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2011
12/18
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【第35回】 【目次】
ある現象を理解するということは、何が変化して何が不変であるかを、理解することだと言える。
何も変化がないのであれば、そもそも考えるべきことが存在しないであろうし、何もかもが変化してしまうなら、やはり考えるべきことが存在しないであろう。
たとえば物理学であれば、変化しない保存量が何かがわかれば、その保存則を用いて現象を理解したり予測したりすることができる。
社会や歴史に関しても、もちろん物理学ほど単純にはいかないが、同じようなアプローチはできる。すでに第30回で一度その実例を見せた。時代とともに神話の内容が変わっても、変わらないものは人生と社会に意味を求める人間の心だった。
さて、私たちは、第15回から続けていた時間旅行で、3冊の本を教科書に3つの時代を見てきた。
- キリスト教が全ての中世
- 科学が勃興した近代
- いわゆるポストモダンの現代
そして今、この似たところなどひとつもないかのように見える3つの社会を貫き通している一本の柱を、指摘することができるようになったはずだ。それは、このシリーズの文脈に沿う形で思いっきり圧縮・要約するなら、以下のような考え方だ。
宇宙のあらゆる存在には永久不変の「偉さ」の階層があり、ゼロから*1無限大(≒神)の数直線上にランクづけ可能なひとつの実体である知能によって位置する階層が決まり、階層の上下関係によって誰が誰を殺し・食らうのが当然であるか犯罪であるかが決まる。
時間に余裕のある人は――捕鯨問題ばかりのエントリ35回分も読んできて忙しいとか言わさんぞ――これを何十回か読んで、いつでも暗唱できるようにしてほしい。
私は、これこそ鍵だと信じている。多くの人間――とりわけ日本人――に捕鯨・反捕鯨問題を理解しがたいものにしている高い壁を通り抜けるための鍵だ。
この鍵さえ持っていれば、多少の努力と時間を費やすことを厭わない人は誰でも、少なくとも「訳が判らない。」*2と言わなくて済むようになると信じている。
(暗唱できたら次に進んで下さい。)
はい、暗唱できるようになったかな。おめでとう。あなたは鍵を手に入れた。では早速、鍵を手に入れたらすることをしよう。これまでに見つけた、開けられなかった扉を開けて回ってみよう。
扉その1
- なぜリリー博士はイルカを食べていたシャチを「例外」と記述したか?*3
これは「普通」に考えると「胃の内容を調べたところ、ヌーを食べていたライオンがいた」と記すようなもので、頭がおかしいとしか思えない。
しかし、鍵を持っている私たちには、もう特に不思議なことではない。
シャチとイルカは(彼にとっては)人間以上に高度な知能を持つ同じ鯨類同士である。同じ偉さの階層に属する彼らが喰い合うのは、ちょうど人間同士が喰い合う食人行為が犯罪であるのと同様に、自然に対する犯罪行為ある。
これは鯨類が善きものであるという彼の思想と相容れない。したがって、これはあくまで例外でなければならない。たとえば人間の飼い方が悪かったからとか、人間の漁業のせいで魚が枯渇したからとか、なんらかの例外的影響で発生したもので、鯨類の自然な生態であることはありえない。
簡単とは言わないが、そんなに難しくもあるまい。
ついでに関連問題(?)をいくつか片付けてしまおう。
- 近代の学者チェーザレ・ロンブローゾは、ある植物が虫を食べる行為を「犯罪に等しい行為」だとまで述べている。*4なぜか?
もちろん、必ずしも自明ではないが直感的にも理解できる生態的制約によって、植物が動物を食べることは、動物が植物を食べることより珍しい。それは間違いない。
だから「犬が人を噛んでもニュースにならないが人が犬を噛めばニュースになる」的な原理で、食虫植物に特別な印象を受けたとしても不思議ではない。
しかし、現代の「普通」の人間は、これを犯罪だとは絶対に言うまい。不思議だと思っただろう、鍵を持ってなければ。
私は19世紀イタリアの法律については何も知らないが、食虫植物を処罰する法律があった可能性は無視していいだろう。この「等しい」は厳密にイコールだという意味ではない。犯罪にたとえられるべき何かだという意味だ。
では、犯罪ではないが犯罪にたとえられるべき何かとは? 人間の法律ではなく神の定めた「自然の法律」を破る犯罪だということだ。動物は植物より知能が高い、すなわち神に近い*5から、動物が植物を食べるのは当然だが、植物が動物を食べるのは「犯罪」なのだ。
簡単だろ。はい次。
- 「人間の子供を殺した豚の親子が裁判に掛けられ、母豚が絞首刑に処せられる」中世の動物裁判*6は一体なんだったのか?
集団狂気? 動物虐待? もちろん現代の価値観に当てはめればそうだ。しかし、当時の人間にも言い分はあるだろう。彼らの考え方はこうだ。
魂を持たぬ(≒知能の低い)豚は神によってアダムに奉仕するために創造されたものだ。だから「偉さ」の階層は当然アダムの子孫である人間が上で豚が下だ。だから豚が人間を殺して食うことは神に対する反逆で大罪だ。だから豚は裁判にかけられ、死刑に処せられなければならない。
楽勝だな。
- 人間の赤ん坊を食い殺したブタを裁判にかけた中世の神父
- 食虫植物の行いを犯罪に等しいと述べた近代の科学者
- シャチがイルカを食べていたことを異常な例外として記述した現代の科学者
彼らはそれぞれ過去の人間の思想を否定し、軽蔑すらしていたに違いないのだが、一皮むけば、それぞれ過去の人間が従っていたのと同一の、より基本的なルールに忠実に従っている。代入する変数は時代とともに変わっても、使っている式はひとつだ。
扉その2
- 「イルカには人間並みの知能があるが、その知能は海生動物ならではの独特な形をとっている」*7とはどういう意味か?
人間、ピアノ線を張り巡らされた真っ暗な部屋を巧みに飛翔するコウモリ、何百ものドングリを埋めた場所を冬の間じゅう憶えているリス、誰に教わるでもなしに大規模な社会で農業や奴隷狩り戦争を行うアリ、誰が一番「頭が良い」か?
そんなこと誰がどうやって決められる? 決められるわけがない。前足・胸ビレ・手・翼のうちどれが一番「肢が良い」か? という問いが無意味であるのと同じだ。神経系に備わった知能もそれぞれの生物の生態に応じて進化で生じた特徴のひとつに過ぎない。
このような、21世紀人の我々がほとんど無意識的に採用している「非人間中心主義的」思想の下では、アントニエッタ・L・リリーの台詞は、正しいとか間違っているとかいう以前に*8意味不明である。*9
人間は海生動物ではない。「海生動物ならではの独特な形をとっている」なら「人間並み」ではありえないし、「人間並み」なら「海生動物ならではの独特な形をとっている」ことはありえない。
だが、鍵を持ったものにはその意味は明白だ。ほとんどそのまんまだな。知能はゼロから無限大の数直線上にランクづけ可能なひとつの実体だ。だからイルカと人間がいれば、互いの知能は上か、下か、同等か、しかありえない。数学的に。
リリー博士とその仲間たち、彼らと同時代に生きた大勢のリベラルな西欧人は、動物差別的・性差別的で、人種差別や先住民のジェノサイドに利用されたキリスト教が嫌いだった。軽蔑していた。憎んですらいた。それは決して嘘ではない。
「男児の包皮に異常な関心を持つ老年白人男性のようなものが土をコネコネして息をプーッとやって人間を創りました」なんて、もはや全然信じていないし、むしろ、どちらかと言えば、信じているような人たちを、金満権力者に騙される貧乏で無学な宗教ウヨクども*10と小馬鹿にしている側の人間だ。
だがしかし、さらにそのキリスト教の前提となっていた幾つかのドグマ、それがひとつの立場だとか思想だとは夢にも思わないほど基本的な考え方は捨てなかった。
彼らが無能だったとか嘘つきだったとか悪党だったとかいうわけではない。時代の限界だったのだ。神ならぬ人間には、できることとできないことがあり、持っていると知らない考えを捨てることは、できないことのひとつだということだ。
次回は、ある有名な本の力を借りて「キリスト教」と「さらにその前提」を分けて考える話をもう少し補強しよう。そしてさらにエントリをさかのぼって扉開けを続けよう。
*1:負の知能というのは――ジョークでそう表現したくなるような人間はいるにしても――意味不明であるので。
*2:第1回
*3:第34回
*4:第23回
*5:もちろん神は動物でもないが植物ではないのはより確実だ。
*6:第16回
*7:第26回
*8:もちろん、彼女自身が考えていたような意味でも間違っているが、たびたび強調しているように、それはただの後知恵だ。
*9:我々がほとんど無意識的に非人間中心主義的な思想を操れるのは部分的には彼らのおかげなのだと思うと、これまた皮肉な話だが。
*10:もちろんこれは説明を早くするための戯画化であって、一般に上品な彼らはそんな露骨な言い方はしないが。
【第35回】 【目次】
おまけ
「ローンブローゾー」










木戸孝紀