない。

 「進化が進む」とは万物の霊長たる「人間に近づく」ことと同義である。したがって、近づくどころか人間以上の大きさの脳にまでに進化が進んでいるイルカは、当然話ができる。そうでなければおかしい。人間は話ができるからだ。イルカに話ができないように見えるとすれば、それは人間の方に知能が足りないからだ。*3全く自明の理である。そうでないなんてことはありえない。それは進化論に反する。

 イルカ・クジラは高度な思考や推論を働かせている。なぜなら人間はそうしているからだ。そうでなければ理屈に合わない。イルカ・クジラは高度な道徳や倫理を持っている。なぜなら人間が――鯨類に比べれば不十分とはいえ――そうだからだ。全く自明の(以下同文)。イルカ・クジラは口承伝承を子孫に教え込んでいる。なぜなら人間が(以下略)。

 どうだろう? あなたの想像力が十分なら伝わるだろう。このぞっとするような首尾一貫性が。自分の常識とまったく相容れない別の一貫した体系というのは不気味で怖ろしく感じるものなのだ。

 この恐怖と引き替えにいくつかの教訓を得ることができよう。

 まずひとつ目の教訓としては、イルカの知能なんて割とどうでもいい――と言ったらリリー博士には怒られるだろうが――話題ですらこんなにも不気味に感じるのだから、それが社会の安定・宇宙の運命・自分の永遠の魂に関することだったらどうかは、もう言うまでもないだろう。

 過去あるいは現在の宗教紛争がどんなに無茶苦茶で非道に見えたとしても、安易に「狂っている」だなんて言うべきではないということだ。(第8回)それは自分の想像力不足による思考停止の責任を相手に押しつけているだけだ。

 ふたつ目の、より重要な教訓は、人間の思考に対して働く時代精神の制約がいかに強力なものであるか、ということだ。彼ほど

「人類は人間中心のものの見方から脱却しなければならない! 人間だけが偉いという古い思い上がったドグマを捨てなければ人類に未来はない!」

 と熱心に説いた人もいないというのに、その彼の思想の前提となっていたのは、率直に言って今日のどこの中高生にも劣る、どうしようもなく人間中心的な生命観・進化観だった。

 なんともやりきれない話だ。*4これはガイア教が抱える多くの“ねじれ”の中でも最大のもののひとつで、リリー博士から学ばなければならないもっとも重要な教訓でもある。

 例によって、私たちがこうして「教訓を学ばなければならない」などと言って上から目線で見ていられるのは、21世紀の後知恵でハリネズミのように武装しているからに過ぎないということを忘れてはならない。

 こうした考察に接すると、義憤にかられ、人間であることに罪悪感を覚える科学者や篤志家もいることだろう。だが、この地球上でこうした現状を認識しているのはごく限られた人びとでしかないことを思えば、現状が変革されるとは思えない。十分な知識を備えた人びとはいくらかはいるだろうが、もはやクジラ類の殺戮を止めることはできないし、クジラ類との協調を図り、彼らとコミュニケーションを取ろうとする新プログラムに着手するとしてもいまとなっては手遅れである。

 本書はこうした著者の学説の基盤を説明し、現状を可能なかぎり詳しく報告しようとしたものである。著者としては、本書の内容が広く知られ、クジラ類とのコミュニケーションの研究プログラム発足の手助けになってほしいと思う。こうしたプログラムを組み立てれば、クジラ類の正体を明らかにし、その思考を解明し、彼らの話の内容を理解することができるようになる。プログラムの発足を公表し、研究結果を発表すれば、殺戮を止めさせることもできるだろう。その時になってはじめて、クジラ類を教育し、クジラ類から教えを乞うという人間の欲求が実を結んで、新しい学校や産業、政府が生まれることだろう。そこで本書では、現在までにわかっている事実を紹介し、人間とイルカとが種の違いを越えて将来協力し合うための指針を提案することにする。

 次の世代の人間が、異種間コミュニケーションこそは、おそらくは現在の地球が直面している最も偉大で高貴な試みなのだと認識してくれれば幸いである。現状を打破して、他の種の動物の思考、感情、行動、言語を理解できるようになることは、人間や地球の概念をも変える偉大で高貴な行為である。地球の表面の七一パーセントは、クジラ類の棲む海で蔽われている。いまこそこの地上の七一パーセントとのつきあい方を学習し、知性と感受性に富み、長い年月を生き抜いてきたイルカ・クジラ類となごやかに共生するすべを学ぼうではないか。

 これはちょうど前回の引用部の直後に続くものだが、我々よりリリー博士に生きていた時代が近く、21世紀の後知恵を知る術もないが、

 義憤・罪悪感・篤志・ごく限られた人びと・変革・新しい政府・偉大・高貴・打破・共生

 などという言葉は現在と同じく大好きだった当時の人々の耳に、この声がどのように響いたか、想像に難くないはずだ。山場は過ぎたもののリリー博士からはまだまだ学ぶことが沢山ある。(つづく)

*1:神学者から、生命の研究から読み取れる神の性質はどのようなものかと尋ねられた、生物学者J.B.S.ホールデンは「甲虫に対する法外な溺愛」と答えた、という有名なエピソードがある。
*2:他のどこに突っ込めというのだ? 創造論か?
*3:「彼らはおそらくかしこい。しかし、それを解明できるほど人類はかしこくない」(第9回
*4:ただし、別の、より楽観論的な見方をすれば「時代の進歩に応じてどこの中高生でも昔の天才以上になれる。」ということだから希望のある話と考えることも可能であろう。これはコップの水が半分しか入っていないのか、それとも半分も入っているのかというのと同じ話で、どちらかが正しくてどちらかが間違っているという類のものではない。

おまけ

 人類に未来はないつながり。

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2008 10/25

イルカと話す日

 ではまた『イルカと話す日』の続きから始めよう。次の部分はちょうど第29回の引用部分の直後に続くもので、ガイア教徒の鯨類に関する中心信条とでも言うべきものである。

 機会があれば後で実例もお目にかけるが、驚くべきことに――そろそろ驚かなくなってきていてもらえると嬉しいのだが――今日時点ですら、これをほぼそのまま信じている人は大勢いる。

 このような考察を推し進めていけば、イルカとクジラについての新しい学説が生まれる。

  1. クジラ類の脳の大きさは大小さまざまだが、最も小型の脳を持つクジラでも類人猿と同程度の思考力を持っている。
  2. 人間と同じ大きさの脳を持つクジラ類(ハンドウイルカなど)は、人間と同じ思考力を持ち、人間と同じ程度に過去と未来に思考をめぐらせて現状を判断することができる。
  3. 人間よりも大きな脳を持つクジラ類(シャチ、マッコウクジラなど)は人間を凌ぐ思考力を持っており、人間以上に遠い視野で過去や未来を見つめて現状を考えることができる。
  4. 現在の人間が共有しているクジラ類に関する知識は、あまりに不完全である。クジラ類の知性と思考力についての人間の知識は初歩的で不十分であり、クジラ類を絶滅から救う必要性についての認識も欠けている。しかも人間は、クジラ類が認識している地球環境の実態すら理解できずにいるのである。クジラ類がこうした認識を持っていることは、遠い昔に彼らが生き残りをかけて決断を下したことから明らかである。クジラ類は少なくとも人間同様に巧みに環境への適応を果たしてきたし、しかも人間が地上に出現してからの期間の少なくとも二〇倍もの時間を生き抜いてきたのである。
  5. クジラ類は繊細で豊かな感受性を持ち、倫理観にすぐれ、思慮深く、古代から伝わる「肉声による」歴史を持っていて、これを子孫に教えこんでいる。
  6. クジラ類の人間に関する知識は、海上で船舶やヨット、キャッチャーボートなどと遭遇したり、戦った経験に限られている。陸上で人間と接触したあと、海に戻ってきたクジラ類はきわめて少ない。したがって海の中での人間とのコミュニケーションや、人間に関する知識は不十分なものである。クジラ類が人間に関する知識を獲得するのは、捕鯨についての体験と情報交換、イルカの捕獲、海中での爆発、原油の流出、コミュニケーションの妨げとなる船舶の航行音とスクリュー音、潜水艦と戦闘機を使った海上での戦争によるクジラ類の殺傷などの事柄を通じてである。
  7. クジラ類は人類が非常に危険な存在だということを知っている。こうした考えを持っているために、クジラ類はたとえ極端な挑発をされても、倫理的に行動し、人間の身体を傷つけたり、破壊したりしない。もしクジラやイルカが水中で人間を傷つけたり、殺しはじめるようなことがあれば、彼らは間違いなく、人間が海軍を使って、捕鯨産業よりも素早く自分たちを滅ぼそうとするだろうと考えているのである。
  8. したがって、クジラ類は断片的ではあるが人間についての知識を持っており、その知識を使って直接的な体験から理論を引き出し、推理を働かせていると思われる。またその推論の方法は、人間がクジラについての知識を形成するやり方と同様であると考えられる。文字や具体的な記録を持たないにもかかわらず、クジラ類はおそらくその巨大な脳のおかげで、並外れた記憶力を持っており、記憶を統合する能力は人間並みかそれ以上のものがあるのである。
  9. 古生物学上の証拠を見れば、イルカ・クジラ類は人間よりもはるか以前から地球上に生息していたことかわかる。イルカ(現在のハンドウイルカ)類はおよそ五〇〇〇万年前に地球上にあらわれ、脳の大きさも現在の人間並みかそれを上回っていたようだ。特定の種類のクジラやイルカの脳が、現代の人間と同等の大きさに達し、それを上回るようになったのはおよそ三〇〇〇万年前のことらしい。ヒトの頭蓋骨で、現代人と同じ脳容積を持ち、完全な形で多量に見つかるのはわずか一五〇万年前のものである。つまり、人間は地球上ではいまだに進化の過程にある新参者であることがわかる。人間はクジラ類ほど長期にわたって地上に生息することはできないかもしれない(しかも人間は次の世代かその次の世代でクジラ類を絶滅においこんでしまう可能性すらある)。

 ……ううむ、なんとも凄まじい推し進め方だ。確信者にしか持ちえないこの圧倒的なパワー、何度読んでも目眩がしそうになる。

 私が、初心者をいきなりこれに触れさせることを危険と判断し、シリーズの最初の方に持ってこなかった理由を、少しは理解していただけるようになってきたのではないかと思う。

 もちろん21世紀の後知恵でもって、これをバカげた妄想と斬って捨てるのは容易い。しかし、それでは重要な歴史の教訓を見逃すことになるし、彼が後世に与えた影響力について正しく認識することもできない。*1またかなり長くなると思うが、しばらくこれに真剣に取り組まなければならない。

 リリー博士の思想には、この本の上記部分以外にも、他の本にも、

「イルカ・クジラは人間よりはるか以前から地球環境に適応して暮らしてきた、進化の進んだ先輩であり、進化の過程にある新参者の人間が教えを請うべき存在である。」

 という見解が繰り返し繰り返し現れる。これは一体どういう意味なのだろう?

 私は、ここでは読者に中学の理科程度の知識しか前提として期待するつもりはないので気楽に答えてほしいのだが、おそらく意味不明だと感じるはずだ。*2

 「人間は進化の過程にある」ことまでは認めてもよかろう。(そうでない生物がいるとでも?) しかし、新参者とか先輩というのは一体なんなのだ? 普通*3の進化に関する理解では、

 ひとつ、今日生きている全ての生物――異星文明からやってきたというリリー博士を例外とすればだが――は、全生命の共通祖先から始まって同じ*4三十数億年間の進化をして現在に至っている。どちらかが、たとえ一日でも進んでいるとか後れているとかいうことはありえない。

 ふたつ、今日生きている全ての生物は、全て自らの生きてきた地球環境に適応してきた。適応できなかった生物は死んで、もういない。進化というのは突き詰めればそれだけのものだ。*5

 「ある生物がある期間、特に進化しなかった」ということは、単に「その生物がその期間、特に進化を起こすような淘汰圧に晒されなかった」というだけのことでしかない。

 みっつ、5000万年前とか3000万年前とか150万年前とか、あるいはどんな数字であろうとも、それはたまたま発見された、特定の化石の年代を元に人間が決めた、人為的な区切りであるに過ぎない。

 イルカやクジラがこんな姿をしていた4,5千万年前にも人間の祖先は(多くのサルとの共通祖先として)暮らしていたのだし、「人類が地球に現れたのはつい最近(あるいは大昔)の△△△万年前である」というような言い方は、全く恣意的なものに過ぎない。

 人類進化の研究において便宜的に区切りをつけなければならないという文脈ならばともかく、全く系統の異なる鯨類と比較してそのようなことを言っても、話者がそのように見たがっている、という以上の意味はない。

 たとえば、彼の研究当時、ルーシーはまだ発見されておらず、アウストラロピテクスは初期人類として理科の教科書に載ってなどいなかったが、その発見によって、人類は以前よりクジラを尊敬する度合いを減らしてもよくなったのか?

 仮に、明日アウストラロピテクスが人類の祖先でなかったと判明したら、明後日からもっとクジラを尊敬しなければならなくなるのか?

 5000万年どころか、何億年も形態を変えずに生きてきたシーラカンス・カブトガニ・ゴキブリ・バクテリア*6に教えを請わないのは、彼らのあまりにも偉大すぎる調和は人間ごときには畏れ多いから、クジラ程度のしょぼい調和で我慢しとけってことなのか?

 馬鹿な。このような議論をいくら続けても意味がない。明らかに間違っている。私たちの彼に対する理解が、だ。

 リリー博士はどこからどう見ても進化論否定論者ではないし、未来の弟子と違ってイルカがシリウスからやってきたなんて考えていないし、自分に関しても少なくとも肉体は進化してきたものであることを否定したりしていない。

 ならば、これらの基本的な事実については、程度の差はあれど私たちと同様に認識していたはずなのに、どうしてまるっきり話が通じないのか? 概ね同じ知識を元に全く異質な結論にたどり着くとしたら、違っているのは途中の過程である。

 私はこれから、このような現代の常識からはどう見ても狂っているとしか思えない考えに、当時はそれなりの、おそらくあなたの想像以上の整合性があったことを示そうと思う。

 答えから言ってしまうと、実は、当時のリリー博士が前提として考え・話している進化論は、今日中学・高校で教えられている進化論とは実際にかなり異なったものなのである。(つづく)

*1:それができないと結局それを埋め合わせるために、あるはずのないものを探して、また食肉業界がどうとかCIAがどうとかいう陰謀論にはまることになる。
*2:もし「わかる!」という人がいたら自分はいささかヤバいことになっていると気づいていただきたい。まだ間に合ううちに。
*3:この言葉を使うときは、いつどこの誰にとっての“普通”なのかよくよく考える必要がある。
*4:厳密に同じ! このことにはトンデモでない畏敬の念を持っても許されると私は思う。
*5:だから生命から意味が奪われるのを嫌がる創造論者は「適者生存などというのは何も意味してないトートロジーだ!」と言って進化論を否定したがる。なんでそれで否定したことになると思えるのか正直よくわからないのだが。
*6:あまり関係ないが、スティーブン・J.・グールドは「地球は過去も現在も未来もバクテリアの惑星である」というような言い回しを好んだものだった。

おまけ

 魚類つながり。神ゲー海腹川背の神プレイ。

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2008 10/20

(今日の一コマ)

 前回で、ついに“脳”を介して歴史上の三つの大いなる存在の連鎖が全て一本に繋がるところまで来た。いい機会なので少し俯瞰してまとめてみよう。

 いつの時代も――少なくとも何万年という長きにわたって――ずっと変わらないものがある。それは、自分と自分たちの共同体が、宇宙の中で特別の歴史を持ち・特別の使命を帯び・特別の地位を占めていると信じたい人間の心である。

 それは直接目に見えるものではないが、もっと変化しやすい物事を通して、間接的に見ることができる。それはある時代には、

  • 我が部族は大地の誕生と同時にその裂け目から飛び出た偉大なる雄牛の子孫である

 というような神話の形をとって現れ、またある時代には、

  • 全能の父なる神が御自身の姿に似せてアダムとイヴを創られた

 という宗教の形をとって現れ、またある時代には、

  • 生命はアメーバから人間に向かって一直線に進化の階層を駆け上がってきた

 という学説の形をとって現れ、またある時代には、

  • 人類は進化史上のある時期イルカやクジラと仲良く水の中で暮らしていた

 という珍説の形をとって現れるのだ。*1

 今日の鯨類に、時に人間以上の地位にすら登るという離れ業を可能にさせたのは、もちろん単一の要因などではなく、すでに言及したこと・まだ言及していないことを含め、必然・偶然の様々な要素がロイヤルストレートフラッシュのごとく絶妙に噛み合った結果である。

 しかし、その中でも一番重要な絶対不可欠の要素が“大きな脳”であったことは、間違いないと言ってよいだろう。

 脳科学神経科学は、半世紀前とは比較にならないほど進歩した*2今日でさえ、まだまだ発展途上にある。十分満足できる信頼のおける情報が与えられているとは到底言えず、いまだ半世紀前と同じく理性と神秘の境界線上に載ったままである。

 それゆえ、脳の写真には今日にもいまだ「魔力」がある。(参考)21世紀の人間にとってさえもそうであるのなら、リリー博士をはじめとする当時の人々がこの「魔力」の前に為す術もなかったとしても、いったい何が不思議なのだろうか。

 リリー博士の生まれた時代に注意を向けるように以前伏線を張っておいたが、1915年といえば第一次大戦中だ。ヒトラーが伝令として戦場を駆け回っていた頃だ。

 リリー博士は脳をこの世で最も精妙な装置と表現したが、その脳について確実にわかることといったら、限度を超えた力でぶん回せば豆腐みたいに潰れるというぐらいのことだった。(そうでない物体があるとでも?)

 彼が脳について定量的に何か言うために使える基準は、19世紀の学者達にとってそうであったのと同じように、容積ぐらいしかなかった。それ以外にできることといったら、顕微鏡で脳細胞を覗いてほとんど違いがない*3と確認することぐらいだった。

 さて、ここで何にでも優劣をつけたがる人間の性向に迎合して、あえてどちらかが狂っていると決めなければならないとしたら、狂っているのはどちらだ?

 時代精神に則って自分の想像力を少々飛躍させただけのリリー博士か? それとも、現在の自国の常識がいつでもどこでも通用すると思っている我々現代日本人か? 個人的には断然後者の見方を支持したいね。(つづく)

*1:これは私見だが、どうもある時期から一方的にしょぼくなっていくばかりみたいだな。この凄まじい喪失の埋め合わせが、誰かをナチ呼ばわりしたり・漁網を破ったり・酪酸をぶつけたりする程度で済んだら、奇跡に近い僥倖だと思わないか? 私は自分をほとんどあらゆる事柄に対して楽観論者だと考えているが、奇跡を期待する気にはなれないのだ。
*2:余裕があったら、wikipediaに記載されている知見・研究手法の中で、当時のリリー博士に利用できたものがどれだけあるか数えてみると面白いだろう。
*3:当たり前だ。細胞が顕微鏡で見て一目瞭然に違うようなら、イルカはシリウスから来たという主張を真面目に検討しなければならないところだ。

おまけ

 ヒトラー→独ソ戦

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2008 10/13

(今日の一コマ)

 しばらくの間、全く無関係ではないとはいうものの死刑問題に浮気していたり、やっぱりもうちょっと年代順を続けた方がわかりやすいかと思って構成を変更していたりと色々事情があってずっと停止していましたが、そろそろガイア教シリーズを再開しようとしています。

 しかし、やはり最速でも週一・週二ぐらいしか更新できないので、待ち時間に使えるクイズ集を作ってみました。これは学校の試験ではありません。正解を出すことよりも自分で考えるのが目的です。本編の展開にもよりますが、問題によっては最後まで答え合わせがないかもしれません。

 問題の難易度も、ググれば一発のものから、出題者の正気を疑うところから始めないとどうにもならないものまで様々です。必ず正解を出さなければいけないなどとは思わず、わからないならわからないなりに考えることを楽しんでください。

 他人の答えを見てからでは意味がない問題も多いので、回答はここのコメント欄に書いたりはしないでください。私に見せたい人はメールでください。メール欄は左下にあります。シリーズはまだ最低でも数ヶ月は終わらないので、慌てずゆっくり挑戦してください。

第1問

 いわゆるガイア理論を世に問うた最初の本、ジェームズ・ラヴロック『地球生命圏 – ガイアの科学』の日本語版翻訳者スワミ・プレム・プラブッダさんはどこの国・地域の人?

  • インド
  • ネパール
  • チベット自治区(中国)
  • 日本
  • アメリカ

第2問

 『イルカと話す日』巻頭のエピグラフにある2つの引用句。ひとつめはアインシュタインの言葉です。ふたつめの出典を予想してください。検索その他調べ物は禁止です。ドンピシャで当てるのはエスパーでもない限り無理なので、方向性さえ正しければ正解とします。

第3問

 いわゆる白人国家でも、いわゆるキリスト教国でもない国の中で、最もガイア教が盛んな国はどこでしょう? 検索その他調べ物は自由です。

第4問

 次の職業に貴賎をつけ、尊い方から卑しい方に向かって順に並べなさい。

  • 農夫
  • 猟師
  • 漁師
  • 木こり

第5問

 ヨーロッパ人になったつもりでもう一度答えてください。日本人読者を想定しています。もし読者がヨーロッパ文化圏の人間である場合は、前問の答えをこちらに写し、前問を日本人になったつもりで答えてください。

  • 農夫
  • 猟師
  • 漁師
  • 木こり

第6問

 キリスト教のミサでは、神父はどんな動物を殺して生贄に捧げ、どんな薬物を使ってトランス状態に入り、どんな呪文を唱えて雨を呼びますか?

第7問

 日本神話『山幸彦と海幸彦』の兄弟ゲンカ。勝ったのはどちら? ただし、知らない場合は調べずに「知らない」と解答してください。

  1. 山幸彦
  2. 海幸彦
  3. 知らない

第8問

 前問で「知らない」と答えた者は、知らないなりに、どちらが勝ったと思うか予想して答えてください。知っていた人は「もし知らなかったらどちらが勝ったと予想したと思うか」を想像して答えてください。

  1. 山幸彦
  2. 海幸彦

第9問

 第12回で取り上げた『クジラの歌が聞こえる』のクレアが病院で目覚めて以降の結末部分を換骨奪胎して、日本人好みに書き換えてください。一字一句書き換えなくても「大体こんな感じ」程度でよいです。鯨の竜田揚げ食わせろと言っているわけではありません。変えるのはニュアンスです。内容まで変えてはいけません。

第10問

 肥満や糖尿病の蔓延する社会を是正するため、ケーキ屋さんが国会議員になったり議員がケーキを食べたりするのを禁止したいと思います。どう思いますか?

第11問

 このシリーズの主人公と言うべき生物はもちろんクジラ・イルカですが、それに次ぐ、シリーズの副主人公とでも言うべき立場の生物は何になるでしょう? ただし、「人間」という答えは除きます。

第12問

 第25回で予告したプロのガイア教徒4名。その最後の一人の著書の中で最も厳しい調子で非難されている国が2カ国あります。うち一国は日本ですが、もう一国はどこでしょう?

第13問

 第17回の「ニューイングランドという地名との誰も予期できないような意外な形での再会」。無理だと思いますがどんな形での再会か予想してみてください。

第14問

 リリー博士の後で、彼らとその仲間たちのトンデモに騙された著名な科学者・作家とその言動を織り交ぜて紹介していこうと思っていますが、それに誰が含まれているか3-4人程度予想してみてください。

第15問

 そんな考え方をする必要はないですし、するべきでもないと思いますが、あえて単独の組織を反捕鯨精神の中枢と考えなければならないとしたら、どこだと思いますか?

第16問

 今から30分間、理性の働きを全て停止し、本能のままに見聞き・思考し・行動してください。安全確保については自己責任でお願いします。

第17問

 あなたは神です。(おおむねユダヤ・キリスト教的な唯一神教の神を想定してください。)ぶっちゃけ、今の世の中、どうですか?

第18問

 旧約聖書の創世記で一番最初に名前が出てくる動物は何?

発展課題

 次の物事について調べて、思うところを述べてください。

  • カトリックで聖人を認定するための手続き
  • 「ラプラスの悪魔」あるいは「ラプラスの魔」と呼ばれる概念
  • くじら座(星座)

アンケート

 「はい」・「いいえ」で答えてください。回答がない場合は全て「いいえ」として取り扱います。

  • あなたの回答内容を今後のシリーズで引用するなどの利用をしてもいいですか?(「はい」と答えてもするとは限りません。)
  • はいと答えた人は、その際ハンドルネームを出してもいいですか?(「はい」と答えても出すとは限りません。)
  • あなたの回答内容に関してシリーズの進行を待つだけでなく、メールで何らかの返信を望みますか?(「はい」と答えてもできるとは限りません。)

ついでのお願い

 後半の息抜き用と単なる趣味で「サブカルチャーに現れたガイア教的要素」を収集中です。なにか知っていたら教えてください。(例:『絢爛舞踏祭ザ・マーズ・デイブレイク』というアニメにイルカがクルーとして登場するらしい。)日本以外でもよいです。

おまけ

 ゆっくり考えていってね!!!

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2008 10/11

 このエントリはガイア教の天使クジラシリーズのポータルページとしてwiki的な使い方をしています。

シリーズ本編

通し番号 主な内容
第1回 個人的回想と主題の提示。
第2回 “存在の大いなる連鎖”の概念とその変遷について。
第3回 反捕鯨は食肉業界の陰謀でも文化帝国主義でも人種差別でもないこと。
第4回 反捕鯨は科学や論理的整合性の問題ではないということ。
第5回 金儲けのための宣伝や政治利用を批判するのが論の目的ではないこと。
第6回 活動家の熱意は金や名誉ではなく正義感と宗教的情熱でしか説明できないこと。
第7回 反捕鯨運動はまったく文字通りの意味で宗教であるということ。
第8回 現代日本人は宗教を不当に軽視しすぎているということ。
第9回 野崎友璃香『イルカのアヌーからの伝言』
第10回 水棲類人猿説(アクア説)と鯨類崇拝。
第11回 お手製(?)中世ヨーロッパ風宗教説話。
第12回 ビクター・ケラハー『クジラの歌が聞こえる』
第13回 現在のほとんどの反捕鯨批判は的を外しているということ。
第14回 シーシェパードは“海の犬”ではない。
第15回 時間旅行への招待。
第16回 ダレン・オルドリッジ『針の上で天使は何人踊れるか』 1/2
第17回 ダレン・オルドリッジ『針の上で天使は何人踊れるか』 2/2
第18回 捕鯨・反捕鯨問題の持つ意義と個人的思い入れ。
第19回 人種差別と反捕鯨の関係は複雑で、一言で済むような簡単な答えはないこと。
第20回 スティーヴン・J.グールド『人間の測りまちがい』 1/4
第21回 スティーヴン・J.グールド『人間の測りまちがい』 2/4
第22回 スティーヴン・J.グールド『人間の測りまちがい』 3/4
第23回 スティーヴン・J.グールド『人間の測りまちがい』 4/4
第24回 1950年代後半から1960年代の社会・思想状況の概観。
第25回 ガイア教史上最重要人物ジョン・カニンガム・リリー。
第26回 ジョン・C・リリー『イルカと話す日』 1/?
第27回 ジョン・C・リリー『イルカと話す日』 2/?
第28回 ジョン・C・リリー『イルカと話す日』 3/?
第29回 ジョン・C・リリー『イルカと話す日』 4/?
第30回 狂っているのは我々の歴史に対する感覚であって彼らの頭ではない。
第31回 ジョン・C・リリー『イルカと話す日』 5/?
第32回 人間の思考に対して働く時代精神の制約がいかに強力なものであるか。
第33回 ジョン・C・リリー『イルカと話す日』 6/?

その他のページ

おまけ

 このページはおまけもたまに変える予定。

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2008 6/1

イルカと話す日

 前回に続き『イルカと話す日』を読み進めよう。今回はいよいよ我々がリリー博士から学ばなければならないことの核心に迫っていく。

 ここで現在、人間が論争しているクジラとイルカに関する二通りの考え方を比べてみたい。

 最初の考え方は十九世紀の生物学から生まれたものだが、これは脳の構造と脳のはたらきについて多くの発見がなされる前の考え方である。脳の重さや体重が測定され、体長が測られ、クジラ類(そして陸生の哺乳類)の脳の重さや体重、体長からさまざまな計算が行なわれる。(中略)特定の動物においては脳のサイズが大きくなるにつれ、単純に比例して体のサイズも大きくなることが明らかになった。

 しかし、このプロット作業には、妥当性の証明されていない単純な仮定が紛れ込んでいる。つまり大きな体は大きな脳を必要とするという仮定である。したがって、脳のサイズがそのままその生物の知性や思考力の大きさをあらわすわけではないのである。実際には、地球の進化の過程において、なぜ大きな脳を持つ、大きな体の生物が生き残り、なぜ大きな脳を持つ、小さな体の生物が生き残らなかったかという点が問われたことはなかった。現在、大きな脳を持つ、小さな体の生物は存在しない。

 このあたりだけ見ると、実にまともなことを言っているように聞こえる。「脳のサイズがそのままその生物の知性や思考力の大きさをあらわすわけではない」? うん、それはそうだ。現代でも通用する立派な考え方だ。

 たとえば、ネアンデルタール人の脳は現生人類よりもかなり大きかったことがわかっているが、ネアンデルタール人たちがみんなフォン・ノイマンより頭がよかったかというと、そういうわけでもなさそうである。

 ただし「大きな体は大きな脳を必要とするという仮定」は、結論から言うと、正しかった。今日から振り返って見ると当たり前に思える。どんな動物でも脳の大部分は全身の維持管理という日常業務に使われているのだから。*1

 そんなことは別にこの時代にも予想のできないことではなかったはずであるが、リリー博士は「現在、大きな脳を持つ、小さな体の生物は存在しない。」ことがこの仮定を支持するとは考えなかった。

 おそらく「クジラの脳が大きいのは体が大きいからだ(駄洒落にあらず)」という結論になってしまうのは面白くなかったからだろう。これに代わってリリー博士が注目したのは“回転力”*2だった。

 二十世紀になってようやくわれわれは、脳の構造の、それも大型の脳の構造の、信じられないほどの精妙さと脆さとを理解するようになった。(中略)第二次世界大戦中、頭蓋に強度の回転力が加えられると、それが原因となって脳が損傷を受けることがわかった。(中略)これらの点を考察すれば、小型の身体と計量の頭蓋とに包まれた大型の脳は、大変傷つきやすく、重力と身体の動きから生まれる回転力とにさらされている地球上ではいずれ淘汰されてしまうということが明らかになる。(中略)イルカは泳ぐ場合も、泳ぐ方向を変えたり体の向きを変える場合も、動きが素早く、加速も速い。それに対して大型のクジラは動きが緩慢で悠々としている。(中略)クジラ類に関するこうした問題にニュートンの回転力学を応用することは、他の知識に比べて立ち遅れている。

 脳研究にもっとニュートン力学を応用すべし!(爆)

 さすがにこれは当時の基準をもってしてもあまりまともとは言えないであろうが、ここで実感してほしいのはリリー博士のトンデモなさではない。*3ここ半世紀の脳科学神経科学の途方もない進歩によって、我々の常識はすでに半世紀前のそれとかけ離れたものになってしまっているということだ。

 それにしてもですよ、いくら常識が現在とは違うとはいっても、なんぼ何でも不思議とは思いませんか? いったいどうして彼らはこんなに苦心してまでイルカ・クジラの知能を高いと見積もる理屈を探さなきゃいけなかったんでしょう?

 犬が三頭並んで犬ぞりを引っ張っても「おお、このような協調には緻密なコミュニケーションが不可欠だ! 犬は人間以上の知能を持っているに違いない!」なんて思わないのに、どうしてイルカが三頭並んで泳ぐとそう思ってしまうのだろう?

 鳥がどんなに精妙なダンスを踊り、美しい歌を歌っても「おお、なんと優雅で美しい! 鳥は人間以上の知能を持っているに違いない!」なんて絶対に思いやしないのに、どうしてイルカの跳躍やクジラの歌には人間以上の知恵を見て取らなければならなかったのだろう?

 不思議だと思うでしょう? しかしね、いくら宇宙が果てしなく複雑だとはいっても、今の世の中、素人が簡単に手を出せるようなところにそうそう不思議なんて残ってはいないんですよ。彼らにはもちろん必要があったんです。それも切実な必要が。

 “Seeing is Believing”(百聞は一見に如かず)と言いますが、私はそれをあなたに一目で信じさせることができる写真を目の前にしてます。御託はいいから早く見せろって? すみません、ここはシリーズ通してもハイライトシーンの一つなのでちょっともったいつけてるだけです。今すぐお見せします。覚悟はいいですか?

脳の比較

 海に棲むクジラ類の脳の大きさは、類人猿程度のものから人間の六倍もあるもの(マッコウクジラの脳)まで実に豊富な種類がある。イルカや歯クジラの仲間は種類が多いが(五二種類)、彼らの脳の大きさはサル程度のものもあれば、人間と同じ大きさのもの、さらには人間の脳の四倍から六倍の大きさに達するものまである。

(中略)

 ピーター・J・モーガン博士、ポール・ヤコブレフ博士、サム・ジェイコブズ博士による入念な研究が明らかにしてみせたのは、大型のクジラ類の脳で発達しているのはマクロコンピュータの部分、つまり沈黙・連合皮質に限られるということだった。最も大型の脳を持つクジラ類の場合、他の動物の脳よりも体積の増えているのは、マクロコンピュータの部分だけなのである。ミニコンピュータは、より小型のクジラ類のミニコンピュータと変わらない。また神経細胞と神経組織の構成は基本的には人間と同じである。

 したがって、ヒトと同じ大きさの脳を持つクジラ類はヒトと同じ思考力を持っていると考えられ、またヒトよりも大きな脳を持つクジラ類は、ヒトの能力以上に遠い過去にさかのぽって物を推し量ったり、はるかな未来に向けて思考をめぐらすことができると思われるのである。

 「脳のサイズがそのままその生物の知性や思考力の大きさをあらわすわけではない」んじゃなかったのかよ!? ……なんてところに突っ込めと言っているわけではもちろんありませんよ。

 第22回の脳の図を憶えておくよう言いましたが、あなたには見えますか、第二の存在の大いなる連鎖が第三のそれにバトンタッチした瞬間が。

 たとえほんのダイジェストといえどもグールド師の講義を受けたからには、この写真が真理に基づく単なる事実の客観的な提示などではなく、彼らの考える「あるべき」宇宙秩序の縮図であるということを、わからないとは言わせませんぞ。

 とにかくここは極めて重要なポイントなので、この写真を穴の開くほど見つめながら、次回ももうしばらく考察を進めよう。ちなみにマクロコンピュータとかミニコンピュータって何? というのは例によって私に聞かないでくれ。

 私に言えるのは、脳をバイオコンピュータと呼ぶのが格好いいことだった時代があったということと、後の科学はそのような見方を支持しなかったということぐらいだ。(つづく)

*1:この件については、この時代以降の科学の発展を概観する時に、もう一度詳しく取り上げる予定だ。
*2:スティール・ボール・ランでもグレンラガンでもあらず!
*3:そんなことはもうわかっているだろうし、この発想自体は、LSDを使用したり塩水タンクに浮かんで瞑想しようとしたりすることに比べれば、ちっとも非科学的とは言えない。

おまけ

 懐かしき世界。

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2008 3/30

(今日の一コマ)

 『イルカと話す日』を読み進める前に、ちょっと補足しておかなければならないことがある。私はリリー博士のことを「ガイア教史上最重要人物」と呼んでいる。私はそれが適切な表現であると思っているし、今後も変わらない。

 ただしそれが「彼がいなければガイア教は生まれなかっただろう。」とか「彼がいなければ反捕鯨運動などなかっただろう。」というような意味に受け取られているなら、私の意図に反する。

 ここまででもすでにある程度は理解してもらっているはずだと思うが、私がシリーズ全体を通して伝えたいのはまったく逆のことである。

 ガイア教は一般的な日本人にはいくら奇妙奇天烈に見えても、本当は少しも突飛なことでも不思議なことでもない。それどころか極めて自然で当たり前で必然的な現象であって、特定の誰かが「原因」だとか「元凶」だとかいうような考え方はまったく必要ないどころか、むしろ有害であるということを言っているのである。

 違う分野でたとえるなら、もし手塚治虫が“漫画の神様”と呼ばれることに何の異論もない人でも「手塚治虫ただ一人がこの世に産まれなかったら現代日本のサブカルチャーの特殊な発展はなかっただろう」という意見には必ずしも同意できないだろう。

 それは知識の不足からくる過剰な単純化・無分別な神格化であり、正しい理解のためにはむしろ有害だと言わなければならないだろう。

 一般に歴史において特定個人が果たす役割の大きさはかなり過大評価されている。その方が理解しやすい、というよりも、そうでもしなければ理解できないという理由でだ。

 人間の頭は複雑な歴史をありのままに理解することなどまったくできない。まったく理解できないよりは、たとえ不適切な単純化を施してでも、ポイントを抑えて大雑把には理解できる方がはるかにましである。

 一人の人間の発想は必ず過去の膨大な蓄積に基づいており、完全な独創でまったく新しいものを生み出せる人間など実際にはいない。*1もしいるように見えたら、それは観察者の知識の不足を意味するに過ぎない。

 ただし、漫画史における手塚治虫がそうであるように、それ以前の全てがそこに流れ込み、それ以後の全てがそこから流れ出るような、焦点と呼べるような人物はいる。全てを詳しく知り尽くすには時間も能力も足りていない我々が歴史を勉強するのに一番ましな方法は、そのような人物を追うことである。

 私がリリー博士をガイア教史上最重要人物と呼ぶのはそのような意味においてのみである。このことはまだ納得してもらえないとしても、この先リリー博士やその精神的後継者の思想を見ていく上で徐々に理解してもらえるようになると思っている。

序章

 本書の読者に、私はイルカに関する新しい学説をいくつか紹介したい。若い世代の多くの人びとが私と同じ学説を主張しているのである。本書ではこうした学説の基礎となったもの――体験と実験、そしてそこから導きだされた推論――を紹介する。

 この本の次回以降の部分では「体験と実験」の部分と「そこから導き出された推論」の部分の境界に注目してもらいたい。そこが現代――約半世紀前ではあるが――の“理性と神秘の境界線の位置”だからだ。

 脳の構造とクジラ類の行動に関して、さまざまな事実が発見され、整理されて、多くの生物学者や水族館でイルカやクジラを飼育している人びとが従来主張してきたものとは真っ向から対立する学説が生み出され、理解されるようになった。手短に言えば、この新しい思想はこう主張している。大型の脳を持つクジラ類はどの人間よりもすぐれた知性を持っている、と。従来の学説は、イルカとクジラにたいする無知にもとづいており、彼らとの直接的なふれあいを欠いていた。

 脳の構造・大型の脳・脳・脳・脳。

 これまで人類の学説はさまざまな衝突を生み出してきた。政治、領土、宗教、法律、男と女の関係といった領域で衝突が生まれた。これにたいし、クジラ類に関する新しい学説は、個々の人間に関して、そして政治、社会、さらには科学に関して、疑問を投げかける。人間は地球を変えつつある。

 えーと、あなたの学説は回り回ってとんでもない*2国際問題を生み出してしまってますが……。これまた狙ってやっても決してできないであろうものすごい皮肉だね。私はこういう物事が好きでたまらない。わざと不適切な言い方をするとこういうことにこそ神を感じる。

 人間は地上の大型の哺乳類をことごとく殺戮してきた。北アメリカに生息していた大型の哺乳類は、人間の手で絶滅に追いやられた。アフリカの哺乳類は、その生息領域に人間が侵入したために激減した。海に棲む哺乳類は、人間が侵入してきて自分勝手に捕獲したために、絶滅の危機に瀕している。

 これは重要なことなので第4回で一度詳しく言っているし、これからも折に触れて繰り返すが、ガイア教徒の「クジラを殺すな!」という叫びに「お前らだっていっぱい殺してたじゃないか!」とか「お前らもカンガルーとかディンゴとかいっぱい殺してるじゃないか!」とか言い返すのは論理的にも戦術的にもまったく間違っている。

 それはまったく効果がないばかりかむしろ逆効果をもたらす。彼らの行動が過激なのは、過去を忘れて反省していないからではなく、反省しすぎて安易な救済に飛びつかざるをえないほどの激しい罪の意識に苛まれているからだ。*3そんな反発は彼らの罪悪感をさらに掻き立て、ガイア教のありがたさを増すばかりだ。

 なんで捕鯨に反対したら救済されるのかって? 私に聞かないでくれ。それがガイア教だからとしか答えようがない。なんでキリストが刑死して復活したら人類が救済されることになるのかをキリスト教徒以外に説明しても理解させようがないのと同じだ。キリスト教徒なら説明してもらう必要はないし、説明されて納得できるならその人はすでにキリスト教徒である。

 以前(一九六五年以前)私は、人生における究極の目的は、完璧な客観性を備えた科学的観点を保つことであり、絶対中立の科学的観察者の立場を維持することだと考えてきた。しかしいまでは、こうした公平無私のエコロジー観は何の役にも立たないと確信している。社会的な責任を取ること、つまり自分の属する種から自然へのフィードバックに力を貸そうとしない科学者は、社会に奉仕するという限られた役割を越えて、人類としての責任をまっとうすることはできない。自分の拠りどころを明確にし、行動を起こすことこそ、自己と自己の属する種を理解し、絶滅から救うための不可欠の条件である。

 第20回を読み直そう。私は「このような科学観は、当然だが後にとりわけ問題視され、反省を求められることになった。その結果どうなったかは後で現代の科学者たち本人に語ってもらうことにする。」と書いた。これがその一部だ。

 客観性を奉ずるあまり無慈悲になってしまった過去の科学を深く深く反省した結果、今度は慈悲を奉ずるあまり客観性を軽視してトンデモになってしまった、というわけだ。わかってみれば簡単なことでしょ? あちらを立てればこちらが立たず、科学とは難しい活動なのです。

 われわれ人類は新しい倫理、新しい法律を必要としているが、それは自分たちと同じか、それ以上に大きな頭脳を持つ他の動物のライフスタイルと生活圏への侵略を禁ずる倫理の上に築かれなければならない。われわれは法律を改正して、クジラ類を個人や企業、政府の所有物であることから解放する必要がある。法律において、個々の人間の尊厳が貴ばれているのと同じように、個々のクジラ、イルカに対しても敬意が払われるべきなのである。

 どっかで聞いたような台詞じゃないか?(参考)

 火薬の爆発力を利用してクジラの体内に打ち込まれ、その噴気孔から大量の血を噴き出させる爆発型の銛は、悪夢のように多くの人びとの心を苛みつづけている。クジラの断末魔の叫びは世界中の海であがっているのに、その叫びをあげさせている張本人たちの耳には聞こえていない。自分たちは産業用に必要な大量の食肉を確保するためにクジラを殺しているのであって、地上で最も大型の、精妙な脳を殺しているのではないと思っている人びとは、そうした考え方を変える必要がある。クジラ類に人間と同じ法律を適用して保護してやり殺戮をやめさせなければならない。

 「それは大型の脳じゃなかったら殺してもいいという意味なのか?(笑)」という反応が生じるかもしれない。しれないどころではない。今回の騒ぎを通じても実際に多くの日本人が同じような台詞に同じような反応を示しているのを見ている。

 何を笑ってるんだお前は? 答えはもちろんYESだ! 今さっきその論理で何百万人か地獄へ送ってきたところだろうが。そんなに可笑しいかよ? いくら不謹慎な笑い大好き人間の私でも引くぞ。

 まさにここで「奇妙だ」とか「馬鹿げている」とか「それは何か他の意図(利権とか寄付金とか)を隠す建て前だ」とかいう風に片づけてしまわないように、私は『人間の測りまちがい』の紹介に時間をかけたのだ。

 イルカを捕獲し、隔離している人びとは、隔離をよりゆるやかなものにして、隔離されたイルカが海中にいる家族や仲間だちとコミュニケーションがとれるようにしてやるべきである。イルカやクジラを隔離するのならば、あらかじめ取り決めた一定期間だけ隔離して、そのあとは本来の生態環境に戻してやり、人間の活動を仲間たちに伝えるようにしてやるべきである。私は現在の水族館がイルカの「監獄」であることをやめて、イルカと人間の双方を教育する、「異種間スクール」になればよいと考えている。

 「異種間スクール」って……あんたでしたか電波の発振源はッ!! そうなんですよユリカさん、これはかわいそうすぎるのであまり言いたくないんだけど、ぶっちゃけた話あなたはLSDでトリップしたおじいさんの妄想の中で生きているのですよ。

 アトピーに負けずに強く生きて下さい。もっとも、あなたのような段階までいってしまった人は、もういっそ目覚めない方が幸せだと思いますが。*4私たちはそういうわけにもいかないので先に進ませてもらいます。(つづく)

*1:ちょっとでもそれに近いことができる人間は天才と呼ばれる。
*2:少なくとも日豪間では最大の。
*3:この罪とそのあがないの強調は、ユダヤ・キリスト教の伝統にうまく合致している。
*4:目ざめたところで社会全体も似たか寄ったかですし。

おまけ

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