ある女性作家の子猫殺しエッセイ*1が論議を呼んでいるという件。
普通ならスルー確定の話題だったのだが、たまに読んでいたココヴォコ図書館がそのあおりをくって消えてしまったっぽいので何か書き残しておきたくなった。
当のエントリはあまりこなれていなかったように見えた*2が、動物愛護とナチス思想の関連性に独自にたどり着いていたのだとしたらかなりの慧眼といえる。閉鎖してしまったのはもったいない限りだ。
しかし、この話題についてまともに述べようと思ったら膨大な分量を費やさなきゃらないので少なくとも今はやらない。おすすめの参考書を下で何冊かあげておくに留める。
本題。今回の件で作家を非難している人が、日常的に野良犬や野良猫を始末している保健所に日常的に怒りを感じたり抗議を入れているとは考えがたい。
彼らの本当の抗議の対象は、子猫を殺したことではなくそれを公言したことの方にあるのは明らかだ。彼らの感じている激しい怒りは言葉に直すとこうなる。
増えすぎた動物を殺すなんてことは専門の“卑しい”身分の人間が世間様に見えないようにこっそりやるものであって、善良な一般市民がするものじゃない。
ましてや新聞に書いて他の善良な一般市民(すなわち我々)にまでそんな“穢らわしい”ことを想起させようとするとはまったくもって言語道断。そんな奴は我々善良な一般市民の一員とは認めない!
極めて簡単である。ところが話をややこしくしている別のファクターがある。ひとつには歴史的経緯から、こうした伝統的・東洋的“穢れ”概念が「悪い」ものであるという認識がすでに行き渡っているということ。*3
同時に、だからといってそれに代わる何か別の体系が定着しているわけでもないということだ。
そこに齟齬が生じている。怒りや非難の感情を表現したい人々は、非難の根拠を、怒りを生んだものとは別の慣れ親しんでもいない体系*4からわざわざ探してこなければならなくなっている。
それが奥歯に物が挟まったようなすっきりしない議論がいつまでも続いているように見える理由だろう。
コメント
殺しや死体を扱う仕事が卑しいって昔の西洋にもあったでしょ。
墓掘りや死刑執行人や革職人あたりを思い出して。クエーカーたちの絶対平和主義も数えてもいいかも。