心は傷つけてなんぼ

表現の自由を脅すもの (角川選書)

 というのは私の座右の銘のひとつ。例によって例の如く『表現の自由を脅かすもの』から関係ありそうなところを引用。

 それにしてもこの本も入手困難になってるみたいだな。『人間の測りまちがい』もそうだけど最近人に薦めたいよい本ほど入手困難になっている。

 最近進行している事柄の中にあるのは、人々の感情を害したくない、あるいは少なくとも社会的烙印を押されると特に傷つきやすいと見られるような人々の感情を害したくないという欲求に他ならないと理解しても良かろう。

 どうしてか、「自由な」とは「良い」という観念、自由知識体制は、物分かりの良さ、寛容性、自尊心、偏見や先入観の排除などを育むものであるという観念が出来上がっていた。そうした印象こそ人を誤らせる。自由科学というものは、好き勝手と共に規律をも要求し、このルールを放棄するか馬鹿にする人達にとっては、残酷ともなり得るというのが真実である。それは、寛容でもあるが、排除もし制限もする。それはクールな超然性に劣らず偏見をも成長させる。それはあなたの感情など意に介せず、真理発見の名において平気でそれを踏みにじる。正直に言ってしまえば、それは時として犯罪を助長させさえする。自尊心、物分かりの良さ、他者の信念に対する尊敬、偏見の放棄など、全て大変結構なことである。しかし、これらを優先的な社会目標にしてしまうと、人間の知識の平和的生産的発達とは相容れなくなる。知識の発達のためには、時には我々全てが苦しまなければならない。それどころかもっと悪いことには、我々は他者を苦しませねばならない。

現実に人達が傷つけられている。だから保護行動は道徳的絶対命令である。」人々の感情が害されたというのは、否定の仕様がない。しかし、人の感情を決して傷つけてはならないという運動の明白な弱点の一つは、ポルノ反対運動が常に覆い隠さなければならない弱点と同じであるが、それは人を傷つける言論や意見というものが、感情を害したという以外に、現実にどんな具体的、客観的な害を与えたかを全く示すことができないということである。さらにまた、言葉で「傷つけられた」と言えるには、どれくらい深刻に感情が害されなければならないのか、また人を傷つける言葉の被害者が現に本人が主張するほど酷く害されているかどうかを、どうやって述べればいいのかを定めることも、彼らにはこれまでなし得なかったのである。そもそも傷つける言葉とイライラさせる言葉をどうやって区別するのか。

 こう言って迫られると、人道主義者達は、頑迷な考えや悪しき考えは、酷く不快なものである、人々の自尊心を害する、一種の虐待である、等々の修辞的な言い回しに後退する。有害な言葉を〈嫌な〉とか〈耳障り〉とか言うことさえ、言葉の与える害を軽視するものだと彼らは論じる。「〈嫌な〉とは、傷害または犯罪が表面的なものに止まり、心の広い(〈自由で思いやりのある〉)人だったら受け入れないまでも許容しうるということを示唆している」とスタンレー・フィシュは書いている。「言論の効果が、良きにつけ悪しきにつけ、芯にまで達し得るという考えは、全然持たれていない。全てが無重力の言葉の上でのやり取りといったレベルに止まっている。ある種の言論が、人をずたずたにするような害を与えるといった考えは皆無である。」暴力の隠喩(「ずたずたにする」)への後退に注意していただきたい。また回りくどい言い方にも注意して欲しい。確かに、「ある種の」言葉は「芯にまで達し」得る。しかし、全体としての問題は、どんな種類の、どんな言葉が、そしてどうやってそれを告げるのか、どれくらい深く芯にまで、というのはうんと深くか、などである。気に障る程度を測るメーターがあれば、問題を解決することができるだろうが、そんなものはないので、「現実に人達が傷つけられている」という苦情は、誰が傷つけられているのか、何時、どんなに酷く、あるいはどれくらい沢山というのは、うんと沢山か、などについて何も語ってくれない。そうしたメーターが存在したとしても、それでも問題は残る。「芯にまで達する」ような真実の言葉は、ではどうなのか。「芯にまで達する」ような役に立つしかし厳しい批判は、どうなのか。生物の先生がダーウィンは正しいと公言したあとで、創造論者がわっと泣き崩れて大学を退学すると想像してみよう。それは「ずたずたに切り裂くこと」なのか。それは、止めさせるべきことなのか。

おまけ

 みんなのうたの傑作と言うと必ず話題に上るもののひとつ。私もこれは好きだった。

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