2010 8/1

創造―生物多様性を守るためのアピール

 エドワード・オズボーン・ウィルソンが、科学とキリスト教が協力して生物多様性の保護に取り組もうと、仮想の南部バプティスト派牧師に対し訴えかける、という本。

 はっきり言って、試みそのものが成功しているとは全く思えない。当たり前だが、ウィルソンは神の創造は嘘で進化が事実であるということについては一歩も譲る気はないわけで、牧師にとっては、

「私たち科学者は、君たち牧師が一番大事だと信じていることが全くの間違いだということについては、一歩も譲るわけにはいかないけど、私たちが一番大事だと信じているものを護るために君たちが協力できることは、沢山あると思うよ?」

 と言われているようなものだと思うのだが。*1これで「はいわかりました是非協力しましょう」と言ってもらえると、少しでも本気で期待しているのなら、ちょっと人を舐めすぎではなかろうか。

 ただ、言うなれば宗教右派に対してすり寄る内容だけに、私がウィルソンに対して気にくわないと思っている点が濃縮されたような感じになっていて、個人的には、なかなか興味深かった。印象深かったところを数ヵ所抜粋する。

第二章 自然の位に上ること

 人工的な生態系の中だけの暮らしに満足する人々も多いことは事実でしょう。これは飼育動物たちも同じこと。飼育用のグロテスクに不自然な生息環境のもとで満足しています。私の気持ちをいえば、これは倒錯です。手の込んだ飼育場の牛となることは、人間の本性にかなうものではないでしょう。誰しもが、人を生み出した複雑で原生的な自然の世界を難なく旅することができてしかるべきです。私たちには、誰の所有地でもなくすべての人々によって保護される大地、私たちの太古の祖先たちの世界を境界付けていたのと同じ地平を変わらず維持しているような大地を、縦横に行く自由が必要です。人類誕生のころの人の心理を作り上げた驚異の感覚は、エデンの遺産ともいうべき、人の都合とは独立した、生きものたちの賑わいに満ちた世界の中でこそ、体験することが可能なものです。

 人間的でかつ適切に教育される科学的な知識は、我々の暮らしに永続的なバランスをもたらす鍵です。生物学者たちが、生命圏の豊穣についてより多くを学ぶほど、生物圏のイメージはより豊かで感動あるものになります。同様に、心理学者たちが人の心の発達についてより多くを学べば学ぶほど、自然の世界が私たちの精神と、魂に及ぼしている重力のような普遍的な力をさらによく理解することになるでしょう。

 この星との平和な暮らしを実現するために、そして人類相互の平和な暮らしを実現していくために、私たちはまだ長い時間を必要としています。私たちは、新石器革命を発動したおりに、道を誤りました。そのときから人間は、大自然の位置に上る(ascend to Nature)のではなく、自然の位置から離れ、上昇すること(ascend from Natrue)を目指してきました。しかし、自然遺産が与えてくれる深く満ち足りた恩恵を享受するために、これまでに手に入れた暮らしの質を失うことなく方向転換を果たすことは、まだ可能です。宗教の包容力、そして教導者たちの寛大さと想像力の豊かさは、聖書に十分に記されることのなかったこの大きな真実を理解する偉大さを、必ずや発揮してくださることでしょう。

 うーん、これだよこれ。人によっては「ポスト・キリスト教」と呼び、私がガイア教と呼ぶ、リベラル派と伝統的キリスト教的世界観のねじれた野合。素晴らしい考え方だ、間違っていることを除けば。

  祖先的進化環境へのESSとして適応してきたに過ぎないものを「人間の本性」などと呼んで善と同一視することがそもそもおかしい、ということをいったん脇に置いたとしても、ホモ・サピエンスという種は、すでに圧倒的に自己飼育化*2の産物である。

 今日、人々がアメリカで「手つかずの自然」と信じているものは、一万年数千年前に起きた人類の進出(参考)と、近代のヨーロッパからの大規模な生態系移植(参考)の結果である。

 そしてもちろん、アフリカ=ユーラシア大陸の「手つかずの自然」とは、人類とその他の生物の数百万年の共進化の結果でしかありえない。

 「人間の本性」とか「人間の都合とは独立した生きものたち」などというのは、ただ単に間違っているのではなく、間違うことすらできていない幻想である。

第三章 本来のいのちある自然とは何か

 ポストモダンの哲学者の中には、真実は個々人の世界観にのみ依存する相対的なものであり、大自然というような客観的な実在はないと主張する人々がいます。彼らは、自然という区分はある種の文化に発生した誤った二分法に基づくものであり、他の文化には存在しないものであると主張しています。私はそのような考え方を面白いとも感じますが、それも数分のこと。これまで私は、自然の生態系と人間の干渉を受けた生態系の非常に鮮明な境界を何度も横切ってきた経験をしており、生きた本来の大自然(Nature)の客観性を疑うことはできません。

 私は、いわゆるポストモダン哲学や極端な相対主義も嫌いだが、ここではそちら側に加担せざるをえない。

  • 「大自然というような客観的な実在はない」

 などということは、ポストモダン哲学者よりも、むしろ進化生物学者こそが、キリスト教者に対して訴えるべきことだろう。

 次の引用部分は、若干補足が必要だと思う。キリスト教の中には、

  • 自分たちが生きている間に今の世界には終末が訪れる、そして自分たちは素晴らしい天国に迎えられる

 という考え方が、今も根強く生きている。そのような考えの人は当然、持続可能性などには関心を持たない。ウィルソンは本全体を通してそれを危惧している。

第九章 否定とそのリスク

 パストール、私か最も恐れるのは、創造された生きた自然[the Creation 被造物]への破壊に、ほとんど何の危険も感じないような、宗教的・世俗的なイデオロギーの結びつきが蔓延していることです。以下は、生物多様性にほとんど重要性を認めず、人は大自然をますます離れてこそ益多い者なのであり、自然に向けて次元上昇[アセンド]するようなものではないとする意見を持つ牧師がいれば、こんなスピーチもするだろうと想像して、私か創作したものです。

 兄弟姉妹、やがて地上から消えていくものたちのために、嘆くことなかれ。生命は変化です。絶滅もまたときにはよきものです。私たちは生命の新たな次元として、人を祝福しましょう。「略取」された地球を、新しい生命圏として祝福しましょう。進歩の障害となる種は消滅するにまかせましょう。人の登場する以前も、生態系と種の変転は通常のことでした。人のさらなる利益のために、世界の生物多様性が貧しくなることがあるとしても、私たちヒトという種に危険はありません。資源が枯渇すれば、天才的な科学技術者たちが、新たな資源を見つけるでしょう。

 善き人々よ、宇宙に目を向けましょう。天国を見上げましょう。絶滅した動植物を、未来世代への苦き遺産と考えるのはやめましょう。わたしたちは、歴史的な建造物を保存するのと同じように、過去の形見として、自然公園を保存することができます。高度の生物工学的な技術によって新しい生態系を創造し、人の力で創造された生物種をそこに棲まわせることもできるでしょう。どんなにすばらしい生物が創造されていくか、まだ私たちは知りません。それはかつてないほど審美的な魅力に満ち、多方面で有用な、技芸の産物となることでしょう。古く、原始的な環境は、人の手によって作り出されるはるかに優れた環境に置き換えられていくのです。完全に人間化された環境、人間が自分自身で作り上げるパラダイスのもとで、かつてない繁栄を果たすこと。それは私たちの未来技術によって可能なことであり、神の摂理にもかなうことです。それが私たちの定めなのです。来たるべき世代、人々は在庫の化学物質を利用して薬剤を合成するようになるでしょう。遺伝的に改良された数十種の穀物種から食料を生産するようになるでしょう。持続可能なエネルギー資源をコンピューターで管理することによって、大気も、気候も制御されるようになることでしょう。この古き地球は、これまで数十億年(これは、六千年とするのが望ましいと言われるかもしれませんが)の間そうであったと同じように、自転を続けていくことでしょう。

 しかし、地球というこの惑星は、比喩ではなく、文字通りの存在として、宇宙船になっていくのです。宇宙船地球号の操縦室には、人類の最も優れた人材が配され、モニター画面を見つめ、ボタンを押し、私たちの航行を安全なものとしてくれることでしょう。

 ここにあるのは、地球で特別の位置を占める人間は、大自然の法則の外にあると考える、人間特例主義の哲学です。人間特例主義は、以下の二つの、いずれかの形をとります。第一の形は、先に例示したような、世俗的な形式です。コースを変える必要はない、人間の天才が解決策を見出していく、という考え方です。第二は宗教的な形です。コースを変える必要はない。何にせよ、私たちは神の手の中、あるいは神々の手の中、地球という業の中にあるのだと考える形式です。

 実を言うと、地球の未来に関する私自身の意見は、ここでウィルソンがあげている悪い例と、そう遠いものではない。もちろん、わざと馬鹿に見えるように書いてある部分を除けば、だが。

 第一、この本それ自体が、科学と宗教が協力して

  • 「宇宙船地球号の操縦室には、人類の最も優れた人材が配され、モニター画面を見つめ、ボタンを押し、私たちの航行を安全なものとしてくれる」

 ようにしよう、という訴え以外のなにものでもないではないか。

  • 「持続可能なエネルギー資源をコンピューターで管理することによって、大気も、気候も制御されるようになる」

 ことを敵視しながら、どうやって地球温暖化を解決しようというつもりなのか。

 ウィルソンがその程度のことも考えていないとは思わない。もしかしたら、これは宗教右派にすり寄るためのテクニックのつもりかもしれない。

 宗教右派自身の主張を、彼らが嫌っている「科学」の主張であるかのように見せかけて内部で離間させようとする、巧妙な藁人形論法のつもりなのかもしれない。

 しかし、実際にこの例のような考え方をする宗教者がいたとして、こんなレトリックで意見を変えるとは思わないし、変えたとしても別の馬鹿な考えに行き着くだけだろう。

 アメリカの現状を鑑みるに、宗教の力を借りたいという気持ちはわからなくはない。むしろ、大いにわかる。だからといって科学の方からこんなすり寄り方をするのは、元も子もなくす可能性が高い、危険すぎるテクニックに見える。

第十章 最後のゲーム

 人類のハンマーが振り下ろされ、第六の絶滅が始まってしまいました。人類によるこの破壊行為が停止されず継続すれば、回復不可能な激しい消失の過程は、今世紀末には中生代末の大絶滅のレベルに達すると予想されています。

(中略)

 先行する五回の大絶滅は、自然選択によって修復されるのに平均一〇〇〇万年を要しました。一〇〇〇万年のスランプをまた経験するというのは受け入れがたいものでしょう。人類は決断を必要としています。それもいますぐです。地球の自然遺産を保全しましょう。そうしなければ、未来の世代は生物学的な貧困の世界に適応していくしかありません。この選択を回避する道はありません。動物園や植物園に頼れないことはすでに説明したとおりです。空想的な著者の中には、最後の手段にかかわるアイデアをもてあそぶ人々がいることも承知しています。未来の再生を目指して、受精卵や組織を凍結する方法で数百万の現存種やさまざまな品種を保全しようなどと彼らは主張しています。あるいはすべての種の遺伝暗号を記録して、後日、そこから種の再生を目指そうなどとも主張しています。どちらの提案もリスクが高く、膨大な経費を必要とし、最終的には実のないものとなるでしょう。仮にそれらの方法によって、危機に瀕した地球の生物多様性がことごとく再生され、交配を通して集団としても再生され、二一世紀において「野生」と判定される領域への帰還を待つばかりになったとしても、その場において生存可能な個体群を個々に再構成していくことは、実行不可能というしかありません。生物学者は、複雑で自律的な生態系をゼロから組み立てる方法などまったく知らないからです。いずれ理解できる時が来るとしても、その時、人間による改造を強く受けてしまった地球の条件下では、もはやそのような再構成は不可能と判明するのではないでしょうか。

 人間特例主義者たちは、以上のオプションの先にさらに最後の提案を用意しています。いつの日か科学者たちは人工生物や種を創造し、それらを組み合わせて合成生態系を作り出すはずとの希望を持って、生命圏の貧困化など気にすることなくこのまま進もう、という主張です。未来の世代には、大自然の失われたニッチを再び人工生命で満たさせよう。たとえば人間を襲わないようにプログラムされたトラモドキ。トラモドキは人工的に輝き燃え、刺しも噛みもしないムシモドキたちの満ちる森林モドキの中を行く――というわけですね。仮にファンタジーの世界だけの話だとしても、人工的な生物多様性という発想には、以下の言葉が適切です。冒涜、堕落、嫌悪。

 以上に紹介した有効性のない諸提案は、残念ながらどれも実際に提案されたことのあるものばかりなのです。それらの夢はいずれも愚かなものです。いまという時代はサイエンス・フィクションの時代ではありません。常識をもって、以下のような処方に従うべき時代です。生態系と種を救うには、個々の種の独自の価値を一つ一つ理解し、それらの運命を左右することのできる人々を説得して、生態系と種のお世話役をつとめてもらうしかないのです。

 私は知らないが、科学者の誰かがそんな非現実的な提案をしたことはあるのかもしれない。だが、それが科学の世界で真剣に受け取られたり、ましてや広範な支持を受けたりしたことはないはずだ。

 これもまた前の引用部分と同じ、宗教右派自身の主張を、彼らの嫌う「科学」の主張と錯覚させようとする巧妙な藁人形論法にしか見えない。

  • 「人間を襲わないようにプログラムされたトラモドキ。トラモドキは人工的に輝き燃え、刺しも噛みもしないムシモドキたちの満ちる森林モドキの中を行く」

 という描写には、私はイザヤ書の一節を連想させられる。これはやはり、科学の言葉に置き換えられただけの、伝統的なキリスト教的自然観だ。

 今の世に「人間特例主義者」などと呼ぶべき人々がいるとすれば、それは、

  • 人間以外の自然は全て神に創造された完全なもので、悪や不完全さの全ては人間の罪に由来する

 という宗教的ドグマを無理矢理にでも維持しようとする宗教者と、それにすり寄る科学者であろう。

*1:まあ、もし自分が、確固たる信仰を持つアメリカ南部の牧師だったら……というのは、私に取ってあまりに大きすぎるif なので、まともな想像が可能とは思えないが。
*2:この単語でググってみたら何かトンデモくさいページばかり引っかかるが、最近『火の賜物』でも出たばかりの話だ。

おまけ

 この世はでっかい宝島♪

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2010 5/21

反・進化論講座―空飛ぶスパゲッティ・モンスターの福音書

 うろおぼえだが、昔読んだユダヤジョークの本に、確かこういう話があった。

(強制収容所にて)

看守「ドイツ*1をダメにしやがったのは誰だ!」
囚人「はい! ケーキ屋とユダヤ人です!」
看守「……なんでケーキ屋なんだ?」
囚人「……なんでユダヤ人なんです?」

 世の中にはしばしば、何かがないことの証明が不可能だということ*2に依拠する一見もっともらしい主張があって、倫理的にもろくでもないことが多い。

 ほとんどの宗教は多かれ少なかれそういう要素はあるが、インテリジェント・デザインは、特にその方面に特化したもののひとつだから、とりわけろくでもなく、かつ攻めづらい。

 こうしたものを批判するのはどうしたらいいか。ひとつの方法は、不可能である「ないことの証明」に正面から挑むのではなく、

  • 論理的に同程度にバカバカしく、一見してもバカバカしい別の主張を提示する

 ことである。空飛ぶスパゲッティ・モンスター教は単なる悪ふざけのギャグではなく、そういう真面目な意味も持っている。

 本自体は正直そこまで面白くない(参考)ので、わざわざ読みたくない人は、そういうものだという点だけ押さえておくとよいかもしれない。

*1:第一次世界大戦前後の。
*2:俗にいう「悪魔の証明」。

おまけ

 ヌードル触手→ラーメン

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2010 3/9

順列都市〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

 グレッグ・イーガン『順列都市』から、後々話に使いたいと思っているところ2点を、最低限の説明をつけて抜粋。

《なにも変えない神の教会》

 マリアは話しつづける。「『神はなんの違いももたらさない……なぜなら、神こそは万物がいまある姿をとっている理由だからだ』、ですっけ? だから、あたしたちはみんな、宇宙を心静かにうけいれられるってわけね?」
 フランチェスカは首を横にふった。「心静かに? いいや。そう考えれば、神の介入だのなんだのいう古い考えを、きれいさっぱり一掃できるだけの話さ。それに、神を信じるための、証しや、信念でさえ不要になる」
「じゃあ、いま母さんにはなにが必要なの? そして、神を信じてないわたしには、なにが欠けてるの?」
「信仰だろうかね?」
「同語反復はきらいよ」
「トートロジーを悪くいっちゃいけない。宗教を築くなら、ファンタジイよりはトートロジーの上にしたほうがましだ」
「だけど、これはトートロジーよりもひどいわ。単に……言葉を恣意的に再定義しただけ。ルイス・キャロルの小説じゃないんだから。でなければ、ジョージ・オーウェルの。『神は万物の根拠である……その根拠がなんであれ』それは、正気の人間が単に物理法則と呼ぶものを、母さんたちは神と改名したにすぎない……それも、その単語のほうが、ありとあらゆる歴史的な響きを――人を勘違いさせやすい、ありとあらゆる言外の意味を含んでるからというだけの理由で。自分たちが古い宗教とは無関係だと主張するなら――なぜ宗教の用語を使いつづけるの?」
 フランチェスカは答えた。「わたしらは、その単語の歴史を否定はしないよ。多くの点で過去と訣別したけれど、自分たちの出自も認めている。神は、人々が何千年も使いつづけてきた概念だ。わたしらがその概念を、幼稚な迷信や願望充足以上のものに洗練させたのは事実だけれど、だからといって、同じ伝統に属していないことにはならないさ」
「でも母さんたちは、その概念を洗練させたんじゃない、無意味にしたのよ! 必然的に。母さんたちは、そこに気づいてないようだけど。神にまつわる、火を見るよりあきらかなたわごとを、全部剥ぎとったんですもの。擬人化も、奇蹟も、かなえられた祈りも、なにもかも。ただ、いちどそれをやってしまったら、宗教と呼ぶ必要があるものはなにも残らないことを、母さんたちはわかってなかったようね。物理学は神学ではない。倫理学も神学ではない。なのに、なぜそれが神学だというふりをするの?」
「わからないかねえ? それでもわたしらが神について口にするのは、ただ単にそうしたいからさ。人の心には、その言葉を、その概念を使いたいという衝動が――捨て去るより、磨きをかけつづけたいという思いが――根深くしみこんでいるんだ。その言葉が意味するものは、五千年前と違ってしまっていてもね」
「でも、その衝動がどこから来るのか、しっかりわかってるでしょう! 聖なる存在が実在するわけじゃない。文化と神経生物学の――進化と歴史の、いくつかの偶然の産物にすぎないわ」
「あたりまえじゃないか。そうでない人間の特性があるのかね?」
「だったら、なぜそんなものに従うのよ?」
 フランチェスカは笑った。「なにかに従うのはなぜだい? 宗教的な衝動は……宇宙から来た精神ウイルスの類じゃないよ。有形無形の意味づけをすべてとり去った、純粋なかたちでの宗教的衝動は、洗脳の結果でもない。それは、わたしという人間の一部なんだ」
 マリアは両手で顔を覆った。「そうかしら? そんなことをいうなんて、ちっとも母さんらしくない」
「ものごとが思いどおりにいったとき、神に感謝したくなったことはないのかい? 力が必要なとき、神にそれを願いたくなったことは?」
「全然」
「わたしは、あるんだよ。神はなにも変えないと、知ってはいてもね。そして、神が万物の根拠なら、神という言葉を使いたいという衝動も、神の中にあることになる。だから、わたしがその衝動から力やなぐさめや意味を得るなら、その力やなぐさめや意味の根源が、神なのさ。そして、自分の身に起ころうとしていることをわたしがうけいれるのを、神が――なにも変えなくても――助けてくれるなら、そのなにが、おまえを悲しませるんだい?」

(『順列都市』上巻P138-P144)

 SF作家として最新の科学知識を身につけて、政治的には当然リベラルなグレッグ・イーガンの宗教観は、『神はなぜいるのか?』のようなものにならざるをえない。

 ここで作者自身の考え方を代弁しているのは明らかにフランチェスカの方で、主人公のマリアはそれを理解できない未熟な者として描かれている。

《唯我論者国家》

 《唯我論者国家》の創始者ダニエル・ルベーグはこう書いた。『わたしの目標は、人間の真髄として尊ばれるありとあらゆるものを手にいれることだ――そしてそれを、すりつぶして塵にするのだ』

(『順列都市』上巻 P124)

 (伝統的な意味では)神に何らの自明な価値も認めず、人間性のひとつとしてしか見ないイーガンが、それでも目標として認めうるのは、人間性のあらゆる可能性を試し尽くすことだ。

 作品が違うが『ディアスポラ』のトランスミューター*1は、おそらくこのルベーグの目標を達成したものと考えられているのだと思う。

*1:作中最高クラスの能力を持つ超文明種族。

おまけ

 そういえば最近ドナルド見ないな。三大宗教とかどこ行った。

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2010 1/31

(本文とは無関係)

 最近読んだ本、またはずっと紹介したいと思っていた本の中から、個別エントリにするタイミングがなさそうなものを、まとめて一挙紹介。

 ★は1-5個でオススメ度。人に薦める価値がまったくないと思うものはそもそも取り上げないので、1個でもつまらないという意味ではない。

『キサラギ』★★★

 D.IKUSHIMAさん経由。確かになかなか面白い脚本だ。映画も機会があったら見たい。まあ見たいとか言ってる程度だとたぶん見ないが。

『ソフトウェア開発者採用ガイド』★★

 Joel Spolsky著。これまでのJoel本とほとんど重複。それでもよいという人か、または本当に採用ガイドとして使用するような人にはオススメ。

『異端の数ゼロ―数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』★★

 チャールズ・サイフェ著。数学教養初心者向きとして、いい感じ。私は同著者の『宇宙を復号する』の方が好きだけど。

『イスラムの怒り』★

 内藤正典著。正月にイスタンブール行ったとき家にあったので。賛成できない意見も多いのだが、今日的な一般常識として押さえておいて損はない内容。

『クォーク―素粒子物理はどこまで進んできたか』★★

 南部陽一郎著。今更ながらノーベル賞つながり。

『東方儚月抄 〜Cage in Lunatic Runagate.』★

 ZUN著。儚月抄漫画版の合間を小説で説明するような感じなので、漫画版を先に読んでないと全く意味不明なので注意。漫画版を読んでても面白いかは微妙。少なくとも入門には向かない。

『まんが道』★★★★★

 藤子不二雄(A)著。言わずと知れた傑作。引っ越しのために部屋を探してたら、2人で2畳に住んでたとか、4畳半が広く感じたとかいうエピソードが頭に浮かんだので。

『投資信託にだまされるな!本当に正しい投信の使い方』★★

 竹川美奈子著。まあ常識的にいい。

『社会生物学論争史―誰もが真理を擁護していた』★★★★

 ウリカ・セーゲルストローレ著。どこの大魔導師かエルフ王かという名前に圧倒されそうになるけど中身も重い。本当に興味のある人にしかおすすめしない。

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』★★★★

 マックス・ヴェーバー著。説明不要なほど超有名。

おまけ

 これ見て「解せぬ」以上の何かしらの感想を持てる人は、たぶんJoelの言うポインタが理解できる程度の能力を持つ人。ホントこの人のTASは異次元だな。

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2010 1/28

ニューエイジについてのキリスト教的考察

 ニューエイジが日本人にとって極めて理解しにくい理由は、それが基本的に西洋思想、とりわけキリスト教と近代科学に対するアンチテーゼだからだ。

 ある程度まで当たり前で、仕方のないことだが、日本人はキリスト教についてよく知らない。*1「○○」をろくに知らないのに「○○への反発」を正確に理解できるはずがない。

 そこを上手いこと補うために推薦できるいい本がないかとずっと探していたのだが、

 経由で知ってついに発見した。これは素晴らしい。まさか教会そのものが出しているとは思わなかった。灯台下暗しとはこのことだ。

 全体で170ページしかない薄さに、ニューエイジの基礎に加えて、「キリスト教とニューエイジそれぞれが、互いをどのように見ているのか」という、日本人にとって最もわかりにくく、かつ重要な部分が濃縮されている。

 ニューエイジ関係の話題――うちでもガイア教シリーズがもろに関わる――ちょっとでも興味がある人には最適の本だ。断然おすすめする。というかもはや必読。

 ただし、聖書に対する最低限の知識は前提として必要。たとえば「旧約聖書と新約聖書って何が違うんだっけ?」とか「ピラトって誰?」とか思うようなら、阿刀田高の「知っていますか」シリーズぐらいでもいいので、一通り予習してからにした方がいいと思う。

 また、教皇庁の手になるものなので当然立場はカトリックであるが、プロテスタントとの違いが重要になる局面はこのレベルではないので、あまり気にしなくていい。

*1:近代科学についてもよく知らないが、それは幸か不幸か――不幸に決まっているが――どこでも共通だ。

おまけ

 つながりわかる人いますか?

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2010 1/24

マンガ 禅の思想

 昔見たあるコマを利用したくて再読したついでに。

 禅問答というのは、通俗的には訳のわからん問答の代名詞的に使われていますが、実際にもやっぱり訳のわからん問答です。

 いくら「二元論的な思考を乗り越えるための」とかなんとか理屈をつけてみても、結局やってることは

 「全然違う! まったく逆! お前は何も悟ってない!」

 とお互い言い合って、気圧された方が負けというだけなのです。

 ……あれ? 意外と現代も変わらないかも。まあとにかく、現代人的な意味での「議論」や「問題」ではないのだということを、ちゃんと理解して楽しむ分には、いいものだと思います。

おまけ

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2009 12/19

進化の存在証明

 はーい皆さん、グールド亡き今世界一有名な進化論啓蒙者であり、人格的には割とクソ野郎なドーキンスの兄貴の新刊のお時間です。

 今回のテーマは非常に明解。進化は事実だということ。

 「……それはギャグで言ってるのか?」と思うでしょうが、旧約聖書の創造論をまんま事実として信じている人間が今でも大勢いて、一定の政治力を保っている欧米の読者を主な対象としているので、そこは割り引いて考えて下さい。*1

 個人的には、あまり新しい話はなく、いつもと比べると不満なのですが、むしろ『利己的な遺伝子』もまだ読んだことがないというドーキンス初心者に、1冊目の本としておすすめできるのではないかと思います。

 内容とは関係ないですが、6章のタイトルが『失われた環境』となってしまっています。急いで翻訳・出版したので校正ミスしたのでしょうが、ちょっとかっこ悪いです。

 『失われた環(ミッシング・リンク)』と書こうとしたが“環”が単漢字変換できなかったので、“かんきょう”を変換して後で“境”を消そうとしたが、消し損なった。……という経緯が丸わかりです。

参考リンク

*1:日本の理科教育状況も別にほめられたものではないというのは、また別の話として。

関連図書

おまけ

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2009 12/10

(今日の一コマ)

 私にとって、両親が全知全能の存在ではないと気づいた日の衝撃は、自分がいつまでも生きていられるわけではないと気づいた日の衝撃よりも大きかった。

 こうした親に対する全能感は、ほぼ間違いなく、幼い頃には大抵の人間が持っているものだろう。

 生まれたときから宗教教育を受けている人の中には、この全能感が消えるよりも早く、その対象が神に置き換えられ、生涯その衝撃なしで生きてきた人がいるのではないかと思う。*1

 そういう人間の精神状態は、想像を絶するほど自分とは違ったものでありうるかもしれない。生みの親を知らずに一人(一匹)きりで育つ魚の精神状態を想像することが不可能なのと同じように。

*1:実際に自分はそうだという人います?

おまけ

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