2011 12/18

(今日の一コマ)

第35回】 【目次

 ある現象を理解するということは、何が変化して何が不変であるかを、理解することだと言える。

 何も変化がないのであれば、そもそも考えるべきことが存在しないであろうし、何もかもが変化してしまうなら、やはり考えるべきことが存在しないであろう。

 たとえば物理学であれば、変化しない保存量が何かがわかれば、その保存則を用いて現象を理解したり予測したりすることができる。

 社会や歴史に関しても、もちろん物理学ほど単純にはいかないが、同じようなアプローチはできる。すでに第30回で一度その実例を見せた。時代とともに神話の内容が変わっても、変わらないものは人生と社会に意味を求める人間の心だった。

 さて、私たちは、第15回から続けていた時間旅行で、3冊の本を教科書に3つの時代を見てきた。

  1. キリスト教が全ての中世
  2. 科学が勃興した近代
  3. いわゆるポストモダンの現代

 そして今、この似たところなどひとつもないかのように見える3つの社会を貫き通している一本の柱を、指摘することができるようになったはずだ。それは、このシリーズの文脈に沿う形で思いっきり圧縮・要約するなら、以下のような考え方だ。

 宇宙のあらゆる存在には永久不変の「偉さ」の階層があり、ゼロから*1無限大(≒神)の数直線上にランクづけ可能なひとつの実体である知能によって位置する階層が決まり、階層の上下関係によって誰が誰を殺し・食らうのが当然であるか犯罪であるかが決まる。

 時間に余裕のある人は――捕鯨問題ばかりのエントリ35回分も読んできて忙しいとか言わさんぞ――これを何十回か読んで、いつでも暗唱できるようにしてほしい。

 私は、これこそ鍵だと信じている。多くの人間――とりわけ日本人――に捕鯨・反捕鯨問題を理解しがたいものにしている高い壁を通り抜けるための鍵だ。

 この鍵さえ持っていれば、多少の努力と時間を費やすことを厭わない人は誰でも、少なくとも「訳が判らない。」*2と言わなくて済むようになると信じている。

(暗唱できたら次に進んで下さい。)

 はい、暗唱できるようになったかな。おめでとう。あなたは鍵を手に入れた。では早速、鍵を手に入れたらすることをしよう。これまでに見つけた、開けられなかった扉を開けて回ってみよう。

扉その1

  • なぜリリー博士はイルカを食べていたシャチを「例外」と記述したか?*3

 これは「普通」に考えると「胃の内容を調べたところ、ヌーを食べていたライオンがいた」と記すようなもので、頭がおかしいとしか思えない。

 しかし、鍵を持っている私たちには、もう特に不思議なことではない。

 シャチとイルカは(彼にとっては)人間以上に高度な知能を持つ同じ鯨類同士である。同じ偉さの階層に属する彼らが喰い合うのは、ちょうど人間同士が喰い合う食人行為が犯罪であるのと同様に、自然に対する犯罪行為ある。

 これは鯨類が善きものであるという彼の思想と相容れない。したがって、これはあくまで例外でなければならない。たとえば人間の飼い方が悪かったからとか、人間の漁業のせいで魚が枯渇したからとか、なんらかの例外的影響で発生したもので、鯨類の自然な生態であることはありえない。

 簡単とは言わないが、そんなに難しくもあるまい。

 ついでに関連問題(?)をいくつか片付けてしまおう。

  • 近代の学者チェーザレ・ロンブローゾは、ある植物が虫を食べる行為を「犯罪に等しい行為」だとまで述べている。*4なぜか?

 もちろん、必ずしも自明ではないが直感的にも理解できる生態的制約によって、植物が動物を食べることは、動物が植物を食べることより珍しい。それは間違いない。

 だから「犬が人を噛んでもニュースにならないが人が犬を噛めばニュースになる」的な原理で、食虫植物に特別な印象を受けたとしても不思議ではない。

 しかし、現代の「普通」の人間は、これを犯罪だとは絶対に言うまい。不思議だと思っただろう、鍵を持ってなければ。

 私は19世紀イタリアの法律については何も知らないが、食虫植物を処罰する法律があった可能性は無視していいだろう。この「等しい」は厳密にイコールだという意味ではない。犯罪にたとえられるべき何かだという意味だ。

 では、犯罪ではないが犯罪にたとえられるべき何かとは? 人間の法律ではなく神の定めた「自然の法律」を破る犯罪だということだ。動物は植物より知能が高い、すなわち神に近い*5から、動物が植物を食べるのは当然だが、植物が動物を食べるのは「犯罪」なのだ。

 簡単だろ。はい次。

  • 「人間の子供を殺した豚の親子が裁判に掛けられ、母豚が絞首刑に処せられる」中世の動物裁判*6は一体なんだったのか?

 集団狂気? 動物虐待? もちろん現代の価値観に当てはめればそうだ。しかし、当時の人間にも言い分はあるだろう。彼らの考え方はこうだ。

 魂を持たぬ(≒知能の低い)豚は神によってアダムに奉仕するために創造されたものだ。だから「偉さ」の階層は当然アダムの子孫である人間が上で豚が下だ。だから豚が人間を殺して食うことは神に対する反逆で大罪だ。だから豚は裁判にかけられ、死刑に処せられなければならない。

 楽勝だな。

  • 人間の赤ん坊を食い殺したブタを裁判にかけた中世の神父
  • 食虫植物の行いを犯罪に等しいと述べた近代の科学者
  • シャチがイルカを食べていたことを異常な例外として記述した現代の科学者

 彼らはそれぞれ過去の人間の思想を否定し、軽蔑すらしていたに違いないのだが、一皮むけば、それぞれ過去の人間が従っていたのと同一の、より基本的なルールに忠実に従っている。代入する変数は時代とともに変わっても、使っている式はひとつだ。

扉その2

  • 「イルカには人間並みの知能があるが、その知能は海生動物ならではの独特な形をとっている」*7とはどういう意味か?

 人間、ピアノ線を張り巡らされた真っ暗な部屋を巧みに飛翔するコウモリ、何百ものドングリを埋めた場所を冬の間じゅう憶えているリス、誰に教わるでもなしに大規模な社会で農業や奴隷狩り戦争を行うアリ、誰が一番「頭が良い」か?

 そんなこと誰がどうやって決められる? 決められるわけがない。前足・胸ビレ・手・翼のうちどれが一番「肢が良い」か? という問いが無意味であるのと同じだ。神経系に備わった知能もそれぞれの生物の生態に応じて進化で生じた特徴のひとつに過ぎない。

 このような、21世紀人の我々がほとんど無意識的に採用している「非人間中心主義的」思想の下では、アントニエッタ・L・リリーの台詞は、正しいとか間違っているとかいう以前に*8意味不明である。*9

 人間は海生動物ではない。「海生動物ならではの独特な形をとっている」なら「人間並み」ではありえないし、「人間並み」なら「海生動物ならではの独特な形をとっている」ことはありえない。

 だが、鍵を持ったものにはその意味は明白だ。ほとんどそのまんまだな。知能はゼロから無限大の数直線上にランクづけ可能なひとつの実体だ。だからイルカと人間がいれば、互いの知能は上か、下か、同等か、しかありえない。数学的に。

 リリー博士とその仲間たち、彼らと同時代に生きた大勢のリベラルな西欧人は、動物差別的・性差別的で、人種差別や先住民のジェノサイドに利用されたキリスト教が嫌いだった。軽蔑していた。憎んですらいた。それは決して嘘ではない。

 「男児の包皮に異常な関心を持つ老年白人男性のようなものが土をコネコネして息をプーッとやって人間を創りました」なんて、もはや全然信じていないし、むしろ、どちらかと言えば、信じているような人たちを、金満権力者に騙される貧乏で無学な宗教ウヨクども*10と小馬鹿にしている側の人間だ。

 だがしかし、さらにそのキリスト教の前提となっていた幾つかのドグマ、それがひとつの立場だとか思想だとは夢にも思わないほど基本的な考え方は捨てなかった。

 彼らが無能だったとか嘘つきだったとか悪党だったとかいうわけではない。時代の限界だったのだ。神ならぬ人間には、できることとできないことがあり、持っていると知らない考えを捨てることは、できないことのひとつだということだ。

 次回は、ある有名な本の力を借りて「キリスト教」と「さらにその前提」を分けて考える話をもう少し補強しよう。そしてさらにエントリをさかのぼって扉開けを続けよう。

*1:負の知能というのは――ジョークでそう表現したくなるような人間はいるにしても――意味不明であるので。
*2第1回
*3第34回
*4第23回
*5:もちろん神は動物でもないが植物ではないのはより確実だ。
*6第16回
*7第26回
*8:もちろん、彼女自身が考えていたような意味でも間違っているが、たびたび強調しているように、それはただの後知恵だ。
*9:我々がほとんど無意識的に非人間中心主義的な思想を操れるのは部分的には彼らのおかげなのだと思うと、これまた皮肉な話だが。
*10:もちろんこれは説明を早くするための戯画化であって、一般に上品な彼らはそんな露骨な言い方はしないが。

第35回】 【目次

おまけ

 「ローンブローゾー」

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2011 9/25

イルカと話す日

第34回】 【目次】 【第36回

 さて長かった*1『イルカと話す日』の本文も、ついに今回が最後である。名残を惜しむとともに、抜かりなくここまでのまとめと今後の展望についての準備を始めよう。

第一〇章 生態系の一員としての自覚を持った科学的観察者

 これまで科学者といえば、実験を行ない、こうした実験から自分なりの推論を引き出し、学術論文を発表する者のことであった。(中略)科学者は、学術誌や学会で研究成果を発表するものと考えられてきた。
 こうした方法による科学上の通説の形成過程は、テレビやラジオが登場して公衆と即座にコミュニケーションが図れるようになったことで、いくぶん変化しつつある。(中略)それとはうらはらに、科学者たちの考え方は、いままで変化がみられなかった。すなわち、科学者の義務は、まず同僚の科学者に研究成果を報告することだった。こうしてその研究は質を判断され、他の科学と統合されて、ようやくマスメディアに発表されるのである。
 この手続きを踏まずに、仲間や同僚の科学者の意見を仰ぐことなく研究を発表する科学者は、誰であれ科学者の社会から爪弾きの目にあってきた。(中略)ある科学者の著わした本が、専門の学者の審査を受けずに、定評のある科学専門の出版社からではなく、一般向けの本を手がける出版社から出版されたとする。しかも編集にあたったのは科学専門の編集者ではなかったとする。その場合、こうした研究は黙殺されるのがつねだった。
 ところが一般の読者、つまり科学者でない人間向きに書かれたこうした書籍は、科学者ではない読者のあいだで強い影響力をふるってきた。つまり、通常の科学者仲間のあいだでは伝わらない、数多くの学説が通説として評価を受けるようになり、青少年の教育に欠かせないものとなってきたのである。
 この経路で発表されてきた学説は、多くの人びとから強力な支持を得るようになった。(中略)ついで、こうした学説は、大衆の側から科学者の集団へと逆に伝えられたが、たいていは結束を固めた科学者から頑強に拒絶された。

(中略)

 新しい世代の若い科学者の中には、社会的な参加意識を持つ者もあらわれてきた。(中略)われわれの子供たちは、テレビを観たり、ラジオを聞いたり、大集会に参加したりして成長するが、これらはいずれも十九世紀には存在しなかったものである。より多くの情報が、より多くの方面から迅速に伝達され、若い科学者を育成して、彼らを二十世紀の参加意識を持つ観察者へと育て上げていくことだろう。

  • 「自分の画期的な発見・理論を、頭の古い学者・学会が結託して黙殺しているのだ!」

 というのも、またしてもトンデモ学者の発言テンプレに当てはまりすぎて怖いぐらいだ。

 メディアを通して直接大衆に語りかけることに希望を見いだしているところがとても興味深い。大局的に見て、彼の狙いは大成功を収めたと言わざるをえない。このシリーズは今後かなりの部分を、その成功の結果を追いかけることに費やすことになるだろう。

第一一章 クジラ類を保護する新しい法律の提案――さしあたっての戦略

 神経解剖学の研究の進展により、クジラ類の脳の大きさがさまざまであり、類人猿程度のものから、人問並みの大きさのもの、さらに人間の脳の六倍もの大きさのものまであることがわかった。生物学的研究が進んだ結果、クジラ類が人間の言語に似た、複雑な音声を水中で発してコミュニケーションを交わすことがわかった。人間並みの脳を持つクジラ類の場合、人間とコミュニケーションを取ろうと努力することが確かめられている。

 (中略)

 こうした事実と観察から、次のような法律を作ってはどうかと思う。

  1. およそクジラ類を、人間の所有物と考えたり、産業資源や家畜の一種であると見なしてはならない。
  2. クジラ類には、個々の人間に与えられているのと同じ法的権利を与えるべきである。
  3. 個人または団体に権利を付与して、人間から虐待されているクジラ類のために訴訟を起こしたり、クジラ類の代理人として法廷に立てるようにするべきである。
  4. 科学的研究を振興させ、資金を援助してクジラ類とのコミュニケーション方法を確立すぺきである。
  5. こうしたコミュニケーションが確立されたあかつきには、クジラ類と人間双方の合意にもとづいて、両者のあいだのコミュニケーション活用を保護する法律案を作成し、アメリカ合衆国の議会に提出すべきである。
  6. したがってクジラ類と人類のあいだで結ぶ新しい法律や協定、条約を、クジラ類と協力して研究すべきである。

 いまこそ認識をあらためて、これまでの人類の地球上での生き方が、自己中心的であり、孤立した生き方であったことを認めなければならない。人間がこうした生き方をしてきたのは、自分と同等の大きさの脳を持つ海中の生物とのコミュニケーションに失敗したからである。クジラ類は人間の現実とは異質の現実の中に生きている。人間は独自の言語と社会的能力を備え、一五〇〇万年間かけて淘汰を免れてきた経験で規定されるクジラ類の現実を尊重し、研究するべきであり、その研究結果をまとめて人間の法律としなければならない。

 以上に述べた提案がSF小説じみていて荒唐無稽だと決めつけて、真剣に考えようとしない人がともいるにちがいない。そうした見解を持つ人びとにたいしてはこう答えよう。あなたたちの考え方は、ただ単に脳と地球の生態系に関する無知をさらけ出しているだけなのだと。荒唐無稽だと決めつけてしまえば、この壮大なプログラムから安閑と身を引いていられる。しかし人間は長いあいだ、固い信念を抱いて、頑なな考えにとらわれたために、数々の文明を衰亡させてきたのである。この地上に生きる人間以外の生物の中でも、非常に複雑で古い歴史と倫理を持つ生物とのコミュニケーションの可能性に目を見開くためには、過去から受け継いできた、こうした盲目的な信念を振り捨てることが必要である。

 かっこよく決めてもらったところで、本文からの引用は最後である。

 シリーズの前後に対して有益な部分を、長くなりすぎないように選ぶという制約がある以上仕方がないが、私はこの8回に渡る引用でも、リリー博士の魅力を十分に表現できてはいないと思う。

 この現代の魔導書と呼ぶにふさわしい本の魅力を十分に味わうには、ぜひ自分で手にとってもらいたいと思う。*2

 私の意見では、彼の悲劇は生まれてくる時代を間違えたことだ。彼は、世が世ならイルカをトーテムとして崇める部族の大酋長として何千年も語り継がれる人物になっていたかもしれない、イエスや釈尊やムハンマドと並んで世界の大宗教の祖となっていたかもしれない、真の天才だった。

 実のところ今後このシリーズに、彼以上に独創的な人物も・彼以上のカリスマ性を持つ人物も・彼以上に善意の塊のような人物も出てこない。彼との直接対話がここで終わってしまうのは正直とても残念だ。

 だが、あまり寂しがることはない。ある意味では、このシリーズは今後も最後までずっと彼との対話だとも言えるのだから。

 ここ数年の反捕鯨問題に多少なりとも興味があって報道を追っている人にはわかる思う。宇宙文明に還ったはずのリリー博士の霊は今もなお、シー・シェパードの船長ザ・コーヴの監督彼の元で働いていた飼育係、様々な人々の口を借りて、我々に語りかけているのだから。

 最後なのでもう一度強調するが、ここで「頑なな考えにとらわれ」「脳と地球の生態系に関する無知をさらけ出しているだけ」なのは誰かということを問題にするのはやめよう。それは不毛である。

 1960年代の学者や研究が、2010年代の基準を満たしていないからと言ってそれを非難するのは、織田信長の比叡山焼き討ちを「大気中への二酸化炭素排出に無頓着だった」と言って非難するのと本質的に大差のない、ただの時代錯誤である。

 批判すべき点は、しかもそれが有益であると思われる点は他にある。

 さて、約150年前のアメリカに住む(当時の基準で)リベラルな白人科学者たちは、社会や政治の悪影響を受けない客観的知識を追求した結果、

「黒人やインディアンは脳が小さく、類人猿に近い人間とは別種の生き物で、女性や子供に似ていて、白人に比べて痛みを感じない」

 という科学的事実を発見した。彼らは本当に事実を見ていたのだろうか? それとも、

「ネイティブ・アメリカンのジェノサイドや黒人奴隷制度に寄って立つ自分たちを正当化したい」

 という願望を「自然」という名の鏡に映して見ていただけだったのか? 今日時点では、もはや考えるまでもないことだ。

 一方、約50年前のアメリカに住む(現代の基準でも)リベラルな白人科学者たちは、生態系の一員として社会的な責任を果たそうと努力した結果、

「イルカやクジラは脳が大きく、人間以上の知性を持っていて、言語を話し、太古からの知恵を語り継いで、地球と調和して生きている」

 という科学的事実を発見した。彼らは本当に事実を見ていたのだろうか? それとも、

「先祖の土地を返せといって立ち上がる足も銃を取る手も持たず、バスの席をよこせといって犬をけしかけたりしなくてもよく、曾々祖父さんたちが滅ぼしてしまったインディアンの歌よりも何千倍も古くから歌い継がれてきた地球の叡智を教えてくれる、新しい都合のいい隣人がほしい」

 という願望を「自然」という名の鏡に映して見ていただけだったのか?

 厄介なことに今年は西暦2111年ではなく2011年なので「考えるまでもない」とはとてもいかない。考えるまでもないどころか、多くの人には考え始める材料も動機も与えられてはいないだろう。

 だが、正しい答え――と言って悪ければ100年後に考えるまでもなく選ばれる答え――は、もう明らかだと思う。

 私は博士を「感傷主義者、空想家、物欲しげな思想家であると非難」*3したい気持ちを否定できない。否定すべきでもないと思う。だからと言って、もちろん19世紀のルイ・アガシたちの態度に戻ることもできない。

 真に望ましい道は、おそらくその間のどこかにあるのだろう。それを探ることは博士の悲劇に報いることにもなると思う。

 次回からしばらくリリー博士から得た教訓をまとめて「存在の大いなる連鎖」の概念を確認するとともに、ここまでずっと引っ張ってきたいくつかの問題に、ついに回答を与えよう。

 それが終わったら、またしても脳内タイムマシンの旅を再開しよう。しかし以前も強調した*4ようにここは既に現代だ。一体どこへ行こうというのか? もちろん、未来へだ。SF小説じみていて荒唐無稽な世界から、本物のSF小説の世界へ突入するのだ。

*1:ほぼ間違いなくシリーズ最長である。
*2:ただし間違いなく精神的な劇薬でもあるので、必ず子供の手の届かないところに保管するようにしてほしい。事故が起きても責任は持てない。
*3:参考:第20回
*4:参考:第24回

第34回】 【目次】 【第36回

おまけ

 しんみりしたので適当なおまけが見つかりませんでした。

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2011 8/29

(今日の一コマ)

第33回】 【目次】 【第35回

 前回から3年弱も間が開いてしまったが、何事もなかったように再開しよう。あと2回ほど『イルカと話す日』を続けたあと、リリー博士のまとめに入る。

第三章 クジラ類との異種間コミュニケーションに必要な諸科学

 一九五五年から現在までのあいだに、異種間コミュニケーションを実現するためには、事実や理論を理解するためにさまざまな科学が必要だということが明らかになった。こうした理解を助長する科学は、少なくとも一〇種類(おそらくはそれ以上)ある。
 トマス・クーンが述べているとおり、科学が飛躍的発展を遂げるためには、従来の思考の枠組み(パラダイム)とはまったく異なる新しい思考のパラダイムが形成され、若い世代に教えられることが必要である。そうしてはじめて古いパラダイムはその支持者とともに消滅していくのである。

 パラダイムシフトをやたらと強調する学者はトンデモって相場が決まってるじゃん。なんで大勢がこんなのにコロっと騙されたの?」

 みたいな感想を持つ人も読者の中にはいるだろう。(いてほしい。)そして、そこまで分かる人には、それは因果が逆転した後知恵の発想だということにも気がついてほしい。

 リリー博士のような学者が――イルカ・クジラの話に限らず――過去に大勢いて、そしてさらに大勢の人々がそれに騙されたおかげで、現在の我々が

  • パラダイムシフトをやたらと強調する学者はトンデモって相場が決まってる

 というような知識を持ちえているのだ、と考えるべきだ。

 パラダイムの概念は元々問題が多く、ここではさらに通俗的な述べられ方をしているので、あまりまともに受け取らないようにしてもらいたいが、通俗的だからといって必ずしも間違いとは限らない。

 結局のところ、時代精神というものは、古い考え方を身につけた古い世代が死んでいなくなり、新しい世代に取って代わられることによってしか、本当には変わらないのだ。

 このことは、良くも悪くも、好むと好まざるとにかかわらず、しばしば事実であり、今後このシリーズにとって重要なテーマのひとつとなる。

第四章 クジラ類(イルカ、クジラ)とは何か?

 ある人間が自明と信じて疑わない真の偏見は、しばしば、意識的に強力な主張を行っている時よりも、むしろ一見客観的に事実を羅列しているだけの時にこそ、よく現れる。その好例としてひとつ表を見てもらおう。

 いちいち突っこんでいたらきりがないので、間違っている点や意味不明な点を逐一指摘することはしない。それは読者自身の宿題とする。その能力すら自分にないと思う人は読まないようにしてほしい。

表2_1

表2_2

 ……どうだろう? 個人的に、この表は好きだ。博士が人間やイルカをどのように見ていたのかがよくわかるし、そこかしこから静かな狂気とでも言うべきものの片鱗が伝わってきてゾクゾクする。

 特に「8.戦争も徴兵もない」のくだりなどは、なかなかケッサクではないか*1と思うが、今回一箇所だけ取り上げたいのは、そこではなく、シャチの部分だ。

 シャチの胃からイルカやスナメリが出てきたらなんだというのだろう。「胃の内容を調べたところ、ヌーを食べていたライオンがいた」と記すようなものではないか。頭がおかしいのか? と思うのが「普通」だろう。

 ここで博士の頭がおかしくないと言ったら、たぶん嘘になる。彼はどうも鯨類全体を同種のようなものだと考えているようで、それはいくら当時の基準で最大限の情状酌量を試みたとしても相当におかしい。

 だがしかし、それでもなお、ここには「普通」の現代日本人が一読して感じるであろう印象よりも、かなり深い話が隠れている。

 すなわち動物が他の動物を――人間のことはひとまず考えないとしても――食べるとき、何が何を食べるのが「正常」で「自然な」ことであり、何が何を食べるのがそうでないのか? ということだ。

 この本のまとめのところで近いうちに詳述するが、重要なことなので、一度それまでに自分なりに考えておいてもらいたい。第23回のロンブローゾの発言がヒントになるかもしれない。

 次の第八章は、リリー博士をはじめとする当時のリベラルな科学者および科学的教養を持つ人たちの科学観がよく出ていて有益だと思われるので、やや詳細に紹介しよう。

第八章 科学的観察者の進歩と社会の進歩

 宗教的な世界観は、人間の本能に「人間の中の獣」というレッテルを貼り、これを退けた。人間の性行為、攻撃的な行動といったものはすべて「人間の中の獣」に属するものとされた。他の哺乳類が擬人化され、人問の性格を言い表わすのに用いられた。だらしのない、不潔な人間はブタのようだと形容され、あたかもブタの性格を持っているかのようにいわれた。また「羊のような(気が弱い)」といわれる人間もいた。言葉を換えれば、「(羊のように)気が弱い性格」という場合、それは大半の人間ではなく、羊というものの特性と考えられているのである。すべての動物が人間よりも劣るものとして考えられていた。人間に向かっていわれる、「サン・オブ・ア・ビッチ(犬の子供=畜生)」のような罵声は、動物にたいする蔑視から生まれたものであり、その淵源は人間の中に獣を認める宗教的な物の見方にある。

 事程左様に、リリー博士および彼と同じ時代に生きた多くの人々は、キリスト教を、とりわけその動物蔑視を、厳しく批判した。人間だけが魂を持ち、自明に優れており、だから偉いのだという聖書的・西洋的な思想を、差別的な・劣ったものとして激しく断罪した。

 だからなんだとは言わないが、誰かさんたちとそっくりな意見だな?

 現代の医学は、心は脳の中にだけにあるという点で意見が一致している。現代の見解にしたがえば、観察者や科学者は次のような限界を設けられている。

  1. どの観察者も脳の中に一つの心しか持っていない。
  2. どの観察者も知識に限度がある――経験から得られた知識、実験から得られた知識、理論から得られた知識のどれにも限界がある。観察者が作る現実のシミュレーションは、その人間の現実にたいする観察に限界を設ける。
  3. どの観察者も自分の内面を外界に投影して生きており、自分のシミュレーション・スペース、自分の信念の体系の中で生きている。とりわけ観察者の信念は、彼が観察する事象に制限を設け、彼が真実と考えるもの、努力を注ぐに値するものを限定する。

 ここだけ見ると、単語の選び方などに若干SFくさく感じる部分はあるものの、結構まともなことを言ってるように見える。現代でも賞賛されるべき、知的に謙虚で誠実な態度であるように見える。見えるだけでなく、実際に大部分は*2そうだと思われる。

 この科学的観察者がさらに成長するためには次のような明瞭な必要条件がある。

  • a 各観察者は自己の信念を厳密に点検し、見直しをほどこして、その信念が経験と実験から得られた現実と一致するものかどうかを見定めなければならない。自分を取り巻く社会にたいする信念も再検討して、これまでの社会経験との整合を図らなければならない。
  • b 科学的観察者は人類の脳の発達と他の生物の脳の発達を研究しないかぎり、公平な立場に立つことができない。自分自身の中枢神経系の構造について学習し、その機能と起源を理解し、他の生物の場合と比較してみることなしには、観察者は地球上での自分の位置を的確に把握することはできない。
  • c 現代の科学的観察者は、自分がいまだに発達過程にある哺乳類であるという認識を持つ必要がある。科学的研究は西欧の啓蒙主義の産物であって全能ではない。
  • d 現代の科学的観察者が理解しなければならないのは、自分が、人類と他の生物とが構成する巨大なフィードバックシステムをになう一員だということである。観察者が理解すべきなのは、人類が確立した、切り離された「現実」とは、この社会で承認されている通説によって定義されたものだということである。
  • e さらに現代の科学的観察者が理解すべき点は、人間社会の外部を取り巻く現実が、いずれはその要求を明瞭に提示して、地上に生息するさまざまな生物の将来の発展と衰退のパラメーターを決定するという点である。

 このあたりまで来ると、依然としておおむね現代にも通じる謙虚な態度であると認められつつも、いくつか見過ごせない部分が現れてくる。

 特に強調した部分に見られる「科学は西洋の産物にすぎない」とか「社会と切り離された現実なるものは存在しない」とかいう類の、当時流行した極端な相対主義の言説は、現代では行き過ぎであったと見なされることが多い。

 これはまだ歴史の一ページと言えるほど古い話でもないし、まだまだ単独でも分厚い本が何冊も出ているようなテーマなので、このシリーズでこれ以上つっこんで論じることはおそらくできない。文句があれば聞くが、いったんそういうものだと思ってもらいたい。

 ここでは次のことを再確認してもらえれば十分だ。客観性の軽視をはじめとするリリー博士の様々なおかしさを、ただ彼一人の狂気として片付けてしまうことはできない。当時の思想・哲学全体の傾向の一部分だということを考慮に入れなければ正しい理解はできないのだ。

 こうしてわれわれは、現代の科学的観察者が人類の生物学的構造と進化の過程とを意識しているということを理解する。また観察者は人類の将来の進化について、さまざまな可能性のあることに気がついているが、そのうちのどれが実現するかは、現代の社会の通念がどのような発展を遂げ、どのような構造を持つかにかかっている。観察者はもはや世界中に遍在するわけでもなく、全能でも、全知の存在でもない。彼は全知全能の存在になりたいという望みをあきらめ、世界がこれからも現在の構造を維持したまま構築されうるのではないかという願望も捨てている。
 人間は、自分自身の願望を法律や社会通念の中に投影することをやめなければならない。

 それを自分自身に適用することができていれば……と思わざるをえない。しかし同時に、もしそうしていたら、彼は歴史にあまり独創的な貢献は成しえなかったに違いないとも思う。難しいところだ。

*1:真理だ!(笑)
*2:実を言うとこの中にはひとつ、今まさに激しい挑戦を受けている主張があり、そのことはこのシリーズ全体にも少なからぬ影響を及ぼすのだが、それはかなり後の話。今はまだ気にしないでいい。

第33回】 【目次】 【第35回

おまけ

 学校も試験もない。

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2010 6/25

ザ・コーヴ

 もうちょうど一週間前のことになりますが、ニコ生で放送された『ザ・コーヴ』を見ていました。

 最近よく見かけるトゥギャッターというサービスの練習を兼ね、自分のつぶやきをまとめました。

 同時に見ていた他の方を含むまとめは、こちら。(まとめたのは私ではないです。)

 この映画関連の話も、いずれガイア教の天使クジラのシリーズで詳細にしなければならなくなると思います。なので今回ここでは、先回りして調べたい人のための、断片的なヒントというか、情報をつぶやきにつけ加えるにとどめたいと思います。

 主人公のリチャード・オバリー氏は、実は第9回で紹介した『イルカのアヌーからの伝言』に登場していますので、買って読んだ人は知っていたと思います。

 あの時はこんな形で急に有名になることは予想してなかったので、ピックアップしませんでしたが、わんぱくフリッパーの調教師であった、つまりリリー博士とも繋がりのある重要人物ではあったので、しておくべきだったかもしれません。

 あの本に登場することだけから判断してはいけませんが、実際にそちら方面にやや近い方です。映画に少しだけ登場するシーシェパードのワトソン船長のような、バリバリ百戦錬磨の職業活動家とは、かなり毛色が違います。

 「反捕鯨」という一つの勢力があるわけではなくて、様々な思惑と属性を持った人達がまざり合っていることを認識して、分けて考えることが大切です。実際に詳しく分けるのは、ここではしませんが。

 トップに置いた写真はフランス語版のポスターです。なぜリュック・ベッソンかといいますと、Howでいうと配給権を買ったから(らしい)、Whyでいうと、リュック・ベッソン『グラン・ブルー』ジャック・マイヨールというあたりを見ればわかるかもしれませんね。

 『イルカと、海に還る日』は、いずれ取り上げる予定があります。本当に断片的ですが、今回はここまで。

おまけ

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2008 11/25

(今日の一コマ)

第32回】 【目次】 【第34回

 前回でリリー博士に関しては最大の山場を越えたが、まだいくつか興味深い部分が残っているので『イルカと話す日』から抜き書き風に進めよう。

第一章 イルカに関する新学説の展開

 イルカに関する学説を最初に記録したのはアリストテレスである。その著作『動物誌』の中で、アリストテレスはイルカに関して鋭い観察を数多く書き記しており、イルカが胎生であること、授乳すること、呼吸をすること、水中で音をやりとりしてコミュニケーションを交わすことなどを述べている。

 これは本当。さすがは万学の祖と言おうか、一般の学者たちがアリストテレスの観察に追いつくには、その後1800年ぐらいかかっている。第17回で少し言ったが、知識が時間を追うごとにどんどん進歩するという常識は、近代以前に関してはあまり通用しない。

 アリストテレスはさらに「少年たちとイルカとはおたがいに愛情を抱いている」とまで述べており、背中に少年を乗せて海中を泳ぐイルカの話を紹介している。(中略)現代になってこのアリストテレスの観察の正しさは裏づけられたが、それは私がイヴァン・トースと一緒に、彼の映画『フリッパー』をバハマ諸島で撮影中のときのことだった。

(中略)

 私たちが水に入るとすぐにイルカたちは近づいてきて、二人の少年たちは母親イルカの背びれのうしろに乗れるようになった。母イルカは二人を乗せて海の深い方まで連れていくと、水中に潜ってみせたが、二人の息が切れる前に水面に上げてやり、また海岸の端の浅瀬に送りとどけた。(中略)その結果は映画『フリッパー』全編と、同じ題名のテレビの連続番組(邦題は『わんぱくフリッパー』)にうかがえる。こうしてアリストテレスの観察の正しさは証明されたのである。

 私たちは水中で人間に遭遇した現代のイルカが、二〇〇〇年前のイルカと同じ行動をとることを明らかにした。紀元前四〇〇年頃から一九六二年まで、イルカと人間の関係は変化していないのである。その間実に二〇〇〇年以上もの時間が経過しているのだ。アリストテレスのイルカについての学説は、海で本物のイルカを観察したことが基盤になっている。アリストテレスのイルカについての記述のほとんどが正しかったことが今世紀に入って確認されている。しかしそれ以前、彼の観察は疑いの目で見られていた。

 リリー博士の名は知らなくても『わんぱくフリッパー』を見たり聞いたりしたことがあるという人は珍しくないはずである。彼が作ったものと知ってショックを受ける人もいるかもしれない。

 後で見るように彼の思想は(それなりに)真面目な学問の世界にも少なからぬ影響を残したが、今日のガイア教にはむしろこうした大衆文化を通じて与えた影響の方が重要である。*1

 それにしても、イルカ・シャチのショー及びその映像に慣れ親しんでいる我々の感覚からすると、イルカに乗る人間が数十年前までファンタジーと見なされていたというのは、とても不思議な気分だ。

 我々は彼が作った――重要とは言えないまでも決して無視できない一部分を――世界の中で生きている。あまりユリカさんを笑えないようだ。

イルカのペニス

 少年たちがイルカに乗るところを自分の目で観察しておきながら、それを信じることができないなどというばかな話があるだろうか。こうした権威主義的な物の見方はいまでも横行していて、イルカについての研究を阻んでいる。

 十九世紀の終わりから二十世紀の初めにかけて、いくつかの水族館がイルカ類を飼育していた。ビクトリア期のイギリスではイルカのショーが禁止された。イルカの性行為を一般公開してはならないというのが禁止の理由であった。どうやらこのイルカたちは、今日水族館に入れられたイルカ同様にさまざまな形の性行為をしきりと見せたようだ。

 この記述だけで言うわけではないが、リリー博士のイルカの性に関する描写からは、彼が性的に自由奔放であることを「善い動物」の属性と見なしていることは明らかである。

 仮にイルカが、長い婚約期間や複雑な求愛儀式を要求し、飼育下では絶対に交尾などしないような「お堅い」動物――実際にそういう動物は珍しくないのだが――だったらそのエピソードを同じように本で取り上げたか?

 そもそもそんなイルカを好きになって、人間以上の知性を持っているかもしれないと考え、研究するようになったか? もちろん憶測にしかならないが、私は疑問だと思う。

 これもまた彼の属したニューエイジ的文化の特徴にフリーセックスが含まれていること*2を踏まえていなければ意味不明になってしまうところだ。

 皮肉ではあるが、彼の言うとおりだ。時代に応じて変わったのはイルカではない。ロンブローゾがかつてそうしたように*3、そして我々が現在もそうしているように、人間が勝手に擬人化して、その時々の文化的基準を自然・動物に投影しているのである。

 このことはまたリリー博士も時代の子であり、ただ単に狂っていたわけでも本当に異星文明からやってきたわけでもないことの傍証ともなるだろう。我々の倫理観はリリー博士のそれとは様々な点で違っているかもしれないが、ビクトリア朝のそれに比べれば、互いに遙かに似通っているのだ。

第二章 実験で得られた新学説

グレゴリー・ベイトソン

 セント・トーマスの研究所が完成した頃、人類学者のグレゴリー・ベイトソンがイルカの研究に興味を示してきた。ベイトソンはセント・トーマスへの移住に同意し、研究所の運営にたずさわった。(中略)ベイトソンは研究所に一八ヶ月間勤務して、三頭のイルカの行動を観察し、いくつもの重要な発見をした。

 グレゴリー・ベイトソンって知ってるか? ポストモダン界隈ではむしろリリー博士より有名な人物だ。彼はこのシリーズにそれほど重要な役割は果たさないが、そのベイトソンの妻はかの有名なマーガレット・ミードなのだ。

 後でもう少し詳しく取り上げるように、いわゆる「マーガレット・ミード的」な原始社会および性に関する見方は、世界中のリベラルな人々の間で広く受け入れられ、ピークはとうに過ぎたとは言え、現在もガイア教の重要な構成要素となっている。「世間は狭い感」*4を感じてしまう場面である。

 『人間とイルカ』は一九六〇年に執筆された。アメリカで出版されたあと、この本は数ヵ国語に翻訳された。ロシア語訳はロシアの科学者や大衆のあいだで広く読まれ、漁業大臣が黒海とアゾフ海でのイルカの捕獲を禁止するほどであった。フランス語版(“L’Homme et Dauphin”)が出版されたことで、ロベール・メルルの『イルカの日』が生まれた。この小説はおそらく私たちの研究をもとに書き上げられたものである。その後、一九七〇年代になって、この小説はアメリカで映画化された。(中略)一九六六年、私は『イルカの心』を執筆し、私たちの研究の進展を詳しく述べ、多数の科学論文をも掲載した。

 いい加減信じてもらえるようになってきたと思うので言うが、リリー博士は当時、決して異常な例外でも孤立した狂人でもなかった。私が叩きやすい対象としてわざわざ可哀想な老人を捜してきて晒し者にしているわけではないのである。

 逆に、今まで私に対してこの程度の疑いも持っていなかった人はちょっと人が良すぎる。そんな人は今は私の意見に賛成してくれても、別の誰かに別のうまい話を聞かされたらまたコロッとそっちに転ぶに決まっているので、私にとってあまり有り難い読者ではない。

*1:もっとも今回の文脈では学問と文化の区別は必ずしも明白ではないのだが。このことも、もう実例を見てもらって納得してもらうしかない。
*2:参考:第24回
*3:参考:第23回
*4:参考:第23回

第32回】 【目次】 【第34回

おまけ

 イルカ→ジャンプ→飛び込み

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2008 10/27

(今日の一コマ)

第31回】 【目次】 【第33回

 歴史上存在した生物の由来に関する理論は、創造論と進化論のふたつだけというわけではない。

 もちろんそれは最も重要な境目には違いないが、『種の起原』が出版されたと同時にスイッチが切り替わるように前者が後者に置き換えられ、以後そのままであるかのような印象を抱いているなら誤りだ。

 それはあくまで第28回で少し触れたような、我々が歴史を理解しやすくするために必要な簡便法に過ぎない。

 実際には、生物学が聖書を捨て去ってから現代の進化論にたどり着くまでには様々な紆余曲折があった。その中で今回の話は、進化論の歴史に常につきまとってきた、今日でも完全に消え去ってはいない根深い一つの誤りに関係がある。

 なんだか大げさな話になってきたように聞こえるだろうが、そんなに身構えることはない。実はそのことに関する話はすでに大部分終わっているからだ。

 その間違いとは、第2回からずっと注目してきた2番目の存在の大いなる連鎖の時代の考え方、つまり「生命は下等な生物から始まって、より高等な人間を目指して一直線に進化の階層を向上してきた。」とする見方である。

 この人間中心の進化観では“万物の霊長”たる人間のような、大きな脳を持ち、高い知能と高度な精神を有する生物に到達することが、良いことであり、進化の目標であると考える。

 したがって、人間が属する哺乳類は“進化の進んだ高等な生物”であり、他の生物も、

  • 人間に似ているか?
  • 人間の祖先に系統が近いか?
  • 人間のように脳が大きいか?

 という基準に従って、鳥類・爬虫類・両生類・魚類の順でより“進化の後れた下等な生物”であると、一直線的にランクづけされることになる。

 自分自身の種族とそのご先祖様を重視してしまうのは(誤りなりに)わからないでもないとして、では、一度も人間の先祖であったことのない鳥類は、なぜ爬虫類の上・哺乳類の下にランクづけされるのか?

 もちろん鳥類は、哺乳類と同じく爬虫類を祖先に持ち、人間の属する哺乳類と同じく温血だから、爬虫類より「高等」である。しかし、どう見ても哺乳類より脳が小さく頭が良くないので、哺乳類よりは「下等」である。

 現在の地球で最も多種多様な生態学的地位を占め、圧倒的な繁栄を謳歌している節足動物(昆虫*1など)が、なぜ魚類より下にランクづけされるのか?

 そりゃあ人間と類縁のかけ離れた、脳と呼べるほどのものさえ持たない虫けらだから「下等」に決まってるだろう。もちろん全く脳など持たない植物はさらに「下等」である。

 うむ、偶然だけど(笑)科学以前から人間が抱いてきた先入観ともピタリ一致するな。でも客観的な科学がそう言うんだから仕方ないね。これで安心、めでたしめでたし。

 ……とまあ、このような今日の視点からすると非常に人間中心的・目的論的で、単なる偏見と宗教的ドグマの影響を受けまくりの素朴な進化観は、意外に最近まで大手を振ってまかり通っていた。そして多くの社会政策にまでも直接・間接に影響を及ぼした。その一部はこれまでも見た通りだ。

 生物学が様々な技術・理論の進歩によって進化の本当の仕組みを知り、真の系統樹を突き止め、実際の生物界の多様さを理解するようになって、このような見方を脱却したのは、本当についつい最近の出来事なのである。

 このあたりの話は非常に面白くかつ重要なことなので、どんなに詳しく取り上げてもやり過ぎということはないのだが、それではいつまで経ってもここから先に進めないので、興味がある人は独自に勉強してほしい。私はここでリリー博士に戻ろう。

 さて、第一次(二次じゃないぞ)世界大戦中に生まれ、歴史上第2と第3の存在の連鎖間の橋渡しを主導する役割を果たした彼は、もちろん自分自身の片足をまだこの第2の連鎖の考え方に突っ込んでいる。*2

 そろそろ次の展開が予想できるだろう。この言わば一つ古いバージョンの進化論に基づいて考え直せば、博士のイルカ・クジラに対する推論は、俄然違った色彩を帯びてくるのである。

(やる気がある人は次の段落に進む前に前回の引用部をもう一度読み直してこよう。)

 進化というのは人間のような大きな脳・高度な知能を目指して前に進むものである。したがって、人間よりも大きな脳を持つクジラ・イルカは、当然人間よりも知能が高く・進化の進んだ生物である。そしてクジラ・イルカより小さな脳しか持たない人間は当然クジラ・イルカより知能が低く・進化の後れた生物である。これは全く自明の単なる事実である。推論ですらない。

 「進化が進む」とは万物の霊長たる「人間に近づく」ことと同義である。したがって、近づくどころか人間以上の大きさの脳にまでに進化が進んでいるイルカは、当然話ができる。そうでなければおかしい。人間は話ができるからだ。*3イルカに話ができないように見えるとすれば、それは人間の方に知能が足りないからだ。*4全く自明の理である。そうでないなんてことはありえない。それは進化論に反する。

 イルカ・クジラは高度な思考や推論を働かせている。なぜなら人間はそうしているからだ。そうでなければ理屈に合わない。イルカ・クジラは高度な道徳や倫理を持っている。なぜなら人間が――鯨類に比べれば不十分とはいえ――そうだからだ。全く自明の(以下同文)。イルカ・クジラは口承伝承を子孫に教え込んでいる。なぜなら人間が(以下略)。

 どうだろう? あなたの想像力が十分なら伝わるだろう。このぞっとするような首尾一貫性が。自分の常識とまったく相容れない別の一貫した体系というのは不気味で怖ろしく感じるものなのだ。

 この恐怖と引き替えにいくつかの教訓を得ることができよう。

 まずひとつ目の教訓としては、イルカの知能なんて割とどうでもいい――と言ったらリリー博士には怒られるだろうが――話題ですらこんなにも不気味に感じるのだから、それが社会の安定・宇宙の運命・自分の永遠の魂に関することだったらどうかは、もう言うまでもないだろう。

 過去あるいは現在の宗教紛争がどんなに無茶苦茶で非道に見えたとしても、安易に「狂っている」だなんて言うべきではないということだ。*5それは自分の想像力不足による思考停止の責任を相手に押しつけているだけだ。

 ふたつ目の、より重要な教訓は、人間の思考に対して働く時代精神の制約がいかに強力なものであるか、ということだ。彼ほど

「人類は人間中心のものの見方から脱却しなければならない! 人間だけが偉いという古い思い上がったドグマを捨てなければ人類に未来はない!」

 と熱心に説いた人もいないというのに、その彼の思想の前提となっていたのは、率直に言って今日のどこの中高生にも劣る、どうしようもなく人間中心的な生命観・進化観だった。

 なんともやりきれない話だ。*6これはガイア教が抱える多くの“ねじれ”の中でも最大のもののひとつで、リリー博士から学ばなければならないもっとも重要な教訓でもある。

 例によって、私たちがこうして「教訓を学ばなければならない」などと言って上から目線で見ていられるのは、21世紀の後知恵でハリネズミのように武装しているからに過ぎないということを忘れてはならない。

 こうした考察に接すると、義憤にかられ、人間であることに罪悪感を覚える科学者や篤志家もいることだろう。だが、この地球上でこうした現状を認識しているのはごく限られた人びとでしかないことを思えば、現状が変革されるとは思えない。十分な知識を備えた人びとはいくらかはいるだろうが、もはやクジラ類の殺戮を止めることはできないし、クジラ類との協調を図り、彼らとコミュニケーションを取ろうとする新プログラムに着手するとしてもいまとなっては手遅れである。

 本書はこうした著者の学説の基盤を説明し、現状を可能なかぎり詳しく報告しようとしたものである。著者としては、本書の内容が広く知られ、クジラ類とのコミュニケーションの研究プログラム発足の手助けになってほしいと思う。こうしたプログラムを組み立てれば、クジラ類の正体を明らかにし、その思考を解明し、彼らの話の内容を理解することができるようになる。プログラムの発足を公表し、研究結果を発表すれば、殺戮を止めさせることもできるだろう。その時になってはじめて、クジラ類を教育し、クジラ類から教えを乞うという人間の欲求が実を結んで、新しい学校や産業、政府が生まれることだろう。そこで本書では、現在までにわかっている事実を紹介し、人間とイルカとが種の違いを越えて将来協力し合うための指針を提案することにする。

 次の世代の人間が、異種間コミュニケーションこそは、おそらくは現在の地球が直面している最も偉大で高貴な試みなのだと認識してくれれば幸いである。現状を打破して、他の種の動物の思考、感情、行動、言語を理解できるようになることは、人間や地球の概念をも変える偉大で高貴な行為である。地球の表面の七一パーセントは、クジラ類の棲む海で蔽われている。いまこそこの地上の七一パーセントとのつきあい方を学習し、知性と感受性に富み、長い年月を生き抜いてきたイルカ・クジラ類となごやかに共生するすべを学ぼうではないか。

 これはちょうど前回の引用部の直後に続くものだが、我々よりリリー博士に生きていた時代が近く、21世紀の後知恵を知る術もないが、

 義憤・罪悪感・篤志・ごく限られた人びと・変革・新しい政府・偉大・高貴・打破・共生

 などという言葉は現在と同じく大好きだった当時の人々の耳に、この声がどのように響いたか、想像に難くないはずだ。山場は過ぎたもののリリー博士からはまだまだ学ぶことが沢山ある。

*1:神学者から、生命の研究から読み取れる神の性質はどのようなものかと尋ねられた、生物学者J.B.S.ホールデンは「甲虫に対する法外な溺愛」と答えた、という有名なエピソードがある。
*2:他のどこに突っ込めというのだ? 創造論か?
*3:なんと確実な証拠!!
*4:参考:第9回「彼らはおそらくかしこい。しかし、それを解明できるほど人類はかしこくない」
*5:参考:第8回
*6:ただし、別の、より楽観論的な見方をすれば「時代の進歩に応じてどこの中高生でも昔の天才以上になれる。」ということだから希望のある話と考えることも可能であろう。これはコップの水が半分しか入っていないのか、それとも半分も入っているのかというのと同じ話で、どちらかが正しくてどちらかが間違っているという類のものではない。

第31回】 【目次】 【第33回

おまけ

 人類に未来はないつながり。

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2008 10/25

イルカと話す日

第30回】 【目次】 【第32回

 ではまた『イルカと話す日』の続きから始めよう。次の部分はちょうど第29回の引用部分の直後に続くもので、ガイア教徒の鯨類に関する中心信条とでも言うべきものである。

 機会があれば後で実例もお目にかけるが、驚くべきことに――そろそろ驚かなくなってきていてもらえると嬉しいのだが――今日時点ですら、これをほぼそのまま信じている人は大勢いる。

 このような考察を推し進めていけば、イルカとクジラについての新しい学説が生まれる。

  1. クジラ類の脳の大きさは大小さまざまだが、最も小型の脳を持つクジラでも類人猿と同程度の思考力を持っている。
  2. 人間と同じ大きさの脳を持つクジラ類(ハンドウイルカなど)は、人間と同じ思考力を持ち、人間と同じ程度に過去と未来に思考をめぐらせて現状を判断することができる。
  3. 人間よりも大きな脳を持つクジラ類(シャチ、マッコウクジラなど)は人間を凌ぐ思考力を持っており、人間以上に遠い視野で過去や未来を見つめて現状を考えることができる。
  4. 現在の人間が共有しているクジラ類に関する知識は、あまりに不完全である。クジラ類の知性と思考力についての人間の知識は初歩的で不十分であり、クジラ類を絶滅から救う必要性についての認識も欠けている。しかも人間は、クジラ類が認識している地球環境の実態すら理解できずにいるのである。クジラ類がこうした認識を持っていることは、遠い昔に彼らが生き残りをかけて決断を下したことから明らかである。クジラ類は少なくとも人間同様に巧みに環境への適応を果たしてきたし、しかも人間が地上に出現してからの期間の少なくとも二〇倍もの時間を生き抜いてきたのである。
  5. クジラ類は繊細で豊かな感受性を持ち、倫理観にすぐれ、思慮深く、古代から伝わる「肉声による」歴史を持っていて、これを子孫に教えこんでいる。
  6. クジラ類の人間に関する知識は、海上で船舶やヨット、キャッチャーボートなどと遭遇したり、戦った経験に限られている。陸上で人間と接触したあと、海に戻ってきたクジラ類はきわめて少ない。したがって海の中での人間とのコミュニケーションや、人間に関する知識は不十分なものである。クジラ類が人間に関する知識を獲得するのは、捕鯨についての体験と情報交換、イルカの捕獲、海中での爆発、原油の流出、コミュニケーションの妨げとなる船舶の航行音とスクリュー音、潜水艦と戦闘機を使った海上での戦争によるクジラ類の殺傷などの事柄を通じてである。
  7. クジラ類は人類が非常に危険な存在だということを知っている。こうした考えを持っているために、クジラ類はたとえ極端な挑発をされても、倫理的に行動し、人間の身体を傷つけたり、破壊したりしない。もしクジラやイルカが水中で人間を傷つけたり、殺しはじめるようなことがあれば、彼らは間違いなく、人間が海軍を使って、捕鯨産業よりも素早く自分たちを滅ぼそうとするだろうと考えているのである。
  8. したがって、クジラ類は断片的ではあるが人間についての知識を持っており、その知識を使って直接的な体験から理論を引き出し、推理を働かせていると思われる。またその推論の方法は、人間がクジラについての知識を形成するやり方と同様であると考えられる。文字や具体的な記録を持たないにもかかわらず、クジラ類はおそらくその巨大な脳のおかげで、並外れた記憶力を持っており、記憶を統合する能力は人間並みかそれ以上のものがあるのである。
  9. 古生物学上の証拠を見れば、イルカ・クジラ類は人間よりもはるか以前から地球上に生息していたことかわかる。イルカ(現在のハンドウイルカ)類はおよそ五〇〇〇万年前に地球上にあらわれ、脳の大きさも現在の人間並みかそれを上回っていたようだ。特定の種類のクジラやイルカの脳が、現代の人間と同等の大きさに達し、それを上回るようになったのはおよそ三〇〇〇万年前のことらしい。ヒトの頭蓋骨で、現代人と同じ脳容積を持ち、完全な形で多量に見つかるのはわずか一五〇万年前のものである。つまり、人間は地球上ではいまだに進化の過程にある新参者であることがわかる。人間はクジラ類ほど長期にわたって地上に生息することはできないかもしれない(しかも人間は次の世代かその次の世代でクジラ類を絶滅においこんでしまう可能性すらある)。

 ……ううむ、なんとも凄まじい推し進め方だ。確信者にしか持ちえないこの圧倒的なパワー、何度読んでも目眩がしそうになる。

 私が、初心者をいきなりこれに触れさせることを危険と判断し、シリーズの最初の方に持ってこなかった理由を、少しは理解していただけるようになってきたのではないかと思う。

 もちろん21世紀の後知恵でもって、これをバカげた妄想と斬って捨てるのはたやすい。しかし、それでは重要な歴史の教訓を見逃すことになるし、彼が後世に与えた影響力について正しく認識することもできない。*1またかなり長くなると思うが、しばらくこれに真剣に取り組まなければならない。

第八章 科学的観察者の進歩と社会の進歩

 クジラ類は、人類よりも長くこの地球上で生き延びてきただけの能力のあることを示してきた。古生物学上の証拠で明らかにされている限りでは、クジラ類の脳は少なくとも三〇〇〇万年前から人間並みもしくはそれよりも大きなものであった。イルカは、一五〇〇万年前から人間と変わらぬ大きさの脳を持っている。イルカは大型の脳でサバイバルを果たす能力のあることを証明してみせた。内的現実の充実ぶりを尻目に、イルカは全力を尽くして、自分自身の思考としぐさ、そして感情と行動が地球の生態系全体と調和するよう努めてきたのである。
 人類はまだいまのところ、それだけの能力があることを証明していない。人間が現在の大きさの脳を持つようになったのは、たかだか一〇万年前からにすぎない。言葉を換えれば、人類が現在の形態を獲得してから、イルカが地球上に生まれ存続しつづけてきた時間の、わずか一五〇分の一の時間しか経っていないのである。

 リリー博士の思想には、この本の上記部分以外にも、他の本にも、

「イルカ・クジラは人間よりはるか以前から地球環境に適応して暮らしてきた、進化の進んだ先輩であり、進化の過程にある新参者の人間が教えを請うべき存在である。」

 という見解が繰り返し繰り返し現れる。これは一体どういう意味なのだろう?

 私は、読者に義務教育の理科程度の知識しか前提として期待するつもりはないので、気楽に答えてほしいのだが、おそらく「意味不明だ」と感じるはずだ。*2

 「人間は進化の過程にある」ことまでは認めてもよかろう。(そうでない生物がいるとでも?) しかし、新参者とか先輩というのは一体なんなのだ? 普通*3の進化に関する理解では、

 ひとつ、今日生きている全ての生物――異星文明からやってきたというリリー博士を例外とすればだが――は、全生命の共通祖先から始まって同じ*4三十数億年間の進化をして現在に至っている。どちらかが、たとえ一日でも進んでいるとか後れているとかいうことはありえない。

 ふたつ、今日生きている全ての生物は、全て自らの生きてきた地球環境*5に適応してきた。適応できなかった生物は、死んで、もういない。進化というのは突き詰めればそれだけのことだ。*6

 「ある生物がある期間、特に進化しなかった」ということは、単に「その生物がその期間、特に進化を起こすような淘汰圧に晒されなかった」というだけのことでしかない。

 みっつ、5000万年前とか3000万年前とか150万年前とか、あるいはどんな数字であろうとも、それはたまたま発見された特定の化石の年代を元に人間が決めた、人為的な区切りであるに過ぎない。

 イルカやクジラがこんな姿をしていた4,5千万年前にも人間の祖先は暮らしていた*7のだし、「人類が地球に現れたのはつい最近(あるいは大昔)の△△△万年前である」というような言い方は、全く恣意的なものに過ぎない。

 人類進化の研究において便宜的に区切りをつけなければならないという文脈ならばともかく、全く系統の異なる鯨類と比較してそのようなことを言っても、話者がそのように見たがっている、という以上の意味はない。

 たとえば、彼の研究当時、ルーシーはまだ発見されておらず、アウストラロピテクスは初期人類として理科の教科書に載ってなどいなかったが、その発見によって、人類は以前よりクジラを尊敬する度合いを減らしてもよくなったのか?

 仮に、明日アウストラロピテクスが人類の祖先でなかったと判明したら、明後日からもっとクジラを尊敬しなければならなくなるのか?

 5000万年どころか、何億年も形態を変えずに生きてきたシーラカンス・カブトガニ・ゴキブリ・バクテリア*8に教えを請わないのは、彼らのあまりにも偉大すぎる調和は人間ごときには畏れ多いから、クジラ程度のしょぼい調和で我慢しとけってことなのか?*9

 馬鹿な。このような議論をいくら続けても意味がない。明らかに間違っている。私たちの、リリー博士に対する理解が、だ。

 リリー博士はどこからどう見ても進化論否定論者ではないし、未来の弟子と違ってイルカがシリウスからやってきたなんて考えていないし、自分に関しても少なくとも肉体は進化してきたものであることを否定したりしていない。

 ならば、これらの基本的な事実については、程度の差はあれど私たちと同様に認識していたはずなのに、どうしてまるっきり話が通じないのか? 概ね同じ知識を元に全く異質な結論にたどり着くとしたら、違っているのは途中の過程である。

 私はこれから、このような現代の常識からはどう見ても狂っているとしか思えない考えに、当時はそれなりの、おそらくあなたの想像以上の整合性があったことを示そうと思う。

 答えから言ってしまうと、当時のリリー博士が前提として考え・話している進化論は、今日中学・高校で教えられている進化論とは、実際にかなり異なったものなのである。

*1:それができないと結局それを埋め合わせるために、あるはずのないものを探して、また食肉業界がどうとかCIAがどうとかいう陰謀論にはまることになる。
*2:もし「わかる!」という人がいたら自分はいささかヤバいことになっていると気づいていただきたい。まだ間に合ううちに。
*3:この言葉を使うときは、いつどこの誰にとっての“普通”なのかよくよく考える必要がある。
*4:厳密に同じ! このことにはトンデモでない畏敬の念を持っても許されると私は思う。
*5:ここで地球環境と言っているのは、単に宇宙環境に適応して生活している生命が今のところ知られていないからであって特にスピリチュアルな含みはない。
*6:だから生命から意味が奪われるのを嫌がる創造論者は「適者生存などというのは何も意味してないトートロジーだ!」と言って進化論を否定したがる。なんでそれで否定したことになると思えるのか、正直よくわからないのだが。
*7:多くのサルとの共通祖先として。
*8:あまり関係ないが、スティーブン・J.・グールドは「地球は過去も現在も未来もバクテリアの惑星である」というような言い回しを好んだものだった。
*9:ていうかそもそも「調和」って何?

第30回】 【目次】 【第32回

おまけ

 魚類つながり。神ゲー海腹川背の神プレイ。

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2008 10/20

(今日の一コマ)

第29回】 【目次】 【第31回

 前回で、ついに“脳”を介して歴史上三つの大いなる存在の連鎖が全て一本に繋がるところまで来た。いい機会なので少し俯瞰してまとめてみよう。

 いつの時代も――少なくとも何万年という長きにわたって――ずっと変わらないものがある。それは、自分と自分たちの共同体が、宇宙の中で特別の歴史を持ち・特別の使命を帯び・特別の地位を占めていると信じたい人間の心である。

 それは直接目に見えるものではないが、もっと変化しやすい物事を通して、間接的に見ることができる。それはある時代には、

  • 我が部族は大地の誕生と同時にその裂け目から飛び出た偉大なる雄牛の子孫である

 というような神話の形をとって現れ、またある時代には、

  • 全能の父なる神が御自身の姿に似せてアダムとイヴを創られた

 という宗教の形をとって現れ、またある時代には、

  • 生命はアメーバから人間に向かって一直線に進化の階層を駆け上がってきた

 という学説の形をとって現れ、またある時代には、

  • 人類は進化史上のある時期イルカやクジラと仲良く水の中で暮らしていた

 という珍説の形をとって現れるのだ。

 これは私見だが、どうもある時期から一方的にしょぼくなっていくばかりみたいだな。この凄まじい喪失の埋め合わせが、誰かをナチ呼ばわりしたり・漁網を破ったり・酪酸をぶつけたりする程度で済んだら、奇跡に近い僥倖だと思わないか? 私は自分をほとんどあらゆる事柄に対して楽観論者だと考えているが、奇跡を期待する気にはなれないのだ。

 今日の鯨類に、時に人間以上の地位にすら登るという離れ業を可能にさせたのは、もちろん単一の要因などではなく、すでに言及したこと・まだ言及していないことを含め、必然・偶然の様々な要素がロイヤルストレートフラッシュのごとく絶妙に噛み合った結果である。

 しかし、その中でも一番重要な絶対不可欠の要素が“大きな脳”であったことは、間違いないと言ってよいだろう。

 脳科学神経科学は、半世紀前とは比較にならないほど進歩した*1今日でさえ、まだまだ発展途上にある。十分満足できる信頼のおける情報が与えられているとは到底言えず、いまだ半世紀前と同じく理性と神秘の境界線上に載ったままである。

 それゆえ、脳の写真には今日にもいまだ「魔力」がある。*221世紀の人間にとってさえもそうであるのなら、リリー博士をはじめとする当時の人々がこの「魔力」の前に為す術もなかったとしても、いったい何が不思議なのだろうか。

 リリー博士の生まれた時代に注意を向けるように以前伏線を張っておいたが、1915年といえば第一次大戦中だ。ヒトラーが伝令として戦場を駆け回っていた頃だ。

 リリー博士は脳をこの世で最も精妙な装置と表現したが、その脳について確実にわかることといったら、限度を超えた力でぶん回せば豆腐みたいに潰れるというぐらいのことだった。(そうでない物体があるとでも?)

 彼が脳について定量的に何か言うために使える基準は、19世紀の学者たちにとってそうであったのと同じように容積ぐらいしかなかったし、それ以外にできることといったら、顕微鏡で脳細胞を覗いてほとんど違いがない*3と確認することぐらいだった。

 さて、ここで何にでも優劣をつけたがる人間の性向に迎合して、あえてどちらかが狂っていると決めなければならないとしたら、狂っているのはどちらだ?

 時代精神に則って自分の想像力を少々飛躍させただけのリリー博士か? それとも、現在の自国の常識がいつでもどこでも通用すると思っている我々現代日本人か? 個人的には断然後者の見方を支持したいね。

*1:余裕があったら、wikipediaに記載されている知見・研究手法の中で、当時のリリー博士に利用できたものがどれだけあるか数えてみると面白いだろう。
*2:参考:Rauru Blog ≫ Blog Archive ≫ 脳MRIイメージで説得力アップ
*3:当たり前だ。細胞が顕微鏡で見て一目瞭然に違うようなら、イルカはシリウスから来たという主張を真面目に検討しなければならないところだ。

第29回】 【目次】 【第31回

おまけ

 ヒトラー→独ソ戦

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