差別反対を唱える人の内心の差別意識を批判する人の内心の差別的パターナリズムを批判する

 はてなブックマークで見つけた大分昔のエントリだが、実に興味深かった。

 「差別を非難しているが自分も無自覚に差別している人を非難する」内容なのだが、『その「差別を非難しているが自分も無自覚に差別している人を非難する」人が差別問題(少なくともその重要な一側面)に無自覚』という、メタ的な構造になっていたからだ。

 筒井康隆の断筆事件以来差別問題が趣味のひとつである私としては、ここにもう一段メタを重ねてみたいと思う。

 最初の方からなんとなく「一部の動物はもっと平等である」的な戯画的危うさを予感しながら読んではいたのだが、背中につららを突っ込まれたような恐怖が走ってしまったのはこの部分、

「自分が部落だろうが在日だろうがユダヤ人だろうが、そんなことどっちでもよろしい。私という人間の評価や人生になんの違いもありまへん。どうぞ思いたいように思おておくれやす」

 【この台詞が言えるのはまさに自分が今(2006年)ここ(日本)でおいて押しも押されもせぬ圧倒的マジョリティ(日本人)であるからこそなのだ】ということを是非とも理解していただきたい。

 「タイムマシンでナチス時代のユダヤ人にその悟りの境地を説きに行ったらどうですか」とでも言えばわかってもらえるだろうか?

 現在ですら世界には国家にその存在を認められず、自分の民族的アイデンティティを表明することには命をかけなければならないような民族がいくらもいる。それらのケースと在日では問題のレベルが違うと思うだろうが量的には異なっても質的には変わらない。

 つまり「自らのアイデンティティを明らかにできること」は空気のように当たり前のことではないということである。

 日本には日本風の通名を使って暮らす人々がいる。彼らがそうするのは、もちろん歴史的経緯もあるが、そうしない場合と比較して、それがどの程度であれ「現実の」経済的・時間的・精神的・時には身体的な不利益を被るからである。

 就職にも結婚にも交友関係にも住居を借りるのにもまったく不利益がないのであれば、アイデンティティの最たるものである名前を好きこのんで2つも持ちたがる人間などいない。

 自らのアイデンティティを優先するのか、現実的な利益を取るのか、民族的なものに限らずマイノリティに属する者には、このトレードオフに関して常に真剣な悩みがあるのである。

 そしてあからさまな差別行為がすでに禁じられているような先進国では、実際上そうした悩みが存在し存在し続けることこそが差別問題そのものである。

 私が当のエントリに対して疑問に感じるのは差別反対を言いつつ、こうしたことに対する理解がさっぱり感じられないことだ。

 ある作家*1が貧しい人々の暮らしを理解しようと文無しでホームレスに混じって暮らした。

 誰かが皮肉った。「それで貧しさを体験したことにはならない。貧しさとはポケットにお金が入っていないことではなく未来に対する不安なのだから」と。

 このエントリで述べられている悟りは、財布を置いて外に出て貧しい者の気持ちを理解した気になった作家のそれと同じである。ちょっとマイノリティのふりをしてみても、そのことによって現実の不利益を被るという不安がまったく伴っていないからである。

 過去・現在・そして未来においてさえも、常に自分が多数派に属していること、差別を「される」側の人間ではなく「しないであげる」側の人間に属していることを、自明の前提として書かれている。

 自分がマイノリティになりうるという可能性を、あるいは日本を一歩出れば日本人の方がマイノリティなのだということを想像さえできていないのだ。ヨーロッパやアジア旅行の話が出てくるにも関わらずである。

 生まれながらの有利な位置にあぐらをかき、それを自覚することもないまま、ただ単に他人を差別「しないであげる」ことで温情を与えたつもりになっている。

 ここで言う「思いたいように思うておくれやす」というのは「俺はマジョリティの中のマジョリティだ。差別できるものならやってみやがれ」という一種の開き直りである。

 奇しくも同じエントリの中に「多数派から少数派に転落するのが恐くなってきました」と書いてあるのはなんとも興味深い。

 政治的に少数派に属する恐怖*2は想像できても、民族的に少数派であることの恐怖は夢想だにできなかったわけだ

 日本語には「アイデンティティ」に真に対応する言葉がない。辞書を引けばたぶん「自己同一性」と出てくるが、この言葉は単に「”identity”の訳」として出来たものであって、意味的にもそれ(”identity”の訳)だけのものでしかない。

 言葉は世界をどう捉えるかという思考形態を反映している。アイデンティティに対応する言葉を持っていなかったのは、日本人がとりわけアイデンティという概念に理解が薄いことを示している。

 これはアイヌや沖縄人以外のほとんどの日本人が、幸運にも*3民族的なアイデンティティ危機に直面したことがないという歴史的経緯ともたぶん無関係ではないのだろう。

 当のエントリのはてなブックマークのコメントで以下のものが目に止まった。

日本人が日本人以外に間違われた時に感じる怒りは差別なのだろうか?エルキュール・ポアロが「パリに帰れ」と言われた時、それを言うなら「ブリュッセルへ帰れと言いなさい!」と怒っていた場面があったのを思い出す(id:Mr_Rancelot)

 確かに文中の「先生」は中国人を蔑視していたのかもしれない。エントリを読んだだけでは特にそうは読み取れなかったが、本人を直接知っている人の解釈を疑う理由もないのでとりあえず信じよう。

 しかし、仮にそうだとしてもポアロの発した怒りすなわち蔑視云々とは別のアイデンティティに基づく怒りというものが*4存在しうるという視点すら欠如しているように私には思われる。

 これまた問題は先ほどと同じである。「先生」が中国人を蔑視していることは見えても、その背景の「日本人」が『「中国人」と言って遠くから大声で罵』られている*5構図は見えていない。

 それは疑うべくもない自明の前提として存在する(差別的な)構図であって、何らかの考慮を要する類のものではないようなのだ。

  • アイデンティティを取り違えられることに対して*6ただ単に「腹が立つ」と思えることは1人の人間としてどういう意味を持つのか?
  • 「先生」がそもそも「アジアの国」にいられたのは日本国発行のパスポートの力ではないのか?
  • それらが許されない人間が存在することを知っているのだろうか?*7
  • 中国人と間違われたら怒らず笑って訂正しないのが良い日本人なのか?
  • 間違われたのがベルギー人だったら怒ってもいいのだろうか?
  • アメリカ人だったらたぶん怒るべきなんだろうね?
  • 私なら、うーん、どこに間違われてもいい気はしないけどタイ人だったら許すかな。

 馬鹿馬鹿しいからそろそろやめよう。

「なんや、みんな同じ人間やんか。何人やろうと、どこで生まれようと何の問題もあらへん」
「まあ、そういう人も当然いるでしょうね。でも、どっちでもよろしいがな、そんなこと」
「どうぞ思いたいように思おておくれやす」

 このエントリに示された理想を突き詰めれば、誰もがこんな風にアイデンティティ「なんか」尊重しない世界ということになろう。

 しかし、同時にその世界は、日本人が通名を使わなければならなかったり、異性愛者が性的嗜好を隠さなければならない世界だとは夢にも考えられていないことも確実である。

 となれば、人間が存在する限り完全になくなりはしない軋轢を負担するのは誰になるのだろう。

 たぶん在日が通名を使い続け民族のアイデンティティなんか主張しないことになるんじゃないだろうか。

 「だってみんな同じ人間やんか。何人やろうと、どこで生まれようと何の問題もあらへん」のだったら今さらわざわざ民族名なんか名乗る利益なんかないでしょう?

 きっと多くの同性愛者はそれまで通り異性愛者のふりを続けるんじゃないかな。多数派に属すると思われていた方が単純に有利だもん。

 性的嗜好「なんか」重要じゃないんだったら、それは左利きの人がペンを右で持つのと同程度で別に大した事じゃないよね? 「どうぞ思いたいように思おておくれやす」、……と。

 本当にこれでいいんだったら今まで通り「日本人で、男性で、障害者でも被差別部落出身でもなく(中略)ついでに同性愛者でもないという、まったくもって平凡な人間」の地位はさぞかし安泰だろう。

 かく言う私もまた「日本人で、男性で、障害者でも被差別部落出身でもなく(中略)ついでに同性愛者でもないという、まったくもって平凡な人間」で、ついでに言うとそのことを「残念ながら」ではなく「幸運にも」としか感じられないような人間なのだが、それでも私はそんな世界はごめんこうむりたい。

 アイデンティティなんかどうでもよいと開き直りつつ差別を自覚することもなく過ごすよりも、それぞれが己のアイデンティティを主張し合い、時にぶつかり合いながらでも、互いに折り合いをつけ、徐々に認め合ってゆく、そんな世界を私は望むのである。

*1:トルストイのエピソードだったと思うがうろ覚えなので全然違っているかもしれない。
*2:まわりのみんなが差別主義者で自分は少数の反差別者なんだってさ。うわー、こわっ!
*3:と言い切れない気がしてきた。
*4:正当であるかどうか以前に。
*5:「中国人」が「日本人」と罵られているのではなく。
*6:「命が助かった」でも「これで家が借りられる」でもなく。
*7:だからなんだとは言わないが。

コメント

  1. パルタ より:

    母親がユダヤ人ですと、キリスト教徒に改宗ぢてもユダヤ人になるそうです。つまり、非ユダヤ人がユダヤ教徒に改宗し、ラビから認められてユダヤ人になることはできても、母親がユダヤ人の者がユダヤ人を辞めることはできない。キリスト教に改宗したユダヤ人はマラーノ=隠れユダヤ人と見なされます。ナチは血統でユダヤ人を認定したので、ユダヤ教を捨てても逃げられないのですねー。スペインでも隠れユダヤを探すための異端裁判が長く続きました。そこが恐いのですねー。どこの国籍取得しても、改宗しても、駄目なのですねー。
    同性愛差別は男性の方が激しいと思っていたが、人にもよるようだな。

  2. うみょ より:

    こういう文章を読むと、世間の腐った女の子たちは同性愛者をどのように考えているのかな、という疑問が沸きますね。
    意識しなければ同性愛者差別があることには気付くことができないのに、日常的に○○と××がアレコレ…という話を繰り返す。
    それを耳に入れる同性愛者の人はどう感じるんだろう。
    …と本文の趣旨からは少しズレたことを考えてしまいました。
    >天さん
    >加害者として新聞などで報道される時とかに有利
    これがメリットとなるような行動をする人は人間としてどうかと…(苦笑

  3. より:

    >フェアさん
    私も専門家ではないですが、外からの侵略がないのは大きそうですね。
    あと、内部で政権交代(鎌倉→室町など)が起きても、前のやり方(含文化等)の全否定があるわけでもないのも影響がありそうです。
    中国や朝鮮の政権交代は易姓革命と言って、天命(神様)による政権交代なので、かなり徹底的に前政権の文化等が否定されると何かの本で読んだ事があります。

  4. フェア より:

    >天さん
    つまりはアイデンティティとは
    『自分は??であると思う(願う)意識』、
    なんですね。
    日本は島国だし、
    すごく歴史に詳しくないけど、
    日本は侵略されたこともないから
    (GHQ?違うよなぁ)
    意識されなかったんでしょうね。

  5. より:

    文章力がないですが、面白そうな話題なので参加させてもらいます。
    大雑把に言えばユダヤ人=ユダヤ教徒だったはずです。
    よって戸籍のしっかりしていない時代ならユダヤ人でもキリスト教徒に改宗すればヨーロッパ社会に溶け込んで迫害を避ける事は不可能ではなかったようです。
    それでもユダヤ人であり続けたのは、農民や騎士になれない事や、石を投げられたり、一族毎殺されたりするリスクよりも、ユダヤ人としての宗教、言語、文化を選んだ事になります。
    そんな人たちにとっては、「(略)ユダヤ人だろうが、そんなことどっちでもよろしい。」のではなく、ユダヤ人である事が命よりも大事なのでしょう。
    ユダヤ人とエントリの筆者との間にはかなり大きな壁がありますね。
    ・・・考えが纏まらなくなってきたのでここで投下します。w
    >通名について
    通名を使わないと不利益があるだけではなくて、通名を使う事にメリットもあるようです。
    本名と違って比較的簡単に変更できるので、銀行口座を作ったり、加害者として新聞などで報道される時とかに有利だとか。

  6. フェア より:

    ってオヤシロさまの理想は本文中に書いてありました……とっくにダメだ私。
    オヤシロさまの望む世界はお互いに
    認め合おうとする姿勢が両者にないと実現しない……のかな?

  7. フェア より:

    こんな差別意識とか真剣な話題に関してオヤシロ様に聞くのはビビリまくるんですが……
    アイデンティティ?のぶつかり合う場所なんて、思いつくのは精々哲学の学派のぶつかり合いくらいしか思いつかんのです。(しかも今現在も続いているかわからない)
    差別に直面している人たちはこのことに真剣に向き合わざるを得ないのでしょうけど、そうでない私たちがぶつかり合うことは喧嘩くらいでしょうか。(自らのコミュニティに引き篭もり、ぶつかり合うことのない主張をするってところでしょうか)
    自分の中にぶつかり合い、研磨させる要素がない。
    (強いて言うのなら理想、思想がない?)
    オヤシロ様の理想はぶつかり合いながらも認め合う世界ですが、何をぶつけ合うか、想像もつきません。
    オヤシロ様は何を主張し合いたいのですか?
    (ああ怖……辛辣な返答が来るかも)
    (こういう話聞くとMGS2とか思い出す)

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