バナナの皮方程式

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ドレイクの方程式

 ドレイクの方程式というものがある。最近は宇宙への関心低下に伴って知らない人も増えているかもしれないが、一定の年代のSF者や宇宙科学に興味のある人は大抵知っている。

 内容の解説はしないので知らない人はwikipediaで予習してほしいが、この方程式なるものは要するに、

 今日道路に落ちていたバナナの皮で滑って転んで頭を打って死ぬ人の数は、今日道に落ちているバナナの皮の数×道に落ちているバナナの皮を人が踏む確率×バナナの皮を踏んだ人が転ぶ確率×転んだ人が頭を打つ確率×頭を打った人が死ぬ確率に等しい。

 ……という、当たり前のことを言っているだけである。それぞれの記号に代入すべき数・確率がすでに知られているのなら、単なるかけ算に過ぎないし、もちろん実際には知られていないのだから、なおさら無意味である。*1

 ところがこれを、いかにも「科学」を連想させる記号で書き、「数学」を連想される「方程式」と名付ける*2と、とたんに何かすごいことを言っているように見え、何か確固たることが言えるような錯覚を起こさせる。

 だからこそ、SFや通俗科学では盛んに使われた。wikipediaにも載っているエピソードだが、

著名な天文学者であるカール・セーガンは文明の存続期間以外の項は総て比較的高い値であると推測している。そして、この宇宙に存在する文明の多寡を決定付ける要素は、文明の存続期間(言い換えると技術文明が自滅を避ける能力の大小)であるとしている。ドレイクの方程式はセーガンにとって、環境問題に関わったり、核の冬の危険に対し警告を発する為の原動力となった。

 カール・セーガンのこのような主張は、どの本だったか忘れたが、私も読んだことがある。もちろんこのような推測を裏づける根拠は、極めて薄弱である。

 数に明るい子供に「銀河系で恒星が形成される速さが大きいと分かったら核戦争をしてもいいのか」と思わせかねないような小細工を弄せずとも、環境保護や核反対の主張はできるはずだし、またすべきだ。

 彼は自分の主張がより正しく・立派で・客観的に見えるように、大衆のこうした科学・数学に対するオカルト的崇拝感覚を利用したのであり、それは、いかにもっともな動機によるものといえども真の科学ではない。

 高橋直樹がこの件に関連してドレイクの方程式に言及しているのは、地下猫さんの「ダンバー数」に対する態度は、この場合のカール・セーガンに相当する誤りではないか、という問題意識に基づくものと理解している。

 つまり「まあそりゃ限度のある要素の集まりには何かしらの限界はあるだろうねえ」と、ドレイクの方程式同様考えるきっかけ程度に扱っておくべきものを、大衆の数学に対する弱さを利用して自分の政治的主張を虚飾することに利用していないかということだ。

 私としては、それはさすがに悪意に取りすぎで、地下猫さんはちゃんと考えるきっかけ程度に扱っているように見える。

 しかし、確かに今回話したような問題意識をちゃんと持っていたら、今回の通りの言い方はしなかっただろうとも思う。批判的な立場の人から疑われるのは仕方あるまい。

 そもそもダンバーの『科学がきらわれる理由』でも、科学が厳密化・数理化されていくに伴って、一般大衆から敬遠・反発の感情が発生し、オカルトへの傾倒を生んでしまう……というような危惧は、重要テーマのひとつだったはずだ。

 セーガンやドレイクの方程式の時代とは風向きが大きく違っているけれども、この本から学ぶものは霊長類学以外にもっとあったんじゃないのかあ、ぐらいのことは私も言っておきたいかな。

*1:考え始めるきっかけぐらいにはなるにしても。
*2:ついでだが「ドレイク」って名前もなんか絶妙に格好いいよなあ。提唱者が「ジョン・スミス」とかいう名前だったら流行らなかったに違いない。全世界のスミスさんには申し訳ないが。

おまけ

 バナナの皮つながり。

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