イスラム教で豚肉が禁じられているのは有名だが、世界には大なり小なり様々な食のタブーがある。
歴史上もっとも食のタブーが少ないと言っても過言ではない現代の日本ではこれらのタブーは非常に奇異に感じるであろう。事実、こうした話題になるとネットではよく「何の根拠もないのに『神の思し召しだから』とか言ってタブーを守るなんて狂っている」という類の主張が見られる。
私も信仰には縁遠い人間であってその気持ちは非常によくわかるが、残念ながらその批判は間違っている。一神教的な体系においてはタブーに何の根拠もないのはおかしなことでもいい加減なことでもなく必然である。
それはソクラテスが倫理の究極の問題と呼んだもの(だったっけ? うろおぼえだから何か間違ってると思う)に関連している。「神の命じることは正しい」のか「神の命じることが正しい」のかの問題だ。これだけで「ああそれは大問題だなあ」と思えた人はとても勘がよいと思う。
「神の命じることは正しい」と考えてみよう。神は何が正しいかをよく知っているので間違ったことを命じることはないとする。
一見それでいいような気がするが、この場合神はどこかにある何らかの究極の倫理の基準を非常によく(たぶん完璧に)知っている何者かに過ぎないことになってしまう。これでは神はその究極の何かの代弁者に過ぎないことになり、全能の神という概念とは相容れない。非常にまずい。
では逆に「神の命じることが正しい」としてみる。神が従わなければならないような基準はどこにもないものとする。
すると、今度は神の命じる倫理基準には“神がそう望んでいるから”あるいは“神の気まぐれ”以外のいかなる理由も根拠もない――むしろあってはならない――ことになる。
そのどちらでもないとかその中間であるとかいうことは不可能だ。ともあれ、実在の一神教はこの両者の中では後者の立場を選んでいる。
神は「子供を殺せ!」なんて言わない……ことはない。それは神を人間が決め(られ)る程度の倫理に束縛される存在に過ぎないものとすることになる。もし神が「子供を殺せ!」と言ったらそれが正しいのだ。旧約聖書の世界はマジでそんなだ。
もちろん「どっちも同じぐらい無茶苦茶だからどっちでもいいじゃん」とか「そもそも全知全能とか絶対の正義とかいう概念が間違ってるんだろ」とか言ってしまえばそれまでだ。むしろこんな風に「やっぱり狂ってるじゃん! 一神教なんかなくなっちまえ」的な考えを持つ人もいるだろう。
これを中二病と笑うのは簡単だろうが、真面目に唱えている人もいなくはなくて、たとえばリチャード・ドーキンスなんかがそうだ。ドーキンスの学問的業績を考えるとこのことは大いなる皮肉になるわけだが、それはまた次の機会に。
コメント
利己的遺伝子と無神論が反しているという意味ではないです。
ドーキンスの利己的遺伝子と神の否定は反してない気がするので続きが楽しみです。
リンク先にあった宗教の否定論みたいなのは嫌いではないですが、科学に宗教の代わりはできないし、宗教以上の代用できるものも無さそうなので、私は宗教容認派です。
科学はその範囲外の問題は扱えませんが、宗教は範囲どころか論理的矛盾すら超越できるので強いです。
神の全能性を否定するための「神が持ち上げられないほど重い岩を作る事ができるか?」という話がありますが、神学では「その矛盾すら神が創った」という回答で納まっていたはずです。(笑)