ガイア教の天使クジラ31 ジョン・C・リリー『イルカと話す日』 5/8

イルカと話す日

第30回】 【目次】 【第32回

 ではまた『イルカと話す日』の続きから始めよう。次の部分はちょうど第29回の引用部分の直後に続くもので、ガイア教徒の鯨類に関する中心信条とでも言うべきものである。

 機会があれば後で実例もお目にかけるが、驚くべきことに――そろそろ驚かなくなってきていてもらえると嬉しいのだが――今日時点ですら、これをほぼそのまま信じている人は大勢いる。

 このような考察を推し進めていけば、イルカとクジラについての新しい学説が生まれる。

  1. クジラ類の脳の大きさは大小さまざまだが、最も小型の脳を持つクジラでも類人猿と同程度の思考力を持っている。
  2. 人間と同じ大きさの脳を持つクジラ類(ハンドウイルカなど)は、人間と同じ思考力を持ち、人間と同じ程度に過去と未来に思考をめぐらせて現状を判断することができる。
  3. 人間よりも大きな脳を持つクジラ類(シャチ、マッコウクジラなど)は人間を凌ぐ思考力を持っており、人間以上に遠い視野で過去や未来を見つめて現状を考えることができる。
  4. 現在の人間が共有しているクジラ類に関する知識は、あまりに不完全である。クジラ類の知性と思考力についての人間の知識は初歩的で不十分であり、クジラ類を絶滅から救う必要性についての認識も欠けている。しかも人間は、クジラ類が認識している地球環境の実態すら理解できずにいるのである。クジラ類がこうした認識を持っていることは、遠い昔に彼らが生き残りをかけて決断を下したことから明らかである。クジラ類は少なくとも人間同様に巧みに環境への適応を果たしてきたし、しかも人間が地上に出現してからの期間の少なくとも二〇倍もの時間を生き抜いてきたのである。
  5. クジラ類は繊細で豊かな感受性を持ち、倫理観にすぐれ、思慮深く、古代から伝わる「肉声による」歴史を持っていて、これを子孫に教えこんでいる。
  6. クジラ類の人間に関する知識は、海上で船舶やヨット、キャッチャーボートなどと遭遇したり、戦った経験に限られている。陸上で人間と接触したあと、海に戻ってきたクジラ類はきわめて少ない。したがって海の中での人間とのコミュニケーションや、人間に関する知識は不十分なものである。クジラ類が人間に関する知識を獲得するのは、捕鯨についての体験と情報交換、イルカの捕獲、海中での爆発、原油の流出、コミュニケーションの妨げとなる船舶の航行音とスクリュー音、潜水艦と戦闘機を使った海上での戦争によるクジラ類の殺傷などの事柄を通じてである。
  7. クジラ類は人類が非常に危険な存在だということを知っている。こうした考えを持っているために、クジラ類はたとえ極端な挑発をされても、倫理的に行動し、人間の身体を傷つけたり、破壊したりしない。もしクジラやイルカが水中で人間を傷つけたり、殺しはじめるようなことがあれば、彼らは間違いなく、人間が海軍を使って、捕鯨産業よりも素早く自分たちを滅ぼそうとするだろうと考えているのである。
  8. したがって、クジラ類は断片的ではあるが人間についての知識を持っており、その知識を使って直接的な体験から理論を引き出し、推理を働かせていると思われる。またその推論の方法は、人間がクジラについての知識を形成するやり方と同様であると考えられる。文字や具体的な記録を持たないにもかかわらず、クジラ類はおそらくその巨大な脳のおかげで、並外れた記憶力を持っており、記憶を統合する能力は人間並みかそれ以上のものがあるのである。
  9. 古生物学上の証拠を見れば、イルカ・クジラ類は人間よりもはるか以前から地球上に生息していたことかわかる。イルカ(現在のハンドウイルカ)類はおよそ五〇〇〇万年前に地球上にあらわれ、脳の大きさも現在の人間並みかそれを上回っていたようだ。特定の種類のクジラやイルカの脳が、現代の人間と同等の大きさに達し、それを上回るようになったのはおよそ三〇〇〇万年前のことらしい。ヒトの頭蓋骨で、現代人と同じ脳容積を持ち、完全な形で多量に見つかるのはわずか一五〇万年前のものである。つまり、人間は地球上ではいまだに進化の過程にある新参者であることがわかる。人間はクジラ類ほど長期にわたって地上に生息することはできないかもしれない(しかも人間は次の世代かその次の世代でクジラ類を絶滅においこんでしまう可能性すらある)。

 ……ううむ、なんとも凄まじい推し進め方だ。確信者にしか持ちえないこの圧倒的なパワー、何度読んでも目眩がしそうになる。

 私が、初心者をいきなりこれに触れさせることを危険と判断し、シリーズの最初の方に持ってこなかった理由を、少しは理解していただけるようになってきたのではないかと思う。

 もちろん21世紀の後知恵でもって、これをバカげた妄想と斬って捨てるのはたやすい。しかし、それでは重要な歴史の教訓を見逃すことになるし、彼が後世に与えた影響力について正しく認識することもできない。*1またかなり長くなると思うが、しばらくこれに真剣に取り組まなければならない。

第八章 科学的観察者の進歩と社会の進歩

 クジラ類は、人類よりも長くこの地球上で生き延びてきただけの能力のあることを示してきた。古生物学上の証拠で明らかにされている限りでは、クジラ類の脳は少なくとも三〇〇〇万年前から人間並みもしくはそれよりも大きなものであった。イルカは、一五〇〇万年前から人間と変わらぬ大きさの脳を持っている。イルカは大型の脳でサバイバルを果たす能力のあることを証明してみせた。内的現実の充実ぶりを尻目に、イルカは全力を尽くして、自分自身の思考としぐさ、そして感情と行動が地球の生態系全体と調和するよう努めてきたのである。
 人類はまだいまのところ、それだけの能力があることを証明していない。人間が現在の大きさの脳を持つようになったのは、たかだか一〇万年前からにすぎない。言葉を換えれば、人類が現在の形態を獲得してから、イルカが地球上に生まれ存続しつづけてきた時間の、わずか一五〇分の一の時間しか経っていないのである。

 リリー博士の思想には、この本の上記部分以外にも、他の本にも、

「イルカ・クジラは人間よりはるか以前から地球環境に適応して暮らしてきた、進化の進んだ先輩であり、進化の過程にある新参者の人間が教えを請うべき存在である。」

 という見解が繰り返し繰り返し現れる。これは一体どういう意味なのだろう?

 私は、読者に義務教育の理科程度の知識しか前提として期待するつもりはないので、気楽に答えてほしいのだが、おそらく「意味不明だ」と感じるはずだ。*2

 「人間は進化の過程にある」ことまでは認めてもよかろう。(そうでない生物がいるとでも?) しかし、新参者とか先輩というのは一体なんなのだ? 普通*3の進化に関する理解では、

 ひとつ、今日生きている全ての生物――異星文明からやってきたというリリー博士を例外とすればだが――は、全生命の共通祖先から始まって同じ*4三十数億年間の進化をして現在に至っている。どちらかが、たとえ一日でも進んでいるとか後れているとかいうことはありえない。

 ふたつ、今日生きている全ての生物は、全て自らの生きてきた地球環境*5に適応してきた。適応できなかった生物は、死んで、もういない。進化というのは突き詰めればそれだけのことだ。*6

 「ある生物がある期間、特に進化しなかった」ということは、単に「その生物がその期間、特に進化を起こすような淘汰圧に晒されなかった」というだけのことでしかない。

 みっつ、5000万年前とか3000万年前とか150万年前とか、あるいはどんな数字であろうとも、それはたまたま発見された特定の化石の年代を元に人間が決めた、人為的な区切りであるに過ぎない。

 イルカやクジラがこんな姿をしていた4,5千万年前にも人間の祖先は暮らしていた*7のだし、「人類が地球に現れたのはつい最近(あるいは大昔)の△△△万年前である」というような言い方は、全く恣意的なものに過ぎない。

 人類進化の研究において便宜的に区切りをつけなければならないという文脈ならばともかく、全く系統の異なる鯨類と比較してそのようなことを言っても、話者がそのように見たがっている、という以上の意味はない。

 たとえば、彼の研究当時、ルーシーはまだ発見されておらず、アウストラロピテクスは初期人類として理科の教科書に載ってなどいなかったが、その発見によって、人類は以前よりクジラを尊敬する度合いを減らしてもよくなったのか?

 仮に、明日アウストラロピテクスが人類の祖先でなかったと判明したら、明後日からもっとクジラを尊敬しなければならなくなるのか?

 5000万年どころか、何億年も形態を変えずに生きてきたシーラカンス・カブトガニ・ゴキブリ・バクテリア*8に教えを請わないのは、彼らのあまりにも偉大すぎる調和は人間ごときには畏れ多いから、クジラ程度のしょぼい調和で我慢しとけってことなのか?*9

 馬鹿な。このような議論をいくら続けても意味がない。明らかに間違っている。私たちの、リリー博士に対する理解が、だ。

 リリー博士はどこからどう見ても進化論否定論者ではないし、未来の弟子と違ってイルカがシリウスからやってきたなんて考えていないし、自分に関しても少なくとも肉体は進化してきたものであることを否定したりしていない。

 ならば、これらの基本的な事実については、程度の差はあれど私たちと同様に認識していたはずなのに、どうしてまるっきり話が通じないのか? 概ね同じ知識を元に全く異質な結論にたどり着くとしたら、違っているのは途中の過程である。

 私はこれから、このような現代の常識からはどう見ても狂っているとしか思えない考えに、当時はそれなりの、おそらくあなたの想像以上の整合性があったことを示そうと思う。

 答えから言ってしまうと、当時のリリー博士が前提として考え・話している進化論は、今日中学・高校で教えられている進化論とは、実際にかなり異なったものなのである。

*1:それができないと結局それを埋め合わせるために、あるはずのないものを探して、また食肉業界がどうとかCIAがどうとかいう陰謀論にはまることになる。
*2:もし「わかる!」という人がいたら自分はいささかヤバいことになっていると気づいていただきたい。まだ間に合ううちに。
*3:この言葉を使うときは、いつどこの誰にとっての“普通”なのかよくよく考える必要がある。
*4:厳密に同じ! このことにはトンデモでない畏敬の念を持っても許されると私は思う。
*5:ここで地球環境と言っているのは、単に宇宙環境に適応して生活している生命が今のところ知られていないからであって特にスピリチュアルな含みはない。
*6:だから生命から意味が奪われるのを嫌がる創造論者は「適者生存などというのは何も意味してないトートロジーだ!」と言って進化論を否定したがる。なんでそれで否定したことになると思えるのか、正直よくわからないのだが。
*7:多くのサルとの共通祖先として。
*8:あまり関係ないが、スティーブン・J.・グールドは「地球は過去も現在も未来もバクテリアの惑星である」というような言い回しを好んだものだった。
*9:ていうかそもそも「調和」って何?

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おまけ

 魚類つながり。神ゲー海腹川背の神プレイ。

コメント

  1. 木戸孝紀 より:

    >ひらいさん
    ああしまった。これはボケじゃなくて素です。
    もちろん素でクジラを魚類だと思ったという意味ではなく、
    途中で長くなりすぎて次回に回った部分に魚類に言及する箇所が
    あるんですよ。おまけの方を先に決めてたので気づかなかった。
    今から変えるとコメントが意味不明になっちゃうので
    もうこのまま行きます(笑)。

  2. ひらい より:

    クジラは魚じゃない…
    って、誰もつっこまなかったら可哀想なのでつっこんでおきます。
    にしても、すげーな、この動画。

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