さて、『人イヌにあう』コンラート・ローレンツのエントリ最後の問題になんと答えただろう? 大多数の人は「背」と入れたのではないかと予想しているのだが。
私も知らなければ「背」と入れただろうと思う。日々野獣の脅威に晒されていた原始の人類の群にあってリーダーの資質として重要だったのは知恵と経験に加えて、体が大きく頑健であることであったに違いない。何か問題でも?
いや、何も問題はない。正解は「額」であるということ以外は。
額? なんで!? と思うだろう。「秀でた額」という慣用句そのものは、日常的に使う言葉ではないにしても、現在でも日本語として不自然ではない。
しかし、そのヒントがあってすら、誰も( A )に「額」と入れようとは思いつかなかった。現代人の我々にはそもそも何故「額」なのかがわからないのだ。もしかして原始人は頭突き勝負で群のリーダーを決めてたとでもいうのか?
無論そうではない。結論から言うと「秀でた額」というのは「知能が高い」ことを意味する、今ではほとんど使われなくなった言い回しなのだ。
この時代の人々は頭蓋の形、すなわち脳とその各部位の大きさに特別なこだわりを持っていた。*1とりわけ前頭葉、すなわち額が大きいことはより知能が高く、より進化していることを意味すると思われていた。ローレンツはこの仮想のリーダーがより知能が高く現代人に近いことを表現しようとしていたわけだ。
確かに額にあたる脳の部位は前頭葉で、前頭葉は確かに進化的に新しい脳であるし、確かに高等と言える精神活動を司っており、だから人間性を代表していると考えても間違いとまでは言えない。
しかし、特にそう考えなければならない理由もなく、実際に我々はそうは考えない。また、いずれにしても同じ群の中の優劣を考えている文脈で登場するのは誤りである。
「人間はカエルより背が高く、人間はカエルより知能も高い。だから背の高い人間は背の低い人間より知能が高い」と言ったら誰でも間違いとわかるだろう。背を額、カエルを類人猿と置き換えても話は同じである。
私達は同じ文章の「彼の瞳は他の誰よりも輝き」の部分には全く疑問を感じなかった。「輝く瞳」が「夜行性の動物のように光を反射しやすい目を持っている」という意味では決してなく、単に「利発である」ことを表す慣用句に過ぎないことを知っているからである。
これは習慣の問題であるとしか言いようがない。ローレンツの「輝く瞳」の言い回しは私達にもまだ通じるが、「秀でた額」の方はもう通じない。想像をたくましくしてみるのも面白いかもしれない。同じ事は未来に対しても起こるだろうか?
我々がもはや「秀でた額」が知能が高いということを意味する慣用句に過ぎないことを忘れてしまっているように、ずっと未来の人類は「輝く瞳」が利発であるということを意味する慣用句であることを忘れてしまうということがあり得るだろうか?
我々の子孫が同じ文章を読んで「この『彼の瞳は他の誰よりも輝き』ってのはどういう意味だ? 原始人の群では夜目が利きやすい奴がリーダーになれたってことなのか?」と不審がるということがあり得るだろうか。
*1:このあたりを詳しく知りたい人には例によって『人間の測りまちがい』をおすすめする。
おまけ
すごく……大きいです(違)。
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