リー・M. シルヴァー『人類最後のタブー―バイオテクノロジーが直面する生命倫理とは』

人類最後のタブー―バイオテクノロジーが直面する生命倫理とは

 宗教右派と自然崇拝の左派、双方からのバイオテクノロジーに対する反発に対する、分子生物学者の立場からの批判。この手の話に慣れている人にとっては改めてすごい話は出ないと思うが、その分網羅性が高く、どんな人にも非常におすすめである。

 原題は“Challenging Natrue – The Clash of Science and Spirituality at the New Frontiers of Life”。『挑戦しがいのある自然 生命最前線における科学と霊性の衝突』ぐらいの意味合い。原題の方が内容をよく表している。派手すぎる装丁とタイトルは明らかに失敗だと思う。

 参考リンクの雨崎さんが怒っているようにリチャード・ドーキンス的な一種の傲慢さや、議論の乱暴さが見られることは確かだ。が、それでも私の立場は著者のものにかなり近い。もちろんこの本では比較対象が左右の両極端だから必要以上に近く見えているだけである可能性もあるが。

 著者のような基本的に科学・技術・人間・未来を信頼する楽観論に、若干の適切な抑制を加えたところが自分の理想とする立場である。「若干の適切な」なんて付け加えたら何も言ってないのと同じじゃねーか! と突っこまれそうだが、微妙な話なので慌てずに追い追い書いていく予定。

 ちなみに著者が文中で「ポスト・キリスト教」と呼んでいるものは、私がガイア教と呼んでいるのとほぼ同じものだ。表紙の影絵で、キリスト教の神を表している(と思われる)巨大な手と並んで下から突き出ているのはクジラの尾だ。原著にはないようなので著者の意匠ではないだろうが。

 後で話に使いたいと思っている箇所を、ひとつだけ長めに引用。

 うわべだけを見ると、右派のアメリカ人と遺伝子組み換え作物に反対するヨーロッパ人のあいだには、共通点はほとんどないように思える。保守主義者は植物や動物の遺伝子操作のことをたいして心配していないし、“自然”食品の擁護者は人間の胚を守るのに時間を費やしたりはしない。それどころか、さまざまな面で、右翼と左翼の反バイオテクノロジー活動家は、互いに軽蔑し合っているというのが実情だろう。にもかかわらず、根底の部分で、多くの人々が共通の感情に突き動かされている。それは、個としての人間と種としての人間を超越した目に見えない崇高な実体が、バイオテクノロジーに侵されつつあるという恐怖感だ。右翼の人間が思い描くその実体は、聖書に登場する創造主としての神であり、天上から人間を支配する。かたや左翼の側では、西ヨーロッパ人の大半と一部のアメリカ人が、教会の教えに叛旗を翻してきた。しかし、霊魂を否定したことによって生じた空白を、多くの人は、この地球に存在する女神、つまり母なる自然というあいまい模糊とした実体に忠誠を誓うことで埋めるようになった。もっとも、当人たちはふつう、自分の気持ちをそういう言葉で表わそうとはしないが。

 誠実な神学者をはじめ、宗教や霊魂を信じる多くの人々は、人間を超越した高次の、または深遠な権威を信じる心がバイオテクノロジーヘの敵意の拠りどころになっていることを、あっさりと認める。イギリスのチャールズ皇太子は、バイオテクノロジーを植物と動物に応用する行為を糾弾し、国民にこう告げた。「あいにくわたしの考えでは、この種の遺伝子組み換えは人類を神の領域に、神のみに委ねられた領域に踏み込ませるものだ……わたしたちは権利の時代に生きている。わたしたちの創造主もなんらかの権利を持っていい時代だと、わたしには思える」ブッシュ大統領の生命倫理諮問委員会(カス委員会)の委員長、シカゴ大学教授レオン・カス〔二〇〇二年から二〇〇五年まで委員長を務めた。二〇〇七年二月現在も委員会メンバー〕は、バイオテクノロジーが最も道徳に反するのは、知識を得るために、あるいは幸福感のような人間の本質的特徴を修正するために使用されるときだ、と断じている。カスの主張によると、人間の幸福は本来、「霊魂が感じ取るもので、それは、充実した人生を送った報いであるべきだ」。カスは、バイオテクノロジーによる操作で幸福を達成することが可能になった現状に、大いなる不満を抱いている。

 しかし、老練な政治評論家たちのあいだに、はるかによく見受けられるのは、西欧諸国で一般大衆に話しかける際、宗教や霊魂にまつわる用語を努めて使わないようにするという傾向だ。カトリック教徒や福音主義キリスト教徒は、胚研究への反論を唱えるとき、自分たちを理性的かつ科学的に見せようと躍起になっている。また、ポスト・キリスト教の立場から、“伝統的”農業と薬草による健康療法を擁護する人々は、母なる自然がいちばんよく知っているという――往々にして無意識に抱く――自分たちの信念が、非宗教的で理性的なものであることを声高に主張する。しかし、どちらの見解も、生命の未来に関する、人智を超えた基本計画への全面的な信頼感の表われだ。この信頼感は、キリスト教というルーツを通じて、西洋文化全般に深く根づいている。これに対して、アジア全域に見られる東洋精神の根底を流れる思想は、この世界に支配者たる創造主も支配者による計画も認めない。そのかわりに、それぞれの霊的存在がみずからの未来に責任を負い、永遠に輪廻を繰り返して存続する。そういう文化的環境においては“神を演じている”という非難は無意味で説得力を欠き、バイオテクノロジーが西洋のように言下に否認されることはない。

 霊的観念は、公然と認められているものも、秘められたものも、無意識のものも、一見単純そうな単語――“有機”“種”“人類”、そしてずばり“生命”――に、科学的論考で使われる場合とはまったく異なる意味を付与する。その結果、合理主義者とロマン主義者の話は、気づくことすらないままに、すれ違ってしまう可能性がある。教養を備えた人の大多数が、“自然”という語を善の同義語と理解する一方で、その対立概念――不自然、人工、合成――には、反射的に負の反応を示す。広告主は、“すべて自然の材料を使っています”“人工調味料、人工着色料、人工保存料はいっさい使用していません”という宣伝文句を食品に添付するメリットをよくわかっているし、遺伝子組み換え作物は決まって、批判勢力から。“自然に反する”と酷評される。わたしがここで指摘しておきたいのは、バイオテクノロジーに反対する自然主義者の主張はすべて、実は霊性の主張だということだ。ときには、宗教の教義を土台にした政治的目標を隠蔽するために、意図的にそういうすり替えが行なわれる。また、分厚く塗り重ねられた自己欺瞞の漆喰の下に、霊性の壁面が隠されていることもある。

 わたしは、霊性の表明がすべて有害だとか悪だとか主張しているわけではない。バイオテクノロジーの適用がすべて本質的に善だとか倫理的だとか安全だとか考えているわけでもない。現実問題として、バイオテクノロジーの適用を受け入れるか拒否するかの決定には、人間の自主性、文化的伝統の維持、社会福祉、環境保護などの倫理的価値との折り合いという、むずかしい要素が絡んでくる。しかし、そういう妥協点を明確に見きわめる姿勢は、民主主義社会において優れた政策決定を行なうのに欠かせないものだろう。自然に存在するものは完全無欠であるという妄信は、これから本書で説明するように、人類の幸福とわたしたちの住む環境を本気で気遣うのなら、賢明な態度とは呼べない。

参考リンク

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おまけ

 アビー・ブリタニー姉妹の話も出てきます。

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