2017 12/1

第43回】 【目次

 今回取り上げるのは、前回のハインラインに続いて海外SF御三家*1、正真正銘のSF作家、アーサー・C・クラークの『海底牧場』(1957)である。

 前回の『異星の客』よりも4年前だが、まあ細かいことは気にするな。今は、最低でも10年単位で考えるような時代精神の話をしているのだから、それぐらいは誤差だ。

 短めで適度なスペクタクルがあり、ある意味王道ビルドゥングスロマンでもあり、ここまでの2作に比べれば今でも読めるが、やはりネタバレは気にしないので、自分で読みたい人は先に読んでほしい。

ストーリーライン

 月や火星に植民地ができていて金星も開発されようとしている近(?)未来*2の地球。世界連邦*3食糧機構が、海で、プランクトンを育てる農業と、超音波の柵でクジラを管理する牧鯨を行っている。

 主人公のウォルター・フランクリンは、優れた宇宙飛行士であったが、船外活動中に宇宙空間に投げ出されて漂流する事故により、重度の開放空間恐怖症*4になり、職業生命を絶たれてしまう。

 適性を生かせる第二の人生として、クジラを保護したり、サメやシャチを駆除したりする牧鯨者(ホエール・ボーイ*5)と呼ばれる潜水艦乗りの道を選ぶ。

 第一部:練習生時代では、挫折から立ち直ったり、後に妻となる女性に出会ったり、第二部:監視員時代では、大イカを捕まえたり、伝説のシーサーペントを探したり*6するものの、このシリーズの観点から重要なのは、第三部:官僚時代に巻き込まれる倫理問題だ。

 ちなみに、後に妻となる女性は、インドラという名前の生物学者で、オランダ人・ビルマ人・スコットランド人の血が、同じくらい入っていて、日本生まれである、という設定になっている。だからなんだというほどではないが、世界観をうかがえるであろう。

『白鯨』≒マッコウクジラのイメージ

 彼には、必読書以外の本を読む時間はほとんどなかったけれども、『白鯨』に読みふけっていた。これは半ば冗談に、半ば本気で、牧鯨局のバイブルと呼ばれていた。

 練習生時代の1シーンから、第42回の脚注で出したばかりの宿題の答え合わせ。

 ハインラインが鯨類代表として言及したのがマッコウクジラである理由は、つまるところハーマン・メルヴィル白鯨』(1851)に出てくるのがマッコウクジラだからだ。

 そして『白鯨』のモビィー・ディックがマッコウクジラなのは、鯨油を目的とした捕鯨で特に重要なのがマッコウクジラだったからだ。(なぜマッコウクジラの鯨油が特別かというと……ここでやる必要はなさそうなので自分でググってくれ。)

 『白鯨』は世界有数の有名小説であり、19世紀半ば時点の捕鯨イメージの総まとめであり、20世紀半ばまでの鯨イメージをかなりの部分支配したということ。その際代表となる種はマッコウクジラだったということ。これだけでも憶えておくとよい。*7

 そして宿題がすぐ解消してしまったので、また代わりの宿題。シーシェパードのワトソン船長が、一番好きなクジラとしてマッコウクジラをあげている*8のはなぜで、そのことは何を意味しているだろう?

鯨肉のカニバリズムイメージ……はなかった

 第三部で官僚となったフランクリンがジャーナリストを相手にしている場面。

「わたしよりもだな、ボブ、きみのほうが今じや統計に詳しいんじゃないか。局としては、次の五年間に、牧鯨の規模を、十パーセントほど拡張したいと思っている。(中略)目下のところ、局では、人類の食糧需要総量の十二・五パーセントを賄っているが、これは大変に責任の重いことだ。ぼくとしては、在任中に、十五パーセントにしたい希望を持っているよ」
「そうなると、世界中の人が、少なくとも週に一回は、鯨肉のステーキを食べることになるわけですね?」
「そういう見方もできるがね、みんな、知らずに鯨を食べているんだよ――食用油を使ったり、パンにマーガリンを塗ったりするたびにね。局では、生産高を二倍にすることもできるが、だからと言って、それで面目を施すことにはならんだろう。局の製品はほとんど必ずといっていいほど、ほかの形に変えてあるからね」
「図版部で、それを正確に載せることになってます。この記事が出るときは、一般家庭の一週間分の献立を写真にして、その何パーセントを鯨に負うているか、各項目ごとに円グラフをつけてあるはずですよ」

 グリーンピースやシーシェパードの諸兄姉が読んだら気絶しそうな設定だが、さて、クラークは読者を気絶させようと思って、嫌がらせでこんな世界を描くゲテモノ作家なのだろうか? 違うと思うなら、例によって、おかしいのは我々の歴史感覚だ。

 この一見淡々とした記述は、捕鯨・反捕鯨問題を考える上でとても重要な事実を突きつけている。「欧米」では昔から鯨肉食がカニバリズムに類するタブーだったかのようなイメージは、全くの大間違いだということだ。

 そのようなイメージは、ある種の民間語源のように、単に「普通の人が現在の状況から逆算して想像したときに一番自然に思える説明」であるに過ぎず、「実際の過去で起こった経緯」ではない。

 ほぼ不可避的にそうなってしまうから問題になっているのであり、「普通の人」を責めているわけではない。しかし、何か現在の事態を改善したり、問題を解決しようとするときに役に立つのは、ほとんどの場合、後者である。

 このカニバリズム感覚に関する誤解は、国家間・国内の捕鯨論争を不毛で敵意に満ちたものにしている要因のひとつであると私には思われ、重要な意味を持つので、次回に独立して集中的に取り上げる。

 ついでにもう一箇所。プランクトン農業の説明のシーン。

 自然によって産み出された鉱物を汲み上げることで満足せずに、人間は海中ふかく、要所要所に、原子力発電機を沈めた。そこでは、発電機のつくる弱い熱が、広大な水中に噴流を起こして、そこにある貴重な鉱物資源を、恵み豊かな太陽のほうへと、押し上げてよこす。自然がおこなう掘り返しを、こうして人工的に促進することは、核エネルギーの多くの応用部門の中で、もっとも期待の少なかったものであるが、また同時に、もっとも酬いることの多いものでもあった。この方法によって初めて、海産食糧の収穫高が、十パーセントも増加したのだった。

 グリーンピースやシーシェパードの諸兄姉ならずとも気絶しそうな設定だ。原子力のポジティブイメージ、「食糧生産」への強いこだわり、どちらも詳細は別の「糸」に譲り、今は追及しないが、現在との大きなギャップがなぜ生じる(生じた)のか考えておくとよいだろう。

噴飯モノの宗教イメージ

 そして、肝心のフランクリンと牧鯨局が巻き込まれる倫理問題だが、その前提となっている作中の宗教関連の設定が、単独ですでに注目に値する。

 宗教の力を過小に評価することは、それが仏教のように、おだやかで寛容な宗教であっても、決して賢明なことではない。その位置は、百年前には、とうてい考えられないことであっただろうが、前世紀の政治的・社会的大変革が相まって、それに必然性を与えた。競争相手であった三大宗教*9が没落したために、仏教は今や、人間の心になんらかの形で現実的な支配力を持つ、唯一の宗教となっていた。キリスト教は、ダーウィンフロイト*10によって与えられた痛打から、完全には立ち直っていなかったのだが、ついに去る二十世紀の考古学的発見*11の前に、あえなく屈服してしまった。幻想的な男神女神の万神殿を持つヒンズー教は、科学的合理主義の時代に、生き残ることができなかった。そしてモハメッド教の宗旨も、同じ力によって弱体化された上に、ダビデの昇る星*12が、予言者の青白い新月*13に照りまさった*14とき、威信はさらに失墜してしまった。これらの信仰は今も生き残ってはおり、まだ数世代の間、余命を保つであろうが、その支配力はすっかりなくなっていた。ただ一つ、釈迦の教えだけが力を保ち、ほかの宗教の後にできた空白を満たしつつ、その影響力を増してさえいた。哲理であって宗教ではなく、考古学者の槌に弱い啓示*15に依ることのない仏教は、ほかの大宗教を破壊した衝撃によっても、ほとんど影響をこうむらなかった。(P275-276)

 なんかもう私も気絶しそうな設定だ。(ツッコミが追いつかないので重要性の低いものは脚注で済ませる。)

 私が言うまでもなく、この宗教観は、冷戦終結で民族紛争と宗教紛争がクローズアップされ、911で話題の主役に返り咲き、ビンラディン殺害で911が歴史の1ページになっても変わらない時代に生きている我々にとっては、噴飯ものとしか形容しようがないものだ。

 しかし、もちろんクラークは、21世紀人にごはんを噴かせてやろうと思ってこれを書いていたわけではない。当時はそれなりにマジだったのだ。

 私がこのシリーズの観点からここで読み取ってほしいことは2点だ。

 宗教が著しく――そう「宗教の力を過小に評価することは(中略)決して賢明なことではない。」と前置きしつつ、科学的合理主義によって宗教はあと100年やそこらで滅ぶ*16という設定を開陳する自分に疑問をおぼえないほどに本当に著しく――過小評価されていたということ。

 お世辞にも宗教が盛んとは言えない現代の、とりわけ宗教の力が弱い地域のひとつであろう日本*17に住んでいてさえ、一見信じがたいほどに著しく、宗教が過小評価されており、逆に「科学的合理主義」に、今では思いも寄らないような過大評価が与えられていたということ。*18

 そして、本当に標的になっているのはあくまでキリスト教であり、当時の進歩的な人々が広く共有したキリスト教に対する強い反発の現れであるということ。

 クラークに特異な仏教びいきの設定すら、大局的に見れば、その反動に過ぎないとも言える。他の宗教の扱いはおざなりであり、要するについでなのだ。よく見れば、

  • イスラム教には「お前はキリスト教と同じ啓示宗教*19だから同罪ね」*20
  • 仏教には「お前はキリスト教と似てないから宗教扱いしないで見逃したるわ」*21
  • ヒンズー教には「お前も多神教でキリスト教に似てないから罪状は思いつかないけど、仏教だけ残った設定にするのに邪魔だから、まあとりあえず氏ね」

 ぐらいのことしか言ってないのだ。

*1:ちなみにアイザック・アシモフもどこかで登場する予定なのでお楽しみに。
*2:明確な数字は出てこないが、牧鯨局に半世紀の歴史があるような台詞があるので、最低でも21世紀。おそらくその半ば以降。
*3:『異星の客』でも同名のものが西側の統一体として出てきたが、この作品では世界政府そのもののようだ。詳しくは政治の「糸」に譲るので深入りしないが、近い将来世界が政治的に統一されるというアイデアは、今ではほぼディストピア方面にしか見られないが、昔はポジティブ方面にも存在したのだ。
*4:本当にそういう症状がありうるかは知らんが。
*5:言うまでもなくカウ・ボーイのもじり。
*6:結局これは失敗するが。
*7:『白鯨』そのものを直接取り上げる予定はない。もしかすると宗教か芸術の「糸」で取り上げるかも知れないが、それでも本格的にではない。
*8:特定のソースは思い出せないが確かなはずだ。確かめればすぐわかるだろうが、あえてしない。仮にその話を一度も見たことも聞いたことも読んだこともないとしても、私にはそうだろうと考える根拠があるからだ。
*9:文脈的に、キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教。
*10:現在、フロイトの評価は、議論の余地は大きいものの、この時代に比べてハッキリ低下しているように見える。今のSF作家だったら、宗教とフロイトそれぞれに対する評価がどうあれ、この発想は出てこないだろう。ダーウィンと並び称されることも、古い本ではよくあるが、現在ではほとんどなくなった。
*11:何を念頭に置いているのかよくわからない、この時期話題になっていた宗教関係の考古学的発見でも何かあったのだろうか? 誰かわかる人います?
*12ダビデの星ユダヤ教を指す。
*13:ややこしいが、この「新月」は新月ではなく三日月のこと。三日月はイスラム諸国でしばしば使われるシンボル。
*14:ここも正直何を考えていたのかよくわからない。イスラエルがまだ目新しい存在で、イスラム教そのものの存続を危うくしかねないような破竹の勢いに見えていたのだろうか? 執筆時期がちょうど第二次中東戦争の時期に当たりそうなのと関係があるのか?
*15:なぜ啓示宗教が考古学に弱いと言われているのかよくわからない。古生物学者なら意味はわかるので誤訳かと思ったが、原文でも古生物学者(palaeontologist/paleontologist/fossilist)ではなく考古学者(archeologist)である。
*16:仏教びいきをいったん置けば要するに。
*17:「日本は宗教の力が弱い」あるいは「現代日本人は“無宗教”である」という類の言説は、このシリーズの観点から見て極めてまずい別の文脈で使われることがしばしばあり、誤解を招きたくないが、今の文脈で不当とまでは思えない。これについては宗教の「糸」でちゃんと取り上げる機会があると思う。
*18:これについては当然「科学」の糸でもっと追及する予定だ。
*19:啓示宗教・セム系一神教・アブラハムの宗教などいろいろな呼び方があるが、このシリーズの観点からは表記揺れのレベルで、要するにどれもユダヤ教・キリスト教・イスラム教のことである。どれでも構わないが、私は特に理由がなければ「セム系一神教」を使う。一番重要な特徴である「一神教」以外の字面で余計なイメージを喚起せず、偶然似ているわけでなく系譜的に関連があることを意識できるからだ。
*20:今となってはほぼ意味不明なイスラエルに対する言及を除けば。
*21:仏教は宗教というより哲学だ(から一神教よりましである)という主張は、現在でも真剣にもなされることがある。たとえば、まだそんなに昔ではないドーキンスの『神は妄想である』でも、ほぼ同趣旨の部分がある。個人的には、セム系一神教偏重の世界観・宗教観を批判しようとして、結果的に盛大に追認してしまっている、極めて筋悪な論調と思っている。これもやはり宗教の「糸」に譲り、今ここでは追及しない。

第43回】 【目次

by 木戸孝紀 tags:

2017 10/31

第42回】 【目次】 【第44回

 しかし、同じものを仮託されていても、『失われた地平線』に比べて、マイクがコンウェイやシャングリラのラマ僧と比べて、大きく変わった部分もある。

 すでに公民権運動の時代でもあり、マイクが「白人」である*1ということをいったん置けば*2あからさまな白人優越の意識は、もはや見られない*3

 キリスト教より異教が優れているのではないかという意識は、その場だけの単なるネタ*4から、本気に変わりつつある。

 中でも最も目立つ違いは、性に対する意識だろう。マイクのそれは、理想的なイギリス紳士(独身)で、性的なことなど終始おくびにも出さなかったコンウェイとは、全く異なる。

 後半ではこれらの差異に注意して見ていこう。

宗教に対する意識

 ジュバルらの支援によって、最低限の常識を身につけたマイクは、全ての財産と法的権利を自ら放棄することによって混乱を収束させる。さらに地球と地球人について学び、後に「フォスタライト派」の影響を受けて、自ら「世界の全ての教会 (Church of All World)」なる新宗教を創設する。

 以下は、マイクがフォスタライト派を知るきっかけとなったテレビ放送*5の場面。

「精霊行動青年隊はデモをおこなう。だから、早くきて、派手にやろう! 青年隊コーチのブラザー・ホーンスビーから、諸君にはへルメットと手袋と角材だけをもってくるように伝えるようたのまれた――こんどは罪人たちを追うことはしない。しかし、小天童たちは、熱意過剰な場合にそなえて、救急箱を用意すること」牧師はひと息ついて、顔一面に微笑を浮かべた。「それから、こんどはすばらしいニュースです。わが子たちよ! ラムザイ天使から、ブラザー・アーサー・レンウィックとそのよき妻ドロシーへの知らせ。あなたがたの祈りは聞きとどけられ、木曜日の夜明けにあなたがたは天国に召されます。立ちなさい、アーサー! 立ちなさい、ドロシー! お辞儀をして!」
 カメラは逆にカットし、会衆とそのまんなかにレンウィック夫妻を写しだした。割れるような拍手と「ハレルヤ!」の叫び。ブラザー・レンウィックはボクサーのように頭上で両手を組みあわせて答え、その妻は赤くなって微笑しながら、夫のわきで目頭をおさえていた。
 カメラがもどると、牧師が手を上げて静粛を求めているところだった。彼はきびきびと言葉をつづける。「送別パーティは真夜中にはじまり、同時に戸口には鍵がかけられます。だから、早目に集まって、われわれが見たこともないような最高の楽しい宴にするように。われわれはみな、アーサーとドロシーを誇りにしています。葬儀は夜明の三十分後で、早く勤めにいかなければならないひとびとのため、朝食はすぐそのあとです」牧師の表情が急に厳しくなり、カメラはその顔が映像タンクいっばいになるくらい、ズーム・レンズで接写していく。「このまえの送別パーティのあと、幸福の間のひとつで役僧が空のパイント・ビンを一本発見した。罪人のつくった銘柄の酒ビンです。これはすぎてしまったことで、こっそりそれをはこびこんだブラザーも罪を悔し、七倍の罰金をいつもの現金割引きの恩典も辞退しておさめましたから、彼が信仰の道を逆もどりをするようなことはなかったと思います。しかし、ひるがえって考えてみなさい、わが子たちよ――俗世の商品を買うことによって数ペニーを節約することが、永遠の至福を危険にさらすだけの値打があることだろうか? 常にかの浄福のディグビー司教の笑顔の承認シールがはってあるものを求めなさい。“同じようなものだ”という罪人たちの甘言にのってはいけませんぞ。われわれのスポンサーがわれらをささえ、彼らはまたみなさんの支持に値するのです。ブラザー・アーサー、こんな至福のときに、こんな話をもちだして申しわけないが――」(P231-233)

 このディグビー司教は、金と権力を独占するため、創始者のフォスターを毒殺したことになっているわ、後にマイクに近づき、「悪」と認識され四次元の彼方に消されてしまう*6わで、言うまでもなく馬鹿にされきっている。

 現代日本人読者には、もはや何かのギャグにしか見えないと思う。もちろんそれでいい。著者も明らかに冗談めかして書いている。

 しかし、ここで意識しなければならないことは、この描写は、アメリカの宗教事情の一面のみをさらに誇張した戯画ではあっても、全く架空の存在・全くの絵空事では決してないということだ。

(本当はここで、アメリカの宗教事情についていくらか補足がほしいが、長くなりすぎるのでいったん諦める。自分で読む気がある人には、適切な参考文献として『宗教からよむ「アメリカ」』を薦める。)

 フォスタライト派はキリスト教というよりはキリスト教系新宗教であるなどと、どれほど割り引いても、当時のハインラインや読者がキリスト教に好意的でなかった――少なくともアメリカにおけるその一側面に満足していなかった――ことは明らかだ。

 同時に、マイクに関する描写は、明らかにイエス・キリストを意識した、少なくともそのオマージュである部分をいくつも含む。*7自分で本を読んだ読者には「ハインラインはキリスト教的なのか?」という疑問が生じるかもしれない。

 これは今後何度も繰り返し出てくる論点であるので、一度簡単にまとめておきたいのだが、この疑問は「名古屋は西にあるか東にあるか?」と問うのに似ている。

 東京から見れば西にあるし、大阪から見れば東にある。それ以上に正しい答えはない。より本質的な唯一の絶対的回答というものは存在しない。相対的にしか答えられない問題というものはあるのだ。どこから見てか次第だ。それを指定せずに問うても意味がない。

 アメリカは過去も当時も現在もはっきりキリスト教国であり、日本人から見てキリスト教的に見える部分があるのは当然である。ここでのハインラインは、日本人から見ればキリスト教的で、従来のキリスト教徒から見ればキリスト教的でない。それ以上の答えはない。

 ヒルトンやハインライン、今後見てもらういくつかの作品の宗教的態度についても、あくまでその文化自身の前段階との比較で考えるべきである。つまりここでは、少なくとも当面、イエスのイメージに影響された面よりも、アンチキリスト教・異教趣味の側面に注目すべきである。

性に対する意識

 マイクは地球の常識を知らないのをいいことに、今でいうラッキースケベに近い経験もするし、ジルをはじめ大勢の女性と関係するし、話が前後するが、自分の教団でも独身どころかフリーセックスを推奨するようになる。

 そこでマイクだが、彼はいっている。“わたしの妻を欲しがる必要はない……彼女を愛せ! 彼女の愛には限度がないし、われわれは欲しいものはすべてもっているし、失うものも不安とうしろめたさ、憎悪と嫉妬以外にはなにもない”とね。この申し出は、信じられんようなものだよ。わしの記憶にあるかぎりでは、文明化されるまえのエスキモーだけが、それほど素朴だった。しかも、彼らは火星からきた男たちといってもいいくらい、まわりと隔絶していたんだ。しかし、われわれがわれわれの美徳をおしつけてしまったので、いまでは彼らも、ほかのわれわれと同じように、貞節と姦通をもっている。べン、彼らはそれによってなにを得た?(中略)わしが生まれた家は、エスキモーの天幕小屋と大差ないくらいの、上下水道の設備も悪い家だった。わしはいまのほうがいいよ。それにもかかわらず、エスキモーは明らかに地球でいちばん幸福な種族だったといわれている。彼らの味わったどんな不幸も、嫉妬からではなかった。嫉妬という言葉をもっていないんだ。彼らは必要に応じて、またおもしろ半分に、配偶者を借りる。それが彼らを不幸にはしなかったのだ。だから、狂っているのはだれなんだ? きみのまわりの陰険な世間を見まわして、わしに教えてくれ。(P648)

 この部分はフリーセックスへの傾倒以外にも、複数の重要な論点を含む。

 まずは当然、自分は今の(≒「西洋化」された)豊かな暮らしの方がいいと言いながら、貧しい他の誰かの方が素朴・純粋で幸せなのではないかと思う、典型的なオリエンタリズムの視線。

 そのオリエンタリズムの対象が、地球上の異文化から宇宙に移される過程の最後にあたる「現行犯」場面を捕らえた、いわばミッシングリンク(中間型化石・移行化石)であること。

 そしてフェミニズム(≒反男尊女卑)の進歩は、いま着目している多文化主義(≒反西洋優越)・宗教的多元性(≒反キリスト教優越)・人種平等(≒反白人優越)の機運に比べて――どう比べてなのかはともかく――ワンテンポ遅れたように見えるということだ。

 フェミニズムの歴史についてはそこまで自信がないが、少なくとも今日のフェミニストで、この妻の提供の習慣を好意的に評価する者は絶無だろう。*8単に男性(同士の同盟)が女性を搾取する形式(のうちかなりマイナーなもの)のひとつ、としか見なさないはずだ。

 まだ先の話になるが、この女性視点の欠如ないし遅れは、捕鯨問題に密接に関わる特定鯨種が今日持っている精神的地位に、微妙な影響を与えたように思われる。

女神崇拝・女性性に対する意識

 次は、マイクを病院から連れ出す際も協力した新聞記者のベン・カクストンがマイクの教団を見に行く場面。

 ジルは場ちがいな衣装をつけてましたよ。マイクが抑揚をつけてなにかいいはじめる。英語もまざって、万物の母とか多数の合一とかいうようなことを歌うようにいって、一連の名前をいいはじめたんです……しかも、その名前といっしょに、彼女の衣裳が変わって……」

(中略)

「母神(シビリー)!」
 ジルの衣裳がいきなり変わった。
「豊穂の女神(アイシス)!」
 また変わる。
「結婚女神(フリッグ)!」
ジェーデヴィ*9イシタールマリアム
マザー・イヴ マーテル・ディウム・マグナ! 愛し愛される不滅の生の――」
 カクストンは聞いてはいなかった。ジルは栄光だけを衣裳にした、マザー・イヴ。光がひろがり楽園の彼女が見える。そばの木には大きな蛇がからまっていた。
 ジルがにっこりして手をのばし、蛇の頭をなぜる――くるりと向きなおり、両腕をひろげる。

(中略)

 カクストンはその場に残って、ジルの輝く幻に包まれていたいと思った。みんなの列に加わりたかった。だが、彼は立ってその場を去った。ふりかえると、マイクが列の先頭の女を両腕で抱くのが見えた。パトリシアにつづこうと向きなおったので、彼はマイクの接吻を受けた女のローブが消えるところは見のがしてしまったし、ジルが最初の男に接吻するのも、その男のローブが消えるのも、見てはいなかった。(P604-606)

 異教の女神がごちゃ混ぜに出てくるゲームが珍しくもなんともない今日視点だと、アホみたいに見えるだろう。このストリップショーあるいはそれ以上の何かを、好意的に見る女性もまずいないと思う。

 しかしこれは、あからさまに男尊女卑的・唯一神教的だった旧来のキリスト教(文化)との差分で見るべきところだ。この女神崇拝・多神崇拝の趣向は、当時は確かに革新的で新鮮なことだったのだ。

 旧約聖書を意識した(肯定的にではないが)部分については、さっきしたばかりの「名古屋は西にあるか東にあるか?」の話を適用してもらいたい。

 あと、今は重要でないので追及しないが、シリーズタイトルに含まれながら、ろくに言及されてこなかったガイアの名前が、ついに登場していることに着目。

同性愛に対する意識

 今日視点で見た場合、もうひとつ特に目立つのは、同性愛に関する記述だろう。ジルの台詞としてではあるが、

 同性愛のことは、マイクが本で読んで認識できなかったので、彼女は説明してやったし、そう思われないようにするルールのいくつかを教えたのだった。こんなに好男子のマイクがそういう連中をひきつけることは、彼女にもわかっていたからだ。彼はジルの忠告にしたがい、それまでの中性的な美しさのかわりに、もっと男らしい顔になった。(中略)しかしマイクの男の水兄弟が、女の水兄弟がいたって女らしいのと同様、はっきりと男性的なのはさいわいだった。いずれにしてもマイクは、哀れな中性的存在には悪を認識するだろうとジルは考えていた。そんな連中に水兄弟になろうというはずがない(P535-536)

 と、男性同士の同性愛をはっきり悪とする一方、10ページも離れていない箇所で、同じジルに、

 しかし、彼の目をとおして*10ほかの女たちを見ているうちに、自分の興奮が高まってくるのに気がついて、彼女はびっくりした。

(中略)

 マイクが見ていると、彼女は色っぽい喜びから完全な発情まで、彼と気分をともにした。しかし、マイクの関心が浮わついていると、モデル、ダンサー、ストリッパーもただの別の女にすぎなくなる。彼女はこれはさいわいだったと思った。自分に同性愛(レスビアン)の傾向もあるのを発見しただけでも充分すぎる。
 しかし、おもしろかった。彼の目をとおして女たちを見るのは、とてもよいことだったし、彼が彼女のことも同じような見かたをしているとやっと知ることができたのは、陶然とするほどいいことだった。(P542-543)

 と女性同士の同性愛はまんざらでもないようなことを言わせている。*11

 何をどうしたらこんなことが可能なんだと、笑えてくるのを堪えるのに苦労するレベルであるが、おそらく何か真剣に考えてそうしたわけではない。

 このあたりは単にマイクが地球文化をいろいろ体験するという背景描写に過ぎず、(おそらく異性愛者の)男性である著者の性的嗜好が、そのまま出たに過ぎないように思われる。

 だからどうだと言っているのではない。私自身異性愛男性で、男女の同性愛コンテンツに対する直感的嗜好も、著者と大して違うわけではない。単に時代錯誤的な優越感で、ハインラインをあげつらって言っているのではない。

 このシリーズの観点から特に重要なポイントとは言えない同性愛を取り上げるのは、時代精神が、その時々の当たり前が、どこまで変わりうるかを示す好例としてだ。

 過去のある部分が、現在と比べて遅れていない、それどころか行きすぎてさえいる、ということの意義を本当に認識するには、同じ時点で、ある意味予想通りに遅れている部分も、同時に知っておかなければならないのだ。

マイクの最期とその後

 超能力ショーで信者を獲得したり、超能力チートでラスベガスで稼いだり、なんだかんだして教団を広げるマイクだが、反発も増していき、教会に放火された事件をきっかけに、ついにカタストロフが発生する。

 テレポートで脱出→誤解(?)から投獄→超能力で留置所の鍵や警官の武器を消してしまい脱獄→町を去ろうとするついでにいっそ大掃除だと町中の悪人数百人を消してしまう……等々の流れで暴動が起きる。

 マイクは自ら暴徒の元へ赴き、リンチされ惨殺される。遺体は当然残った皆で尊敬を込めて喰われる。「分裂」したマイクは、天国のスタジオで*12フォスターやディグビーと会って仕事にかかり、これから変えていきたい点が山ほどあるな、と考える。

 おそらく現代日本人読者が初めてこの作品を読んだなら、似たり寄ったりの感想を抱くと思うが、マイクの教団は全然魅力的なものには見えまい。

 ゲバ棒・テレビ・商売の代わりを全部超能力で済ませているだけで、フォスタライト派と、どれほど差があるか、甚だ疑問である。フォスターやディグビーと違って自覚がない分、考えようによってはもっと悪質にさえ思える。

 私の見る限り、ハインライン自身は、すでにその視座も十分持っているように見える。彼は、他の作品については右派と批判されることもよくあるほどで、少なくとも単純なヒッピーなどではありえない。

 本気でマイクが絶対的に正しく優れていると思っているなら、そもそもフォスタライト派に影響を受けた設定にはしないし、作品のラストの場面にフォスターやディグビーを出してきたりしないだろう。

 しかし、読者がそのようには受け取らなかったことは明らかだ。*13この作品はヒッピーの経典とあがめられ、現実にも大きな影響を与えた。そこまで重要なものとは思えないが、一例として、実際に設立された同名の教団は現在も活動しているそうな。

 一方で、私は、葬式で遺体を食べるように薦められたこともなければ、友人を訪ねてその妻と性交するように薦められたこともない。私が人付き合いが悪くてモテないだけ、という可能性を考慮する必要はなかろう。

 すでに21世紀の未来から振り返っている我々には、起きたことは明白だ。この本に示されたような世界観は、主流になっていないのはもちろん、ありうる選択肢のひとつにさえなっていない。間接的な影響は残るものの、一部の人たちの間だけの一時的なブームで終わったのだ。

 そうなった理由を追い、理解(グロク)することは、このシリーズの本筋そのものであるので、今ここで全部はやらないし、量的にも不可能だ。

 今後本筋で詳しくは取り上げ「ない」が重要であろうことだけあげておけば、単純に*14ムーブメントの担い手であったアメリカのベビーブーマーが若くなくなったこと、耳目を集めるいくつかの大事件、

 など*15によって、日本ではやや遅れてオウム真理教事件(1995)ひとつに集約されたような時代精神の転換が起きて、いわゆるカルト宗教・オカルト的なるものの印象が悪くなったこと、がある。

おまけ

 最後に一箇所だけ印象深い箇所を引用して終わりにしたい。マイクが自ら殺されに出ようとする直前、ジュバルに対して弱音を吐く――結局結論を出すにはまだ早い的な励ましを受けて立ち直るのだが――場面。

 先に言っておくが、ハインラインがこの部分をそんなに重要視して書いたとは思えない。私はたぶん、後知恵によって、著者が意図した以上の意味を読み取りすぎている。

 しかし、そう自覚してもなお、私は感動を抑えられない。マイクはここで、クソ下らない超能力なんぞではなく真に神の域に手を掛け、人類思想の半世紀先を、それどころか今日ですら未だ到達しきってはいない未来を、幻視したように、私には見える。

 ところがジュバル、わたしはかんじんなことをひとつ忘れていました。
 人間は火星人ではないということです。 わたしはこの誤りを何回もくりかえし、そのつど、自分で正し、しかもまだまちがえるんです。火星人に対して効くことは、必ずしも人間に効くとはかぎりません。もちろん、火星語でしか表現できない概念的論理は、たしかに人類にも役にたちます。論理は不変です……しかし、条件は変わります。だから、結果も変わります。 *16(P750-751)

 このシリーズのこれから先は、ある意味このマイクの境地に追いつくための旅とも言えよう。

 初っ端からSFの最悪と最良の部分をともに体現する特濃作品でとても疲れた。次回は、質・量ともにもうちょっとさらっと行きたいと思う。

*1:マイクの人種が殊更に話題になる場面はないが、最後のリンチの場面で『あん畜生に、黒ん坊の首吊縄をかけてやれ!』(P762)という群衆の台詞があり、少なくともアフリカ系ではない。小説自体に挿絵はないが、ペーパーバックの表紙などでは「白人」に見えるように描かれている。
*2:オリエンタリズムの糸の最後でまとめて話題にする。
*3:というより、人種に関する話題が全くない。前回冒頭の電子新聞のようなちょっとした背景部分を除けば。
*4:『失われた地平線』の影響でチベット仏教に改宗した「西洋人」がいたとは思われない。どこまでを影響と見なすかにもよるが、少なくともリアルタイムに、直接的に、社会的に意味のある数では。
*5:このシリーズの観点から特に重要なことではないが、テレビが一般に普及して間もない時代であることにも留意。
*6:具体的な場面は描かれないので、直接のきっかけがなんだったのかは不明。
*7:長くなるし、見ればわかるレベルなので、ここで詳細には取り上げない。
*8:あなたが男性で、嘘だと思ったら、母親でも妻でも彼女でも誰でも女性に聞いてみるといい。聞けないと思うなら、たぶんそれが答えだ。
*9:なぜか原文の方ではGeの次がIshtarで、このデヴィに対応する語はない。確かにインドの女神も入っていた方がそれっぽいが、いつどこで付け加わった? 底本のバージョン違い? それとも翻訳段階で? 今のところ不明。
*10:もののたとえではなく、前述の視点共有の超能力を使っている。
*11:ジルは終始善玉の副主人公格であり、これらが反語的に言われている可能性はまったくない。
*12:テレビがまだ新鮮なものだったことを思い出さないと、ここは意味不明だろう。
*13:この落差、著者と読者の温度差とでも言うべきものは、優れた著者が、時代に先んじ先導する者である以上、必然的に生じるものだ。今後このシリーズで見てもらう作品でも、何度となく問題になる。
*14:実はそれほど単純とは言えない。人口動態が文化に与える影響というものが当たり前に考えられるようになったのは割と最近になってからだ。なぜだと思う?
*15:後ろふたつの概要は上で紹介した『宗教からよむ「アメリカ」』でも読める。
*16:たとえば、今年のノーベル経済学賞はリチャード・セイラー行動経済学研究に与えられたが、火星人≒経済人と考えれば、この一文は行動経済学の神髄を要約するものと言っても過言ではないと思う。

第42回】 【目次】 【第44回

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2017 10/18

第41回】 【目次】 【第43回

 また1年以上間が開いてしまった。このまま年に1回のようなペースだと、100歳まで長生きしても未完に終わってしまいそうなので、なんとしてでもペースを上げようと考えている。

 今回取り上げるのは、今度こそ、押しも押されもせぬSF作家の正真正銘SF小説、ロバート・A・ハインライン異星の客』(1961)である。

 前回同様、いま読んで面白い小説だとは言いがたいので、長くなりすぎるのを防ぐため、大胆に要約・省略しながら行く。

 ネタバレも気にしないので、自分で読む気がない人は、先にあらすじと基本設定ぐらいはWikipedia等で予習してもらいたい。特にハインラインの項目は詳しく、このシリーズの観点からも有益な記述をいくつも含む。

 主人公のヴァレンタイン・マイケル・スミス(マイク)は、第一次有人火星探査のクルーが消息を絶った25年後、第二次探査によって発見された彼らの遺児であり、遺伝的には地球人だが、誕生直後から火星人に育てられ、地球や人間を一度も見たことがなかった。

 第一次クルー達のものだった莫大な株と特許を相続し、さらに法のいたずらで火星全土の所有権を持つことにさえなるかも知れないマイクが、赤ん坊よりも何も知らないと来れば、トラブルが起きないはずはない。このマイクが辿る生涯が、小説の本筋だ。

小説の世界観と時代精神

 まず以下は『自由諸国の世界連邦の事務総長という最高の地位にあるジョセフ・E・ダグラス閣下』(P127)が朝食をとりながら読んでいる電子新聞、という設定。風刺小説としての世界観がよく凝縮されていると思うので、ここは直接引用する。

 太陽の第三惑星は、今日は昨日より二十三万人多くの人間をかかえていた。五十億の地球人口のなかで、このくらいの増加は目だたない。連邦の協力者である南アフリカ帝国は、またしても少数民族の白人を圧迫したと、最高裁に召喚されていた。ファッション界の大御所たちがリオに集まり、スカートの裾が下がるだろうし、へそはかくすようになると発表した。連邦防衛ステーションが空中で動きを見せて、この惑星の平和を乱すものはなんであろうと殺してみせると約束した。コマーシャル宇宙ステーションが、無数の商標の商品の無限につづく騒音で平和を乱している。ハドソン湾岸には昨年の同じ日に移住してきた数より五十万も多い移動住宅が落ちついた。中国の米作地帯は連邦会議で緊急対策を要する栄養失調地区と発表された。世界一の金持ち女性として知られるシンシア・ダッチスは、六人目の夫に慰籍料を払って離婚した。
 新啓示派(フォスタライト派)教会の最高大司教ダニエル・ディグビー博士は、連邦上院議員トーマス・ブーンを導くためにエンゼル・アズリールを指名し、今日中に天の承認が下るであろうと発表。各通信社はそれをまともなニュースとして送った。過去に、フォスタライト派が何軒もの新聞社を打ちこわしたことがあるからだ。ハリソン・キャンべル六世夫妻は、シンシナチ小児科病院で仮親からただひとりの男の嗣子を得たが、幸福なこの両親はペルーで休暇を楽しんでいる。イェール神学大学の余暇芸術教授ホレース・クァッケンブッシュ博士は、信仰にもどり精神価値をつちかえと呼びかけている。ウェスト・ポイントのフットボール・チームのプロ選手の半分が、賭け競技の醜聞に巻きこまれた。細菌戦化学者三人が、トロントで、情緒不安定ということで休職になった。彼らはこの事件を最高裁にもっていっても争うと発表している。連邦最高裁は、合衆国最高裁判所の、ラインバーグ対ミズーリ州の連邦州議員がからむ党大会予選会の件に関する判決を破棄した。(P126-127)

 話の筋に絡んでくるのは「フォスタライト派」だけであり、細かい内容にいちいち論評しないが、人口問題・人種・ファッション・軍事・商業主義・性・宗教・生命倫理・政治、と様々なトピックに対して、作者の抱いている時代精神が垣間見えて面白いだろう。

 このダグラスが、マイクの財産と権利を押さえ政治的混乱を避けるため、彼を替玉の役者とすり替えて、その存在を抹殺しようとするところを、善玉サイドの看護婦ジリアン(ジル)が救出して、アナーキスト気質*1の老学者ジュバル*2の家へ駆け込むのが序盤のプロットである。

火星人とその考え方

今日の一コマ

 マイクを保護したジュバルらは、マイクを通して、火星人について詳しく知ることになる。火星人のキャラが直接本編に登場することはないが、小説全体を通して最重要要素である。

 今日の私達にとっては、「火星人」という単語がギャグやたとえ話以外の文脈で出てくる、ということだけでも、まず驚きだろう。

 意外と最近まで、太陽系の惑星のことですらよくわかっていなかったのだ、と理解するのは、それはそれで面白いことだが、今回の主題とはあまり関係ない。問題はこの火星人がいかなるものとして設定されているかだ。

 卵で生まれ、ニンフと呼ばれる毛羽だらけの球体状の幼生を経て、やがて帆を張った氷上船を思わせる巨大さの成人となる。雌雄同体で、ニンフのうちは全て女性で、成人後は全て男性に変化し、人間的な意味での性の意識はない。

 ニンフは物理的には活発だが精神はごく鈍い。大量にいて大事にはされず8/9*3までは最初の年に死ぬ。たまたま生き延びたニンフは成人に保護され、受胎・産卵を終えると成人に変わるよう指導される。成人は物理的には不活発だが、精神的には能動的である。(P160-161)

 まあこのあたりまではいい。今日たとえばハリウッドでリメイク映画化されるとしたら、火星人の雌雄はほぼ確実に逆の設定にされるだろうし、それも時代精神の興味深い変化のひとつを示唆しているが、今は置いておこう。本当に興味深いのはその先だ。

 数分、あるいは数年間の思索を必要とする火星人は、ただそのまま思索にはいる。もし友だちのひとりが彼に話しかけたいと思っても、その友だちは待つだろう。永遠の流れのなかで、急ぐ理由はありえないし、急ぐということは火星人の概念にはなかった。スピード、速力、同時性、加速、その他の永遠性のパターンの抽象概念は、火星人の数学の一部としてあっても、火星人の感情としてはなかった。反対に人類のたえまのないあせりは、数学的な時間の必要からではなく、人間の性的両極性につきもののいきりたった性急さからきているのだった。(P227)

 成人は長命で急ぐということを知らず、決して争わない。「死ぬ」ことはなく、適切な時が来たら自らの意志で「分裂」(discorporate*4して霊的存在となるだけで、事実上不死である。不要になった肉体は皆で尊敬を込めて喰われる。(P224)

 霊はごく当たり前の存在であり、肉体的に生きている成人より多い。古くからいる上級霊は「長老」(Old One)と呼ばれ、ほとんど全能である。一例として、第五惑星*5は、大昔に、長年かけて住民を悪と完全に「理解」した火星人の長老によって破壊されたことになっている。(P163)*6

 火星には病気も暴力も殺人も犯罪もなく、金銭も財産も政府も税金もない(P251)。長老の教えが完全なため、「宗教」「哲学」「科学」は火星語では不可分で「研究」とか「疑う」という概念もない。(P242)。「創作」という概念もない*7。おそらく「嘘」や「欺瞞」もない。「笑い」もない。(P252)

 生まれたときから火星人に育てられたマイクも、少なくとも当初は地球の常識を一切理解せず、火星人には遠く及ばないものの、多彩な超能力を持っている。

 念動力や空中浮揚は当然できるし、幽体離脱もできる。「悪」と認識したものを四次元の彼方に一瞬で消し去ってしまうこともできる。*8肉体を自由に操作し、脈拍や呼吸をコントロールして仮死状態になったり、感覚を遮断したり、太ったり痩せたり顔つきを変えたりできる。

 他人の視点から見る――考え方のたとえではなく実際に――ことができたり、他人にまた別の他人の視点を見せることもできる。宇宙の法則についても人間の科学者に説明することすら不可能なところまで理解している。

 「なんぼなんでも盛りすぎやろ!」……とツッコまずにはいられないのだが、それもいったん置いといて、『失われた地平線』と続けて読んでもらった*9ので、私が何が言いたいか、わかるね?

 設定の違いのために一見派手になってはいても、ハインラインとその読者達が、火星・火星人・長老に仮託しているものが、ヒルトンとその読者達が、シャングリラ・ラマ僧・大ラマに仮託していたものと、実質的に全く同じだということが。

 そしてもちろん、単に似ているとか、たまたま同じであるのではなくて、ミーム的な意味で前者が後者の子孫である*10ことが。

 もはや地上では見つけられなくなった神秘の逃げ場が、忙しい自分達「西洋人」を省みるための道具が、当時まだフロンティアだった宇宙に見いだされるようになったのだということが。

 最後におまけ的に一箇所引用。

 人間とはなんだ? 羽毛のない二足獣か? 神の姿をうつしたものか? それとも、循環のなかで「適者生存」の偶然の結果なのか? 死と税の相続人か? 火星人は死に打ち勝っているらしいし、人間的な意味での金も財産も政府ももっていないらしい。彼らにどうして税金がありうるだろう。

(中略)

 しかし、火星人の見かたからすると、人間とほかの動物を区別するのはなんだろう? 宙を飛べる種族が(そのほかになにがあるかだれにもわからないが)機械工学なんかに感心するだろうか? そうだとしたら、いちばん高く買われるのはアスワンダムだろうか、千マイルにもおよぶ珊瑚礁だろうか? 人間の自意識? ただのうぬぼれで、抹香鯨*11やセコイア樹がどんな人間にも劣らぬ哲学者で詩人ではないと証明する手だてはないのだ。
 ただひとつだけ、人間がほかに負けない領域がある。殺し、奴隷にし、いじめ、あらゆる方法でたがいに自分たちを耐えられないくらい迷惑な存在にすることに、ますます大きくさらに多くの有能な方法を発明する無限の才能を人間が示していることだ。人間は自分自身に対するいちばん意地悪い冗談なのだ。ユーモアの土台そのものが、そこに――(P251)

 これはジュバルの内省ではあるが、小説全体のトーン、ひいては著者の人間観・時代精神の一面を代弁するものと考えて間違いない。

 この本でクジラが出てくるのはこの一言のみで、他には一切絡んでは来ないものの、高知能説が、謙虚に考えるためのネタのひとつに過ぎずとも、少なくとも真面目に受け取る余地のあるものだったことがわかる。

*1:『彼はときの権力の邪魔をしてやると思うと、わくわくしてくるのだった。彼もアメリカ人すべてが生得の権利とともにもつ無政府主義的傾向を、人なみ以上にもっていた。惑星政府に体あたりすることに、彼はこの世紀にどんなものに対していだいたよりも鋭い熱情を感じるのだった。』(P159)
*2:『弁護士にして 医師、理学博士、善人で美食家、逸楽の徒にしてなによりも人気作家、しかも超厭世派哲学者であるジュバル・E・ハーショー』(P142)
*3:「十中八九」あるいは「大半」の意。中途半端な数なのは火星では3進法らしいため。
*4:まとまった複数部分に分かれるニュアンスが強い「分裂」よりも、「分解」の方が適切に思われる。おそらく(原文の時点で)意識して避けていると思われる既存の宗教用語を含めれば「入滅」が一番妥当か。さらに意味もずらしてよければ「解脱」でもいいかも。
*5:現実の太陽系第5惑星:木星のことではなく、火星と木星の間の小惑星帯が、かつてひとつの惑星であったとする(おそらく正しくない)仮説上の惑星。仮説自体は実際あったもので、この小説独自のものではない。たとえば『星を継ぐもの』でも重要な要素として登場する。参考:仮説上の天体
*6最強議論スレ――厨設定が集まることで有名――でもそこそこ上位に入れそうだ。
*7:『マイクがロメオは実在した人物だと信じているのがわかったし、マイクが彼に期待しているのは、ロメオの幽霊を呼びだして、現世でのその行動の説明を求めることらしいと、どうやらつかめた。(中略)創作の概念がマイクの経験の埒外にあるのだった。』(P192)
*8:実際に追っ手の警官隊やその武器・乗り物を次々消してしまう。
*9:現実時間では1年以上経ってるが……。
*10:ここで都合がいいのは、火星人が実在しないのは、少なくとも今日時点では明白で、このイメージは地球のどこかからきたものでしかあり得ない、ということだ。
*11:今はそれほど重要でないので追及しないが、ひとつ宿題。ここで鯨類代表として出てくるのがマッコウクジラであるのはなぜだろう? それは何を意味しているのだろう?

第41回】 【目次】 【第43回

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2016 7/16

失われた地平線 (新潮文庫)

第40回】 【目次】 【第42回

 あのハンターハンターさえ連載再開するぐらいだから自分も頑張ろうと思ってこのエントリを書き始めたら、書き上がるまでに再び休載してしもた(笑)。まあ仕方ない。始めよう。

 今回取り上げる作品、記念すべき後半戦最初の作品は、ジェームズ・ヒルトン失われた地平線』(1933)である。

 未来・SFの世界にご案内しようとか言っておいて*1いきなり普通はSFに分類される作品ではない。時代も、未来どころかリリー博士の時代から30年ほどもさかのぼる。前回のダライ・ラマの前振りがなかったら、そもそもなんで取り上げるのか全くわからないだろう。

 おまけに、小説そのものは今読んで面白いとは全く言いがたい。適当に最低限のあらすじだけ紹介しながら、このシリーズにとって意味のある点でのみ、少し引用して立ち止まることにしよう。

 物語の舞台は1931年。古い小説にはたまにあるように、何重かの伝聞という形式を取っているが、メインストーリーの主人公はコンウェイというイギリス領事。理想的なイギリス紳士(独身)である。

 彼はバスクール*2という土地に駐在していたのだが、そこで革命が起き、「白人」居住者は軍の飛行機でペシャワールへ避難することになった。

 ところがコンウェイ他4人が乗った飛行機は、操縦士がいつの間にか見知らぬ「現地人」に入れ替わっており、彼らは勝手にチベットの山奥へ連れて行かれてしまう。

 その操縦士すらも心臓麻痺か何かで急死してしまい、途方に暮れた4人は駕籠を担いだ「東洋人」の集団に出会い、シャングリ・ラのラマ教(チベット仏教)寺院へ迎えられる。

 シャングリラという名前について少し調べてもらいたい。後にどれほどの影響力を持ったかについては、モデルになったあたりの地域が実際にシャングリラ市に改名した、という一事をもってしてもわかるであろう。*3

 シャングリラは下界より遥かにゆっくりとした時間の流れる理想郷であった。シャングリラについての描写を2箇所ほど抜粋。

 ところがこのラマ僧院には、そうした中国風の装飾品の他に、まだ注目すべきものがあったのだ。例えば、それの一つとして、すこぶる快適な図書室があった。(中略)そこには世界の代表的な文学作品が洩れなく取り揃えられているばかりでなく、彼の評価の及ばない玄妙珍奇な典籍がぎっしりと並んでいるのだった。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語の書物がふんだんにあり、中国語その他の東洋語の筆写本にいたっては、まず数えきれないほどだった。

(中略)

 とにかくプラトンのギリシャ語原典が英訳のオマー・ハイヤームと隣り合っているかと思うと、ニーチェニュートンと手をつなぎ、トマス・モアがいると、傍らにハンナ・モアトマス・ムーアジョージ・ムーア、おまけにオールド・ムーアまでも揃っているのだった。

 個別の書名や著者名にこだわる必要はない。ざっと雰囲気を掴むだけでよい。

 コンウェイがさらに驚いたことには、その小亭の内部には一台のハープシコードと最新型のグランド・ピアノとが据えつけてあるのだった。(中略)ラマ僧たちは西洋の音楽を、なかでもモーツァルトを、非常に高く評価し愛好しているとのことだった。ヨーロッパの偉大な作曲家の作品は残らずここに取り揃えてあるし、ラマ僧たちのうちにはさまざまな楽器の練達者が何人かいるという話だった。

 お、おう……。

 コンウェイは、シャングリラに滞在するうち、僧院のトップである「大ラマ」に異例の目通りを許される。

 大ラマがシャングリラの歴史を語る。普通に引用していたら長くなりすぎるので、かなり大胆に要約させてもらう。ここから次の引用部までの間、鍵括弧内が原文ママの表現。

 1719年のこと、ペローというカプチン会の修道僧が、ネストリウス派の信仰の名残を探す旅で偶然シャングリラに行き着いた。

 古いラマ教寺院をキリスト教の修道院に建て直して宣教を始め、53歳の時には定住するようになった。ローマから召喚状が来たりもしたが、もはや老齢のため従うことができず、生涯シャングリラに留まることになった。

 98歳の時には仏教の経典を紐解き始めた(最初はキリスト教信仰の立場から批判するためだったし、実際そうしたのだが)。「インド人がヨガと呼ぶ神秘的な黙想修行」の研究を始めた。108歳の時臨終の床についたが、やがて回復し始めた。

 臨死体験で、ある意義深い幻覚をこの世へ持ち帰ったペローは「直ちに厳格な自己訓練を開始し、しかも奇妙なことにも、それと平行して麻薬に耽溺し出した」「いまや谷間の寺院では『感謝聖歌』と『南無阿弥陀仏』とがこもごも洩れ聞こえるようになった」

「そんな馬鹿なことが……」と彼は吃りながら言った。(中略)
「わが子よ、いかがなされた?」
 ゆえ知らぬ情感のため体が震えるのを覚えつつ、あえてその震えを押さえようともせずに、コンウェイは答えた。
「あなたはまだ生きていらっしゃる、祖師ペロー様!」

 200歳を軽くを超えるペロー神父その人であることが明らかになった大ラマが語るシャングリラの魅力。大事なところなので少し長めに抜粋。

 私が描いて進ぜた見通しは、魅力的なものでしょう。ながいながい静謐の境涯にあって、俗世の人々が時計の鳴るのを聞くと同じ気持ちで、それよりもはるかに心労のない態度で、あなたは夕陽の沈みゆくのを眺めていることだろう。時は来たり、年は去り、あなたは肉体的な享楽から解脱して、漸次より厳しい、それでいてそれに劣らぬ満足を与えてくれる境地に入って行かれることでしょう。(中略)あなたは深い静けさを、老熟した叡智を、そして明晰な記憶力の陶酔を味わうことになるなる筈です。そして、なによりも貴重なことは、あなたが『時』を獲得なされるということですぞ。よろしいか、あなたがた西洋の国々が追求すればするほど見失ってしまっている、あの得がたく貴重な贈物を……なのですぞ。まあ、考えてもごらんなされ、あなたは書物を読む時間を得られる……もはや二度と、時間を惜しんで、頁から頁へと拾い読みをしたりすることはありますまい。また、あまり熱中しすぎないようにとの配慮から、なにかの研究を控えるというようなこともなさらなくなるでしょう。(中略)楽譜も楽器もが、妨げられず果てしない『時』とともに、その最も豊潤な香りをあなたに捧げるべく、すべて用意されてあるのですよ。(中略)賢明で波立たぬ静穏な交友、いつもあわただしく人を呼び立てる『死』を恐れることのない、久しく温かい心と心の交わりというものを考えられて、あなたは心をひかれることはありませぬか?

 ひとつめのポイントは、この大ラマことペロー神父の語り、ひいてはジェームズ・ヒルトンが抱き、当時の欧米人が共感したイメージは、かなり普遍的な魅力を備えている、ということだ。

 多くの個人差・地域差・時代差があるにしても、説明する必要のない明白な問題点に引っかかるのは割り引かなければならないとしても、これに魅力を感じ、心をひかれない読者がいようか。(私ももっと書く時間取りたいよ!)

 ふたつめのポイントは、強調部に表れている(西洋)文明批判の側面だ。ここを補完する場面として以下の引用を見てほしい。話の順序が前後するが、シャングリラ到着翌日に4人のうちのひとりが早く帰りたがっている、という場面。

「誰かがよっぽど機敏に立ち回ってくれないと、とても今日中には出発できそうにないな」などと、マリンソンは呟いていた。「あの連中は典型的な東洋人だからね。ちょっとやそっとで事をてきぱき敏活に処理させられるもんじゃないからなあ」
 コンウェイは黙ってその言葉に頷いてみせた。マリンソンはもうイギリスを出てから一年近くにもなるのだ。二十年も東洋に住んでいたとしてもおそらく繰り返すだろう同じ結論に、もうそろそろ到達してもよかろうと思われる頃だ。そして、実際に、彼の言葉はある程度正当だった。ただコンウェイの見るところでは、必ずしも東洋の諸民族が異常なまでに遅鈍なのではなくて、イギリス人やアメリカ人が常軌を逸した熱にうかれて、間断なく地球上を駆けずり回っているように思われてならないのだった。こうした考え方には彼と同じ西洋人たちが同感する筈もないのは、彼にだってわかってはいたが、年を追い経験を積んでゆくにつれて、彼のその見解は強められてきていた。

 この東洋観が差別的だ、というような見ればわかることを言いたいのではない。私たちが過去について誤った期待を抱いていない限り、それは1933年が1933年であるという自明の事実を意味するに過ぎない。

 オリエンタリズム一般について、ここで説明することもしない。例によって、このシリーズの観点から重要な点に絞ってまとめよう。

 この時点において「東洋(人)」は「西洋(人)」に対して、平等な関係・対等の選択肢として存在するのではない。あくまで忙しい自分たち(「西洋(人)」)を省みるための小道具に過ぎない。実際の「東洋(人)」は、ある意味どうでもいいと思われている。

 実際チベットの扱いは極めていい加減だ。私はチベット仏教の教義について何も知らないが、それが「麻薬をやりながらゆっくり西洋の文学や音楽を楽しもう」というようなものではない、と断言しても、文句は来ないと思う。(枝葉末節だが『南無阿弥陀仏』も唱えないと思う。)

 このような「東洋」の扱いは決して珍しいものではなかったし、この作品は、そのような創作の中で最も有名なものでも最も洗練されたものでもない。*4それでも私が時代精神の代表としてこの作品を選んだ理由は、一番最後でまとめよう。

 大ラマは、そもそもコンウェイらが連れてこられたのも偶然ではなく、外部の人間を招くため計画だったことを明かしてくれる。

 まず大体から申して、この土地の高度や其の他の条件に馴らされているチベット人は、外部の人種の人たちほど感覚が鋭敏ではありません。(中略)百歳以上の寿命を保つ者はどうも少ないように思われます。中国人はまだよろしいようですが、それでも失敗する者はかなり多いようです。最も成績のよろしいのが、ヨーロッパの北部の人たちやラテン系の種族でして、アメリカ人もほぼ同じくらい適応性があるのではないかと思われます。

 わっはは、チベット人は鈍いからダライラマに向かないか。中国人に替わってもらった方がましだな。

「その理由は、ちゃんとあるのですよ。(中略)それこそが、この偶然寄り集まった異邦人たちのこの群落にとって、寿命を越えてまで長生きすべき理由のすべてなのです。(中略)われわれには一つの夢があり、幻想があるのです。(中略)かつて一七八九年に老ペローがこの部屋で臨終の床についておったときに、その枕頭を訪れた幻想だったのですよ。(中略)そうした追想を通して彼が感じましたのは、すべて美しいものがはかなく滅びやすく、この世の戦乱や欲望や獣性がいつの日にかそれらをことごとく破砕してしまうかも知れぬ、という憂慮だったのです。(中略)つまり、この世界の国々が、叡智においてではなく、卑俗な欲情や破壊の意志において、次第に強化されてゆくさまを見ていたのです。機械の力が倍加して行って、ついには武装したただ一人の人間が大君主ルイ十四世の全軍にも匹敵するようなことになるだろうことを見て取ったのです。

(中略)

殺人の技術を手にして驚喜した人類が、この世界の隅々まで荒れ狂いまわって、(中略)書物も絵画も音楽も、二千年の歳月を通じて貯えられた、微小で繊細で防御のすべを持たぬすべての宝物が、(中略)破壊されてしまうだろう……とな。

(中略)

 おそらくこの破局は、あなたが今の私ほどの年齢になられるよりも前に、やって来ることでしょうから」
「それで、このシャングリ・ラがその破局を免れることができると、そうお考えなのですね?」
「おそらくはな。(中略)ここには、われわれが育み護って、やがて残し伝えるべき遺産があります。その時がやって来るまで、お互いに人生を楽しみ味わうことにしようではありませんか?」
「そして、その時が来ましたら?」
「その時には、よろしいか、強者どもが相互にむさぼり合って果てたその時には、初めてキリストの倫理が履行され、柔和なる者は幸福なるかな(マタイ伝、第五章、第五節)……ということになるのですよ」

 1933年はヒトラーがドイツ首相に就任しナチスが政権を取った年であり、日本が国際連盟を脱退した年でもあることを参考にどうぞ。

 また、時代の反映であると同時に、時代を越えた普遍的な魅力を備えてもいる。間もなく来る破局、そして復活というテーマは、古くからよく知られているものだ。このミームを受け継いでいる未来の「子孫」を思いつく人も多いだろう。*5

「これから来たらんとしている暗黒時代は、この世界全体を一つの棺衣でおおい包んでしまうのです。遁れる道もなければ、隠れる場所もなく、ただ見出しかねる僻地か物の数に入らぬささやかな場所のみに、助かる見込みが残されるのみでありましょう。シャングリ・ラは、そのいずれでもありうるわけです。大都市に死を運ぶ飛行士とても、(中略)ここを爆弾を一発投下するだけの価値がある土地だとは思わぬでありましょうからな」

 「なんでこいつら最終戦争が起こっても山奥にこもってるだけで大丈夫だと思ってるの? ばかなの? 死ぬの?」と思った人いませんかね? 私は初めて読んだ時に思いましたよ。

 でも、ちょっと考えて気づきましたね。馬鹿は我々の方です。1933年には、核兵器という概念は、一部の先進的な物理学者やSF作家の想像の中にしかなかったのです。死の灰とか核の冬という概念も当然まだありません。この「一発の爆弾」は核爆弾ではなく通常爆弾なのです。

 この場面の直後、大ラマはコンウェイを自分の後継者に指名して亡くなる。小説の筋としては、ここからあともうひと盛り上がりあるのだが、このシリーズの観点からはどうでもいいので無視する。

 まとめに入ろう。

 繰り返すが、東洋(人)観が差別的だとか、見ればわかることを言いたいのではない。80年以上も先から振り返っている未来人である我々の目には、そのような問題点はあまりにも明白であり、大まじめに説明するのは野暮というものだ。むしろ馬鹿にしているのかと怒られかねない。

 何より、そのような問題点に今日一番敏感なのは、日本人以上に、まずガイア教の支持層である欧米のリベラルな人々であろう。

 たとえば現代のワトソン船長がどれほど自意識の肥満した男であっても、自分がダライ・ラマの後継者に指名されるとは絶対に期待していないだろう。もはや馬鹿らしすぎて冗談にもならない。

 それでもこの作品が当シリーズの観点から有用なのは、まさにその古さゆえだ。このシリーズで着目すべき重要な変化――私がガイア教の本質と考える変化――のスタート地点およびそこから向かう方角を、見事に捉えたスナップショットと見なせるからだ。

  • 地上*6に神秘が残されていた最後の時代であるが、それがまもなく消えてしまうのではないかという予感はある。
  • 伝統的な差別――白人種の他人種に対する優越・西洋文明の他の文明に対する優越・キリスト教の他の宗教に対する優越――はまだ自明のものだった最後の時代。だが、それが正しくないのではないかという意識も芽生えている。
  • 第二次世界大戦もまだ起きておらず、核兵器が存在しなかった最後の時代。しかし、文明の全てを破壊するような最終戦争が起きるのではないかという恐怖はすでにある。

 このスタート地点と、今現在あなたが生きている瞬間と、それが書かれた時代を三角測量することによって、これから見ていく作品を、よりよく理解することができるだろう。「オリエンタリズム」の糸においてだけでなく、このシリーズの最後の最後まで重要な視点となるはずだ。

*1第39回
*2:ちょっと調べた限りではどこのことかわからなかった。架空の地名?
*3:ついでに個人的なことも言うと、私はその名を冠するホテルチェーンに何度も宿泊したことがある。参考:シャングリ・ラ・ホテルズ&リゾーツ
*4:たとえばエーリッヒ・ショイルマン『パパラギ』(1920)の方が、どちらにおいても上であろうと思う。
*5:私が真っ先に連想するのは『風の谷のナウシカ』のヒドラの庭園だ。
*6:ここでは「地下・海中を除く地球上」ぐらいの意味。

第40回】 【目次】 【第42回

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2015 6/29

第39回】 【目次】 【第41回

 ここまで『存在の大いなる連鎖』という一本の柱に沿って、時系列に進んできたこのシリーズだが、ここからは、詳細に分け入る代償として、多少複雑にならざるをえない。

 このシリーズでは、過去と未来で何が変化して何が不変であるかを常に意識することが、理解にあたって重要だ。*1しかし、完全に過去から現在へ進みながら、多岐にわたる話を扱うと、話があちこちに飛びすぎてわかりづらいことになる。

 折衷案として、織物でいえば縦糸とでも言うべきいくつかのキーワードを選び、縦糸を次々と取っ替え引っ替えしながらも、その糸の範囲では時系列を(ほぼ)維持するという方針を取ることにした。

イルカと話す日

 最初の糸の先端を、またリリー博士から再開させていただこう。

 中間テストでも予告したジョン・C・リリー『イルカと話す日』のエピグラフ。2本あるうちの最初のひとつはこれだ。

「公衆が科学研究の努力と成果とを、意識的かつ分かりやすい形で体験する機会を与えられるということは、大変意義深いことである。一握りの専門家だけが研究成果を利用し、洗練して、応用するだけでは十分ではない。知識をわずかな数の専門家だけに独占させることは一国の国民の哲学的精神を衰退させ、精神の貧困をもたらすことになる」

――アルバート・アインシュタイン

 アインシュタインに極端な愛憎を抱く――おそらくは単に彼が世界一有名な学者であるというだけの理由で――というトンデモ科学者のステロタイプをまたしても連想させる内容だが、今回着目するのはこちらではなく、並列されているもうひとつのエピグラフの方だ。

 「人間の親指にも満たない大きさの内なる精神、プルシャは、あらゆる生物の魂に永遠に宿っている」

――『ウパニシャッド

 最初に現在の本筋でない部分を断っておく。『イルカと話す日』を扱っている際に、本の巻頭にあるこのエピグラフを、あえて見せなかった理由は、おそらく理解していただけると思う。

 今日の日本人にとって“プルシャ”という単語は特定のエピソードを連想させすぎる。このシリーズ全体の主旨と無関係というわけではないが、あの段階で予断を持たせるのは、マイナスの効果の方が勝ると思ったからだ。

 さて、この2本の引用元の選択には、科学に対して愛憎半ばする感情と東洋思想への傾倒という、当時のリベラルな人々が共有した精神をよく代表している。第24回の内容を憶えていれば、たとえ当てられずとも予想外とは言えないはずだと思う。

 中間テストに回答を寄せてくれた数少ない奇特な人たちの中で、「ダライ・ラマ」と回答した人が複数いた。「方向性さえ合っていれば正解とする」と予め言っておいたのはこの回答を予想してのことであり、私はこれを正解に数えたいと思う。

 ダライ・ラマが欧米で有名になったのはリリー博士より後のことだが、少し時代がずれていたら、ここにウパニシャッドの代わりにダライ・ラマ14世の言葉が入っていても、まったく不思議はなかっただろう。

dalai_lama

 確か2008年頃だったか、シーシェパードの公式ホームページに行くと、サイドバーにダライラマの写真が貼ってあった。

 現在は見られないが、当時のスクリーンショットを保存したものがあったので貼っておこう。

 知っての通り――知らなければ見ての通り――ダライ・ラマ14世は、宗教的・政治的にどうかはともかく、個人的・外見的には典型的なモンゴロイドのおっさんである。

 シーシェパードのような反捕鯨運動が、一部の人々の言うように、キリスト教白人至上主義の陰謀であるのならば、黄色人種の仏教指導者がトップページでアピールされるのはなぜだろう。

 おそらく、捕鯨反対の日本人は、これを単にシーシェパードやあるいは一般的に反捕鯨運動は人種差別などではない証拠と見なすだろうし、反反捕鯨派は「日本差別を人種差別と言わせないための偽装だ」とかなんとか苦しい言い訳をするであろうと思う。

 もちろんこの場合、どちらかと言えば、圧倒的に前者が正しい。何度も言っているが、シーシェパードやその支持者は、伝統的な意味での人種差別主義者ではない。むしろ、そのような人種差別には最も批判的な層に属する人々だ。

 話がこれで終わりだったら、どんなに良かっただろう。だが、私はこれから、残念ながらそうではないという話をしなければならない。一本目の糸となるキーワードは『オリエンタリズム』だ。

  1. ジェームズ・ヒルトン『失われた地平線』(1933)
  2. ロバート・A・ハインライン『異星の客』(1961)
  3. アーサー・C・クラーク『海底牧場』(1957)

 3本の作品を通して、リベラルな欧米人のオリエンタリズムの対象が、アジア(東洋人)から宇宙(火星人)へ追いやられ海(クジラ)へ戻ってくる変遷、人種差別・宗教差別意識の今昔、鯨肉のカニバリズム感と高知能説*2の関係、等々を描こう。

*1第36回
*2:今後このシリーズで単に「高知能説」と言った場合、ジョン・C・リリーを発端とする鯨類高知能説を指す。

第39回】 【目次】 【第41回

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2015 6/6

第38回】 【目次】 【第40回

 大きな鍵*1を逆向きに使うことで、鏡のように「普通」の日本人の態度もよく理解することができる。一本の柱から離れて次の段階に進む前に、一度自分たちを振り返っておこう。

鏡その1

 以下は、このシリーズ開始以前に、ネットのどこか*2で見かけた会話である。記憶からの再現なので一字一句正確ではないが、概ねこのようなものであった。

A「なあ、これはもちろん仮定の話だけどさ、もし本当の本当に、奴らの言うとおり、クジラやイルカが人間並みの知能を持っていることが判明したらどうなると思う?」
B「さあ? たぶん日本がすぐに捕鯨やめて、代わりに白人どもが血相変えて絶滅させようとすんじゃねーの?」

 「そうだそうだ!」と思うだろうか? それとも「レイシストきめえ!」と思うだろうか?

 私の意見では、このB氏は、目先の恐怖を紛らわすため、特に深い考えもなく、憎悪に任せて適当に威勢のいいことを言ってみただけであろうと思う。

 しかし、それでも彼は、おそらく自分でも気づかないまま、なまじ訳知り顔で冷静ぶっている人々もしばしば見落としている重要な真実の一端に、手を掛けている。

 つまり、人間より賢く偉い動物がいる――それも眼に見えぬ世界の霊的存在としてではなく、地上に肉体を持って――などというのは、本来*3西欧・キリスト教文化よりも、むしろ日本・東洋文化*4の方にこそ、ずっと似つかわしい発想だということだ。

 意外かな? そうでもないと思うのだが。「奴ら」*5一般にキリスト教が嫌いで、東洋的・オリエンタルな思想が、西洋のそれより優れていると、近代以降初めて本気で考えた人々なのだ。本当なら日本人の方が進んで信じたいような思想であるのは、むしろ当然ではないか。

鏡その2

 このニュースを覚えている人はいるだろうか。ちょうどシーシェパードが初めて捕鯨船に乗り込む事件を起こした翌年だったので、それなりにネットで話題になった。

 捕鯨賛成派というか反反捕鯨派の側は、

  • 「そら見ろ! 奴らは日本非難に利用できるときは保護しろなんて言うが、自分が見て不愉快だとなりゃカンガルーと同じであっさり殺しちまうんだ! クジラなんて人種差別の口実にすぎないことの何よりの証拠だ!」

 とかいうようなことを言った。

 無論、この意見は間違っている。*6しかし、ただ単に間違っているだけで、何ら興味深い意見とは言えない。むしろ興味深いのは、これに対する捕鯨反対派の側の意見だった。彼らは、

  • 「安楽死なんて捕鯨問題と何の関係もねえだろこのバーカバーカ」

 ぐらいの(字義通りには概ね正しい)ことはもちろん言ったが、総じてあまり元気がなく、どちらかといえば、こんなことはしてほしくなかったと思っているように見えた。*7

 少なくとも、

  • 「オーストラリア人グッジョブ! これで自分も勇気百倍で捕鯨賛成派を説得できるよ! ありがとう!」

 というような感想を持った日本人は、ひとりもいないようだった。

 しかし、この状況はどう考えても何か変ではなかろうか。

 なぜオーストラリアの当局は、ただでさえ日本では少数派である同志たちに元気を無くさせるような処置を、わざわざ取ったのだ? 日豪の防衛協力を妨げるために、中共の工作員がオーストラリア当局に潜り込んで、両国の関係をさらに悪化させるべく暗躍でもしているのかね?

 そうではないというのなら、誰か(ひとりだけとは限らない)が何か(ひとつだけとは限らない)深刻な誤解をしているはずだ。

 この誤解は、日本とオーストラリアとか、捕鯨賛成派と反対派とかいう対立構図に捕らわれてる限り決して解けない。

 必要な視点は、やはり宗教だ。この状況の中にある一番本質的な断絶は、アボリジニの歌と安楽死の間にあるということに気づけるかがカギだ。

 長さの関係でここであまり深い議論はできないが、西洋文明における動物の安楽死は、今でもキリスト教的な論理に支えられている。*8

 生命(生死)よりも(苦痛の)意識(≒魂*9)を重視する傾向*10、動物は神からの賜り物だから人間が正しく管理しなければならないという”stewardship“(直訳すると「執事魂」*11)の精神、いずれも強くキリスト教の影響下にある。

 つまりアボリジニの歌を聴かせてから薬殺安楽死という、まさに木に竹を接いだような対応は、日本や捕鯨と一切関係なく――多くの反捕鯨日本人の主張通り実際直接には関係がない――それ自体がすでに大きなねじれを含んだものなのだ。

 むしろ、このような問題では、シーシェパードのような動物愛護団体*12は、ザトウクジラの安楽死にも、コアラやカンガルーの間引きにも反対する側であることが多く、日本人の反反捕鯨論者と同じ側に立って、同じ相手を非難していることが多いのだ。

鏡その3

 今回の本筋からは若干外れるけれども、第38回の続きでクレアさんの話も片付けておこう。

 第12回で取り上げた『クジラの歌が聞こえる』のクレアが病院で目覚めて以降の結末部分を換骨奪胎して、日本人好みに書き換えてください。一字一句書き換えなくても「大体こんな感じ」程度でよいです。

 この中間テストの第9問は、正解があるタイプの問題ではないが、私だったらこうするだろうという答えはある。私なら、変えるのは一箇所だけでいい。

 もう一度、クレアは本当におこったことを話したいという気持ちにおそわれた。ところが、まったく急に、そんな必要などないということに気づいた。
 真実を知っているだけでいいではないか。自分が見たり、やったりしたこと、すべてについて、自分自身の心の中で確信していさえすればいいのだ。

 となっているところで両親とは適当に話を合わさせ、最後の一文は

 クレアは心の中でつぶやいた。「でも、私は本当に南極海に行ってクジラを助けたんだからねっ!」

 みたいな感じにするだろう。

 一見、ほんの些細なニュアンスの差だけであり、物語全体は何も変わったようには見えない。仮にこっそり差し替えた本を読まされても、ほとんどの人は気づきもしないだろう。

 しかし、生のクレアさんを流石に受け入れられない「イルカ・クジラの大ファンで水族館のイルカショーに通いつめ、もちろん捕鯨には大反対の若い日本人夫婦」*13に取っては、これだけの違いで受け入れる余地が大幅に広がると、私は考える。

 このほんの些細なニュアンスの違いが、感じ方の大きな変化をもたらすのはなぜかというと、ここがまさにキリスト教(というより一神教的宗教文化)と日本文化(というより非一神教的宗教文化)の差に関するキーポイントだからだ。

 キリスト教の一神教文化では、あらゆる善・あらゆる正義が、GOD――全宇宙の創造主であり最後の審判の主宰者でありキリストや聖霊とひとつである全知全能の父なる神――にぶら下がっている。

 もし、GODに繋がっていない神秘があったとすれば、どんなに神秘的であっても、いや、あればあるほど、人々を正しい神から遠ざける、邪悪な異教の力・悪魔の力だ。善か悪か二つに一つ、どちらでもないということはありえない。

 ここでクレアがザトウクジラに対して感じている神秘は、もちろん悪いものではなく善いものである*14ので、その先には全知全能の神がいる。作者本人は意識していないだろうし、明示的に聞かれればむしろ否定するだろうが、必然的にそうなるのである。

 だから、この場面で両親に対して適当に妥協したりするのは、神に背く罪深い行為ということになる。そんな面従腹背の態度では、今はおとなしくしていても、いつ気が変わって寝首を掻きに来るかわかったものではない。そんな子供は信用ならない・反社会的な・悪い子である。

 両親なんて、人の短い一生の間のかりそめの関係に過ぎない。永遠の神に忠実である方がずっと大事だ。伝統宗教ではそんなに珍しい考えではない。第17回でも言及したことだし、日本人でも、よっぽど視野の狭い人でなければ、納得はせずとも理解はできるはずだと思う。

 ところが、キリスト教というより一神教的文化がない日本の通常の感覚では、これは逆になる。たとえ捕鯨反対が100%正しいと信じていたとしても、それはGODに繋がった究極の善とは関係がない。自分の善に固執して両親を無視する子供は、信用ならない・反社会的な・悪い子である。

 文化の違いでお互いを悪と見なしてしまうという、教科書に載りそうな典型的な状況だ。この話は、むしろ「無神論者がどうして道徳的であり得るのか」などと言い出す伝統的宗教保守派*15の感覚を理解する上で役に立つだろう。

鏡その4

 中間テストで、

 いわゆる白人国家でも、いわゆるキリスト教国でもない国の中で、最もガイア教が盛んな国はどこでしょう? 検索その他調べ物は自由です。

 という問題を出した。調べ物は自由と書いたが、本当は何も見ないで即座に答えを出してほしいところだ。

 ここまで来たらもうわかるね。おおむね豊かで環境問題や動物愛護に気を使う余裕があり、西側・リベラル・左派的で、近代・西洋化されていると同時にオリエンタル・東洋趣味でもあるという、ねじれた精神状態にある国「日本」だ。

 第34回で、リリー博士の意見が誰かさんたちにそっくりだと言ったな。あれはもちろん嘘ではない。文字通りにはまったく正しい。だが、本当の因果関係は逆だ。リリー博士が誰かさんたちに似ているのではない。誰かさんたちがリリー博士に似ているのだ。

 地球最先端を行くアメリカで思想を先導した教養ある天才科学者たちの認識が、半世紀かけて極東の中学二年生ですら弁えている一般常識になったのだ。

 今日、誰かさんたちが「欧米人」に対する批判になると思ってコピペしているような文章は、まさにガイア教を作ったのと同じ人達によって最初に書かれたものなのだ。

 いますぐ信じろとは言わない。ここで「はいそうですか」と納得するような単純な読者であってほしくない。このあたりの機微をもっとよく理解してもらうために、またしても脳内タイムマシンの旅を再開しよう。

 しかし、以前も強調した*16ようにここは既に現代だ。一体どこへ行こうというのか? もちろん未来へだ。SF小説じみていて荒唐無稽な世界から、本物のSF小説の世界へお連れしよう。現在と未来・現実と空想の狭間にある、さらなる驚異と恐怖の世界を味わっていただきたい。

*1第36回
*2:おそらく2ちゃんねる。
*3:ここでは単に「現在のそうではない期間よりもずっと長く、過去にそうであった」という程度の意味で言っている。そちらの方が正しいとか、これからもそうあるべきだとは言っていない。
*4:このくくり方が乱暴であることは重々承知であり、そのこと自体も後に重要なテーマとして取り上げる。
*5:私がガイア教徒と呼ぶ層とほぼ同じ人達だと思われる。
*6:どう間違っているかも、ここまで読んできた読者にはもうわかると思う。
*7:どうしても主観の問題になるが、私の偏見とは言えないと思われる。いま久しぶりにググってみても、捕鯨反対の立場からはっきりそう表明している人が複数確認できる。
*8:動物の安楽死それ自体は、文化と無関係に、大昔からあっただろう。たとえばマンモスに踏まれて助からない猟犬を安楽死させる、とかいうようなことは、クロマニヨン人だってしていただろう。
*9:伝統的キリスト教では動物に魂はないとされてきた、という話とはまた別。
*10:ずっと後になるが、これは捕鯨が「残酷」か否かを巡るシリアスな議論でも重要なポイントになっていたりする。
*11:ふざけて見えかねない字面だが「本来自分の所有物でないものを預かり忠実に管理する」というニュアンスは正確に表現されていると思う。
*12:シーシェパードが典型的な動物愛護団体であるかのような印象を与えたくはないが、今の文脈では不適当とは思わない。
*13第13回
*14:ビクター・ケラハーがザトウクジラを邪悪なものと描いていると思う者はひとりもおるまい。
*15:繰り返しになるがいわゆるガイア教の支持層とは重ならない。
*16第24回

第38回】 【目次】 【第40回

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2012 10/23

クジラの歌がきこえる (ときめき文学館)

第37回】 【目次】 【第39回

 さあ、

  • ユリカさんとビクター・ケラハーを分けているのは何という文化のどんな違いか?

 という第13回の問い*1に答えられる時がついに来た。

  • 宗教文化が*2一神教的か否かの違いだ。

 第2回の段階では「ひどいこじつけだな」ぐらいにしか思わず、第12回でも信念がぐらついて不安を感じた程度の人でも、ここまで来たら、もうこの回答を拒否することは難しかろう。

 野崎友璃香とビクター・ケラハーそれぞれの脳の奥底に陣取っているのは、それぞれ何千年も独自の進化を遂げてきた、まったく別のミーム複合体だ。表面的には似通って見えても、それは最近の接触によって生じた薄皮一枚の類似に過ぎず、中身はまったく違う「生き物」なのだ。

  • どう考えてもかなりアブないトンデモ本が「微笑ましすぎて腹筋痛い」ぐらいで済むのに、普通の童話に「血も凍る」のはなぜか?

 単に捕鯨反対に対する熱心さ・強硬さが怖いのではない。それならユリカさんの方が怖いはずだ。熱心をどう定義・評価するかは難しいところだが、少なくともユリカさん本人は、自分が実在もしない誰かよりも捕鯨反対に熱心でないと言われたら心外だろう。

 単にトンデモだから・現実と乖離しているから怖いのでもない。だったらやはりユリカさんの方が怖いはずだ。クレアさんの体験はぎりぎり夢や記憶のあやで説明可能な範囲に収まっているが、ユリカさんの方はそうはいかないだろう。

 単なる人種差別・排外主義・性差別的感情のせいでもない。私が偽って『イルカのアヌーからの伝言』をオーストラリア人男性の、『クジラの歌が聞こえる』を日本人女性の著作として紹介していたら、後者が笑い飛ばされ、前者が「血も凍る」と評されただろうか? ありそうもないことだ。

 ここでの本当の問題は捕鯨でもクジラでもない。科学でもトンデモでもない。資源でも利権でもない。人種でも国家でもない。宗教だ。

 この枠組みで見ることさえできれば、話はそんなに難しくない。なぜもくそもない。強固な一神教的信仰がその「異教徒」から見て「血も凍る」ようなものである――少なくともありうる――のは、まったく当たり前のことではないか。

 比喩的に言えば、読者を本当に恐れさせたのはクレアさんではなく、彼女の頭の中にいるプラトンでありアウグスティヌスなのだ。

 クジララブラブな一方で、アザラシをただ食べられるのを待っている肉塊のように見なしてはばからず、シャチの鼻先に乗ってルンルンする一方で捕鯨従事者を

クレアは、こんなに感情のない、あたたかみのない目を見たことはなかった。*3

 と表現してはばからないクレアさんがいる。

 彼女は、標準的な現代日本人の目には、自分が好きなものには甘いくせに、自分が好きでないものには情け容赦がないだけの、単なる気まぐれで冷酷な利己主義者のように映る。

 いや、映るというより、ある価値体系に当てはめれば確かにそうなのだ。現代の価値観に当てはめれば、動物裁判が単なる集団狂気で動物虐待であることが、否定できないしする必要もないのと同じように、それは否定できないしする必要もない。

 しかしまた中世のキリスト教的世界観では動物裁判にもちゃんとした論理があるのと同じように、クレアさんの態度も、別の価値体系に当てはめて見れば、立派に筋が通る。

 アザラシより知能が高い、すなわち偉い人間やシャチが、アザラシをただの動く肉塊のように見なし、殺し・食らうことは、牛が草を食うのと同じく全く当然の・正当な行いである。

 逆に、サメや捕鯨従事者が自分より知能の高い、すなわち偉い存在を殺し・食らおうとするのは、神によって定められた正しい宇宙の秩序を破壊しようとする言語道断な犯罪である。

 だから彼女は利己主義者ではない。彼女はただ神の命令・自然の秩序に従っているだけであって、利己も何も、そもそも己の意見などまったく持っていないからだ。利己主義者と呼ぶべきなのは、むしろ自然の法律を無視して己の欲望を満たそうとするサメや捕鯨者の方だ。*4

 もちろん私は、現代でもブタの裁判をやるべきだと言っているのではないのと同じく、このような論理を認めろと言っているわけではない。例によって*5狂っているのは、特定の誰かというよりは我々全員の歴史感覚の方だと言っている。

 このような、今日真正面から主張されればとても弁護できないような自己正当化の論理は、何百年何千年とずっと当然のように通用してきたのであり、それがおかしいと感じる最近の社会の方が、むしろ歴史的に見れば「異常」なのだと言っている。

 今日時点で日本や西欧*6の先進国に生きている人間は、宗教、とりわけキリスト教に宗教的多元性を認める傾向がかなり発達した後の時代に生まれた*7ので、宗教「本来」の姿をすでに忘れてしまっているか、そもそも最初から知らない。

 昔を基準にするとずっと「ぬるく」なった後の宗教しか知らないにもかかわらず、それが当たり前で、宗教本来の姿だと錯覚している。

 これは、もし最初から明確に(伝統)宗教の話だったらどうなるかを考えてみれば、すぐにわかることだ。たとえばクレアさんがアフガニスタンにNGOとしてボランティアに行く童話が書かれたとしよう。その中で、アフガニスタン人が

クレアは、こんなに感情のない、あたたかみのない目を見たことはなかった。

 などと表現される事が――たとえそれが罪もない旅行者の喉を掻っ切る寸前のタリバン兵だったとしても――果たしてありうるだろうか。

 まず間違いなくビクター・ケラハー本人がそうは書かないだろうし、仮に書いたとしても、編集者か誰かが「いやいや先生、いくらなんでもこれはまずいっすよ。違う宗教の人を悪魔化しちゃってますよ。子供に読ませられませんって。」*8とかなんとか言って止めるだろう。

 彼らがそうする――少なくともそうするだろうと予想できる――のは、もちろん彼らがタリバンに好意的だからではない。*9現代社会が近代以降徐々に発達させてきた、宗教的多元性を認め(させ)る傾向が、すでに彼らに内面化され、それを強制しているからだ。

 ガイア教は、意図的および偶然に積み重ねられた疑似科学的トリックによって、近代以降に宗教に設けられた様々な制限を回避し、宗教の持つ強力な力を利用しながら、その宗教が課せられている強い制約を受けないという、良いとこ取りの奇跡を実現している。*10

 だから、タリバンに対してすら働く(であろう)その抑制が、太地の漁師や南氷洋の捕鯨者に対しては働かない。少なくともある側面では、ガイア教徒は(現代の)キリスト教徒よりずっと(中世の)キリスト教徒らしく、ガイア教は(現代の)キリスト教以上に(中世の)宗教的なのだ。

 そして、現代人が、いわば先祖返りした「生」の宗教であるガイア教に触れると、それが何かを理解できず、油断して取り込まれたり、逆に過剰に恐れたり・軽視し過ぎたりと、とにかくおかしな反応になってしまうのだ。

 これが、捕鯨・反捕鯨問題を単なる環境保護問題・海洋資源問題・動物愛護問題以上のものにしてしまっている全ての誤解に通底している、最も基本的な構図だ。

 ……さて、大きな鍵*11とその大体の使い方を学んで、後は読者自身が、多少の努力と時間を費やすことさえ厭わなければ、どんな場面に出会っても自分の力で解決できるところまで来たと思う。

 実は、第1回を書き始めた時点の構想では、ここで終わりにしようかとも思っていた。だがせっかく人気のあるコンテンツなので、他人にやらせるよりは自分でやった方が親切だろう。

 次回は、初めて中間テストの結果を使ったり、本当に現在――数年前レベル――の事例を扱ったりしつつ、逆に自分たちを振り返ってみよう。

*1:ななななんと5年弱越しの問いだ! 単に私がサボってただけだけどな!
*2:とりわけ人間や社会と自然や動物との関係の捉え方が。
*3第12回
*4:言うまでもないと思うが、この論理は、実在する反捕鯨運動家の態度を理解する上でもヒントになるだろう。
*5第31回
*6:これまでもそうだったし、今後もそうだが、このシリーズでは主に生物学的・人種的な話ではなく文化的・社会的な話をしている。だから「西欧」といった場合、いわゆるヨーロッパ以外に、北米やオーストラリア・ニュージーランド等が含まれる。逆に、たとえ見た目には典型的なヨーロッパ人だったとしても、生まれた時から他の文化圏で暮らしているような人間は含まない。
*7第17回
*8:オーストラリアの編集者がそんなしゃべり方なのかは知らんが。
*9:確認していないが、するまでもなくタリバンには最も批判的な層に属する人たちのはずだ。「反米」という文脈で同情的に見えるケースはおそらくありえても、決して支持しているわけではないだろう。
*10:その詳細については一部はすでに説明したし、これからも説明する。
*11第36回

第37回】 【目次】 【第39回

おまけ

 ううむ、5年の歳月の重み……。

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2012 10/7

聖別された肉体―オカルト人種論とナチズム (ロサ・ミスティカ叢書)

 読んだのはだいぶ前だが『アイアン・スカイ』で思い出した。

 内容は副題通りで、ここでは詳しくは説明しないけどかなりおすすめ。

 あとがきの

 本書の前提を成すのは、公認文化の背後に見え隠れする広義の意味でのオカルティズムの理解を欠いては、その文化の本質には到達できないという認識である。

 という部分は深い。

 自分の書いているガイア教シリーズにも通じるものがある。この本は直接には使用する予定はないけど。

おまけ

 アーリアン学説→サンスクリット語

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