2016 7/16

失われた地平線 (新潮文庫)

第40回】 【目次

 あのハンターハンターさえ連載再開するぐらいだから自分も頑張ろうと思ってこのエントリを書き始めたら、書き上がるまでに再び休載してしもた(笑)。まあ仕方ない。始めよう。

 今回取り上げる作品、記念すべき後半戦最初の作品は、ジェームズ・ヒルトン失われた地平線』(1933)である。

 未来・SFの世界にご案内しようとか言っておいて*1いきなり普通はSFに分類される作品ではない。時代も、未来どころかリリー博士の時代から30年ほどもさかのぼる。前回のダライ・ラマの前振りがなかったら、そもそもなんで取り上げるのか全くわからないだろう。

 おまけに、小説そのものは今読んで面白いとは全く言いがたい。適当に最低限のあらすじだけ紹介しながら、このシリーズにとって意味のある点でのみ、少し引用して立ち止まることにしよう。

 物語の舞台は1931年。古い小説にはたまにあるように、何重かの伝聞という形式を取っているが、メインストーリーの主人公はコンウェイというイギリス領事。理想的なイギリス紳士(独身)である。

 彼はバスクール*2という土地に駐在していたのだが、そこで革命が起き、「白人」居住者は軍の飛行機でペシャワールへ避難することになった。

 ところがコンウェイ他4人が乗った飛行機は、操縦士がいつの間にか見知らぬ「現地人」に入れ替わっており、彼らは勝手にチベットの山奥へ連れて行かれてしまう。

 その操縦士すらも心臓麻痺か何かで急死してしまい、途方に暮れた4人は駕籠を担いだ「東洋人」の集団に出会い、シャングリ・ラのラマ教(チベット仏教)寺院へ迎えられる。

 シャングリラという名前について少し調べてもらいたい。後にどれほどの影響力を持ったかについては、モデルになったあたりの地域が実際にシャングリラ市に改名した、という一事をもってしてもわかるであろう。*3

 シャングリラは下界より遥かにゆっくりとした時間の流れる理想郷であった。シャングリラについての描写を2箇所ほど抜粋。

 ところがこのラマ僧院には、そうした中国風の装飾品の他に、まだ注目すべきものがあったのだ。例えば、それの一つとして、すこぶる快適な図書室があった。(中略)そこには世界の代表的な文学作品が洩れなく取り揃えられているばかりでなく、彼の評価の及ばない玄妙珍奇な典籍がぎっしりと並んでいるのだった。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語の書物がふんだんにあり、中国語その他の東洋語の筆写本にいたっては、まず数えきれないほどだった。

(中略)

 とにかくプラトンのギリシャ語原典が英訳のオマー・ハイヤームと隣り合っているかと思うと、ニーチェニュートンと手をつなぎ、トマス・モアがいると、傍らにハンナ・モアトマス・ムーアジョージ・ムーア、おまけにオールド・ムーアまでも揃っているのだった。

 個別の書名や著者名にこだわる必要はない。ざっと雰囲気を掴むだけでよい。

 コンウェイがさらに驚いたことには、その小亭の内部には一台のハープシコードと最新型のグランド・ピアノとが据えつけてあるのだった。(中略)ラマ僧たちは西洋の音楽を、なかでもモーツァルトを、非常に高く評価し愛好しているとのことだった。ヨーロッパの偉大な作曲家の作品は残らずここに取り揃えてあるし、ラマ僧たちのうちにはさまざまな楽器の練達者が何人かいるという話だった。

 お、おう……。

 コンウェイは、シャングリラに滞在するうち、僧院のトップである「大ラマ」に異例の目通りを許される。

 大ラマがシャングリラの歴史を語る。普通に引用していたら長くなりすぎるので、かなり大胆に要約させてもらう。ここから次の引用部までの間、鍵括弧内が原文ママの表現。

 1719年のこと、ペローというカプチン会の修道僧が、ネストリウス派の信仰の名残を探す旅で偶然シャングリラに行き着いた。

 古いラマ教寺院をキリスト教の修道院に建て直して宣教を始め、53歳の時には定住するようになった。ローマから召喚状が来たりもしたが、もはや老齢のため従うことができず、生涯シャングリラに留まることになった。

 98歳の時には仏教の経典を紐解き始めた(最初はキリスト教信仰の立場から批判するためだったし、実際そうしたのだが)。「インド人がヨガと呼ぶ神秘的な黙想修行」の研究を始めた。108歳の時臨終の床についたが、やがて回復し始めた。

 臨死体験で、ある意義深い幻覚をこの世へ持ち帰ったペローは「直ちに厳格な自己訓練を開始し、しかも奇妙なことにも、それと平行して麻薬に耽溺し出した」「いまや谷間の寺院では『感謝聖歌』と『南無阿弥陀仏』とがこもごも洩れ聞こえるようになった」

「そんな馬鹿なことが……」と彼は吃りながら言った。(中略)
「わが子よ、いかがなされた?」
 ゆえ知らぬ情感のため体が震えるのを覚えつつ、あえてその震えを押さえようともせずに、コンウェイは答えた。
「あなたはまだ生きていらっしゃる、祖師ペロー様!」

 200歳を軽くを超えるペロー神父その人であることが明らかになった大ラマが語るシャングリラの魅力。大事なところなので少し長めに抜粋。

 私が描いて進ぜた見通しは、魅力的なものでしょう。ながいながい静謐の境涯にあって、俗世の人々が時計の鳴るのを聞くと同じ気持ちで、それよりもはるかに心労のない態度で、あなたは夕陽の沈みゆくのを眺めていることだろう。時は来たり、年は去り、あなたは肉体的な享楽から解脱して、漸次より厳しい、それでいてそれに劣らぬ満足を与えてくれる境地に入って行かれることでしょう。(中略)あなたは深い静けさを、老熟した叡智を、そして明晰な記憶力の陶酔を味わうことになるなる筈です。そして、なによりも貴重なことは、あなたが『時』を獲得なされるということですぞ。よろしいか、あなたがた西洋の国々が追求すればするほど見失ってしまっている、あの得がたく貴重な贈物を……なのですぞ。まあ、考えてもごらんなされ、あなたは書物を読む時間を得られる……もはや二度と、時間を惜しんで、頁から頁へと拾い読みをしたりすることはありますまい。また、あまり熱中しすぎないようにとの配慮から、なにかの研究を控えるというようなこともなさらなくなるでしょう。(中略)楽譜も楽器もが、妨げられず果てしない『時』とともに、その最も豊潤な香りをあなたに捧げるべく、すべて用意されてあるのですよ。(中略)賢明で波立たぬ静穏な交友、いつもあわただしく人を呼び立てる『死』を恐れることのない、久しく温かい心と心の交わりというものを考えられて、あなたは心をひかれることはありませぬか?

 ひとつめのポイントは、この大ラマことペロー神父の語り、ひいてはジェームズ・ヒルトンが抱き、当時の欧米人が共感したイメージは、かなり普遍的な魅力を備えている、ということだ。

 多くの個人差・地域差・時代差があるにしても、説明する必要のない明白な問題点に引っかかるのは割り引かなければならないとしても、これに魅力を感じ、心をひかれない読者がいようか。(私ももっと書く時間取りたいよ!)

 ふたつめのポイントは、強調部に表れている(西洋)文明批判の側面だ。ここを補完する場面として以下の引用を見てほしい。話の順序が前後するが、シャングリラ到着翌日に4人のうちのひとりが早く帰りたがっている、という場面。

「誰かがよっぽど機敏に立ち回ってくれないと、とても今日中には出発できそうにないな」などと、マリンソンは呟いていた。「あの連中は典型的な東洋人だからね。ちょっとやそっとで事をてきぱき敏活に処理させられるもんじゃないからなあ」
 コンウェイは黙ってその言葉に頷いてみせた。マリンソンはもうイギリスを出てから一年近くにもなるのだ。二十年も東洋に住んでいたとしてもおそらく繰り返すだろう同じ結論に、もうそろそろ到達してもよかろうと思われる頃だ。そして、実際に、彼の言葉はある程度正当だった。ただコンウェイの見るところでは、必ずしも東洋の諸民族が異常なまでに遅鈍なのではなくて、イギリス人やアメリカ人が常軌を逸した熱にうかれて、間断なく地球上を駆けずり回っているように思われてならないのだった。こうした考え方には彼と同じ西洋人たちが同感する筈もないのは、彼にだってわかってはいたが、年を追い経験を積んでゆくにつれて、彼のその見解は強められてきていた。

 この東洋観が差別的だ、というような見ればわかることを言いたいのではない。私たちが過去について誤った期待を抱いていない限り、それは1933年が1933年であるという自明の事実を意味するに過ぎない。

 オリエンタリズム一般について、ここで説明することもしない。例によって、このシリーズの観点から重要な点に絞ってまとめよう。

 この時点において「東洋(人)」は「西洋(人)」に対して、平等な関係・対等の選択肢として存在するのではない。あくまで忙しい自分たち(「西洋(人)」)を省みるための小道具に過ぎない。実際の「東洋(人)」は、ある意味どうでもいいと思われている。

 実際チベットの扱いは極めていい加減だ。私はチベット仏教の教義について何も知らないが、それが「麻薬をやりながらゆっくり西洋の文学や音楽を楽しもう」というようなものではない、と断言しても、文句は来ないと思う。(枝葉末節だが『南無阿弥陀仏』も唱えないと思う。)

 このような「東洋」の扱いは決して珍しいものではなかったし、この作品は、そのような創作の中で最も有名なものでも最も洗練されたものでもない。*4それでも私が時代精神の代表としてこの作品を選んだ理由は、一番最後でまとめよう。

 大ラマは、そもそもコンウェイらが連れてこられたのも偶然ではなく、外部の人間を招くため計画だったことを明かしてくれる。

 まず大体から申して、この土地の高度や其の他の条件に馴らされているチベット人は、外部の人種の人たちほど感覚が鋭敏ではありません。(中略)百歳以上の寿命を保つ者はどうも少ないように思われます。中国人はまだよろしいようですが、それでも失敗する者はかなり多いようです。最も成績のよろしいのが、ヨーロッパの北部の人たちやラテン系の種族でして、アメリカ人もほぼ同じくらい適応性があるのではないかと思われます。

 わっはは、チベット人は鈍いからダライラマに向かないか。中国人に替わってもらった方がましだな。

「その理由は、ちゃんとあるのですよ。(中略)それこそが、この偶然寄り集まった異邦人たちのこの群落にとって、寿命を越えてまで長生きすべき理由のすべてなのです。(中略)われわれには一つの夢があり、幻想があるのです。(中略)かつて一七八九年に老ペローがこの部屋で臨終の床についておったときに、その枕頭を訪れた幻想だったのですよ。(中略)そうした追想を通して彼が感じましたのは、すべて美しいものがはかなく滅びやすく、この世の戦乱や欲望や獣性がいつの日にかそれらをことごとく破砕してしまうかも知れぬ、という憂慮だったのです。(中略)つまり、この世界の国々が、叡智においてではなく、卑俗な欲情や破壊の意志において、次第に強化されてゆくさまを見ていたのです。機械の力が倍加して行って、ついには武装したただ一人の人間が大君主ルイ十四世の全軍にも匹敵するようなことになるだろうことを見て取ったのです。

(中略)

殺人の技術を手にして驚喜した人類が、この世界の隅々まで荒れ狂いまわって、(中略)書物も絵画も音楽も、二千年の歳月を通じて貯えられた、微小で繊細で防御のすべを持たぬすべての宝物が、(中略)破壊されてしまうだろう……とな。

(中略)

 おそらくこの破局は、あなたが今の私ほどの年齢になられるよりも前に、やって来ることでしょうから」
「それで、このシャングリ・ラがその破局を免れることができると、そうお考えなのですね?」
「おそらくはな。(中略)ここには、われわれが育み護って、やがて残し伝えるべき遺産があります。その時がやって来るまで、お互いに人生を楽しみ味わうことにしようではありませんか?」
「そして、その時が来ましたら?」
「その時には、よろしいか、強者どもが相互にむさぼり合って果てたその時には、初めてキリストの倫理が履行され、柔和なる者は幸福なるかな(マタイ伝、第五章、第五節)……ということになるのですよ」

 1933年はヒトラーがドイツ首相に就任しナチスが政権を取った年であり、日本が国際連盟を脱退した年でもあることを参考にどうぞ。

 また、時代の反映であると同時に、時代を越えた普遍的な魅力を備えてもいる。間もなく来る破局、そして復活というテーマは、古くからよく知られているものだ。このミームを受け継いでいる未来の「子孫」を思いつく人も多いだろう。*5

「これから来たらんとしている暗黒時代は、この世界全体を一つの棺衣でおおい包んでしまうのです。遁れる道もなければ、隠れる場所もなく、ただ見出しかねる僻地か物の数に入らぬささやかな場所のみに、助かる見込みが残されるのみでありましょう。シャングリ・ラは、そのいずれでもありうるわけです。大都市に死を運ぶ飛行士とても、(中略)ここを爆弾を一発投下するだけの価値がある土地だとは思わぬでありましょうからな」

 「なんでこいつら最終戦争が起こっても山奥にこもってるだけで大丈夫だと思ってるの? ばかなの? 死ぬの?」と思った人いませんかね? 私は初めて読んだ時に思いましたよ。

 でも、ちょっと考えて気づきましたね。馬鹿は我々の方です。1933年には、核兵器という概念は、一部の先進的な物理学者やSF作家の想像の中にしかなかったのです。死の灰とか核の冬という概念も当然まだありません。この「一発の爆弾」は核爆弾ではなく通常爆弾なのです。

 この場面の直後、大ラマはコンウェイを自分の後継者に指名して亡くなる。小説の筋としては、ここからあともうひと盛り上がりあるのだが、このシリーズの観点からはどうでもいいので無視する。

 まとめに入ろう。

 繰り返すが、東洋(人)観が差別的だとか、見ればわかることを言いたいのではない。80年以上も先から振り返っている未来人である我々の目には、そのような問題点はあまりにも明白であり、大まじめに説明するのは野暮というものだ。むしろ馬鹿にしているのかと怒られかねない。

 何より、そのような問題点に今日一番敏感なのは、日本人以上に、まずガイア教の支持層である欧米のリベラルな人々であろう。

 たとえば現代のワトソン船長がどれほど自意識の肥満した男であっても、自分がダライ・ラマの後継者に指名されるとは絶対に期待していないだろう。もはや馬鹿らしすぎて冗談にもならない。

 それでもこの作品が当シリーズの観点から有用なのは、まさにその古さゆえだ。このシリーズで着目すべき重要な変化――私がガイア教の本質と考える変化――のスタート地点およびそこから向かう方角を、見事に捉えたスナップショットと見なせるからだ。

  • 地上*6に神秘が残されていた最後の時代であるが、それがまもなく消えてしまうのではないかという予感はある。
  • 伝統的な差別――白人種の他人種に対する優越・西洋文明の他の文明に対する優越・キリスト教の他の宗教に対する優越――はまだ自明のものだった最後の時代。だが、それが正しくないのではないかという意識も芽生えている。
  • 第二次世界大戦もまだ起きておらず、核兵器が存在しなかった最後の時代。しかし、文明の全てを破壊するような最終戦争が起きるのではないかという恐怖はすでにある。

 このスタート地点と、今現在あなたが生きている瞬間と、それが書かれた時代を三角測量することによって、これから見ていく作品を、よりよく理解することができるだろう。「オリエンタリズム」の糸においてだけでなく、このシリーズの最後の最後まで重要な視点となるはずだ。

*1第39回
*2:ちょっと調べた限りではどこのことかわからなかった。架空の地名?
*3:ついでに個人的なことも言うと、私はその名を冠するホテルチェーンに何度も宿泊したことがある。参考:シャングリ・ラ・ホテルズ&リゾーツ
*4:たとえばエーリッヒ・ショイルマン『パパラギ』(1920)の方が、どちらにおいても上であろうと思う。
*5:私が真っ先に連想するのは『風の谷のナウシカ』のヒドラの庭園だ。
*6:ここでは「地下・海中を除く地球上」ぐらいの意味。

第40回】 【目次

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2015 6/29

第39回】 【目次】 【第41回

 ここまで『存在の大いなる連鎖』という一本の柱に沿って、時系列に進んできたこのシリーズだが、ここからは、詳細に分け入る代償として、多少複雑にならざるをえない。

 このシリーズでは、過去と未来で何が変化して何が不変であるかを常に意識することが、理解にあたって重要だ。*1しかし、完全に過去から現在へ進みながら、多岐にわたる話を扱うと、話があちこちに飛びすぎてわかりづらいことになる。

 折衷案として、織物でいえば縦糸とでも言うべきいくつかのキーワードを選び、縦糸を次々と取っ替え引っ替えしながらも、その糸の範囲では時系列を(ほぼ)維持するという方針を取ることにした。

イルカと話す日

 最初の糸の先端を、またリリー博士から再開させていただこう。

 中間テストでも予告したジョン・C・リリー『イルカと話す日』のエピグラフ。2本あるうちの最初のひとつはこれだ。

「公衆が科学研究の努力と成果とを、意識的かつ分かりやすい形で体験する機会を与えられるということは、大変意義深いことである。一握りの専門家だけが研究成果を利用し、洗練して、応用するだけでは十分ではない。知識をわずかな数の専門家だけに独占させることは一国の国民の哲学的精神を衰退させ、精神の貧困をもたらすことになる」

――アルバート・アインシュタイン

 アインシュタインに極端な愛憎を抱く――おそらくは単に彼が世界一有名な学者であるというだけの理由で――というトンデモ科学者のステロタイプをまたしても連想させる内容だが、今回着目するのはこちらではなく、並列されているもうひとつのエピグラフの方だ。

 「人間の親指にも満たない大きさの内なる精神、プルシャは、あらゆる生物の魂に永遠に宿っている」

――『ウパニシャッド

 最初に現在の本筋でない部分を断っておく。『イルカと話す日』を扱っている際に、本の巻頭にあるこのエピグラフを、あえて見せなかった理由は、おそらく理解していただけると思う。

 今日の日本人にとって“プルシャ”という単語は特定のエピソードを連想させすぎる。このシリーズ全体の主旨と無関係というわけではないが、あの段階で予断を持たせるのは、マイナスの効果の方が勝ると思ったからだ。

 さて、この2本の引用元の選択には、科学に対して愛憎半ばする感情と東洋思想への傾倒という、当時のリベラルな人々が共有した精神をよく代表している。第24回の内容を憶えていれば、たとえ当てられずとも予想外とは言えないはずだと思う。

 中間テストに回答を寄せてくれた数少ない奇特な人たちの中で、「ダライ・ラマ」と回答した人が複数いた。「方向性さえ合っていれば正解とする」と予め言っておいたのはこの回答を予想してのことであり、私はこれを正解に数えたいと思う。

 ダライ・ラマが欧米で有名になったのはリリー博士より後のことだが、少し時代がずれていたら、ここにウパニシャッドの代わりにダライ・ラマ14世の言葉が入っていても、まったく不思議はなかっただろう。

dalai_lama

 確か2008年頃だったか、シーシェパードの公式ホームページに行くと、サイドバーにダライラマの写真が貼ってあった。

 現在は見られないが、当時のスクリーンショットを保存したものがあったので貼っておこう。

 知っての通り――知らなければ見ての通り――ダライ・ラマ14世は、宗教的・政治的にどうかはともかく、個人的・外見的には典型的なモンゴロイドのおっさんである。

 シーシェパードのような反捕鯨運動が、一部の人々の言うように、キリスト教白人至上主義の陰謀であるのならば、黄色人種の仏教指導者がトップページでアピールされるのはなぜだろう。

 おそらく、捕鯨反対の日本人は、これを単にシーシェパードやあるいは一般的に反捕鯨運動は人種差別などではない証拠と見なすだろうし、反反捕鯨派は「日本差別を人種差別と言わせないための偽装だ」とかなんとか苦しい言い訳をするであろうと思う。

 もちろんこの場合、どちらかと言えば、圧倒的に前者が正しい。何度も言っているが、シーシェパードやその支持者は、伝統的な意味の人種差別主義者ではない。むしろ、そのような人種差別には最も批判的な層に属する人々だ。

 話がこれで終わりだったら、どんなに良かっただろう。だが、私はこれから、残念ながらそうではないという話をしなければならない。一本目の糸となるキーワードは『オリエンタリズム』だ。

  1. ジェームズ・ヒルトン『失われた地平線』(1933)
  2. ロバート・A・ハインライン『異星の客』(1961)
  3. アーサー・C・クラーク『海底牧場』(1957)

 3本の作品を通して、リベラルな欧米人のオリエンタリズムの対象が、アジア(東洋人)から宇宙(火星人)へ追いやられ海(クジラ)へ戻ってくる変遷、人種差別・宗教差別意識の今昔、鯨肉のカニバリズム感と高知能説の関係、等々を描こう。

第39回】 【目次】 【第41回

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2015 6/6

第38回】 【目次】 【第40回

 大きな鍵*1を逆向きに使うことで、鏡のように「普通」の日本人の態度もよく理解することができる。一本の柱から離れて次の段階に進む前に、一度自分たちを振り返っておこう。

鏡その1

 以下は、このシリーズ開始以前に、ネットのどこか*2で見かけた会話である。記憶からの再現なので一字一句正確ではないが、概ねこのようなものであった。

A「なあ、これはもちろん仮定の話だけどさ、もし本当の本当に、奴らの言うとおり、クジラやイルカが人間並みの知能を持っていることが判明したらどうなると思う?」
B「さあ? たぶん日本がすぐに捕鯨やめて、代わりに白人どもが血相変えて絶滅させようとすんじゃねーの?」

 「そうだそうだ!」と思うだろうか? それとも「レイシストきめえ!」と思うだろうか?

 私の意見では、このB氏は、目先の恐怖を紛らわすため、特に深い考えもなく、憎悪に任せて適当に威勢のいいことを言ってみただけであろうと思う。

 しかし、それでも彼は、おそらく自分でも気づかないまま、なまじ訳知り顔で冷静ぶっている人々もしばしば見落としている重要な真実の一端に、手を掛けている。

 つまり、人間より賢く偉い動物がいる――それも眼に見えぬ世界の霊的存在としてではなく、地上に肉体を持って――などというのは、本来*3西欧・キリスト教文化よりも、むしろ日本・東洋文化*4の方にこそ、ずっと似つかわしい発想だということだ。

 意外かな? そうでもないと思うのだが。「奴ら」*5一般にキリスト教が嫌いで、東洋的・オリエンタルな思想が、西洋のそれより優れていると、近代以降初めて本気で考えた人々なのだ。本当なら日本人の方が進んで信じたいような思想であるのは、むしろ当然ではないか。

鏡その2

 このニュースを覚えている人はいるだろうか。ちょうどシーシェパードが初めて捕鯨船に乗り込む事件を起こした翌年だったので、それなりにネットで話題になった。

 捕鯨賛成派というか反反捕鯨派の側は、

  • 「そら見ろ! 奴らは日本非難に利用できるときは保護しろなんて言うが、自分が見て不愉快だとなりゃカンガルーと同じであっさり殺しちまうんだ! クジラなんて人種差別の口実にすぎないことの何よりの証拠だ!」

 とかいうようなことを言った。

 無論、この意見は間違っている。*6しかし、ただ単に間違っているだけで、何ら興味深い意見とは言えない。むしろ興味深いのは、これに対する捕鯨反対派の側の意見だった。彼らは、

  • 「安楽死なんて捕鯨問題と何の関係もねえだろこのバーカバーカ」

 ぐらいの(字義通りには概ね正しい)ことはもちろん言ったが、総じてあまり元気がなく、どちらかといえば、こんなことはしてほしくなかったと思っているように見えた。*7

 少なくとも、

  • 「オーストラリア人グッジョブ! これで自分も勇気百倍で捕鯨賛成派を説得できるよ! ありがとう!」

 というような感想を持った日本人は、ひとりもいないようだった。

 しかし、この状況はどう考えても何か変ではなかろうか。

 なぜオーストラリアの当局は、ただでさえ日本では少数派である同志たちに元気を無くさせるような処置を、わざわざ取ったのだ? 日豪の防衛協力を妨げるために、中共の工作員がオーストラリア当局に潜り込んで、両国の関係をさらに悪化させるべく暗躍でもしているのかね?

 そうではないというのなら、誰か(ひとりだけとは限らない)が何か(ひとつだけとは限らない)深刻な誤解をしているはずだ。

 この誤解は、日本とオーストラリアとか、捕鯨賛成派と反対派とかいう対立構図に捕らわれてる限り決して解けない。

 必要な視点は、やはり宗教だ。この状況の中にある一番本質的な断絶は、アボリジニの歌と安楽死の間にあるということに気づけるかがカギだ。

 長さの関係でここであまり深い議論はできないが、西洋文明における動物の安楽死は、今でもキリスト教的な論理に支えられている。*8

 生命(生死)よりも(苦痛の)意識(≒魂*9)を重視する傾向*10、動物は神からの賜り物だから人間が正しく管理しなければならないという”stewardship“(直訳すると「執事魂」*11)の精神、いずれも強くキリスト教の影響下にある。

 つまりアボリジニの歌を聴かせてから薬殺安楽死という、まさに木に竹を接いだような対応は、日本や捕鯨と一切関係なく――多くの反捕鯨日本人の主張通り実際直接には関係がない――それ自体がすでに大きなねじれを含んだものなのだ。

 むしろ、このような問題では、シーシェパードのような動物愛護団体*12は、ザトウクジラの安楽死にも、コアラやカンガルーの間引きにも反対する側であることが多く、日本人の反反捕鯨論者と同じ側に立って、同じ相手を非難していることが多いのだ。

鏡その3

 今回の本筋からは若干外れるけれども、第38回の続きでクレアさんの話も片付けておこう。

 第12回で取り上げた『クジラの歌が聞こえる』のクレアが病院で目覚めて以降の結末部分を換骨奪胎して、日本人好みに書き換えてください。一字一句書き換えなくても「大体こんな感じ」程度でよいです。

 この中間テストの第9問は、正解があるタイプの問題ではないが、私だったらこうするだろうという答えはある。私なら、変えるのは一箇所だけでいい。

 もう一度、クレアは本当におこったことを話したいという気持ちにおそわれた。ところが、まったく急に、そんな必要などないということに気づいた。
 真実を知っているだけでいいではないか。自分が見たり、やったりしたこと、すべてについて、自分自身の心の中で確信していさえすればいいのだ。

 となっているところで両親とは適当に話を合わさせ、最後の一文は

 クレアは心の中でつぶやいた。「でも、私は本当に南極海に行ってクジラを助けたんだからねっ!」

 みたいな感じにするだろう。

 一見、ほんの些細なニュアンスの差だけであり、物語全体は何も変わったようには見えない。仮にこっそり差し替えた本を読まされても、ほとんどの人は気づきもしないだろう。

 しかし、生のクレアさんを流石に受け入れられない「イルカ・クジラの大ファンで水族館のイルカショーに通いつめ、もちろん捕鯨には大反対の若い日本人夫婦」*13に取っては、これだけの違いで受け入れる余地が大幅に広がると、私は考える。

 このほんの些細なニュアンスの違いが、感じ方の大きな変化をもたらすのはなぜかというと、ここがまさにキリスト教(というより一神教的宗教文化)と日本文化(というより非一神教的宗教文化)の差に関するキーポイントだからだ。

 キリスト教の一神教文化では、あらゆる善・あらゆる正義が、GOD――全宇宙の創造主であり最後の審判の主宰者でありキリストや聖霊とひとつである全知全能の父なる神――にぶら下がっている。

 もし、GODに繋がっていない神秘があったとすれば、どんなに神秘的であっても、いや、あればあるほど、人々を正しい神から遠ざける、邪悪な異教の力・悪魔の力だ。善か悪か二つに一つ、どちらでもないということはありえない。

 ここでクレアがザトウクジラに対して感じている神秘は、もちろん悪いものではなく善いものである*14ので、その先には全知全能の神がいる。作者本人は意識していないだろうし、明示的に聞かれればむしろ否定するだろうが、必然的にそうなるのである。

 だから、この場面で両親に対して適当に妥協したりするのは、神に背く罪深い行為ということになる。そんな面従腹背の態度では、今はおとなしくしていても、いつ気が変わって寝首を掻きに来るかわかったものではない。そんな子供は信用ならない・反社会的な・悪い子である。

 両親なんて、人の短い一生の間のかりそめの関係に過ぎない。永遠の神に忠実である方がずっと大事だ。伝統宗教ではそんなに珍しい考えではない。第17回でも言及したことだし、日本人でも、よっぽど視野の狭い人でなければ、納得はせずとも理解はできるはずだと思う。

 ところが、キリスト教というより一神教的文化がない日本の通常の感覚では、これは逆になる。たとえ捕鯨反対が100%正しいと信じていたとしても、それはGODに繋がった究極の善とは関係がない。自分の善に固執して両親を無視する子供は、信用ならない・反社会的な・悪い子である。

 文化の違いでお互いを悪と見なしてしまうという、教科書に載りそうな典型的な状況だ。この話は、むしろ「無神論者がどうして道徳的であり得るのか」などと言い出す伝統的宗教保守派*15の感覚を理解する上で役に立つだろう。

鏡その4

 中間テストで、

 いわゆる白人国家でも、いわゆるキリスト教国でもない国の中で、最もガイア教が盛んな国はどこでしょう? 検索その他調べ物は自由です。

 という問題を出した。調べ物は自由と書いたが、本当は何も見ないで即座に答えを出してほしいところだ。

 ここまで来たらもうわかるね。おおむね豊かで環境問題や動物愛護に気を使う余裕があり、西側・リベラル・左派的で、近代・西洋化されていると同時にオリエンタル・東洋趣味でもあるという、ねじれた精神状態にある国「日本」だ。

 第34回で、リリー博士の意見が誰かさんたちにそっくりだと言ったな。あれはもちろん嘘ではない。文字通りにはまったく正しい。だが、本当の因果関係は逆だ。リリー博士が誰かさんたちに似ているのではない。誰かさんたちがリリー博士に似ているのだ。

 地球最先端を行くアメリカで思想を先導した教養ある天才科学者たちの認識が、半世紀かけて極東の中学二年生ですら弁えている一般常識になったのだ。

 今日、誰かさんたちが「欧米人」に対する批判になると思ってコピペしているような文章は、まさにガイア教を作ったのと同じ人達によって最初に書かれたものなのだ。

 いますぐ信じろとは言わない。ここで「はいそうですか」と納得するような単純な読者であってほしくない。このあたりの機微をもっとよく理解してもらうために、またしても脳内タイムマシンの旅を再開しよう。

 しかし、以前も強調した*16ようにここは既に現代だ。一体どこへ行こうというのか? もちろん未来へだ。SF小説じみていて荒唐無稽な世界から、本物のSF小説の世界へお連れしよう。現在と未来・現実と空想の狭間にある、さらなる驚異と恐怖の世界を味わっていただきたい。

*1第36回
*2:おそらく2ちゃんねる。
*3:ここでは単に「現在のそうではない期間よりもずっと長く、過去にそうであった」という程度の意味で言っている。そちらの方が正しいとか、これからもそうあるべきだとは言っていない。
*4:このくくり方が乱暴であることは重々承知であり、そのこと自体も後に重要なテーマとして取り上げる。
*5:私がガイア教徒と呼ぶ層とほぼ同じ人達だと思われる。
*6:どう間違っているかも、ここまで読んできた読者にはもうわかると思う。
*7:どうしても主観の問題になるが、私の偏見とは言えないと思われる。いま久しぶりにググってみても、捕鯨反対の立場からはっきりそう表明している人が複数確認できる。
*8:動物の安楽死それ自体は、文化と無関係に、大昔からあっただろう。たとえばマンモスに踏まれて助からない猟犬を安楽死させる、とかいうようなことは、クロマニヨン人だってしていただろう。
*9:伝統的キリスト教では動物に魂はないとされてきた、という話とはまた別。
*10:ずっと後になるが、これは捕鯨が「残酷」か否かを巡るシリアスな議論でも重要なポイントになっていたりする。
*11:ふざけて見えかねない字面だが「本来自分の所有物でないものを預かり忠実に管理する」というニュアンスは正確に表現されていると思う。
*12:シーシェパードが典型的な動物愛護団体であるかのような印象を与えたくはないが、今の文脈では不適当とは思わない。
*13第13回
*14:ビクター・ケラハーがザトウクジラを邪悪なものと描いていると思う者はひとりもおるまい。
*15:繰り返しになるがいわゆるガイア教の支持層とは重ならない。
*16第24回

第38回】 【目次】 【第40回

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2012 10/23

クジラの歌がきこえる (ときめき文学館)

第37回】 【目次】 【第39回

 さあ、

  • ユリカさんとビクター・ケラハーを分けているのは何という文化のどんな違いか?

 という第13回の問い*1に答えられる時がついに来た。

  • 宗教文化が*2一神教的か否かの違いだ。

 第2回の段階では「ひどいこじつけだな」ぐらいにしか思わず、第12回でも信念がぐらついて不安を感じた程度の人でも、ここまで来たら、もうこの回答を拒否することは難しかろう。

 野崎友璃香とビクター・ケラハーそれぞれの脳の奥底に陣取っているのは、それぞれ何千年も独自の進化を遂げてきた、まったく別のミーム複合体だ。表面的には似通って見えても、それは最近の接触によって生じた薄皮一枚の類似に過ぎず、中身はまったく違う「生き物」なのだ。

  • どう考えてもかなりアブないトンデモ本が「微笑ましすぎて腹筋痛い」ぐらいで済むのに、普通の童話に「血も凍る」のはなぜか?

 単に捕鯨反対に対する熱心さ・強硬さが怖いのではない。それならユリカさんの方が怖いはずだ。熱心をどう定義・評価するかは難しいところだが、少なくともユリカさん本人は、自分が実在もしない誰かよりも捕鯨反対に熱心でないと言われたら心外だろう。

 単にトンデモだから・現実と乖離しているから怖いのでもない。だったらやはりユリカさんの方が怖いはずだ。クレアさんの体験はぎりぎり夢や記憶のあやで説明可能な範囲に収まっているが、ユリカさんの方はそうはいかないだろう。

 単なる人種差別・排外主義・性差別的感情のせいでもない。私が偽って『イルカのアヌーからの伝言』をオーストラリア人男性の、『クジラの歌が聞こえる』を日本人女性の著作として紹介していたら、後者が笑い飛ばされ、前者が「血も凍る」と評されただろうか? ありそうもないことだ。

 ここでの本当の問題は捕鯨でもクジラでもない。科学でもトンデモでもない。資源でも利権でもない。人種でも国家でもない。宗教だ。

 この枠組みで見ることさえできれば、話はそんなに難しくない。なぜもくそもない。強固な一神教的信仰がその「異教徒」から見て「血も凍る」ようなものである――少なくともありうる――のは、まったく当たり前のことではないか。

 比喩的に言えば、読者を本当に恐れさせたのはクレアさんではなく、彼女の頭の中にいるプラトンでありアウグスティヌスなのだ。

 クジララブラブな一方で、アザラシをただ食べられるのを待っている肉塊のように見なしてはばからず、シャチの鼻先に乗ってルンルンする一方で捕鯨従事者を

クレアは、こんなに感情のない、あたたかみのない目を見たことはなかった。*3

 と表現してはばからないクレアさんがいる。

 彼女は、標準的な現代日本人の目には、自分が好きなものには甘いくせに、自分が好きでないものには情け容赦がないだけの、単なる気まぐれで冷酷な利己主義者のように映る。

 いや、映るというより、ある価値体系に当てはめれば確かにそうなのだ。現代の価値観に当てはめれば、動物裁判が単なる集団狂気で動物虐待であることが、否定できないしする必要もないのと同じように、それは否定できないしする必要もない。

 しかしまた中世のキリスト教的世界観では動物裁判にもちゃんとした論理があるのと同じように、クレアさんの態度も、別の価値体系に当てはめて見れば、立派に筋が通る。

 アザラシより知能が高い、すなわち偉い人間やシャチが、アザラシをただの動く肉塊のように見なし、殺し・食らうことは、牛が草を食うのと同じく全く当然の・正当な行いである。

 逆に、サメや捕鯨従事者が自分より知能の高い、すなわち偉い存在を殺し・食らおうとするのは、神によって定められた正しい宇宙の秩序を破壊しようとする言語道断な犯罪である。

 だから彼女は利己主義者ではない。彼女はただ神の命令・自然の秩序に従っているだけであって、利己も何も、そもそも己の意見などまったく持っていないからだ。利己主義者と呼ぶべきなのは、むしろ自然の法律を無視して己の欲望を満たそうとするサメや捕鯨者の方だ。*4

 もちろん私は、現代でもブタの裁判をやるべきだと言っているのではないのと同じく、このような論理を認めろと言っているわけではない。例によって*5狂っているのは、特定の誰かというよりは我々全員の歴史感覚の方だと言っている。

 このような、今日真正面から主張されればとても弁護できないような自己正当化の論理は、何百年何千年とずっと当然のように通用してきたのであり、それがおかしいと感じる最近の社会の方が、むしろ歴史的に見れば「異常」なのだと言っている。

 今日時点で日本や西欧*6の先進国に生きている人間は、宗教、とりわけキリスト教に宗教的多元性を認める傾向がかなり発達した後の時代に生まれた*7ので、宗教「本来」の姿をすでに忘れてしまっているか、そもそも最初から知らない。

 昔を基準にするとずっと「ぬるく」なった後の宗教しか知らないにもかかわらず、それが当たり前で、宗教本来の姿だと錯覚している。

 これは、もし最初から明確に(伝統)宗教の話だったらどうなるかを考えてみれば、すぐにわかることだ。たとえばクレアさんがアフガニスタンにNGOとしてボランティアに行く童話が書かれたとしよう。その中で、アフガニスタン人が

クレアは、こんなに感情のない、あたたかみのない目を見たことはなかった。

 などと表現される事が――たとえそれが罪もない旅行者の喉を掻っ切る寸前のタリバン兵だったとしても――果たしてありうるだろうか。

 まず間違いなくビクター・ケラハー本人がそうは書かないだろうし、仮に書いたとしても、編集者か誰かが「いやいや先生、いくらなんでもこれはまずいっすよ。違う宗教の人を悪魔化しちゃってますよ。子供に読ませられませんって。」*8とかなんとか言って止めるだろう。

 彼らがそうする――少なくともそうするだろうと予想できる――のは、もちろん彼らがタリバンに好意的だからではない。*9現代社会が近代以降徐々に発達させてきた、宗教的多元性を認め(させ)る傾向が、すでに彼らに内面化され、それを強制しているからだ。

 ガイア教は、意図的および偶然に積み重ねられた疑似科学的トリックによって、近代以降に宗教に設けられた様々な制限を回避し、宗教の持つ強力な力を利用しながら、その宗教が課せられている強い制約を受けないという、良いとこ取りの奇跡を実現している。*10

 だから、タリバンに対してすら働く(であろう)その抑制が、太地の漁師や南氷洋の捕鯨者に対しては働かない。少なくともある側面では、ガイア教徒は(現代の)キリスト教徒よりずっと(中世の)キリスト教徒らしく、ガイア教は(現代の)キリスト教以上に(中世の)宗教的なのだ。

 そして、現代人が、いわば先祖返りした「生」の宗教であるガイア教に触れると、それが何かを理解できず、油断して取り込まれたり、逆に過剰に恐れたり・軽視し過ぎたりと、とにかくおかしな反応になってしまうのだ。

 これが、捕鯨・反捕鯨問題を単なる環境保護問題・海洋資源問題・動物愛護問題以上のものにしてしまっている全ての誤解に通底している、最も基本的な構図だ。

 ……さて、大きな鍵*11とその大体の使い方を学んで、後は読者自身が、多少の努力と時間を費やすことさえ厭わなければ、どんな場面に出会っても自分の力で解決できるところまで来たと思う。

 実は、第1回を書き始めた時点の構想では、ここで終わりにしようかとも思っていた。だがせっかく人気のあるコンテンツなので、他人にやらせるよりは自分でやった方が親切だろう。

 次回は、初めて中間テストの結果を使ったり、本当に現在――数年前レベル――の事例を扱ったりしつつ、逆に自分たちを振り返ってみよう。

*1:ななななんと5年弱越しの問いだ! 単に私がサボってただけだけどな!
*2:とりわけ人間や社会と自然や動物との関係の捉え方が。
*3第12回
*4:言うまでもないと思うが、この論理は、実在する反捕鯨運動家の態度を理解する上でもヒントになるだろう。
*5第31回
*6:これまでもそうだったし、今後もそうだが、このシリーズでは主に生物学的・人種的な話ではなく文化的・社会的な話をしている。だから「西欧」といった場合、いわゆるヨーロッパ以外に、北米やオーストラリア・ニュージーランド等が含まれる。逆に、たとえ見た目には典型的なヨーロッパ人だったとしても、生まれた時から他の文化圏で暮らしているような人間は含まない。
*7第17回
*8:オーストラリアの編集者がそんなしゃべり方なのかは知らんが。
*9:確認していないが、するまでもなくタリバンには最も批判的な層に属する人たちのはずだ。「反米」という文脈で同情的に見えるケースはおそらくありえても、決して支持しているわけではないだろう。
*10:その詳細については一部はすでに説明したし、これからも説明する。
*11第36回

第37回】 【目次】 【第39回

おまけ

 ううむ、5年の歳月の重み……。

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2012 7/15

存在の大いなる連鎖 (晶文全書)

第36回】 【目次】 【第38回

存在の巨大なる連鎖よ、神より始まり、
霊妙なる性質、人間的性質、天使、人間、
けだもの、鳥、魚、虫、目に見えぬもの、
目がねも及ばぬもの、無限より汝へ、
汝より無に至る。より秀れしものに我等が
迫る以上、劣れるものは我等にせまる。
さもなくば、創られし宇宙に空虚が生じ、
一段破れ、大いなる階段は崩れ落ちよう。
自然の鎖より輪を一つ打ち落とせば、
十分の一、千分の一の輪にかかわらず
鎖もこわれ落ちよう。

アレキサンダー・ポープ『人間論』)

 前回した「存在の大いなる連鎖」と呼ばれる観念、および「キリスト教」と「さらにその前提」を分けて考える話を、もう少し補強しよう。

 そのために使用するのは、そのものズバリのタイトルを持つ本、アーサー・O・ラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』。これが存在しなければこのシリーズが書かれることもなかったであろうほどに重要な本である。

 ただし、このシリーズで想定する範囲を超える部分が多いため、使用するのは序盤のほんの数ヶ所に留まる。それでも難しい・つまらないと思ったら、この回を丸ごと飛ばして第38回に進んでも構わない。

 次の部分はいきなり少し難しいが、非常に重要なのでぜひ取り組んでほしい。

 本質的に異なった哲学的観念または弁証法の動機の数は、本当に異種の冗談の数がそうだと言われている*1ように決定的に限られている。(中略)多くの体系の外見上の新しさは、その体系に加わる古い要素の応用や配列の新しさのみに由来する。

(中略)

 これらの要素は、人類の偉大な観念を呼ぶさいに我々が用いつけている名称とは必ずしも一致しない。神という観念の歴史を書こうと試みたものがあるし、そのような歴史が書かれるのは結構である。しかし神という観念は単位観念ではない。といっても私は単に、異なった人々が全く多様で相容れないような超人間的存在を指示するためにこの一つの名称を用いて来たというような陳腐な事を意味するのではない。私はまた、これらの信念のどの一つをとってもその背後に、それ自体よりも重要でないにしても、もっと根源的でもっと説明に役立つ或る一つの、またはいくつかのものを通例発見するだろうということを意味する。

 現代では遺伝子のたとえやミームという概念――ここで言われている「単位観念」はそれにかなり近いと思われる――を利用できるので、この本が書かれた時代より少し理解が容易かもしれない。

 たとえば、私はホモ・サピエンスの一個体で、そのゲノム全体は沢山の遺伝子が集まってできている。私のゲノムはその先祖の誰とも、すでに大きく異なっている。*2

 しかしゲノム中の特定の、たとえばヘモグロビンの遺伝子は、その先祖から塩基配列ひとつ変わらずに受け継がれている。ヘモグロビンの遺伝子は私の生存に絶対不可欠だが、だからといって私はあくまでホモ・サピエンスであってヘモグロビンではない。

 同様に、「キリスト教」とか「神」とかいうのは沢山のミームが集まってできたひとつの「生物」であって、「存在の大いなる連鎖」はキリスト教に不可欠なミームだが、キリスト教そのものではない。

 現代のキリスト教(社会)は、その「祖先」である中世のキリスト教(社会)とは、様々な面で異なっている。全体としてはもはや同一ではないし、時には似てすらいないように見える。しかし、その一部であるもっと限定された観念はそっくりそのままの形で受け継がれているのだ。

 観念の歴史の研究のもう一つの特徴は、(中略)少数の深淵な思想家や著名な作家の教義や意見の中にだけではなく人間の大きな集団の集合的思想の中にある個別の単位観念の表出に特に関心を持っているということである。(中略)つまり広く伝わり多くの人間の財産になるような観念に興味を持っている。(中略)すくなくとも学生のあるものは文学の作品としては今では死んでいる――または現在の美的、知的水準よりすればどうみても価値の乏しい――作品の著者を研究するよう要求されると、いやな気持がする。これらの学生は要求する、何故傑作だけを、またすくなくとも傑作と二流にせよ古典(中略)だけに限定しないのかと。(中略)しかし文学の歴史家がこれらの事にかかわるべきだと思うなら、二流の作家も現在傑作と見なされるものの著者と同じ重要性を持つであろうし、こういう見方によればもっと重要であるということになるかも知れない。パーマー教授は真実を手際よく述べている。「或る時代の傾向は、立派な天才作家にではなく劣った作家にはっきりと現われる。天才作家は時代を超える。しかしそれより劣った創造力を持ち、感受性があり反応する魂には、時代の理想が明瞭に記録される」

 今後このシリーズでは、科学者や活動家の文章だけでなく、多くの文学作品も見てもらうことになる。その中には時代を超える天才作家のものだけでなく時代を映す「劣った作家」のものも含まれる。どれがどちらといちいち明示はしないが、この箇所を常に念頭に置いて読んでほしい。

 観念の歴史は試行錯誤の歴史ではあるが、誤りでさえそういう誤りをする人間の独特の性質、欲求、才能、および限界について教えてくれる。(中略)それから現代の支配的思想が我々の間の或る人々は明断で矛盾がなく確かな根拠を持ち最終的であるように見なしがちであるが後代の人の目にはそのような性質を持っているとは思われないかも知れないことをこれらの誤りは思い出させてくれる。我々の先祖の混乱ですらも適切に記録されれば単にその混乱をはっきり示すだけではなく、異なってはいるが同様に大きな混乱から我々が完全に免れていることに対する有用な疑念を産み出す役に立つかも知れない。なぜなら我々は先人よりは多くの経験的知識を所有しているが、異なった、より優れた精神は所有していない。しかも哲学と科学をつくり出す――実際「事実」をも主としてつくり出す――のは事実への精神の働きかけなのだ。

 第16回と重複するところも多いが、このような心構えは再度強調するだけの価値があるだろう。

プラトンは、永遠ではなく、超感覚的ではなく、完全ではさらにない多くのものの存在は本質的に望ましいという決定的な断定を暗黙のうちに行ない、あの世的な絶対者の中に、善のイデアそのものの中にその絶対者が単独では存在出来ない根拠を見出す。自己充足している完全さという観念が大胆な論理的転換によって――はじめの意味を全然失わずに――自己を超越する豊饒さの観念に換えられたのであった。超時間的で非物質的な唯一者は、時間的で物質的で極度に多様で変化に富む宇宙のダイナミックな源であるのみならず論理的根拠となった。すべての善はそれ自身をまき散らす(中略)という命題は初めてここに形而上学の公理として姿を現わす。

 もちろんこの引用部分だけで意味するところを理解できるとは思っていない。興味が湧いた人には、是非この本自体を読んでほしい。

 私は例によって、このシリーズに関係するポイントのみを抜き出した超ダイジェスト版の説明をする。

  • 創造神が至高の善で永遠で完全で無限なら、何故わざわざ無常で不完全で有限で悪の存在するこの世などというものを創造したのか?

 という非常に厄介な問題が、神学には存在する。科学・世俗的な世界観に慣れきった21世紀人の我々にとっては寝言にしか聞こえない*3が、近代以前の人々にとっては真剣かつ重大な問題だった。*4

 もちろん、神のみがご存知で人間には知りえない*5とか、実は神などいない*6とか、実はこの世は実在しない*7とか、この世は邪悪の権化が創造した巨大な拷問装置だ*8とかいう答えもあるかもしれない。

 しかし、ナザレのイエスが生まれる何百年も前にプラトンら古代ギリシャの哲学者が整理し、スコラ哲学を通してキリスト教に引き継がれた答えは、

  • 完全な神とそれ以外の不完全な全てのものからなる状態は、神のみの状態よりも、何か本質的にさらにより完全で素晴らしいからだ。*9

 というものだ。この答えには、すぐに思いつく幾つかの利点がある。そして我々がすぐに思いつく――あからさまに後知恵とはいえ――ような利点は、もちろん中世や近代の人々も見逃しはしなかった。

 ひとつにはもちろん、元々の神学上の問題を解決してくれる。この世の不完全さ・人間の存在・悪の問題は、絶対の創造神を信じることの障害ではなく、むしろ神が宇宙が完全・至善であるために欠くべからざる積極的な要素となる。

 もうひとつには、現世の権力や身分の階層構造*10を積極的に肯定し、正当化してくれる。なんたって完全で全能な神が存在するならばそこから無まで欠けることのない連鎖が存在「しなければならない」のだ。

 神がいてその似姿たる人間がいれば、その中間の天使も必ず実在「しなければならない」し、高貴な人間がいて下等な獣がいるなら、その間には身分の低い平民・奴隷・動物並の劣等人種といったものも「いなければならない」のだ。

プラトンがこういう観念に到達した弁証法は多くの現代人の耳には説得力に乏しく本質的に言葉の上だけのものに思われるかも知れないし、その結論は矛盾に過ぎなく思われよう。しかしもし我々が、まさにこのような二重性を帯びた弁証法が古代においてよりも強力に中世および近代において多くの世代の思想を支配して来たという事実を無視するならば、西洋における爾後の観念の歴史の大きな重要な部分を理解しないことになろう。

 プラトンがなんだ。そんな話が一体何になる? という感想を持つ人はいると思う。気持ちはわかる。確かに実際にシー・シェパードの被害に苦しめられているような人々の救いにはあまりならないかもしれない。

 しかし、これらの知識は、すぐに具体的な助けにはならなくても、確実に恐怖を減らし、恐怖にかられての愚かな行為を減らし、長い目で見れば良い効果をもたらすと私は信じる。

 だってそうだろう? どれほど荒唐無稽な陰謀論でもやすやすと信じ込める強靭なアホさを持つ頭脳でも、食肉業界の資金援助でCIAがタイムマシンを秘密裏に発明し、鯨肉の需要を減らすために約2400年前の世界にプラトンを送り込んだのだ、と信じるのは、少々骨が折れるはずだ。

 次回は大幅に回数をさかのぼって、おそらくシリーズ最大級の恐怖をもたらした部分と向きあってみよう。大きな鍵(暗唱できますね?)を手に入れた今は、あの扉も開けられるはずだ。

*1:本筋とは関係ないので追及しないが、本質的に異なるジョークの数が決定的に限られたものであるかどうかについては疑問がある。私は間違いだと思っている。
*2:もっとも一卵性双生児を例外とすれば、過去・未来の誰と比べても、ゲノム全体が一致する確率はゼロだが。
*3:実はそうとばかりも言えない。特に悪の問題は、現代でも信仰を持つ人には重大な問題だ。参考:『なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記』『破綻した神キリスト』
*4:参考:第17回
*5:まあ確かによくあるやり方だ。
*6:それはもはや無神論だ。
*7:だったらキリストの受肉・刑死・復活も実在しないの? 異端者なの? 死ぬの?
*8:創造神が善であることは、現在そう信じる宗教の系列が圧倒的なシェアを持っているため、自明のように思えるが、実際これに近い考えの宗教はある。
*9:本筋には関係ないが、このプラトンの議論は、数学の集合論――可算(無限)集合の冪集合は非可算であり、元の無限集合よりも濃度が高い――を連想させるものがある。
*10ヒエラルキーとは元々カトリックの聖職者の階級制度を意味する言葉だ。

第36回】 【目次】 【第38回

おまけ

by 木戸孝紀 tags:

2011 12/18

(今日の一コマ)

第35回】 【目次】 【第37回

 ある現象を理解するということは、何が変化して何が不変であるかを、理解することだと言える。

 何も変化がないのであれば、そもそも考えるべきことが存在しないであろうし、何もかもが変化してしまうなら、やはり考えるべきことが存在しないであろう。

 たとえば物理学であれば、変化しない保存量が何かがわかれば、その保存則を用いて現象を理解したり予測したりすることができる。

 社会や歴史に関しても、もちろん物理学ほど単純にはいかないが、同じようなアプローチはできる。すでに第30回で一度その実例を見せた。時代とともに神話の内容が変わっても、変わらないものは人生と社会に意味を求める人間の心だった。

 さて、私たちは、第15回から続けていた時間旅行で、3冊の本を教科書に3つの時代を見てきた。

  1. キリスト教が全ての中世
  2. 科学が勃興した近代
  3. いわゆるポストモダンの現代

 そして今、この似たところなどひとつもないかのように見える3つの社会を貫き通している一本の柱を、指摘することができるようになったはずだ。それは、このシリーズの文脈に沿う形で思いっきり圧縮・要約するなら、以下のような考え方だ。

 宇宙のあらゆる存在には永久不変の「偉さ」の階層があり、ゼロから*1無限大(≒神)の数直線上にランクづけ可能なひとつの実体である知能(≒魂)によって位置する階層が決まり、階層の上下関係によって誰が誰を殺し・食らうのが当然であるか犯罪であるかが決まる。

 時間に余裕のある人は――捕鯨問題ばかりのエントリ35回分も読んできて忙しいとか言わさんぞ――これを何十回か読んで、いつでも暗唱できるようにしてほしい。

 私は、これこそ鍵だと信じている。多くの人間――とりわけ日本人――に捕鯨・反捕鯨問題を理解しがたいものにしている高い壁を通り抜けるための鍵だ。

 この鍵さえ持っていれば、多少の努力と時間を費やすことを厭わない人は誰でも、少なくとも「訳が判らない。」*2と言わなくて済むようになると信じている。

(暗唱できたら次に進んで下さい。)

 はい、暗唱できるようになったかな。おめでとう。あなたは鍵を手に入れた。では早速、鍵を手に入れたらすることをしよう。これまでに見つけた、開けられなかった扉を開けて回ってみよう。

扉その1

  • なぜリリー博士はイルカを食べていたシャチを「例外」と記述したか?*3

 これは「普通」に考えると「胃の内容を調べたところ、ヌーを食べていたライオンがいた」と記すようなもので、頭がおかしいとしか思えない。

 しかし、鍵を持っている私たちには、もう特に不思議なことではない。

 シャチとイルカは(彼にとっては)人間以上に高度な知能を持つ同じ鯨類同士である。同じ偉さの階層に属する彼らが喰い合うのは、ちょうど人間同士が喰い合う食人行為が犯罪であるのと同様に、自然に対する犯罪行為ある。

 これは鯨類が善きものであるという彼の思想と相容れない。したがって、これはあくまで例外でなければならない。たとえば人間の飼い方が悪かったからとか、人間の漁業のせいで魚が枯渇したからとか、なんらかの例外的影響で発生したもので、鯨類の自然な生態であることはありえない。

 簡単とは言わないが、そんなに難しくもあるまい。

 ついでに関連問題(?)をいくつか片付けてしまおう。

扉その2

  • 近代の学者チェーザレ・ロンブローゾは、ある植物が虫を食べる行為を「犯罪に等しい行為」だとまで述べている。*4なぜか?

 もちろん、必ずしも自明ではない*5が直感的にも理解できる生態的制約によって、植物が動物を食べることは、動物が植物を食べることより珍しい。それは間違いない。

 だから「犬が人を噛んでもニュースにならないが人が犬を噛めばニュースになる」的な原理で、食虫植物に特別な印象を受けたとしても不思議ではない。

 しかし、現代の「普通」の人間は、これを犯罪だとは絶対に言うまい。不思議だと思っただろう、鍵を持ってなければ。

 私は19世紀イタリアの法律については何も知らないが、食虫植物を処罰する法律があった可能性は無視していいだろう。この「等しい」は厳密にイコールだという意味ではない。犯罪にたとえられるべき何かだという意味だ。

 では、犯罪ではないが犯罪にたとえられるべき何かとは? 人間の法律ではなく神の定めた「自然の法律」を破る犯罪だということだ。動物は植物より知能が高い、すなわち神に近い*6から、動物が植物を食べるのは当然だが、植物が動物を食べるのは「犯罪」なのだ。

 簡単だろ。はい次。

扉その3

  • 「人間の子供を殺した豚の親子が裁判に掛けられ、母豚が絞首刑に処せられる」中世の動物裁判*7は一体なんだったのか?

 集団狂気? 動物虐待? もちろん現代の価値観に当てはめればそうだ。しかし、当時の人間にも言い分はあるだろう。彼らの考え方はこうだ。

 魂を持たぬ(≒知能の低い)豚は神によってアダムに奉仕するために創造されたものだ。だから「偉さ」の階層は当然アダムの子孫である人間が上で豚が下だ。だから豚が人間を殺して食うことは神に対する反逆で大罪だ。だから豚は裁判にかけられ、死刑に処せられなければならない。

 楽勝だな。

  • 人間の赤ん坊を食い殺したブタを裁判にかけた中世の神父
  • 食虫植物の行いを犯罪に等しいと述べた近代の科学者
  • シャチがイルカを食べていたことを異常な例外として記述した現代の科学者

 彼らはそれぞれ過去の人間の思想を否定し、軽蔑すらしていたに違いないのだが、一皮むけば、それぞれ過去の人間が従っていたのと同一の、より基本的なルールに忠実に従っている。代入する変数は時代とともに変わっても、使っている式はひとつだ。

扉その4

  • 「イルカには人間並みの知能があるが、その知能は海生動物ならではの独特な形をとっている」*8とはどういう意味か?

 人間、ピアノ線を張り巡らされた真っ暗な部屋を巧みに飛翔するコウモリ、何百ものドングリを埋めた場所を冬の間じゅう憶えているリス、誰に教わるでもなしに大規模な社会で農業や奴隷狩り戦争を行うアリ、誰が一番「頭が良い」か?

 そんなこと誰がどうやって決められる? 決められるわけがない。前足・胸ビレ・手・翼のうちどれが一番「肢が良い」か? という問いが無意味であるのと同じだ。神経系に備わった知能もそれぞれの生物の生態に応じて進化で生じた特徴のひとつに過ぎない。

 このような、21世紀人の我々がほとんど無意識的に採用している「非人間中心主義的」思想の下では、アントニエッタ・L・リリーの台詞は、正しいとか間違っているとかいう以前に*9意味不明である。*10

 人間は海生動物ではない。「海生動物ならではの独特な形をとっている」なら「人間並み」ではありえないし、「人間並み」なら「海生動物ならではの独特な形をとっている」ことはありえない。

 だが、鍵を持ったものにはその意味は明白だ。ほとんどそのまんまだな。知能はゼロから無限大の数直線上にランクづけ可能なひとつの実体だ。だからイルカと人間がいれば、互いの知能は上か、下か、同等か、しかありえない。数学的に。

 リリー博士とその仲間たち、彼らと同時代に生きた大勢のリベラルな西欧人は、動物差別的・性差別的で、人種差別や先住民のジェノサイドに利用されたキリスト教が大嫌いだった。軽蔑していた。憎んですらいた。それは決して嘘ではない。

 「男児の包皮に異常な関心を持つ老年白人男性のようなものが土をコネコネして息をプーッとやって人間を創りました」なんて、もはや全然信じていないし、むしろ、どちらかと言えば、信じているような人たちを、金満権力者に騙される貧乏で無学な宗教ウヨクども*11と小馬鹿にしている側の人間だ。

 だがしかし、さらにそのキリスト教の前提となっていた幾つかのドグマ、それがひとつの立場だとか思想だとは夢にも思わないほど基本的な考え方は捨てなかった。

 彼らが無能だったとか嘘つきだったとか悪党だったとかいうわけではない。時代の限界だったのだ。神ならぬ人間には、できることとできないことがあり、持っていると知らない考えを捨てることは、できないことのひとつだということだ。

 次回は、ある有名な本の力を借りて「キリスト教」と「さらにその前提」を分けて考える話をもう少し補強しよう。

*1:負の知能というのは意味不明である――ジョークでそう表現したくなるような人間はいるにしても――ので。
*2第1回
*3第34回
*4第23回
*5:本当に自明だったら、そもそもこの世に食虫植物は存在していないだろう。
*6:もちろん神は動物でもないが植物ではないのはより確実だ。
*7第16回
*8第26回
*9:もちろん、彼女自身が考えていたような意味でも間違っているが、たびたび強調しているように、それはただの後知恵だ。
*10:我々がほとんど無意識的に非人間中心主義的な思想を操れるのは部分的には彼らのおかげなのだと思うと、これまた皮肉な話だが。
*11:もちろんこれは説明を早くするための戯画化であって、一般に上品な彼らはそんな露骨な言い方はしないが。

第35回】 【目次】 【第37回

おまけ

 「ローンブローゾー」

by 木戸孝紀 tags:

2011 9/25

イルカと話す日

第34回】 【目次】 【第36回

 さて長かった*1『イルカと話す日』の本文も、ついに今回が最後である。名残を惜しむとともに、抜かりなくここまでのまとめと今後の展望についての準備を始めよう。

第一〇章 生態系の一員としての自覚を持った科学的観察者

 これまで科学者といえば、実験を行ない、こうした実験から自分なりの推論を引き出し、学術論文を発表する者のことであった。(中略)科学者は、学術誌や学会で研究成果を発表するものと考えられてきた。
 こうした方法による科学上の通説の形成過程は、テレビやラジオが登場して公衆と即座にコミュニケーションが図れるようになったことで、いくぶん変化しつつある。(中略)それとはうらはらに、科学者たちの考え方は、いままで変化がみられなかった。すなわち、科学者の義務は、まず同僚の科学者に研究成果を報告することだった。こうしてその研究は質を判断され、他の科学と統合されて、ようやくマスメディアに発表されるのである。
 この手続きを踏まずに、仲間や同僚の科学者の意見を仰ぐことなく研究を発表する科学者は、誰であれ科学者の社会から爪弾きの目にあってきた。(中略)ある科学者の著わした本が、専門の学者の審査を受けずに、定評のある科学専門の出版社からではなく、一般向けの本を手がける出版社から出版されたとする。しかも編集にあたったのは科学専門の編集者ではなかったとする。その場合、こうした研究は黙殺されるのがつねだった。
 ところが一般の読者、つまり科学者でない人間向きに書かれたこうした書籍は、科学者ではない読者のあいだで強い影響力をふるってきた。つまり、通常の科学者仲間のあいだでは伝わらない、数多くの学説が通説として評価を受けるようになり、青少年の教育に欠かせないものとなってきたのである。
 この経路で発表されてきた学説は、多くの人びとから強力な支持を得るようになった。(中略)ついで、こうした学説は、大衆の側から科学者の集団へと逆に伝えられたが、たいていは結束を固めた科学者から頑強に拒絶された。

(中略)

 新しい世代の若い科学者の中には、社会的な参加意識を持つ者もあらわれてきた。(中略)われわれの子供たちは、テレビを観たり、ラジオを聞いたり、大集会に参加したりして成長するが、これらはいずれも十九世紀には存在しなかったものである。より多くの情報が、より多くの方面から迅速に伝達され、若い科学者を育成して、彼らを二十世紀の参加意識を持つ観察者へと育て上げていくことだろう。

  • 「自分の画期的な発見・理論を、頭の古い学者・学会が結託して黙殺しているのだ!」

 というのも、またしてもトンデモ学者の発言テンプレに当てはまりすぎて怖いぐらいだ。

 メディアを通して直接大衆に語りかけることに希望を見いだしているところがとても興味深い。大局的に見て、彼の狙いは大成功を収めたと言わざるをえない。このシリーズは今後かなりの部分を、その成功の結果を追いかけることに費やすことになるだろう。

第一一章 クジラ類を保護する新しい法律の提案――さしあたっての戦略

 神経解剖学の研究の進展により、クジラ類の脳の大きさがさまざまであり、類人猿程度のものから、人問並みの大きさのもの、さらに人間の脳の六倍もの大きさのものまであることがわかった。生物学的研究が進んだ結果、クジラ類が人間の言語に似た、複雑な音声を水中で発してコミュニケーションを交わすことがわかった。人間並みの脳を持つクジラ類の場合、人間とコミュニケーションを取ろうと努力することが確かめられている。

 (中略)

 こうした事実と観察から、次のような法律を作ってはどうかと思う。

  1. およそクジラ類を、人間の所有物と考えたり、産業資源や家畜の一種であると見なしてはならない。
  2. クジラ類には、個々の人間に与えられているのと同じ法的権利を与えるべきである。
  3. 個人または団体に権利を付与して、人間から虐待されているクジラ類のために訴訟を起こしたり、クジラ類の代理人として法廷に立てるようにするべきである。
  4. 科学的研究を振興させ、資金を援助してクジラ類とのコミュニケーション方法を確立すぺきである。
  5. こうしたコミュニケーションが確立されたあかつきには、クジラ類と人間双方の合意にもとづいて、両者のあいだのコミュニケーション活用を保護する法律案を作成し、アメリカ合衆国の議会に提出すべきである。
  6. したがってクジラ類と人類のあいだで結ぶ新しい法律や協定、条約を、クジラ類と協力して研究すべきである。

 いまこそ認識をあらためて、これまでの人類の地球上での生き方が、自己中心的であり、孤立した生き方であったことを認めなければならない。人間がこうした生き方をしてきたのは、自分と同等の大きさの脳を持つ海中の生物とのコミュニケーションに失敗したからである。クジラ類は人間の現実とは異質の現実の中に生きている。人間は独自の言語と社会的能力を備え、一五〇〇万年間かけて淘汰を免れてきた経験で規定されるクジラ類の現実を尊重し、研究するべきであり、その研究結果をまとめて人間の法律としなければならない。

 以上に述べた提案がSF小説じみていて荒唐無稽だと決めつけて、真剣に考えようとしない人がともいるにちがいない。そうした見解を持つ人びとにたいしてはこう答えよう。あなたたちの考え方は、ただ単に脳と地球の生態系に関する無知をさらけ出しているだけなのだと。荒唐無稽だと決めつけてしまえば、この壮大なプログラムから安閑と身を引いていられる。しかし人間は長いあいだ、固い信念を抱いて、頑なな考えにとらわれたために、数々の文明を衰亡させてきたのである。この地上に生きる人間以外の生物の中でも、非常に複雑で古い歴史と倫理を持つ生物とのコミュニケーションの可能性に目を見開くためには、過去から受け継いできた、こうした盲目的な信念を振り捨てることが必要である。

 かっこよく決めてもらったところで、本文からの引用は最後である。

 シリーズの前後に対して有益な部分を、長くなりすぎないように選ぶという制約がある以上仕方がないが、私はこの8回に渡る引用でも、リリー博士の魅力を十分に表現できてはいないと思う。

 この現代の魔導書と呼ぶにふさわしい本の魅力を十分に味わうには、ぜひ自分で手にとってもらいたいと思う。*2

 私の意見では、彼の悲劇は生まれてくる時代を間違えたことだ。彼は、世が世ならイルカをトーテムとして崇める部族の大酋長として何千年も語り継がれる人物になっていたかもしれない、イエスや釈尊やムハンマドと並んで世界の大宗教の祖となっていたかもしれない、真の天才だった。

 実のところ今後このシリーズに、彼以上に独創的な人物も・彼以上のカリスマ性を持つ人物も・彼以上に善意の塊のような人物も出てこない。彼との直接対話がここで終わってしまうのは正直とても残念だ。

 だが、あまり寂しがることはない。ある意味では、このシリーズは今後も最後までずっと彼との対話だとも言えるのだから。

 ここ数年の反捕鯨問題に多少なりとも興味があって報道を追っている人にはわかる思う。宇宙文明に還ったはずのリリー博士の霊は今もなお、シー・シェパードの船長ザ・コーヴの監督彼の元で働いていた飼育係、様々な人々の口を借りて、我々に語りかけているのだから。

 最後なのでもう一度強調するが、ここで「頑なな考えにとらわれ」「脳と地球の生態系に関する無知をさらけ出しているだけ」なのは誰かということを問題にするのはやめよう。それは不毛である。

 1960年代の学者や研究が、2010年代の基準を満たしていないからと言ってそれを非難するのは、織田信長の比叡山焼き討ちを「大気中への二酸化炭素排出に無頓着だった」と言って非難するのと本質的に大差のない、ただの時代錯誤である。

 批判すべき点は、しかもそれが有益であると思われる点は他にある。

 さて、約150年前のアメリカに住む(当時の基準で)リベラルな白人科学者たちは、社会や政治の悪影響を受けない客観的知識を追求した結果、

「黒人やインディアンは脳が小さく、類人猿に近い人間とは別種の生き物で、女性や子供に似ていて、白人に比べて痛みを感じない」

 という科学的事実を発見した。彼らは本当に事実を見ていたのだろうか? それとも、

「ネイティブ・アメリカンのジェノサイドや黒人奴隷制度に寄って立つ自分たちを正当化したい」

 という自分たちの願望を、「自然」という名の鏡に映して見ていただけだったのか? 今日時点では、もはや考えるまでもないことだ。

 一方、約50年前のアメリカに住む(現代の基準でも)リベラルな白人科学者たちは、生態系の一員として社会的な責任を果たそうと努力した結果、

「イルカやクジラは脳が大きく、人間以上の知性を持っていて、言語を話し、太古からの知恵を語り継いで、地球と調和して生きている」

 という科学的事実を発見した。彼らは本当に事実を見ていたのだろうか? それとも、

「先祖の土地を返せといって立ち上がる足も銃を取る手も持たず、バスの席をよこせといって犬をけしかけたりしなくてもよく、曾々祖父さんたちが滅ぼしてしまったインディアンの歌よりも何千倍も古くから歌い継がれてきた地球の叡智を教えてくれる、新しい都合のいい隣人がほしい」

 という自分たちの願望を、「自然」という名の鏡に映して見ていただけだったのか?

 厄介なことに今年は西暦2111年ではなく2011年なので「考えるまでもない」とはとてもいかない。考えるまでもないどころか、多くの人には考え始める材料も動機も与えられてはいないだろう。

 だが、正しい答え――と言って悪ければ100年後に考えるまでもなく選ばれる答え――は、もう明らかだと思う。

 私は博士を「感傷主義者、空想家、物欲しげな思想家であると非難」*3したい気持ちを否定できない。否定すべきでもないと思う。だからと言って、もちろん19世紀のルイ・アガシたちの態度に戻ることもできない。

 真に望ましい道は、おそらくその間のどこかにあるのだろう。それを探ることは博士の悲劇に報いることにもなると思う。

 次回からしばらくリリー博士から得た教訓をまとめて「存在の大いなる連鎖」の概念を確認するとともに、ここまでずっと引っ張ってきたいくつかの問題に、ついに回答を与えよう。

*1:ほぼ間違いなくシリーズ最長である。
*2:ただし間違いなく精神的な劇薬でもあるので、必ず子供の手の届かないところに保管するようにしてほしい。事故が起きても責任は持てない。
*3:参考:第20回

第34回】 【目次】 【第36回

おまけ

 しんみりしたので適当なおまけが見つかりませんでした。

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2011 8/29

(今日の一コマ)

第33回】 【目次】 【第35回

 前回から3年弱も間が開いてしまったが、何事もなかったように再開しよう。あと2回ほど『イルカと話す日』を続けたあと、リリー博士のまとめに入る。

第三章 クジラ類との異種間コミュニケーションに必要な諸科学

 一九五五年から現在までのあいだに、異種間コミュニケーションを実現するためには、事実や理論を理解するためにさまざまな科学が必要だということが明らかになった。こうした理解を助長する科学は、少なくとも一〇種類(おそらくはそれ以上)ある。
 トマス・クーンが述べているとおり、科学が飛躍的発展を遂げるためには、従来の思考の枠組み(パラダイム)とはまったく異なる新しい思考のパラダイムが形成され、若い世代に教えられることが必要である。そうしてはじめて古いパラダイムはその支持者とともに消滅していくのである。

 パラダイムシフトをやたらと強調する学者はトンデモって相場が決まってるじゃん。なんで大勢がこんなのにコロっと騙されたの?」

 みたいな感想を持つ人も読者の中にはいるだろう。(いてほしい。)そして、そこまで分かる人には、それは因果が逆転した後知恵の発想だということにも気がついてほしい。

 リリー博士のような学者が――イルカ・クジラの話に限らず――過去に大勢いて、そしてさらに大勢の人々がそれに騙されたおかげで、現在の我々が

  • パラダイムシフトをやたらと強調する学者はトンデモって相場が決まってる

 というような知識を持ちえているのだ、と考えるべきだ。

 パラダイムの概念は元々問題が多く、ここではさらに通俗的な述べられ方をしているので、あまりまともに受け取らないようにしてもらいたいが、通俗的だからといって必ずしも間違いとは限らない。

 結局のところ、時代精神というものは、古い考え方を身につけた古い世代が死んでいなくなり、新しい世代に取って代わられることによってしか、本当には変わらないのだ。

 このことは、良くも悪くも、好むと好まざるとにかかわらず、しばしば事実であり、今後このシリーズにとって重要なテーマのひとつとなる。

第四章 クジラ類(イルカ、クジラ)とは何か?

 ある人間が自明と信じて疑わない真の偏見は、しばしば、意識的に強力な主張を行っている時よりも、むしろ一見客観的に事実を羅列しているだけの時にこそ、よく現れる。その好例としてひとつ表を見てもらおう。

 いちいち突っこんでいたらきりがないので、間違っている点や意味不明な点を逐一指摘することはしない。それは読者自身の宿題とする。その能力すら自分にないと思う人は読まないようにしてほしい。

表2_1

表2_2

 ……どうだろう? 個人的に、この表は好きだ。博士が人間やイルカをどのように見ていたのかがよくわかるし、そこかしこから静かな狂気とでも言うべきものの片鱗が伝わってきてゾクゾクする。

 特に「8.戦争も徴兵もない」のくだりなどは、なかなかケッサクではないか*1と思うが、今回一箇所だけ取り上げたいのは、そこではなく、シャチの部分だ。

 シャチの胃からイルカやスナメリが出てきたらなんだというのだろう。「胃の内容を調べたところ、ヌーを食べていたライオンがいた」と記すようなものではないか。頭がおかしいのか? と思うのが「普通」だろう。

 ここで博士の頭がおかしくないと言ったら、たぶん嘘になる。彼はどうも鯨類全体を同種のようなものだと考えているようで、それはいくら当時の基準で最大限の情状酌量を試みたとしても相当におかしい。

 だがしかし、それでもなお、ここには「普通」の現代日本人が一読して感じるであろう印象よりも、かなり深い話が隠れている。

 すなわち動物が他の動物を――人間のことはひとまず考えないとしても――食べるとき、何が何を食べるのが「正常」で「自然な」ことであり、何が何を食べるのがそうでないのか? ということだ。

 この本のまとめのところで近いうちに詳述するが、重要なことなので、一度それまでに自分なりに考えておいてもらいたい。第23回のロンブローゾの発言がヒントになるかもしれない。

 次の第八章は、リリー博士をはじめとする当時のリベラルな科学者および科学的教養を持つ人たちの科学観がよく出ていて有益だと思われるので、やや詳細に紹介しよう。

第八章 科学的観察者の進歩と社会の進歩

 宗教的な世界観は、人間の本能に「人間の中の獣」というレッテルを貼り、これを退けた。人間の性行為、攻撃的な行動といったものはすべて「人間の中の獣」に属するものとされた。他の哺乳類が擬人化され、人問の性格を言い表わすのに用いられた。だらしのない、不潔な人間はブタのようだと形容され、あたかもブタの性格を持っているかのようにいわれた。また「羊のような(気が弱い)」といわれる人間もいた。言葉を換えれば、「(羊のように)気が弱い性格」という場合、それは大半の人間ではなく、羊というものの特性と考えられているのである。すべての動物が人間よりも劣るものとして考えられていた。人間に向かっていわれる、「サン・オブ・ア・ビッチ(犬の子供=畜生)」のような罵声は、動物にたいする蔑視から生まれたものであり、その淵源は人間の中に獣を認める宗教的な物の見方にある。

 事程左様に、リリー博士および彼と同じ時代に生きた多くの人々は、キリスト教を、とりわけその動物蔑視を、厳しく批判した。人間だけが魂を持ち、自明に優れており、だから偉いのだという聖書的・西洋的な思想を、差別的な・劣ったものとして激しく断罪した。

 だからなんだとは言わないが、誰かさんたちとそっくりな意見だな?

 現代の医学は、心は脳の中にだけにあるという点で意見が一致している。現代の見解にしたがえば、観察者や科学者は次のような限界を設けられている。

  1. どの観察者も脳の中に一つの心しか持っていない。
  2. どの観察者も知識に限度がある――経験から得られた知識、実験から得られた知識、理論から得られた知識のどれにも限界がある。観察者が作る現実のシミュレーションは、その人間の現実にたいする観察に限界を設ける。
  3. どの観察者も自分の内面を外界に投影して生きており、自分のシミュレーション・スペース、自分の信念の体系の中で生きている。とりわけ観察者の信念は、彼が観察する事象に制限を設け、彼が真実と考えるもの、努力を注ぐに値するものを限定する。

 ここだけ見ると、単語の選び方などに若干SFくさく感じる部分はあるものの、結構まともなことを言ってるように見える。現代でも賞賛されるべき、知的に謙虚で誠実な態度であるように見える。見えるだけでなく、実際に大部分は*2そうだと思われる。

 この科学的観察者がさらに成長するためには次のような明瞭な必要条件がある。

  • a 各観察者は自己の信念を厳密に点検し、見直しをほどこして、その信念が経験と実験から得られた現実と一致するものかどうかを見定めなければならない。自分を取り巻く社会にたいする信念も再検討して、これまでの社会経験との整合を図らなければならない。
  • b 科学的観察者は人類の脳の発達と他の生物の脳の発達を研究しないかぎり、公平な立場に立つことができない。自分自身の中枢神経系の構造について学習し、その機能と起源を理解し、他の生物の場合と比較してみることなしには、観察者は地球上での自分の位置を的確に把握することはできない。
  • c 現代の科学的観察者は、自分がいまだに発達過程にある哺乳類であるという認識を持つ必要がある。科学的研究は西欧の啓蒙主義の産物であって全能ではない。
  • d 現代の科学的観察者が理解しなければならないのは、自分が、人類と他の生物とが構成する巨大なフィードバックシステムをになう一員だということである。観察者が理解すべきなのは、人類が確立した、切り離された「現実」とは、この社会で承認されている通説によって定義されたものだということである。
  • e さらに現代の科学的観察者が理解すべき点は、人間社会の外部を取り巻く現実が、いずれはその要求を明瞭に提示して、地上に生息するさまざまな生物の将来の発展と衰退のパラメーターを決定するという点である。

 このあたりまで来ると、依然としておおむね現代にも通じる謙虚な態度であると認められつつも、いくつか見過ごせない部分が現れてくる。

 特に強調した部分に見られる「科学は西洋の産物にすぎない」とか「社会と切り離された現実なるものは存在しない」とかいう類の、当時流行した極端な相対主義の言説は、現代では行き過ぎであったと見なされることが多い。

 これはまだ歴史の一ページと言えるほど古い話でもないし、まだまだ単独でも分厚い本が何冊も出ているようなテーマなので、このシリーズでこれ以上つっこんで論じることはおそらくできない。文句があれば聞くが、いったんそういうものだと思ってもらいたい。

 ここでは次のことを再確認してもらえれば十分だ。客観性の軽視をはじめとするリリー博士の様々なおかしさを、ただ彼一人の狂気として片付けてしまうことはできない。当時の思想・哲学全体の傾向の一部分だということを考慮に入れなければ正しい理解はできないのだ。

 こうしてわれわれは、現代の科学的観察者が人類の生物学的構造と進化の過程とを意識しているということを理解する。また観察者は人類の将来の進化について、さまざまな可能性のあることに気がついているが、そのうちのどれが実現するかは、現代の社会の通念がどのような発展を遂げ、どのような構造を持つかにかかっている。観察者はもはや世界中に遍在するわけでもなく、全能でも、全知の存在でもない。彼は全知全能の存在になりたいという望みをあきらめ、世界がこれからも現在の構造を維持したまま構築されうるのではないかという願望も捨てている。
 人間は、自分自身の願望を法律や社会通念の中に投影することをやめなければならない。

 それを自分自身に適用することができていれば……と思わざるをえない。しかし同時に、もしそうしていたら、彼は歴史にあまり独創的な貢献は成しえなかったに違いないとも思う。難しいところだ。

*1:真理だ!(笑)
*2:実を言うとこの中にはひとつ、今まさに激しい挑戦を受けている主張があり、そのことはこのシリーズ全体にも少なからぬ影響を及ぼすのだが、それはかなり後の話。今はまだ気にしないでいい。

第33回】 【目次】 【第35回

おまけ

 学校も試験もない。

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