2010 8/1

創造―生物多様性を守るためのアピール

 エドワード・オズボーン・ウィルソンが、科学とキリスト教が協力して生物多様性の保護に取り組もうと、仮想の南部バプティスト派牧師に対し訴えかける、という本。

 はっきり言って、試みそのものが成功しているとは全く思えない。当たり前だが、ウィルソンは神の創造は嘘で進化が事実であるということについては一歩も譲る気はないわけで、牧師にとっては、

「私たち科学者は、君たち牧師が一番大事だと信じていることが全くの間違いだということについては、一歩も譲るわけにはいかないけど、私たちが一番大事だと信じているものを護るために君たちが協力できることは、沢山あると思うよ?」

 と言われているようなものだと思うのだが。*1これで「はいわかりました是非協力しましょう」と言ってもらえると、少しでも本気で期待しているのなら、ちょっと人を舐めすぎではなかろうか。

 ただ、言うなれば宗教右派に対してすり寄る内容だけに、私がウィルソンに対して気にくわないと思っている点が濃縮されたような感じになっていて、個人的には、なかなか興味深かった。印象深かったところを数ヵ所抜粋する。

第二章 自然の位に上ること

 人工的な生態系の中だけの暮らしに満足する人々も多いことは事実でしょう。これは飼育動物たちも同じこと。飼育用のグロテスクに不自然な生息環境のもとで満足しています。私の気持ちをいえば、これは倒錯です。手の込んだ飼育場の牛となることは、人間の本性にかなうものではないでしょう。誰しもが、人を生み出した複雑で原生的な自然の世界を難なく旅することができてしかるべきです。私たちには、誰の所有地でもなくすべての人々によって保護される大地、私たちの太古の祖先たちの世界を境界付けていたのと同じ地平を変わらず維持しているような大地を、縦横に行く自由が必要です。人類誕生のころの人の心理を作り上げた驚異の感覚は、エデンの遺産ともいうべき、人の都合とは独立した、生きものたちの賑わいに満ちた世界の中でこそ、体験することが可能なものです。

 人間的でかつ適切に教育される科学的な知識は、我々の暮らしに永続的なバランスをもたらす鍵です。生物学者たちが、生命圏の豊穣についてより多くを学ぶほど、生物圏のイメージはより豊かで感動あるものになります。同様に、心理学者たちが人の心の発達についてより多くを学べば学ぶほど、自然の世界が私たちの精神と、魂に及ぼしている重力のような普遍的な力をさらによく理解することになるでしょう。

 この星との平和な暮らしを実現するために、そして人類相互の平和な暮らしを実現していくために、私たちはまだ長い時間を必要としています。私たちは、新石器革命を発動したおりに、道を誤りました。そのときから人間は、大自然の位置に上る(ascend to Nature)のではなく、自然の位置から離れ、上昇すること(ascend from Natrue)を目指してきました。しかし、自然遺産が与えてくれる深く満ち足りた恩恵を享受するために、これまでに手に入れた暮らしの質を失うことなく方向転換を果たすことは、まだ可能です。宗教の包容力、そして教導者たちの寛大さと想像力の豊かさは、聖書に十分に記されることのなかったこの大きな真実を理解する偉大さを、必ずや発揮してくださることでしょう。

 うーん、これだよこれ。人によっては「ポスト・キリスト教」と呼び、私がガイア教と呼ぶ、リベラル派と伝統的キリスト教的世界観のねじれた野合。素晴らしい考え方だ、間違っていることを除けば。

  祖先的進化環境へのESSとして適応してきたに過ぎないものを「人間の本性」などと呼んで善と同一視することがそもそもおかしい、ということをいったん脇に置いたとしても、ホモ・サピエンスという種は、すでに圧倒的に自己飼育化*2の産物である。

 今日、人々がアメリカで「手つかずの自然」と信じているものは、一万年数千年前に起きた人類の進出(参考)と、近代のヨーロッパからの大規模な生態系移植(参考)の結果である。

 そしてもちろん、アフリカ=ユーラシア大陸の「手つかずの自然」とは、人類とその他の生物の数百万年の共進化の結果でしかありえない。

 「人間の本性」とか「人間の都合とは独立した生きものたち」などというのは、ただ単に間違っているのではなく、間違うことすらできていない幻想である。

第三章 本来のいのちある自然とは何か

 ポストモダンの哲学者の中には、真実は個々人の世界観にのみ依存する相対的なものであり、大自然というような客観的な実在はないと主張する人々がいます。彼らは、自然という区分はある種の文化に発生した誤った二分法に基づくものであり、他の文化には存在しないものであると主張しています。私はそのような考え方を面白いとも感じますが、それも数分のこと。これまで私は、自然の生態系と人間の干渉を受けた生態系の非常に鮮明な境界を何度も横切ってきた経験をしており、生きた本来の大自然(Nature)の客観性を疑うことはできません。

 私は、いわゆるポストモダン哲学や極端な相対主義も嫌いだが、ここではそちら側に加担せざるをえない。

  • 「大自然というような客観的な実在はない」

 などということは、ポストモダン哲学者よりも、むしろ進化生物学者こそが、キリスト教者に対して訴えるべきことだろう。

 次の引用部分は、若干補足が必要だと思う。キリスト教の中には、

  • 自分たちが生きている間に今の世界には終末が訪れる、そして自分たちは素晴らしい天国に迎えられる

 という考え方が、今も根強く生きている。そのような考えの人は当然、持続可能性などには関心を持たない。ウィルソンは本全体を通してそれを危惧している。

第九章 否定とそのリスク

 パストール、私か最も恐れるのは、創造された生きた自然[the Creation 被造物]への破壊に、ほとんど何の危険も感じないような、宗教的・世俗的なイデオロギーの結びつきが蔓延していることです。以下は、生物多様性にほとんど重要性を認めず、人は大自然をますます離れてこそ益多い者なのであり、自然に向けて次元上昇[アセンド]するようなものではないとする意見を持つ牧師がいれば、こんなスピーチもするだろうと想像して、私か創作したものです。

 兄弟姉妹、やがて地上から消えていくものたちのために、嘆くことなかれ。生命は変化です。絶滅もまたときにはよきものです。私たちは生命の新たな次元として、人を祝福しましょう。「略取」された地球を、新しい生命圏として祝福しましょう。進歩の障害となる種は消滅するにまかせましょう。人の登場する以前も、生態系と種の変転は通常のことでした。人のさらなる利益のために、世界の生物多様性が貧しくなることがあるとしても、私たちヒトという種に危険はありません。資源が枯渇すれば、天才的な科学技術者たちが、新たな資源を見つけるでしょう。

 善き人々よ、宇宙に目を向けましょう。天国を見上げましょう。絶滅した動植物を、未来世代への苦き遺産と考えるのはやめましょう。わたしたちは、歴史的な建造物を保存するのと同じように、過去の形見として、自然公園を保存することができます。高度の生物工学的な技術によって新しい生態系を創造し、人の力で創造された生物種をそこに棲まわせることもできるでしょう。どんなにすばらしい生物が創造されていくか、まだ私たちは知りません。それはかつてないほど審美的な魅力に満ち、多方面で有用な、技芸の産物となることでしょう。古く、原始的な環境は、人の手によって作り出されるはるかに優れた環境に置き換えられていくのです。完全に人間化された環境、人間が自分自身で作り上げるパラダイスのもとで、かつてない繁栄を果たすこと。それは私たちの未来技術によって可能なことであり、神の摂理にもかなうことです。それが私たちの定めなのです。来たるべき世代、人々は在庫の化学物質を利用して薬剤を合成するようになるでしょう。遺伝的に改良された数十種の穀物種から食料を生産するようになるでしょう。持続可能なエネルギー資源をコンピューターで管理することによって、大気も、気候も制御されるようになることでしょう。この古き地球は、これまで数十億年(これは、六千年とするのが望ましいと言われるかもしれませんが)の間そうであったと同じように、自転を続けていくことでしょう。

 しかし、地球というこの惑星は、比喩ではなく、文字通りの存在として、宇宙船になっていくのです。宇宙船地球号の操縦室には、人類の最も優れた人材が配され、モニター画面を見つめ、ボタンを押し、私たちの航行を安全なものとしてくれることでしょう。

 ここにあるのは、地球で特別の位置を占める人間は、大自然の法則の外にあると考える、人間特例主義の哲学です。人間特例主義は、以下の二つの、いずれかの形をとります。第一の形は、先に例示したような、世俗的な形式です。コースを変える必要はない、人間の天才が解決策を見出していく、という考え方です。第二は宗教的な形です。コースを変える必要はない。何にせよ、私たちは神の手の中、あるいは神々の手の中、地球という業の中にあるのだと考える形式です。

 実を言うと、地球の未来に関する私自身の意見は、ここでウィルソンがあげている悪い例と、そう遠いものではない。もちろん、わざと馬鹿に見えるように書いてある部分を除けば、だが。

 第一、この本それ自体が、科学と宗教が協力して

  • 「宇宙船地球号の操縦室には、人類の最も優れた人材が配され、モニター画面を見つめ、ボタンを押し、私たちの航行を安全なものとしてくれる」

 ようにしよう、という訴え以外のなにものでもないではないか。

  • 「持続可能なエネルギー資源をコンピューターで管理することによって、大気も、気候も制御されるようになる」

 ことを敵視しながら、どうやって地球温暖化を解決しようというつもりなのか。

 ウィルソンがその程度のことも考えていないとは思わない。もしかしたら、これは宗教右派にすり寄るためのテクニックのつもりかもしれない。

 宗教右派自身の主張を、彼らが嫌っている「科学」の主張であるかのように見せかけて内部で離間させようとする、巧妙な藁人形論法のつもりなのかもしれない。

 しかし、実際にこの例のような考え方をする宗教者がいたとして、こんなレトリックで意見を変えるとは思わないし、変えたとしても別の馬鹿な考えに行き着くだけだろう。

 アメリカの現状を鑑みるに、宗教の力を借りたいという気持ちはわからなくはない。むしろ、大いにわかる。だからといって科学の方からこんなすり寄り方をするのは、元も子もなくす可能性が高い、危険すぎるテクニックに見える。

第十章 最後のゲーム

 人類のハンマーが振り下ろされ、第六の絶滅が始まってしまいました。人類によるこの破壊行為が停止されず継続すれば、回復不可能な激しい消失の過程は、今世紀末には中生代末の大絶滅のレベルに達すると予想されています。

(中略)

 先行する五回の大絶滅は、自然選択によって修復されるのに平均一〇〇〇万年を要しました。一〇〇〇万年のスランプをまた経験するというのは受け入れがたいものでしょう。人類は決断を必要としています。それもいますぐです。地球の自然遺産を保全しましょう。そうしなければ、未来の世代は生物学的な貧困の世界に適応していくしかありません。この選択を回避する道はありません。動物園や植物園に頼れないことはすでに説明したとおりです。空想的な著者の中には、最後の手段にかかわるアイデアをもてあそぶ人々がいることも承知しています。未来の再生を目指して、受精卵や組織を凍結する方法で数百万の現存種やさまざまな品種を保全しようなどと彼らは主張しています。あるいはすべての種の遺伝暗号を記録して、後日、そこから種の再生を目指そうなどとも主張しています。どちらの提案もリスクが高く、膨大な経費を必要とし、最終的には実のないものとなるでしょう。仮にそれらの方法によって、危機に瀕した地球の生物多様性がことごとく再生され、交配を通して集団としても再生され、二一世紀において「野生」と判定される領域への帰還を待つばかりになったとしても、その場において生存可能な個体群を個々に再構成していくことは、実行不可能というしかありません。生物学者は、複雑で自律的な生態系をゼロから組み立てる方法などまったく知らないからです。いずれ理解できる時が来るとしても、その時、人間による改造を強く受けてしまった地球の条件下では、もはやそのような再構成は不可能と判明するのではないでしょうか。

 人間特例主義者たちは、以上のオプションの先にさらに最後の提案を用意しています。いつの日か科学者たちは人工生物や種を創造し、それらを組み合わせて合成生態系を作り出すはずとの希望を持って、生命圏の貧困化など気にすることなくこのまま進もう、という主張です。未来の世代には、大自然の失われたニッチを再び人工生命で満たさせよう。たとえば人間を襲わないようにプログラムされたトラモドキ。トラモドキは人工的に輝き燃え、刺しも噛みもしないムシモドキたちの満ちる森林モドキの中を行く――というわけですね。仮にファンタジーの世界だけの話だとしても、人工的な生物多様性という発想には、以下の言葉が適切です。冒涜、堕落、嫌悪。

 以上に紹介した有効性のない諸提案は、残念ながらどれも実際に提案されたことのあるものばかりなのです。それらの夢はいずれも愚かなものです。いまという時代はサイエンス・フィクションの時代ではありません。常識をもって、以下のような処方に従うべき時代です。生態系と種を救うには、個々の種の独自の価値を一つ一つ理解し、それらの運命を左右することのできる人々を説得して、生態系と種のお世話役をつとめてもらうしかないのです。

 私は知らないが、科学者の誰かがそんな非現実的な提案をしたことはあるのかもしれない。だが、それが科学の世界で真剣に受け取られたり、ましてや広範な支持を受けたりしたことはないはずだ。

 これもまた前の引用部分と同じ、宗教右派自身の主張を、彼らの嫌う「科学」の主張と錯覚させようとする巧妙な藁人形論法にしか見えない。

  • 「人間を襲わないようにプログラムされたトラモドキ。トラモドキは人工的に輝き燃え、刺しも噛みもしないムシモドキたちの満ちる森林モドキの中を行く」

 という描写には、私はイザヤ書の一節を連想させられる。これはやはり、科学の言葉に置き換えられただけの、伝統的なキリスト教的自然観だ。

 今の世に「人間特例主義者」などと呼ぶべき人々がいるとすれば、それは、

  • 人間以外の自然は全て神に創造された完全なもので、悪や不完全さの全ては人間の罪に由来する

 という宗教的ドグマを無理矢理にでも維持しようとする宗教者と、それにすり寄る科学者であろう。

*1:まあ、もし自分が、確固たる信仰を持つアメリカ南部の牧師だったら……というのは、私に取ってあまりに大きすぎるif なので、まともな想像が可能とは思えないが。
*2:この単語でググってみたら何かトンデモくさいページばかり引っかかるが、最近『火の賜物』でも出たばかりの話だ。

おまけ

 この世はでっかい宝島♪

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2010 6/25

ザ・コーヴ

 もうちょうど一週間前のことになりますが、ニコ生で放送された『ザ・コーヴ』を見ていました。

 最近よく見かけるトゥギャッターというサービスの練習を兼ね、自分のつぶやきをまとめました。

 同時に見ていた他の方を含むまとめは、こちら。(まとめたのは私ではないです。)

 この映画関連の話も、いずれガイア教の天使クジラのシリーズで詳細にしなければならなくなると思います。なので今回ここでは、先回りして調べたい人のための、断片的なヒントというか、情報をつぶやきにつけ加えるにとどめたいと思います。

 主人公のリチャード・オバリー氏は、実は第9回で紹介した『イルカのアヌーからの伝言』に登場していますので、買って読んだ人は知っていたと思います。

 あの時はこんな形で急に有名になることは予想してなかったので、ピックアップしませんでしたが、わんぱくフリッパーの調教師であった、つまりリリー博士とも繋がりのある重要人物ではあったので、しておくべきだったかもしれません。

 あの本に登場することだけから判断してはいけませんが、実際にそちら方面にやや近い方です。映画に少しだけ登場するシーシェパードのワトソン船長のような、バリバリ百戦錬磨の職業活動家とは、かなり毛色が違います。

 「反捕鯨」という一つの勢力があるわけではなくて、様々な思惑と属性を持った人達がまざり合っていることを認識して、分けて考えることが大切です。実際に詳しく分けるのは、ここではしませんが。

 トップに置いた写真はフランス語版のポスターです。なぜリュック・ベッソンかといいますと、Howでいうと配給権を買ったから(らしい)、Whyでいうと、リュック・ベッソン『グラン・ブルー』ジャック・マイヨールというあたりを見ればわかるかもしれませんね。

 『イルカと、海に還る日』は、いずれ取り上げる予定があります。本当に断片的ですが、今回はここまで。

おまけ

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2010 3/14

アバター

 今日やっと観た。IMAX方式がいいと言われているので、109シネマズ川崎で観たいと思っていたら、なかなか席が取れなかったのだ。

 3D技術は聞きしに勝るすごさだった。これは確かに革命的だわ。まあこれは実際に見ないことにはなんとも。是非見に行ってほしい。技術だけでも見に行って損はないと言っていいと思う。

 そして技術以外にも語りたいことが結構いろいろ出てきた。大きく分けて3つの観点がある。

  1. “成功した映画『ファイナルファンタジー』”としての『アバター』
  2. “『エイリアン2』に対するセルフ返歌”としての『アバター』
  3. “仮想現実の世界に去っていったガイア理論”としての『アバター』

 順次書いていきたいと思う。前者2つはおそらくすでに大部分言い尽くされていそうな気がするので、3を中心にして周辺に1,2を配する形で。

 その予習もかねて読んでおいてほしい、厳選オススメのアバター評をピックアップした。ネタバレありなので鑑賞済みの人向け。まだの人はやっているうちに見に行こう。

参考リンク

おまけ

 ハイテクに対抗してローテク。さらにエイリアン2つながり。

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2010 1/28

ニューエイジについてのキリスト教的考察

 ニューエイジが日本人にとって極めて理解しにくい理由は、それが基本的に西洋思想、とりわけキリスト教と近代科学に対するアンチテーゼだからだ。

 ある程度まで当たり前で、仕方のないことだが、日本人はキリスト教についてよく知らない。*1「○○」をろくに知らないのに「○○への反発」を正確に理解できるはずがない。

 そこを上手いこと補うために推薦できるいい本がないかとずっと探していたのだが、

 経由で知ってついに発見した。これは素晴らしい。まさか教会そのものが出しているとは思わなかった。灯台下暗しとはこのことだ。

 全体で170ページしかない薄さに、ニューエイジの基礎に加えて、「キリスト教とニューエイジそれぞれが、互いをどのように見ているのか」という、日本人にとって最もわかりにくく、かつ重要な部分が濃縮されている。

 ニューエイジ関係の話題――うちでもガイア教シリーズがもろに関わる――ちょっとでも興味がある人には最適の本だ。断然おすすめする。というかもはや必読。

 ただし、聖書に対する最低限の知識は前提として必要。たとえば「旧約聖書と新約聖書って何が違うんだっけ?」とか「ピラトって誰?」とか思うようなら、阿刀田高の「知っていますか」シリーズぐらいでもいいので、一通り予習してからにした方がいいと思う。

 また、教皇庁の手になるものなので当然立場はカトリックであるが、プロテスタントとの違いが重要になる局面はこのレベルではないので、あまり気にしなくていい。

*1:近代科学についてもよく知らないが、それは幸か不幸か――不幸に決まっているが――どこでも共通だ。

おまけ

 つながりわかる人いますか?

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2009 4/14

エコ・テロリズム―過激化する環境運動とアメリカの内なるテロ (新書y)

 上の記事で見てようやくこの分野の入門書として本当におすすめできる読みやすい本が出たかなと思って早速借りてきたが正解。全体で200ページとちょっとの新書だが、変な陰謀論やポジショントークに陥ることなく、歴史的・思想的背景を幅広く取り上げている。

 また参考文献の表記が非常に充実しており、この分野で重要な本がほとんど一覧できると言ってもいいぐらいだ。この問題に興味を持った人のための最初の一冊としてベストと言えるのではないか。

 どちらかというと環境運動の側に同情的で、タイトルに反発を憶えるような人にもおすすめできる。著者は、

 素朴に、それこそFBI的に(もっとも彼らは政策的意図からそうしているのだが)「エコ・テロリズム」という概念のみを用いて分析していくことは、歴史的背景を、そして事の本質を、見誤ることに繋がるだろう。

 と述べており内容もそれに沿っている。おそらくタイトルは、商業的事情から著者の意図に反しても派手にせざるをえないのだろう。

 ちなみに参考文献のひとつ池上俊一氏の『動物裁判』は『針の上で天使は何人踊れるか』を発見するまでここで使おうと思っていた本だし、「はじめに」では『地球が静止する日』と黙示思想の関係に言及されたりしていて、一瞬お前は俺か感に捕らわれた。

関連図書

おまけ

 確かに「市民的不服従」は(というか「市民」自体も)日本では全然理解されてない概念だ。

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2009 1/24

人類最後のタブー―バイオテクノロジーが直面する生命倫理とは

 宗教右派と自然崇拝の左派、双方からのバイオテクノロジーに対する反発に対する、分子生物学者の立場からの批判。この手の話に慣れている人にとっては改めてすごい話は出ないと思うが、その分網羅性が高く、どんな人にも非常におすすめである。

 原題は“Challenging Natrue – The Clash of Science and Spirituality at the New Frontiers of Life”。『挑戦しがいのある自然 生命最前線における科学と霊性の衝突』ぐらいの意味合い。原題の方が内容をよく表している。派手すぎる装丁とタイトルは明らかに失敗だと思う。

 参考リンクの雨崎さんが怒っているようにリチャード・ドーキンス的な一種の傲慢さや、議論の乱暴さが見られることは確かだ。が、それでも私の立場は著者のものにかなり近い。もちろんこの本では比較対象が左右の両極端だから必要以上に近く見えているだけである可能性もあるが。

 著者のような基本的に科学・技術・人間・未来を信頼する楽観論に、若干の適切な抑制を加えたところが自分の理想とする立場である。「若干の適切な」なんて付け加えたら何も言ってないのと同じじゃねーか! と突っこまれそうだが、微妙な話なので慌てずに追い追い書いていく予定。

 ちなみに著者が文中で「ポスト・キリスト教」と呼んでいるものは、私がガイア教と呼んでいるのとほぼ同じものだ。表紙の影絵で、キリスト教の神を表している(と思われる)巨大な手と並んで下から突き出ているのはクジラの尾だ。原著にはないようなので著者の意匠ではないだろうが。

参考リンク

関連図書

おまけ

 アビー・ブリタニー姉妹の話も出てきます。

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2008 11/25

(今日の一コマ)

 前回でリリー博士に関しては最大の山場を越えたが、まだいくつか興味深い部分が残っているので『イルカと話す日』から抜き書き風に進めよう。

第一章 イルカに関する新学説の展開

 イルカに関する学説を最初に記録したのはアリストテレスである。その著作『動物誌』の中で、アリストテレスはイルカに関して鋭い観察を数多く書き記しており、イルカが胎生であること、授乳すること、呼吸をすること、水中で音をやりとりしてコミュニケーションを交わすことなどを述べている。

 これは本当。さすがは万学の祖と言おうか、一般の学者たちがアリストテレスの観察に追いつくには、その後1800年ぐらいかかっている。第17回で少し言ったが、知識が時間を追うごとにどんどん進歩するという常識は、近代以前に関してはあまり通用しない。

 アリストテレスはさらに「少年たちとイルカとはおたがいに愛情を抱いている」とまで述べており、背中に少年を乗せて海中を泳ぐイルカの話を紹介している。(中略)現代になってこのアリストテレスの観察の正しさは裏づけられたが、それは私がイヴァン・トースと一緒に、彼の映画『フリッパー』をバハマ諸島で撮影中のときのことだった。

(中略)

 私たちが水に入るとすぐにイルカたちは近づいてきて、二人の少年たちは母親イルカの背びれのうしろに乗れるようになった。母イルカは二人を乗せて海の深い方まで連れていくと、水中に潜ってみせたが、二人の息が切れる前に水面に上げてやり、また海岸の端の浅瀬に送りとどけた。(中略)その結果は映画『フリッパー』全編と、同じ題名のテレビの連続番組(邦題は『わんぱくフリッパー』)にうかがえる。こうしてアリストテレスの観察の正しさは証明されたのである。

 私たちは水中で人間に遭遇した現代のイルカが、二〇〇〇年前のイルカと同じ行動をとることを明らかにした。紀元前四〇〇年頃から一九六二年まで、イルカと人間の関係は変化していないのである。その間実に二〇〇〇年以上もの時間が経過しているのだ。アリストテレスのイルカについての学説は、海で本物のイルカを観察したことが基盤になっている。アリストテレスのイルカについての記述のほとんどが正しかったことが今世紀に入って確認されている。しかしそれ以前、彼の観察は疑いの目で見られていた。

 リリー博士の名は知らなくても『わんぱくフリッパー』を見たり聞いたりしたことがあるという人は珍しくないはずである。彼が作ったものと知ってショックを受ける人もいるかもしれない。

 後で見るように彼の思想は(それなりに)真面目な学問の世界にも少なからぬ影響を残したが、今日のガイア教にはむしろこうした大衆文化を通じて与えた影響の方が重要である。*1

 それにしてもイルカ・シャチのショー及びその映像に慣れ親しんでいる我々の感覚からすると、イルカに乗る人間が数十年前までファンタジーと見なされていたというのは、とても不思議な気分だ。我々は彼が作った*2世界の中で生きている。あまりユリカさんを笑えないようだ。

イルカのペニス

 少年たちがイルカに乗るところを自分の目で観察しておきながら、それを信じることができないなどというばかな話があるだろうか。こうした権威主義的な物の見方はいまでも横行していて、イルカについての研究を阻んでいる。

 十九世紀の終わりから二十世紀の初めにかけて、いくつかの水族館がイルカ類を飼育していた。ビクトリア期のイギリスではイルカのショーが禁止された。イルカの性行為を一般公開してはならないというのが禁止の理由であった。どうやらこのイルカたちは、今日水族館に入れられたイルカ同様にさまざまな形の性行為をしきりと見せたようだ。

 この記述だけで言うわけではないが、リリー博士のイルカの性に関する描写からは、彼が性的に自由奔放であることを「善い生物」の属性と見なしていることは明らかである。*3

 これもまた彼の属したニューエイジ的文化の特徴にフリーセックスが含まれていること(第24回)を踏まえていなければ意味不明になってしまうところだ。

 皮肉ではあるが、彼の言うとおり時代に応じて変わったのはイルカではない。ロンブローゾがかつてそうしたように(第23回)、そして我々が現在もそうしているように、人間が勝手に擬人化してその時々の文化的基準を自然・動物に投影しているのである。

 このことはまたリリー博士も時代の子であり、ただ単に狂っていたわけでも本当に異星文明からやってきたわけでもないことの傍証ともなるだろう。我々の倫理観はリリー博士のそれとは様々な点で違っているかもしれないが、ビクトリア朝のそれに比べれば、互いに遙かに似通っているのだ。

第二章 実験で得られた新学説

グレゴリー・ベイトソン

 セント・トーマスの研究所が完成した頃、人類学者のグレゴリー・ベイトソンがイルカの研究に興味を示してきた。ベイトソンはセント・トーマスへの移住に同意し、研究所の運営にたずさわった。(中略)ベイトソンは研究所に一八ヶ月間勤務して、三頭のイルカの行動を観察し、いくつもの重要な発見をした。

 グレゴリー・ベイトソンって知ってるか? ポストモダン界隈ではむしろリリー博士より有名な人物だ。彼はこのシリーズにそれほど重要な役割は果たさないが、そのベイトソンの妻はかの有名なマーガレット・ミードなのだ。

 後でもう少し詳しく取り上げるように、いわゆる「マーガレット・ミード的」な原始社会および性に関する見方は、世界中のリベラルな人々の間で広く受け入れられ、ピークはとうに過ぎたとは言え、現在もガイア教の重要な構成要素となっている。「世間は狭い感」(第23回)を感じてしまう場面である。

 『人間とイルカ』は一九六〇年に執筆された。アメリカで出版されたあと、この本は数ヵ国語に翻訳された。ロシア語訳はロシアの科学者や大衆のあいだで広く読まれ、漁業大臣が黒海とアゾフ海でのイルカの捕獲を禁止するほどであった。フランス語版(“L’Homme et Dauphin”)が出版されたことで、ロベール・メルルの『イルカの日』が生まれた。この小説はおそらく私たちの研究をもとに書き上げられたものである。その後、一九七〇年代になって、この小説はアメリカで映画化された。(中略)一九六六年、私は『イルカの心』を執筆し、私たちの研究の進展を詳しく述べ、多数の科学論文をも掲載した。

 いい加減信じてもらえるようになってきたと思うので言うが、リリー博士は当時、決して異常な例外でも孤立した狂人でもなかった。私が叩きやすい対象としてわざわざ可哀想な老人を捜してきて晒し者にしているわけではないのである。

 逆に、今まで私に対してこの程度の疑いも持っていなかった人はちょっと人が良すぎる。そんな人は今は私の意見に賛成してくれても、別の誰かに別のうまい話を聞かされたらまたコロッとそっちに転ぶに決まっているので、私にとってあまり有り難い読者ではない。(つづく)

*1:もっとも今回の文脈では学問と文化の区別は必ずしも明白ではないのだが。このことも、もう実例を見てもらって納得してもらうしかない。
*2:重要とは言えないまでも決して無視できない一部分を。
*3:仮にイルカが、長い婚約期間や複雑な求愛儀式を要求し、飼育下では絶対に交尾しないような「お堅い」動物(実際にそういう動物は珍しくない)だったらそのエピソードを同じように本で取り上げただろうか。もちろん憶測にしかならないが、私は否だと思う。

おまけ

 イルカ→ジャンプ→飛び込み

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2008 10/27

(今日の一コマ)

 歴史上存在した生物の由来に関する理論は、創造論と進化論のふたつだけというわけではない。

 もちろんそれは最も重要な境目には違いないが、『種の起原』が出版されたと同時にスイッチが切り替わるように前者が後者に置き換えられ、以後そのままであるかのような印象を抱いているなら誤りだ。

 それはあくまで第28回で少し触れたような、我々が歴史を理解しやすくするために必要な簡便法に過ぎない。

 実際には、生物学が聖書を捨て去ってから現代の進化論にたどり着くまでには様々な紆余曲折があった。その中で今回の話は、進化論の歴史に常につきまとってきた、今日でも完全に消え去ってはいない根深い一つの誤りに関係がある。

 なんだか大げさな話になってきたように聞こえるだろうが、そんなに身構えることはない。実はそのことに関する話はすでに大部分終わっているからだ。

 その間違いとは、第2回からずっと注目してきた2番目の存在の大いなる連鎖の時代の考え方、つまり「生命は下等な生物から始まって、より高等な人間を目指して一直線に進化の階層を向上してきた。」とする見方である。

 この人間中心の進化観では“万物の霊長”たる人間のような、大きな脳を持ち、高い知能と高度な精神を有する生物に到達することが、良いことであり、進化の目標であると考える。

 したがって、人間が属する哺乳類は“進化の進んだ高等な生物”であり、他の生物も、

  • 人間に似ているか?
  • 人間の祖先に系統が近いか?
  • 人間のように脳が大きいか?

 という基準に従って、鳥類・爬虫類・両生類・魚類の順でより“進化の後れた下等な生物”であると、一直線的にランクづけされることになる。

 では、一度も人間の先祖であったことのない鳥類は、なぜ爬虫類の上・哺乳類の下にランクづけされるのか?

 もちろん鳥類は、哺乳類と同じく爬虫類を祖先に持ち、人間の属する哺乳類と同じく温血だから、爬虫類より「高等」である。しかし、どう見ても哺乳類より脳が小さく頭が良くないので、哺乳類よりは「下等」である。

 現在の地球で最も多種多様な生態学的地位を占め、圧倒的な繁栄を謳歌している節足動物(昆虫*1など)が、なぜ魚類より下にランクづけされるのか?

 そりゃあ人間と類縁のかけ離れた、脳と呼べるほどのものさえ持たない虫けらだから「下等」に決まってるだろう。もちろん全く脳など持たない植物はさらに「下等」である。

 うむ、偶然だけど(笑)科学以前から人間が抱いてきた先入観ともピタリ一致するな。でも客観的な科学がそう言うんだから仕方ないね。これで安心、めでたしめでたし。

 ……とまあ、このような今日の視点からすると非常に人間中心的・目的論的で、単なる偏見と宗教的ドグマの影響を受けまくりの素朴な進化観は、意外に最近まで大手を振ってまかり通っていた。そして多くの社会政策にまでも直接・間接に影響を及ぼした。その一部はこれまでも見た通りだ。

 生物学が様々な技術・理論の進歩によって進化の本当の仕組みを知り、真の系統樹を突き止め、実際の生物界の多様さを理解するようになって、このような見方を脱却したのは、本当についつい最近の出来事なのである。

 このあたりの話は非常に面白くかつ重要なことなので、どんなに詳しく取り上げてもやり過ぎということはないのだが、それではいつまで経ってもここから先に進めないので、興味がある人は独自に勉強してほしい。私はここでリリー博士に戻ろう。

 さて、第一次(二次じゃないぞ!)世界大戦中に生まれ、歴史上第2と第3の存在の連鎖間の橋渡しを主導する役割を果たした彼は、もちろん自分自身の片足をまだこの第2の連鎖の考え方に突っ込んでいる。*2

 そろそろ次の展開が予想できるだろう。この言わば一つ古いバージョンの進化論に基づいて考え直せば、博士のイルカ・クジラに対する推論は、俄然違った色彩を帯びてくるのである。

(やる気がある人は次の段落に進む前に前回の引用部をもう一度読み直してこよう。)

 進化というのは人間のような大きな脳・高度な知能を目指して前に進むものである。したがって、人間よりも大きな脳を持つクジラ・イルカは、当然人間よりも知能が高く・進化の進んだ生物である。そしてクジラ・イルカより小さな脳しか持たない人間は当然クジラ・イルカより知能が低く・進化の後れた生物である。これは全く自明の単なる事実である。推論ですらない。

 「進化が進む」とは万物の霊長たる「人間に近づく」ことと同義である。したがって、近づくどころか人間以上の大きさの脳にまでに進化が進んでいるイルカは、当然話ができる。そうでなければおかしい。人間は話ができるからだ。イルカに話ができないように見えるとすれば、それは人間の方に知能が足りないからだ。*3全く自明の理である。そうでないなんてことはありえない。それは進化論に反する。

 イルカ・クジラは高度な思考や推論を働かせている。なぜなら人間はそうしているからだ。そうでなければ理屈に合わない。イルカ・クジラは高度な道徳や倫理を持っている。なぜなら人間が――鯨類に比べれば不十分とはいえ――そうだからだ。全く自明の(以下同文)。イルカ・クジラは口承伝承を子孫に教え込んでいる。なぜなら人間が(以下略)。

 どうだろう? あなたの想像力が十分なら伝わるだろう。このぞっとするような首尾一貫性が。自分の常識とまったく相容れない別の一貫した体系というのは不気味で怖ろしく感じるものなのだ。

 この恐怖と引き替えにいくつかの教訓を得ることができよう。

 まずひとつ目の教訓としては、イルカの知能なんて割とどうでもいい――と言ったらリリー博士には怒られるだろうが――話題ですらこんなにも不気味に感じるのだから、それが社会の安定・宇宙の運命・自分の永遠の魂に関することだったらどうかは、もう言うまでもないだろう。

 過去あるいは現在の宗教紛争がどんなに無茶苦茶で非道に見えたとしても、安易に「狂っている」だなんて言うべきではないということだ。(第8回)それは自分の想像力不足による思考停止の責任を相手に押しつけているだけだ。

 ふたつ目の、より重要な教訓は、人間の思考に対して働く時代精神の制約がいかに強力なものであるか、ということだ。彼ほど

「人類は人間中心のものの見方から脱却しなければならない! 人間だけが偉いという古い思い上がったドグマを捨てなければ人類に未来はない!」

 と熱心に説いた人もいないというのに、その彼の思想の前提となっていたのは、率直に言って今日のどこの中高生にも劣る、どうしようもなく人間中心的な生命観・進化観だった。

 なんともやりきれない話だ。*4これはガイア教が抱える多くの“ねじれ”の中でも最大のもののひとつで、リリー博士から学ばなければならないもっとも重要な教訓でもある。

 例によって、私たちがこうして「教訓を学ばなければならない」などと言って上から目線で見ていられるのは、21世紀の後知恵でハリネズミのように武装しているからに過ぎないということを忘れてはならない。

 こうした考察に接すると、義憤にかられ、人間であることに罪悪感を覚える科学者や篤志家もいることだろう。だが、この地球上でこうした現状を認識しているのはごく限られた人びとでしかないことを思えば、現状が変革されるとは思えない。十分な知識を備えた人びとはいくらかはいるだろうが、もはやクジラ類の殺戮を止めることはできないし、クジラ類との協調を図り、彼らとコミュニケーションを取ろうとする新プログラムに着手するとしてもいまとなっては手遅れである。

 本書はこうした著者の学説の基盤を説明し、現状を可能なかぎり詳しく報告しようとしたものである。著者としては、本書の内容が広く知られ、クジラ類とのコミュニケーションの研究プログラム発足の手助けになってほしいと思う。こうしたプログラムを組み立てれば、クジラ類の正体を明らかにし、その思考を解明し、彼らの話の内容を理解することができるようになる。プログラムの発足を公表し、研究結果を発表すれば、殺戮を止めさせることもできるだろう。その時になってはじめて、クジラ類を教育し、クジラ類から教えを乞うという人間の欲求が実を結んで、新しい学校や産業、政府が生まれることだろう。そこで本書では、現在までにわかっている事実を紹介し、人間とイルカとが種の違いを越えて将来協力し合うための指針を提案することにする。

 次の世代の人間が、異種間コミュニケーションこそは、おそらくは現在の地球が直面している最も偉大で高貴な試みなのだと認識してくれれば幸いである。現状を打破して、他の種の動物の思考、感情、行動、言語を理解できるようになることは、人間や地球の概念をも変える偉大で高貴な行為である。地球の表面の七一パーセントは、クジラ類の棲む海で蔽われている。いまこそこの地上の七一パーセントとのつきあい方を学習し、知性と感受性に富み、長い年月を生き抜いてきたイルカ・クジラ類となごやかに共生するすべを学ぼうではないか。

 これはちょうど前回の引用部の直後に続くものだが、我々よりリリー博士に生きていた時代が近く、21世紀の後知恵を知る術もないが、

 義憤・罪悪感・篤志・ごく限られた人びと・変革・新しい政府・偉大・高貴・打破・共生

 などという言葉は現在と同じく大好きだった当時の人々の耳に、この声がどのように響いたか、想像に難くないはずだ。山場は過ぎたもののリリー博士からはまだまだ学ぶことが沢山ある。(つづく)

*1:神学者から、生命の研究から読み取れる神の性質はどのようなものかと尋ねられた、生物学者J.B.S.ホールデンは「甲虫に対する法外な溺愛」と答えた、という有名なエピソードがある。
*2:他のどこに突っ込めというのだ? 創造論か?
*3:「彼らはおそらくかしこい。しかし、それを解明できるほど人類はかしこくない」(第9回
*4:ただし、別の、より楽観論的な見方をすれば「時代の進歩に応じてどこの中高生でも昔の天才以上になれる。」ということだから希望のある話と考えることも可能であろう。これはコップの水が半分しか入っていないのか、それとも半分も入っているのかというのと同じ話で、どちらかが正しくてどちらかが間違っているという類のものではない。

おまけ

 人類に未来はないつながり。

by 木戸孝紀 tags: ブックマークに追加する