2016 7/16

失われた地平線 (新潮文庫)

第40回】 【目次

 あのハンターハンターさえ連載再開するぐらいだから自分も頑張ろうと思ってこのエントリを書き始めたら、書き上がるまでに再び休載してしもた(笑)。まあ仕方ない。始めよう。

 今回取り上げる作品、記念すべき後半戦最初の作品は、ジェームズ・ヒルトン失われた地平線』(1933)である。

 未来・SFの世界にご案内しようとか言っておいて*1いきなり普通はSFに分類される作品ではない。時代も、未来どころかリリー博士の時代から30年ほどもさかのぼる。前回のダライ・ラマの前振りがなかったら、そもそもなんで取り上げるのか全くわからないだろう。

 おまけに、小説そのものは今読んで面白いとは全く言いがたい。適当に最低限のあらすじだけ紹介しながら、このシリーズにとって意味のある点でのみ、少し引用して立ち止まることにしよう。

 物語の舞台は1931年。古い小説にはたまにあるように、何重かの伝聞という形式を取っているが、メインストーリーの主人公はコンウェイというイギリス領事。理想的なイギリス紳士(独身)である。

 彼はバスクール*2という土地に駐在していたのだが、そこで革命が起き、「白人」居住者は軍の飛行機でペシャワールへ避難することになった。

 ところがコンウェイ他4人が乗った飛行機は、操縦士がいつの間にか見知らぬ「現地人」に入れ替わっており、彼らは勝手にチベットの山奥へ連れて行かれてしまう。

 その操縦士すらも心臓麻痺か何かで急死してしまい、途方に暮れた4人は駕籠を担いだ「東洋人」の集団に出会い、シャングリ・ラのラマ教(チベット仏教)寺院へ迎えられる。

 シャングリラという名前について少し調べてもらいたい。後にどれほどの影響力を持ったかについては、モデルになったあたりの地域が実際にシャングリラ市に改名した、という一事をもってしてもわかるであろう。*3

 シャングリラは下界より遥かにゆっくりとした時間の流れる理想郷であった。シャングリラについての描写を2箇所ほど抜粋。

 ところがこのラマ僧院には、そうした中国風の装飾品の他に、まだ注目すべきものがあったのだ。例えば、それの一つとして、すこぶる快適な図書室があった。(中略)そこには世界の代表的な文学作品が洩れなく取り揃えられているばかりでなく、彼の評価の及ばない玄妙珍奇な典籍がぎっしりと並んでいるのだった。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語の書物がふんだんにあり、中国語その他の東洋語の筆写本にいたっては、まず数えきれないほどだった。

(中略)

 とにかくプラトンのギリシャ語原典が英訳のオマー・ハイヤームと隣り合っているかと思うと、ニーチェニュートンと手をつなぎ、トマス・モアがいると、傍らにハンナ・モアトマス・ムーアジョージ・ムーア、おまけにオールド・ムーアまでも揃っているのだった。

 個別の書名や著者名にこだわる必要はない。ざっと雰囲気を掴むだけでよい。

 コンウェイがさらに驚いたことには、その小亭の内部には一台のハープシコードと最新型のグランド・ピアノとが据えつけてあるのだった。(中略)ラマ僧たちは西洋の音楽を、なかでもモーツァルトを、非常に高く評価し愛好しているとのことだった。ヨーロッパの偉大な作曲家の作品は残らずここに取り揃えてあるし、ラマ僧たちのうちにはさまざまな楽器の練達者が何人かいるという話だった。

 お、おう……。

 コンウェイは、シャングリラに滞在するうち、僧院のトップである「大ラマ」に異例の目通りを許される。

 大ラマがシャングリラの歴史を語る。普通に引用していたら長くなりすぎるので、かなり大胆に要約させてもらう。ここから次の引用部までの間、鍵括弧内が原文ママの表現。

 1719年のこと、ペローというカプチン会の修道僧が、ネストリウス派の信仰の名残を探す旅で偶然シャングリラに行き着いた。

 古いラマ教寺院をキリスト教の修道院に建て直して宣教を始め、53歳の時には定住するようになった。ローマから召喚状が来たりもしたが、もはや老齢のため従うことができず、生涯シャングリラに留まることになった。

 98歳の時には仏教の経典を紐解き始めた(最初はキリスト教信仰の立場から批判するためだったし、実際そうしたのだが)。「インド人がヨガと呼ぶ神秘的な黙想修行」の研究を始めた。108歳の時臨終の床についたが、やがて回復し始めた。

 臨死体験で、ある意義深い幻覚をこの世へ持ち帰ったペローは「直ちに厳格な自己訓練を開始し、しかも奇妙なことにも、それと平行して麻薬に耽溺し出した」「いまや谷間の寺院では『感謝聖歌』と『南無阿弥陀仏』とがこもごも洩れ聞こえるようになった」

「そんな馬鹿なことが……」と彼は吃りながら言った。(中略)
「わが子よ、いかがなされた?」
 ゆえ知らぬ情感のため体が震えるのを覚えつつ、あえてその震えを押さえようともせずに、コンウェイは答えた。
「あなたはまだ生きていらっしゃる、祖師ペロー様!」

 200歳を軽くを超えるペロー神父その人であることが明らかになった大ラマが語るシャングリラの魅力。大事なところなので少し長めに抜粋。

 私が描いて進ぜた見通しは、魅力的なものでしょう。ながいながい静謐の境涯にあって、俗世の人々が時計の鳴るのを聞くと同じ気持ちで、それよりもはるかに心労のない態度で、あなたは夕陽の沈みゆくのを眺めていることだろう。時は来たり、年は去り、あなたは肉体的な享楽から解脱して、漸次より厳しい、それでいてそれに劣らぬ満足を与えてくれる境地に入って行かれることでしょう。(中略)あなたは深い静けさを、老熟した叡智を、そして明晰な記憶力の陶酔を味わうことになるなる筈です。そして、なによりも貴重なことは、あなたが『時』を獲得なされるということですぞ。よろしいか、あなたがた西洋の国々が追求すればするほど見失ってしまっている、あの得がたく貴重な贈物を……なのですぞ。まあ、考えてもごらんなされ、あなたは書物を読む時間を得られる……もはや二度と、時間を惜しんで、頁から頁へと拾い読みをしたりすることはありますまい。また、あまり熱中しすぎないようにとの配慮から、なにかの研究を控えるというようなこともなさらなくなるでしょう。(中略)楽譜も楽器もが、妨げられず果てしない『時』とともに、その最も豊潤な香りをあなたに捧げるべく、すべて用意されてあるのですよ。(中略)賢明で波立たぬ静穏な交友、いつもあわただしく人を呼び立てる『死』を恐れることのない、久しく温かい心と心の交わりというものを考えられて、あなたは心をひかれることはありませぬか?

 ひとつめのポイントは、この大ラマことペロー神父の語り、ひいてはジェームズ・ヒルトンが抱き、当時の欧米人が共感したイメージは、かなり普遍的な魅力を備えている、ということだ。

 多くの個人差・地域差・時代差があるにしても、説明する必要のない明白な問題点に引っかかるのは割り引かなければならないとしても、これに魅力を感じ、心をひかれない読者がいようか。(私ももっと書く時間取りたいよ!)

 ふたつめのポイントは、強調部に表れている(西洋)文明批判の側面だ。ここを補完する場面として以下の引用を見てほしい。話の順序が前後するが、シャングリラ到着翌日に4人のうちのひとりが早く帰りたがっている、という場面。

「誰かがよっぽど機敏に立ち回ってくれないと、とても今日中には出発できそうにないな」などと、マリンソンは呟いていた。「あの連中は典型的な東洋人だからね。ちょっとやそっとで事をてきぱき敏活に処理させられるもんじゃないからなあ」
 コンウェイは黙ってその言葉に頷いてみせた。マリンソンはもうイギリスを出てから一年近くにもなるのだ。二十年も東洋に住んでいたとしてもおそらく繰り返すだろう同じ結論に、もうそろそろ到達してもよかろうと思われる頃だ。そして、実際に、彼の言葉はある程度正当だった。ただコンウェイの見るところでは、必ずしも東洋の諸民族が異常なまでに遅鈍なのではなくて、イギリス人やアメリカ人が常軌を逸した熱にうかれて、間断なく地球上を駆けずり回っているように思われてならないのだった。こうした考え方には彼と同じ西洋人たちが同感する筈もないのは、彼にだってわかってはいたが、年を追い経験を積んでゆくにつれて、彼のその見解は強められてきていた。

 この東洋観が差別的だ、というような見ればわかることを言いたいのではない。私たちが過去について誤った期待を抱いていない限り、それは1933年が1933年であるという自明の事実を意味するに過ぎない。

 オリエンタリズム一般について、ここで説明することもしない。例によって、このシリーズの観点から重要な点に絞ってまとめよう。

 この時点において「東洋(人)」は「西洋(人)」に対して、平等な関係・対等の選択肢として存在するのではない。あくまで忙しい自分たち(「西洋(人)」)を省みるための小道具に過ぎない。実際の「東洋(人)」は、ある意味どうでもいいと思われている。

 実際チベットの扱いは極めていい加減だ。私はチベット仏教の教義について何も知らないが、それが「麻薬をやりながらゆっくり西洋の文学や音楽を楽しもう」というようなものではない、と断言しても、文句は来ないと思う。(枝葉末節だが『南無阿弥陀仏』も唱えないと思う。)

 このような「東洋」の扱いは決して珍しいものではなかったし、この作品は、そのような創作の中で最も有名なものでも最も洗練されたものでもない。*4それでも私が時代精神の代表としてこの作品を選んだ理由は、一番最後でまとめよう。

 大ラマは、そもそもコンウェイらが連れてこられたのも偶然ではなく、外部の人間を招くため計画だったことを明かしてくれる。

 まず大体から申して、この土地の高度や其の他の条件に馴らされているチベット人は、外部の人種の人たちほど感覚が鋭敏ではありません。(中略)百歳以上の寿命を保つ者はどうも少ないように思われます。中国人はまだよろしいようですが、それでも失敗する者はかなり多いようです。最も成績のよろしいのが、ヨーロッパの北部の人たちやラテン系の種族でして、アメリカ人もほぼ同じくらい適応性があるのではないかと思われます。

 わっはは、チベット人は鈍いからダライラマに向かないか。中国人に替わってもらった方がましだな。

「その理由は、ちゃんとあるのですよ。(中略)それこそが、この偶然寄り集まった異邦人たちのこの群落にとって、寿命を越えてまで長生きすべき理由のすべてなのです。(中略)われわれには一つの夢があり、幻想があるのです。(中略)かつて一七八九年に老ペローがこの部屋で臨終の床についておったときに、その枕頭を訪れた幻想だったのですよ。(中略)そうした追想を通して彼が感じましたのは、すべて美しいものがはかなく滅びやすく、この世の戦乱や欲望や獣性がいつの日にかそれらをことごとく破砕してしまうかも知れぬ、という憂慮だったのです。(中略)つまり、この世界の国々が、叡智においてではなく、卑俗な欲情や破壊の意志において、次第に強化されてゆくさまを見ていたのです。機械の力が倍加して行って、ついには武装したただ一人の人間が大君主ルイ十四世の全軍にも匹敵するようなことになるだろうことを見て取ったのです。

(中略)

殺人の技術を手にして驚喜した人類が、この世界の隅々まで荒れ狂いまわって、(中略)書物も絵画も音楽も、二千年の歳月を通じて貯えられた、微小で繊細で防御のすべを持たぬすべての宝物が、(中略)破壊されてしまうだろう……とな。

(中略)

 おそらくこの破局は、あなたが今の私ほどの年齢になられるよりも前に、やって来ることでしょうから」
「それで、このシャングリ・ラがその破局を免れることができると、そうお考えなのですね?」
「おそらくはな。(中略)ここには、われわれが育み護って、やがて残し伝えるべき遺産があります。その時がやって来るまで、お互いに人生を楽しみ味わうことにしようではありませんか?」
「そして、その時が来ましたら?」
「その時には、よろしいか、強者どもが相互にむさぼり合って果てたその時には、初めてキリストの倫理が履行され、柔和なる者は幸福なるかな(マタイ伝、第五章、第五節)……ということになるのですよ」

 1933年はヒトラーがドイツ首相に就任しナチスが政権を取った年であり、日本が国際連盟を脱退した年でもあることを参考にどうぞ。

 また、時代の反映であると同時に、時代を越えた普遍的な魅力を備えてもいる。間もなく来る破局、そして復活というテーマは、古くからよく知られているものだ。このミームを受け継いでいる未来の「子孫」を思いつく人も多いだろう。*5

「これから来たらんとしている暗黒時代は、この世界全体を一つの棺衣でおおい包んでしまうのです。遁れる道もなければ、隠れる場所もなく、ただ見出しかねる僻地か物の数に入らぬささやかな場所のみに、助かる見込みが残されるのみでありましょう。シャングリ・ラは、そのいずれでもありうるわけです。大都市に死を運ぶ飛行士とても、(中略)ここを爆弾を一発投下するだけの価値がある土地だとは思わぬでありましょうからな」

 「なんでこいつら最終戦争が起こっても山奥にこもってるだけで大丈夫だと思ってるの? ばかなの? 死ぬの?」と思った人いませんかね? 私は初めて読んだ時に思いましたよ。

 でも、ちょっと考えて気づきましたね。馬鹿は我々の方です。1933年には、核兵器という概念は、一部の先進的な物理学者やSF作家の想像の中にしかなかったのです。死の灰とか核の冬という概念も当然まだありません。この「一発の爆弾」は核爆弾ではなく通常爆弾なのです。

 この場面の直後、大ラマはコンウェイを自分の後継者に指名して亡くなる。小説の筋としては、ここからあともうひと盛り上がりあるのだが、このシリーズの観点からはどうでもいいので無視する。

 まとめに入ろう。

 繰り返すが、東洋(人)観が差別的だとか、見ればわかることを言いたいのではない。80年以上も先から振り返っている未来人である我々の目には、そのような問題点はあまりにも明白であり、大まじめに説明するのは野暮というものだ。むしろ馬鹿にしているのかと怒られかねない。

 何より、そのような問題点に今日一番敏感なのは、日本人以上に、まずガイア教の支持層である欧米のリベラルな人々であろう。

 たとえば現代のワトソン船長がどれほど自意識の肥満した男であっても、自分がダライ・ラマの後継者に指名されるとは絶対に期待していないだろう。もはや馬鹿らしすぎて冗談にもならない。

 それでもこの作品が当シリーズの観点から有用なのは、まさにその古さゆえだ。このシリーズで着目すべき重要な変化――私がガイア教の本質と考える変化――のスタート地点およびそこから向かう方角を、見事に捉えたスナップショットと見なせるからだ。

  • 地上*6に神秘が残されていた最後の時代であるが、それがまもなく消えてしまうのではないかという予感はある。
  • 伝統的な差別――白人種の他人種に対する優越・西洋文明の他の文明に対する優越・キリスト教の他の宗教に対する優越――はまだ自明のものだった最後の時代。だが、それが正しくないのではないかという意識も芽生えている。
  • 第二次世界大戦もまだ起きておらず、核兵器が存在しなかった最後の時代。しかし、文明の全てを破壊するような最終戦争が起きるのではないかという恐怖はすでにある。

 このスタート地点と、今現在あなたが生きている瞬間と、それが書かれた時代を三角測量することによって、これから見ていく作品を、よりよく理解することができるだろう。「オリエンタリズム」の糸においてだけでなく、このシリーズの最後の最後まで重要な視点となるはずだ。

*1第39回
*2:ちょっと調べた限りではどこのことかわからなかった。架空の地名?
*3:ついでに個人的なことも言うと、私はその名を冠するホテルチェーンに何度も宿泊したことがある。参考:シャングリ・ラ・ホテルズ&リゾーツ
*4:たとえばエーリッヒ・ショイルマン『パパラギ』(1920)の方が、どちらにおいても上であろうと思う。
*5:私が真っ先に連想するのは『風の谷のナウシカ』のヒドラの庭園だ。
*6:ここでは「地下・海中を除く地球上」ぐらいの意味。

第40回】 【目次

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2015 6/29

第39回】 【目次】 【第41回

 ここまで『存在の大いなる連鎖』という一本の柱に沿って、時系列に進んできたこのシリーズだが、ここからは、詳細に分け入る代償として、多少複雑にならざるをえない。

 このシリーズでは、過去と未来で何が変化して何が不変であるかを常に意識することが、理解にあたって重要だ。*1しかし、完全に過去から現在へ進みながら、多岐にわたる話を扱うと、話があちこちに飛びすぎてわかりづらいことになる。

 折衷案として、織物でいえば縦糸とでも言うべきいくつかのキーワードを選び、縦糸を次々と取っ替え引っ替えしながらも、その糸の範囲では時系列を(ほぼ)維持するという方針を取ることにした。

イルカと話す日

 最初の糸の先端を、またリリー博士から再開させていただこう。

 中間テストでも予告したジョン・C・リリー『イルカと話す日』のエピグラフ。2本あるうちの最初のひとつはこれだ。

「公衆が科学研究の努力と成果とを、意識的かつ分かりやすい形で体験する機会を与えられるということは、大変意義深いことである。一握りの専門家だけが研究成果を利用し、洗練して、応用するだけでは十分ではない。知識をわずかな数の専門家だけに独占させることは一国の国民の哲学的精神を衰退させ、精神の貧困をもたらすことになる」

――アルバート・アインシュタイン

 アインシュタインに極端な愛憎を抱く――おそらくは単に彼が世界一有名な学者であるというだけの理由で――というトンデモ科学者のステロタイプをまたしても連想させる内容だが、今回着目するのはこちらではなく、並列されているもうひとつのエピグラフの方だ。

 「人間の親指にも満たない大きさの内なる精神、プルシャは、あらゆる生物の魂に永遠に宿っている」

――『ウパニシャッド

 最初に現在の本筋でない部分を断っておく。『イルカと話す日』を扱っている際に、本の巻頭にあるこのエピグラフを、あえて見せなかった理由は、おそらく理解していただけると思う。

 今日の日本人にとって“プルシャ”という単語は特定のエピソードを連想させすぎる。このシリーズ全体の主旨と無関係というわけではないが、あの段階で予断を持たせるのは、マイナスの効果の方が勝ると思ったからだ。

 さて、この2本の引用元の選択には、科学に対して愛憎半ばする感情と東洋思想への傾倒という、当時のリベラルな人々が共有した精神をよく代表している。第24回の内容を憶えていれば、たとえ当てられずとも予想外とは言えないはずだと思う。

 中間テストに回答を寄せてくれた数少ない奇特な人たちの中で、「ダライ・ラマ」と回答した人が複数いた。「方向性さえ合っていれば正解とする」と予め言っておいたのはこの回答を予想してのことであり、私はこれを正解に数えたいと思う。

 ダライ・ラマが欧米で有名になったのはリリー博士より後のことだが、少し時代がずれていたら、ここにウパニシャッドの代わりにダライ・ラマ14世の言葉が入っていても、まったく不思議はなかっただろう。

dalai_lama

 確か2008年頃だったか、シーシェパードの公式ホームページに行くと、サイドバーにダライラマの写真が貼ってあった。

 現在は見られないが、当時のスクリーンショットを保存したものがあったので貼っておこう。

 知っての通り――知らなければ見ての通り――ダライ・ラマ14世は、宗教的・政治的にどうかはともかく、個人的・外見的には典型的なモンゴロイドのおっさんである。

 シーシェパードのような反捕鯨運動が、一部の人々の言うように、キリスト教白人至上主義の陰謀であるのならば、黄色人種の仏教指導者がトップページでアピールされるのはなぜだろう。

 おそらく、捕鯨反対の日本人は、これを単にシーシェパードやあるいは一般的に反捕鯨運動は人種差別などではない証拠と見なすだろうし、反反捕鯨派は「日本差別を人種差別と言わせないための偽装だ」とかなんとか苦しい言い訳をするであろうと思う。

 もちろんこの場合、どちらかと言えば、圧倒的に前者が正しい。何度も言っているが、シーシェパードやその支持者は、伝統的な意味の人種差別主義者ではない。むしろ、そのような人種差別には最も批判的な層に属する人々だ。

 話がこれで終わりだったら、どんなに良かっただろう。だが、私はこれから、残念ながらそうではないという話をしなければならない。一本目の糸となるキーワードは『オリエンタリズム』だ。

  1. ジェームズ・ヒルトン『失われた地平線』(1933)
  2. ロバート・A・ハインライン『異星の客』(1961)
  3. アーサー・C・クラーク『海底牧場』(1957)

 3本の作品を通して、リベラルな欧米人のオリエンタリズムの対象が、アジア(東洋人)から宇宙(火星人)へ追いやられ海(クジラ)へ戻ってくる変遷、人種差別・宗教差別意識の今昔、鯨肉のカニバリズム感と高知能説の関係、等々を描こう。

第39回】 【目次】 【第41回

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2015 6/6

第38回】 【目次】 【第40回

 大きな鍵*1を逆向きに使うことで、鏡のように「普通」の日本人の態度もよく理解することができる。一本の柱から離れて次の段階に進む前に、一度自分たちを振り返っておこう。

鏡その1

 以下は、このシリーズ開始以前に、ネットのどこか*2で見かけた会話である。記憶からの再現なので一字一句正確ではないが、概ねこのようなものであった。

A「なあ、これはもちろん仮定の話だけどさ、もし本当の本当に、奴らの言うとおり、クジラやイルカが人間並みの知能を持っていることが判明したらどうなると思う?」
B「さあ? たぶん日本がすぐに捕鯨やめて、代わりに白人どもが血相変えて絶滅させようとすんじゃねーの?」

 「そうだそうだ!」と思うだろうか? それとも「レイシストきめえ!」と思うだろうか?

 私の意見では、このB氏は、目先の恐怖を紛らわすため、特に深い考えもなく、憎悪に任せて適当に威勢のいいことを言ってみただけであろうと思う。

 しかし、それでも彼は、おそらく自分でも気づかないまま、なまじ訳知り顔で冷静ぶっている人々もしばしば見落としている重要な真実の一端に、手を掛けている。

 つまり、人間より賢く偉い動物がいる――それも眼に見えぬ世界の霊的存在としてではなく、地上に肉体を持って――などというのは、本来*3西欧・キリスト教文化よりも、むしろ日本・東洋文化*4の方にこそ、ずっと似つかわしい発想だということだ。

 意外かな? そうでもないと思うのだが。「奴ら」*5一般にキリスト教が嫌いで、東洋的・オリエンタルな思想が、西洋のそれより優れていると、近代以降初めて本気で考えた人々なのだ。本当なら日本人の方が進んで信じたいような思想であるのは、むしろ当然ではないか。

鏡その2

 このニュースを覚えている人はいるだろうか。ちょうどシーシェパードが初めて捕鯨船に乗り込む事件を起こした翌年だったので、それなりにネットで話題になった。

 捕鯨賛成派というか反反捕鯨派の側は、

  • 「そら見ろ! 奴らは日本非難に利用できるときは保護しろなんて言うが、自分が見て不愉快だとなりゃカンガルーと同じであっさり殺しちまうんだ! クジラなんて人種差別の口実にすぎないことの何よりの証拠だ!」

 とかいうようなことを言った。

 無論、この意見は間違っている。*6しかし、ただ単に間違っているだけで、何ら興味深い意見とは言えない。むしろ興味深いのは、これに対する捕鯨反対派の側の意見だった。彼らは、

  • 「安楽死なんて捕鯨問題と何の関係もねえだろこのバーカバーカ」

 ぐらいの(字義通りには概ね正しい)ことはもちろん言ったが、総じてあまり元気がなく、どちらかといえば、こんなことはしてほしくなかったと思っているように見えた。*7

 少なくとも、

  • 「オーストラリア人グッジョブ! これで自分も勇気百倍で捕鯨賛成派を説得できるよ! ありがとう!」

 というような感想を持った日本人は、ひとりもいないようだった。

 しかし、この状況はどう考えても何か変ではなかろうか。

 なぜオーストラリアの当局は、ただでさえ日本では少数派である同志たちに元気を無くさせるような処置を、わざわざ取ったのだ? 日豪の防衛協力を妨げるために、中共の工作員がオーストラリア当局に潜り込んで、両国の関係をさらに悪化させるべく暗躍でもしているのかね?

 そうではないというのなら、誰か(ひとりだけとは限らない)が何か(ひとつだけとは限らない)深刻な誤解をしているはずだ。

 この誤解は、日本とオーストラリアとか、捕鯨賛成派と反対派とかいう対立構図に捕らわれてる限り決して解けない。

 必要な視点は、やはり宗教だ。この状況の中にある一番本質的な断絶は、アボリジニの歌と安楽死の間にあるということに気づけるかがカギだ。

 長さの関係でここであまり深い議論はできないが、西洋文明における動物の安楽死は、今でもキリスト教的な論理に支えられている。*8

 生命(生死)よりも(苦痛の)意識(≒魂*9)を重視する傾向*10、動物は神からの賜り物だから人間が正しく管理しなければならないという”stewardship“(直訳すると「執事魂」*11)の精神、いずれも強くキリスト教の影響下にある。

 つまりアボリジニの歌を聴かせてから薬殺安楽死という、まさに木に竹を接いだような対応は、日本や捕鯨と一切関係なく――多くの反捕鯨日本人の主張通り実際直接には関係がない――それ自体がすでに大きなねじれを含んだものなのだ。

 むしろ、このような問題では、シーシェパードのような動物愛護団体*12は、ザトウクジラの安楽死にも、コアラやカンガルーの間引きにも反対する側であることが多く、日本人の反反捕鯨論者と同じ側に立って、同じ相手を非難していることが多いのだ。

鏡その3

 今回の本筋からは若干外れるけれども、第38回の続きでクレアさんの話も片付けておこう。

 第12回で取り上げた『クジラの歌が聞こえる』のクレアが病院で目覚めて以降の結末部分を換骨奪胎して、日本人好みに書き換えてください。一字一句書き換えなくても「大体こんな感じ」程度でよいです。

 この中間テストの第9問は、正解があるタイプの問題ではないが、私だったらこうするだろうという答えはある。私なら、変えるのは一箇所だけでいい。

 もう一度、クレアは本当におこったことを話したいという気持ちにおそわれた。ところが、まったく急に、そんな必要などないということに気づいた。
 真実を知っているだけでいいではないか。自分が見たり、やったりしたこと、すべてについて、自分自身の心の中で確信していさえすればいいのだ。

 となっているところで両親とは適当に話を合わさせ、最後の一文は

 クレアは心の中でつぶやいた。「でも、私は本当に南極海に行ってクジラを助けたんだからねっ!」

 みたいな感じにするだろう。

 一見、ほんの些細なニュアンスの差だけであり、物語全体は何も変わったようには見えない。仮にこっそり差し替えた本を読まされても、ほとんどの人は気づきもしないだろう。

 しかし、生のクレアさんを流石に受け入れられない「イルカ・クジラの大ファンで水族館のイルカショーに通いつめ、もちろん捕鯨には大反対の若い日本人夫婦」*13に取っては、これだけの違いで受け入れる余地が大幅に広がると、私は考える。

 このほんの些細なニュアンスの違いが、感じ方の大きな変化をもたらすのはなぜかというと、ここがまさにキリスト教(というより一神教的宗教文化)と日本文化(というより非一神教的宗教文化)の差に関するキーポイントだからだ。

 キリスト教の一神教文化では、あらゆる善・あらゆる正義が、GOD――全宇宙の創造主であり最後の審判の主宰者でありキリストや聖霊とひとつである全知全能の父なる神――にぶら下がっている。

 もし、GODに繋がっていない神秘があったとすれば、どんなに神秘的であっても、いや、あればあるほど、人々を正しい神から遠ざける、邪悪な異教の力・悪魔の力だ。善か悪か二つに一つ、どちらでもないということはありえない。

 ここでクレアがザトウクジラに対して感じている神秘は、もちろん悪いものではなく善いものである*14ので、その先には全知全能の神がいる。作者本人は意識していないだろうし、明示的に聞かれればむしろ否定するだろうが、必然的にそうなるのである。

 だから、この場面で両親に対して適当に妥協したりするのは、神に背く罪深い行為ということになる。そんな面従腹背の態度では、今はおとなしくしていても、いつ気が変わって寝首を掻きに来るかわかったものではない。そんな子供は信用ならない・反社会的な・悪い子である。

 両親なんて、人の短い一生の間のかりそめの関係に過ぎない。永遠の神に忠実である方がずっと大事だ。伝統宗教ではそんなに珍しい考えではない。第17回でも言及したことだし、日本人でも、よっぽど視野の狭い人でなければ、納得はせずとも理解はできるはずだと思う。

 ところが、キリスト教というより一神教的文化がない日本の通常の感覚では、これは逆になる。たとえ捕鯨反対が100%正しいと信じていたとしても、それはGODに繋がった究極の善とは関係がない。自分の善に固執して両親を無視する子供は、信用ならない・反社会的な・悪い子である。

 文化の違いでお互いを悪と見なしてしまうという、教科書に載りそうな典型的な状況だ。この話は、むしろ「無神論者がどうして道徳的であり得るのか」などと言い出す伝統的宗教保守派*15の感覚を理解する上で役に立つだろう。

鏡その4

 中間テストで、

 いわゆる白人国家でも、いわゆるキリスト教国でもない国の中で、最もガイア教が盛んな国はどこでしょう? 検索その他調べ物は自由です。

 という問題を出した。調べ物は自由と書いたが、本当は何も見ないで即座に答えを出してほしいところだ。

 ここまで来たらもうわかるね。おおむね豊かで環境問題や動物愛護に気を使う余裕があり、西側・リベラル・左派的で、近代・西洋化されていると同時にオリエンタル・東洋趣味でもあるという、ねじれた精神状態にある国「日本」だ。

 第34回で、リリー博士の意見が誰かさんたちにそっくりだと言ったな。あれはもちろん嘘ではない。文字通りにはまったく正しい。だが、本当の因果関係は逆だ。リリー博士が誰かさんたちに似ているのではない。誰かさんたちがリリー博士に似ているのだ。

 地球最先端を行くアメリカで思想を先導した教養ある天才科学者たちの認識が、半世紀かけて極東の中学二年生ですら弁えている一般常識になったのだ。

 今日、誰かさんたちが「欧米人」に対する批判になると思ってコピペしているような文章は、まさにガイア教を作ったのと同じ人達によって最初に書かれたものなのだ。

 いますぐ信じろとは言わない。ここで「はいそうですか」と納得するような単純な読者であってほしくない。このあたりの機微をもっとよく理解してもらうために、またしても脳内タイムマシンの旅を再開しよう。

 しかし、以前も強調した*16ようにここは既に現代だ。一体どこへ行こうというのか? もちろん未来へだ。SF小説じみていて荒唐無稽な世界から、本物のSF小説の世界へお連れしよう。現在と未来・現実と空想の狭間にある、さらなる驚異と恐怖の世界を味わっていただきたい。

*1第36回
*2:おそらく2ちゃんねる。
*3:ここでは単に「現在のそうではない期間よりもずっと長く、過去にそうであった」という程度の意味で言っている。そちらの方が正しいとか、これからもそうあるべきだとは言っていない。
*4:このくくり方が乱暴であることは重々承知であり、そのこと自体も後に重要なテーマとして取り上げる。
*5:私がガイア教徒と呼ぶ層とほぼ同じ人達だと思われる。
*6:どう間違っているかも、ここまで読んできた読者にはもうわかると思う。
*7:どうしても主観の問題になるが、私の偏見とは言えないと思われる。いま久しぶりにググってみても、捕鯨反対の立場からはっきりそう表明している人が複数確認できる。
*8:動物の安楽死それ自体は、文化と無関係に、大昔からあっただろう。たとえばマンモスに踏まれて助からない猟犬を安楽死させる、とかいうようなことは、クロマニヨン人だってしていただろう。
*9:伝統的キリスト教では動物に魂はないとされてきた、という話とはまた別。
*10:ずっと後になるが、これは捕鯨が「残酷」か否かを巡るシリアスな議論でも重要なポイントになっていたりする。
*11:ふざけて見えかねない字面だが「本来自分の所有物でないものを預かり忠実に管理する」というニュアンスは正確に表現されていると思う。
*12:シーシェパードが典型的な動物愛護団体であるかのような印象を与えたくはないが、今の文脈では不適当とは思わない。
*13第13回
*14:ビクター・ケラハーがザトウクジラを邪悪なものと描いていると思う者はひとりもおるまい。
*15:繰り返しになるがいわゆるガイア教の支持層とは重ならない。
*16第24回

第38回】 【目次】 【第40回

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2014 3/22

ジェフ・ベゾス 果てなき野望

 ジェフ・ベゾスおよびAmazon.comの伝記。すごく面白い。

 内容そのものは本を読んでもらうとして、ひとつ本の内容とは直接関係のない大予言ごっこをしたいと思う。話半分に聞いてほしい。

 ベゾスは近いうちに不老不死の研究を始める。関連技術の支援に資金援助(資本参加?)するのはもちろん、一番のネックは技術ではないということにも気づいて、思想的キャンペーンも同時に行うだろう。

 その際に組む対象はブライト運動、いわゆる新無神論しかない。おそらく初めて本気で新無神論を支援する超大金持ちとなるはず。

 ジョン・テンプルトンが伝統宗教を支援してテンプルトン賞を作ったように、新無神論を支援する、ベゾス賞あるいはドーキンス賞といったものを設立するかもしれない。

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2013 3/10

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来

 イベントも見に行ったほど好きなジャレド・ダイアモンドの新刊。いわゆる国家以前の「伝統社会」から現代人が参考にできることがあるのではないかというテーマ。

 例によってshorebird先生が読書ノートを連載中であるので詳しい内容はお任せ。

 自分は特に気になったところと個人的に参考にしようと思ったところだけピックアップする。

第1部 空間を分割し、舞台を設定する

 唯一意外だったのは、山の民が、

 ここにくるちょっと手前、尾根の北側のところで、小さな廃屋と荒れた畑をみたのを覚えているか。あの小屋と畑をつくったのは河の民だ。悪い人間である河の民は、ああいった方法で、尾根の南側ばかりか北側の土地にも自分たちに領有権があると主張しているのだ。

 と語る場面。私は、こういった最近よく聞く領有権争いのやり方というのは、もっと後の時代に、つまり国家による国内支配や国家間外交が進んでこそ生まれたものだと無意識に考えていた。

 現状維持(≒物理力行使が行われないこと)を何よりも尊重するような国際機関、あるいは国際規範といったものがないのなら、ちゃちな構築物など作ってもすぐ奪われるか壊されてただの作り損ではないか。

 マスコミで見聞きする15秒のニュースで領有権争いに関する意見を形成する、多数の無関心な国民、地球の裏側の外国人を意識する必要がまったくないとしたら、こんな形で先取権を主張したところで、まったく無駄ではないか。当の相手は経緯を全部知っているのだから。

 なんとなくそのように思っていたのだ。このような考えが間違いだとすると、所有や領有といった概念は、もっと古い進化心理学的起源を持ち、それに即した戦術だということか? 言われてみれば当然な気もするが、興味深い。

第3部 子どもと高齢者

 老人が大切にされる条件のところで思ったこと。

 自分の職業コンピュータプログラマは、明らかに老人の智恵が重要でない方の業界だ。大抵の場合、最初からより新しい知識を学んだ後進の若い人間の方が有用である。

 年齢を重ねても自分の価値を維持するためには、単純にプログラミングだけ勉強していても駄目かもしれない。

 もちろんしなければ駄目なのだが、それだけでなく年齢を重ねるごとにどんどん有利さが蓄積されるような得意分野を何か持たないといけないような気がする。

第4部 危険とそれに対する反応

 「建設的なパラノイア」一度ではほぼ起きないような確率の小さな事象も何度も繰り返せばいつかは発生してしまう。骨折などの大怪我をすると、死ぬか完治不能の障害を負うしかない環境に住む人は、危険に関してとても慎重であり、変に強がって見せたりはしないという。

 渋谷駅と会社の間で朝晩一回ずつ信号のないところを渡っていたが、それをやめて遠回りすることにした。

第5部 宗教、言語、健康

 宗教の様々な機能の中には、小規模部族の時から重要だったもの――物事に説明を与えたり苦悩や恐怖を和らげる等――と、中央集権が進んできてから重要になったもの――戦争や権力の正当化や内部抗争の抑止――がある、という説明は、おそらくこれまでなかったというわけではあるまいが、納得がいくものだ。

 バイリンガルはやはりいろいろな点で有利らしい。英語の勉強にもっと身を入れるべきか。

 食に関することは大体知っていた。が、カップラーメンを食べるときスープまで飲み干したりするのをやめることにしよう。

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2013 2/21

鑑賞のためのキリスト教美術事典

  1. 『公正世界信念』のTweetについて、社会心理学者からの疑問 – Togetter
  2. ヨブ記タグについて – 東瀛倭族拝天朝

 1を見て2を思い出し、見に行ったが、消えてしまっている。リンクはInternet Archiveに張っておく。

 伝統宗教というのは一見古臭くて不合理に見える。見えるというか、もちろんある意味ではその通りである。

 しかし、もっと古くから存在する――進化心理学的な意味で――有害な素朴倫理学を否定する「進歩的」な要素を備えていることもある。これはその格好の例だと思うのだ。

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2013 1/31

『さっさと不況を終わらせろ』★★★★

 ポール・クルーグマン著。やはり素晴らしい。

『American Pie―Slice of Life Essays on America and Japan』★★★★

 ケイ・ヘザリ(Kay Hetherly)著。NHKラジオ英会話で有名な人らしい。英語も簡単で内容もわかりやすく興味深い。学習者におすすめ。

『ファインマンさんの流儀』★★★★

 ローレンス・M. クラウス著。ファインマンさん系はひと通り読んだことがあるはずだが、それでも非常に面白い。専門的でなくてもいいので量子力学についての予備知識がちょっとあった方がより楽しめるかも。

『ゆとりの法則 – 誰も書かなかったプロジェクト管理の誤解』★

 トム・デマルコ著。同著者の他の本ほどではなかったけど、面白い。

『鑑賞のためのキリスト教美術事典』★★★★★

 早坂優子著。素晴らしい量と質(とそれに対するコストパフォーマンス)。美術以前にユダヤ教・キリスト教の基礎知識集としても十分役立つ。超おすすめ。

『世紀の空売り THE BIG SHORT』★

 マイケル・ルイス著。東証Project経由。

『コンピュータ囲碁 ―モンテカルロ法の理論と実践―』★★★★

 美添一樹著、山下宏著。サブタイトル通り理論・実践ともに詳しい。囲碁もコンピュータ囲碁も自分ではやってないけど面白い。やってる人は必読だろう。

『人類は衰退しました』★★

 田中ロミオ著。ニコ動で見たアニメが良かったので。1巻までの感想としては、一気に全巻読みたくなるような感じでもないかな。でもちょっとずつなら読みたいかも。

『エレクトリックな科学革命―いかにして電気が見出され、現代を拓いたか』★

 デイヴィッド・ボダニス著。個別の内容はどこかで見たことあるような気がするし、もっと良かったような気もするが、なぜか捨てがたい。

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2012 10/23

クジラの歌がきこえる (ときめき文学館)

第37回】 【目次】 【第39回

 さあ、

  • ユリカさんとビクター・ケラハーを分けているのは何という文化のどんな違いか?

 という第13回の問い*1に答えられる時がついに来た。

  • 宗教文化が*2一神教的か否かの違いだ。

 第2回の段階では「ひどいこじつけだな」ぐらいにしか思わず、第12回でも信念がぐらついて不安を感じた程度の人でも、ここまで来たら、もうこの回答を拒否することは難しかろう。

 野崎友璃香とビクター・ケラハーそれぞれの脳の奥底に陣取っているのは、それぞれ何千年も独自の進化を遂げてきた、まったく別のミーム複合体だ。表面的には似通って見えても、それは最近の接触によって生じた薄皮一枚の類似に過ぎず、中身はまったく違う「生き物」なのだ。

  • どう考えてもかなりアブないトンデモ本が「微笑ましすぎて腹筋痛い」ぐらいで済むのに、普通の童話に「血も凍る」のはなぜか?

 単に捕鯨反対に対する熱心さ・強硬さが怖いのではない。それならユリカさんの方が怖いはずだ。熱心をどう定義・評価するかは難しいところだが、少なくともユリカさん本人は、自分が実在もしない誰かよりも捕鯨反対に熱心でないと言われたら心外だろう。

 単にトンデモだから・現実と乖離しているから怖いのでもない。だったらやはりユリカさんの方が怖いはずだ。クレアさんの体験はぎりぎり夢や記憶のあやで説明可能な範囲に収まっているが、ユリカさんの方はそうはいかないだろう。

 単なる人種差別・排外主義・性差別的感情のせいでもない。私が偽って『イルカのアヌーからの伝言』をオーストラリア人男性の、『クジラの歌が聞こえる』を日本人女性の著作として紹介していたら、後者が笑い飛ばされ、前者が「血も凍る」と評されただろうか? ありそうもないことだ。

 ここでの本当の問題は捕鯨でもクジラでもない。科学でもトンデモでもない。資源でも利権でもない。人種でも国家でもない。宗教だ。

 この枠組みで見ることさえできれば、話はそんなに難しくない。なぜもくそもない。強固な一神教的信仰がその「異教徒」から見て「血も凍る」ようなものである――少なくともありうる――のは、まったく当たり前のことではないか。

 比喩的に言えば、読者を本当に恐れさせたのはクレアさんではなく、彼女の頭の中にいるプラトンでありアウグスティヌスなのだ。

 クジララブラブな一方で、アザラシをただ食べられるのを待っている肉塊のように見なしてはばからず、シャチの鼻先に乗ってルンルンする一方で捕鯨従事者を

クレアは、こんなに感情のない、あたたかみのない目を見たことはなかった。*3

 と表現してはばからないクレアさんがいる。

 彼女は、標準的な現代日本人の目には、自分が好きなものには甘いくせに、自分が好きでないものには情け容赦がないだけの、単なる気まぐれで冷酷な利己主義者のように映る。

 いや、映るというより、ある価値体系に当てはめれば確かにそうなのだ。現代の価値観に当てはめれば、動物裁判が単なる集団狂気で動物虐待であることが、否定できないしする必要もないのと同じように、それは否定できないしする必要もない。

 しかしまた中世のキリスト教的世界観では動物裁判にもちゃんとした論理があるのと同じように、クレアさんの態度も、別の価値体系に当てはめて見れば、立派に筋が通る。

 アザラシより知能が高い、すなわち偉い人間やシャチが、アザラシをただの動く肉塊のように見なし、殺し・食らうことは、牛が草を食うのと同じく全く当然の・正当な行いである。

 逆に、サメや捕鯨従事者が自分より知能の高い、すなわち偉い存在を殺し・食らおうとするのは、神によって定められた正しい宇宙の秩序を破壊しようとする言語道断な犯罪である。

 だから彼女は利己主義者ではない。彼女はただ神の命令・自然の秩序に従っているだけであって、利己も何も、そもそも己の意見などまったく持っていないからだ。利己主義者と呼ぶべきなのは、むしろ自然の法律を無視して己の欲望を満たそうとするサメや捕鯨者の方だ。*4

 もちろん私は、現代でもブタの裁判をやるべきだと言っているのではないのと同じく、このような論理を認めろと言っているわけではない。例によって*5狂っているのは、特定の誰かというよりは我々全員の歴史感覚の方だと言っている。

 このような、今日真正面から主張されればとても弁護できないような自己正当化の論理は、何百年何千年とずっと当然のように通用してきたのであり、それがおかしいと感じる最近の社会の方が、むしろ歴史的に見れば「異常」なのだと言っている。

 今日時点で日本や西欧*6の先進国に生きている人間は、宗教、とりわけキリスト教に宗教的多元性を認める傾向がかなり発達した後の時代に生まれた*7ので、宗教「本来」の姿をすでに忘れてしまっているか、そもそも最初から知らない。

 昔を基準にするとずっと「ぬるく」なった後の宗教しか知らないにもかかわらず、それが当たり前で、宗教本来の姿だと錯覚している。

 これは、もし最初から明確に(伝統)宗教の話だったらどうなるかを考えてみれば、すぐにわかることだ。たとえばクレアさんがアフガニスタンにNGOとしてボランティアに行く童話が書かれたとしよう。その中で、アフガニスタン人が

クレアは、こんなに感情のない、あたたかみのない目を見たことはなかった。

 などと表現される事が――たとえそれが罪もない旅行者の喉を掻っ切る寸前のタリバン兵だったとしても――果たしてありうるだろうか。

 まず間違いなくビクター・ケラハー本人がそうは書かないだろうし、仮に書いたとしても、編集者か誰かが「いやいや先生、いくらなんでもこれはまずいっすよ。違う宗教の人を悪魔化しちゃってますよ。子供に読ませられませんって。」*8とかなんとか言って止めるだろう。

 彼らがそうする――少なくともそうするだろうと予想できる――のは、もちろん彼らがタリバンに好意的だからではない。*9現代社会が近代以降徐々に発達させてきた、宗教的多元性を認め(させ)る傾向が、すでに彼らに内面化され、それを強制しているからだ。

 ガイア教は、意図的および偶然に積み重ねられた疑似科学的トリックによって、近代以降に宗教に設けられた様々な制限を回避し、宗教の持つ強力な力を利用しながら、その宗教が課せられている強い制約を受けないという、良いとこ取りの奇跡を実現している。*10

 だから、タリバンに対してすら働く(であろう)その抑制が、太地の漁師や南氷洋の捕鯨者に対しては働かない。少なくともある側面では、ガイア教徒は(現代の)キリスト教徒よりずっと(中世の)キリスト教徒らしく、ガイア教は(現代の)キリスト教以上に(中世の)宗教的なのだ。

 そして、現代人が、いわば先祖返りした「生」の宗教であるガイア教に触れると、それが何かを理解できず、油断して取り込まれたり、逆に過剰に恐れたり・軽視し過ぎたりと、とにかくおかしな反応になってしまうのだ。

 これが、捕鯨・反捕鯨問題を単なる環境保護問題・海洋資源問題・動物愛護問題以上のものにしてしまっている全ての誤解に通底している、最も基本的な構図だ。

 ……さて、大きな鍵*11とその大体の使い方を学んで、後は読者自身が、多少の努力と時間を費やすことさえ厭わなければ、どんな場面に出会っても自分の力で解決できるところまで来たと思う。

 実は、第1回を書き始めた時点の構想では、ここで終わりにしようかとも思っていた。だがせっかく人気のあるコンテンツなので、他人にやらせるよりは自分でやった方が親切だろう。

 次回は、初めて中間テストの結果を使ったり、本当に現在――数年前レベル――の事例を扱ったりしつつ、逆に自分たちを振り返ってみよう。

*1:ななななんと5年弱越しの問いだ! 単に私がサボってただけだけどな!
*2:とりわけ人間や社会と自然や動物との関係の捉え方が。
*3第12回
*4:言うまでもないと思うが、この論理は、実在する反捕鯨運動家の態度を理解する上でもヒントになるだろう。
*5第31回
*6:これまでもそうだったし、今後もそうだが、このシリーズでは主に生物学的・人種的な話ではなく文化的・社会的な話をしている。だから「西欧」といった場合、いわゆるヨーロッパ以外に、北米やオーストラリア・ニュージーランド等が含まれる。逆に、たとえ見た目には典型的なヨーロッパ人だったとしても、生まれた時から他の文化圏で暮らしているような人間は含まない。
*7第17回
*8:オーストラリアの編集者がそんなしゃべり方なのかは知らんが。
*9:確認していないが、するまでもなくタリバンには最も批判的な層に属する人たちのはずだ。「反米」という文脈で同情的に見えるケースはおそらくありえても、決して支持しているわけではないだろう。
*10:その詳細については一部はすでに説明したし、これからも説明する。
*11第36回

第37回】 【目次】 【第39回

おまけ

 ううむ、5年の歳月の重み……。

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