2008 3/17

イルカと話す日

第26回】 【目次】 【第28回

 前回に続きジョン・C・リリー著『イルカと話す日』を読み進めよう。やっと本人の登場。

著者序文

 一九五五年、私はイルカ(本書では基本的にハンドウイルカTursiops truncatusを指す)の科学的研究に着手した。一九六八年、この研究プログラムは終了した。この間、イルカについて大きな発見がいくつもなされた。

 一九六八年から一九七六年にかけて、私は自分自身を含めた人間についての研究に精力を注いだ。この研究はのちに一冊の本(『ディープーセルフ――深層リラクセイションとタンク・アイソレーションのテクニック』サイモン・アンド・シャスター、ニューヨーク、一九七七年)にまとめられ、刊行された。この研究をまとめるあいだに、私は一九六八年から一九七六年にかけて発表されたイルカに関する論文に目を通してみた。その結果わかったことは、一九五五年から一九六八年にかけて私が発表した論文にもとづいて、イルカと人間のコミュニケーション、イルカ同士のコミュニケーションを論じた研究は一つもないということだった。

 ですよねー(笑)。

 すまん、前回他人に笑うなと力説しておいて自分がいきなり笑ってしまった。しかし、これで笑うなというのも、それはそれである意味人間性に対する冒涜というものだろう。

 この本には研究の終わりについては書かれていないが、他の情報源によると「“仲間”を実験のために閉じこめておくのは倫理に叶わない」という理由で飼っていたイルカを逃がして自ら実験を打ち切ったそうである。実情はどうだったのかは知らないが、推して知るべし。

 その後、直接彼の後を追ってみすみす自分のキャリアを棒に振るような学者は、さすがにいなかったようだ。だが後で見てもらうように、彼の精神は一般大衆はもちろん、一部の学者の間にさえ広く生き残ったのである。

イルカに関する発見の年表

 私は一九六八年から一九七六年にかけて他の研究者が発表した論文の目録を作成した。やがて私はこの文献目録を出版したいと考えるようになった。

 これらの論文に目をとおして、私はいまこそイルカについての自分の研究をまとめるいい機会だと確信するようになった。

(中略)

 著者と協力者たちが一九五五年から一九七六年にかけて達成したイルカに関する発見の年表を次頁に掲げた。表中の文献の参照番号は付録の文献解題のものである。

 写真の年表を見てもらおう。すでにあちこちにそこはかとなく微妙な空気が漂っているのが感じられるだろうが、特に「LSDって、あのLSDと同じ略称だけとなんの略?」と思わないだろうか。

 これは実は他の何の略でもなく、あのLSD、リゼルグ酸ジエチルアミド以外のなにものでもない。彼は自分やイルカにLSDを使うことで互いに交信できると考えた。このあたりは第24回で予習してもらったようなヒッピー文化を踏まえていないとまったく意味不明になってしまうところであろう。

 人類は有史以前から幻覚剤を使って動物と交信をして神秘的な知識を得ようとしてきた。いつごろからと断言できるような考古学的証拠を持つ者は今のところ誰もいないが、ラスコーアルタミラの素晴らしい*1壁画を描いたクロマニヨン人たちがそうしていなかったとしたら驚くべきことだろう。

 そして今や酒や毒キノコはLSDに、雄牛がイルカに道を譲ったというわけだ。人類も随分と進歩したもんだ。『針の上で天使は何人踊れるか』で学んだ教訓を憶えているか?*2

日本語版への序文

3頭のイルカが

 一九七八年に本書『イルカと話す日』を出版したとき、私は揺るぎない結論を得たと考えた。二〇年以上にわたってイルカを科学的に研究し、イルカが生理面でも、精神面でも、特有の能力を持っていると考えてきた私は、この驚くべき生き物とコミュニケーションを交わす方法を習得すれば、人類はいずれ、私が「種の孤立」と名付けている状態に終止符を打てるだろうという結論を出したのである。

 それ以前、正確には一九六〇年に、私は慎重に考えたうえで、次のような楽観的な見通しを述べている。「あと一〇年か二〇年ののちに、人類は他の生物とのコミュニケーションを確立するだろう。人間とは種を異にするその生物は、地球外生物の可能性もあるが、むしろ海洋に棲む生物である可能性のほうが高く、間違いなく高い知性を備えている。おそらく人間と同程度の知性の持ち主であろう」。

 一九九四年現在、こうした異種間コミュニケーションはまだ実現していないが、私はいまだに一九六〇年当時と同じく、異種間コミュニケーションの実現に楽観的な見通しを持ち、希望を抱いている。そしてこのたび本書が日本で刊行されるにあたり、私の初期の研究がいまも人びとから注目され、関心を呼び、私の研究の意義に理解を示す人びとが増えつつあることを嬉しく思う。

 笑った直後であれなのだが、私は、彼の50年代から60年代の研究自体は、かなり度外れているとは言え、科学を進歩させる(かもしれなかった)正当な想像力の飛躍として認められるべきだと考える。

 しかし、その後に彼が取った態度はまったく弁護できない。すでに亡くなって――あるいは肉体を抜け出して異星文明に帰って――しまった彼を裁く法律はない*3が、彼は今日の状況に対して道義的責任を負っており、歴史の審判を受けねばならないだろう。*4

 本書の刊行以来、クジラ類の脳の構造が人間の脳に匹敵する大きさと複雑さを持つということは、多くの人に理解され、支持されるようになった。地球上には人間以外に、意識を持ち、自己を認識し、複雑で抽象的な思考をめぐらすことができる生物がいるという、この発見によって、あらゆる生物の頂点に立っているのは人間だけではないという考えが理解されるようになった。

 この特権的地位を占めているのは、人類だけだというこれまでの通説が覆されたのである。この理解が広がることで、旧来の人間中心の世界観は、根本から組み替えられることを余儀なくされた。それはちょうど、コペルニクスが新しい地球観を打ち出して、地球は宇宙の中心ではなく、きわめて特殊な衛星を持つ小型の天体なのだと主張したのと同じくらい、革新的なできごとだった。

 またきた。自分をガリレオやコペルニクスになぞらえるのはトンデモ学者の典型的パターンなので、やもするとマッドサイエンティストの途方もない誇大妄想だとあっさり片づけてしまいそうになるところだ。

 しかし、あなたはそうとも言えないということをすでに学んでいるはずだ。これは第17回で見たような伝統的・聖書的動物観への反動と捉えなければならない。その意味でとても自然な発想であり、ある意味で確かに革新的なことなのだ。

 本書の主題はコミュニケーションである。そこで叙述の目的上、私はコミュニケーションを、二つもしくはそれ以上の知性のあいだで行われる情報の交換と定義した。そして、人間がイルカやクジラなどの古代から生き長らえてきた頭脳と充実したコミュニケーションを交わせるようになったとき、彼らとの意思の疎通がどのような成果がもたらすかを詳しく論じた。

 嘆かわしいことであるが、人間は海に棲むクジラ類にたいして、いまだに別のかたちの干渉や働きかけを行なっている。人類は海洋を汚染し、海洋の生態系を破壊している。そして最も恐るべきことに、人類は直接的であれ間接的であれ、意図的にさまざまな海生動物を絶滅に追いやっている。その結果、一九九二年だけで人間の捕鯨によって、一○○万頭以上のクジラ類が殺されているのである。隣人と争い、他の人類に戦争をしかけ、他の生物を情け容赦なく捕獲して絶滅させることで、人間は「コミュニケーション」という言葉の本来の意味を冒涜しているように思われる。

 もしかして冒涜されている「コミュニケーション」という言葉の本来の意味ってのは前の段落で自分で定義したもののことなのだろうか。それにしても一〇〇万という数字はどこから出てきたのだろう?*5

 捕鯨だけでなく、漁網に絡まったりして死ぬイルカの類*6を全世界分合計しても全然足りない数だ。数の多さを表す飾り言葉である”million”の誤訳(「無数の」と訳すべきところ)という可能性も考えたが、はっきり「一九九二年だけで」と言っているところを見ると無理があると思う。正直私にはわかりかねる。

 私は、人間と同じように大型の脳を持ち、地球に住み、地球に生命を委ねているこのクジラ類という動物に新たな期待を寄せている。熱意に溢れ、進んだ意識を持つ数多くの人間がたゆまぬ努力を重ねて、無知の壁を取り払コミュニケーションの障壁を突破すれば、やがて人間とイルカは言葉を交わせるようになり、双方が地上での生活から得たさまざまな体験を共有し合えるようになるだろう。

 私は「クジラ類国家」の設立を構想している。クジラ類国家をつくって、代表の人間を国連に派遣し、この国家――地球の表面の七一パーセントを占める海である――の住民の主張を、正当なやり方で自由に表明させるのである。

 これも同じだ。子供じみたマンガチックな空想に見えるかもしれないが、第21回のあたりで見たような、長い人種差別の歴史に対する反動として捉えれば、そこまで突飛な発想とは言えなくなる。極端から極端に走ってしまうのは人間のもっとも基本的な弱点の一つだ。

 最後に本書を手にしてくれた日本の新しい世代の読者に、謹んでお礼申し上げるとともに、彼らがこの夢の対話の実現に取り組むことを心から歓迎したい。素晴らしい新世界を築くには、若い世代がこの、イルカとの対話という課題に取り組むことがぜひとも必要である。そしていつかわれわれは共通の夢を抱いたことを誇れるようになるだろう。また、いつの日かその夢が実現すれば、一層の誇りを感じることができるだろう。

 一九九四年三月三〇日 ハワイ、マウイにて   ジョン・C・リリー

 すまないが私にはお礼を言われる資格はないようだ。まだようやく序文が終わったところだが、いったんまとめよう。

 スティーブン・ジェイ・グールドが公民権運動で黒人と並んで座り込みをしていたのとまさに同じ時に、なぜだか知らないが、自分たちは孤独だ、孤立していると感じ、シロイルカの肌に熱烈なキスをしている人々がいた。

 彼らは、西洋の伝統的な宗教観や社会哲学に批判的だった*7が、最初から西洋哲学の伝統から外れたところにいる人間の目から見ると、まだまだそこから抜け切れていないか、あるいは一回転して元に戻ってしまっているだけだった。

 もうしばらくリリー博士につきあうことを通じて、この「ねじれ」をもっとはっきり認識できるようになってもらいたい。この「ねじれ」こそがガイア教徒の全ての力の源であり、同時に彼らに限界を課しているもの、すなわちガイア教そのものであるからだ。

*1:どう見ても私の絵よりうまい。
*2:「未開人はもっぱら呪術の世界に浸っていたのではなく、自然の力と超自然の力をともども認識し、普段は確実な知識に基づく合理的な手段で自然に対処していたが、あらゆる努力も知識も凌駕する不可知の影響力を統御するときに、呪術に頼った。文明社会も実は同様なのであり、理性と神秘の境界線の位置や知識の体系のあり方、それらと社会の仕組との関係が異なっているだけなのである。」
*3:そんなものがあるべきだとも思わない。
*4:それにしてもイルカ好きが度を越したぐらいでそんな目に遭わなきゃならないなんて地球は危険な星だと思う。
*5:一〇〇万だったら何なんだということはひとまず置くとして
*6:言うまでもなく捕鯨とは比べものにならないほど多い。
*7:少なくとも本人たちはそう思っていたし、それは決して嘘というわけではない。

第26回】 【目次】 【第28回

おまけ

 C・W・ニコルさん。この人だけは心底気の毒だ。

by 木戸孝紀 tags:


“ガイア教の天使クジラ27 ジョン・C・リリー『イルカと話す日』 2/8”へのコメント 3

  1. 1. わんこ

    あの???木戸様、質問よろしいでしょうか。私はこの件に関して無知なんですみませんが、世間でよく聞く、「クジラは頭がいい」という言説はこのおっさんが全ての元凶なんでしょうか?そしてそれについてコミュニケーションの確立も含めて未だに実証されていないということでよろしいですか?

  2. 2. 匿名

    >この驚くべき生き物とコミュニケーションを交わす方法を習得すれば、人類はいずれ、私が「種の孤立」と名付けている状態に終止符を打てるだろうという結論を出したのである。
    悪いけど、このトンデモ先生の言うことは、とてもオモロイ。
    イルカの記述さえ除外すれば、1970後半から20年間で、新式のコミュニケーション手段が狂ったように発明されまくった事を考えると、この先生のインスピレーションは本物だなぁ?と思ってしまう
    ただ、30年後の現在において、そのコミュニケーション手段で手に入れたのが、
    「異生物間コミュニケーション」でも「種の孤立、終焉」でもなくて
    ネットの引きこもりである所に、皮肉な感じがするけど・・・
    だいたい、みんな「個の孤立」するほうが好きだしなぁ

  3. 3. 木戸孝紀

    >わんこさん
    >このおっさんが全ての元凶
    そういう印象を与えているのなら私のミスだ。むしろ逆で全ての元凶のような存在を考える必要のまったくない
    自然な現象なんだということを分かってほしいところ。次回で補足すると思う。
    >名無しさん
    だね。まったく唯トンデモなだけじゃこんな影響力は持てなかっただろう。

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