山形浩生のエッセイ集。話題自体はやや古くなりかけているが、内容は別に古びてはいない。
今回「おっ?」と思ったのはここ。
さて、たぶん実際の世の中の制度設計というのも、このゲームの「おもしろさ」を考えるのと同じことだろう。ゲームも、まったくの自由放任では成立しない。なんらかの制度(つまりルール)があって初めて成立する。でもがちがちに規制しまくっては、ゲームが硬直する。(中略)万人による、さまざまなゲームの総和を考えたとき、最大限の「おもしろさ」を保証する制度ってどう考えればいいんだろうか。
(P286-287 制度設計と「おもしろさ」)
上記エントリで私が、ゲームデザイナーの才能に一番近いのはあえて言えば立法者の才能ではないか? などと言っているのは、これと同じ話だ。
しばしば訳書を好意的に取り上げてきたが、やはりこの人とは思考回路が近いらしい。他の著書も当たってみよう。
ちなみに『山形道場』という本の文庫化らしいので、そちらを既読の人はかぶらないように注意。
参考リンク
おまけ
これが十分コンテンツになるんだから今ゲームって難しいわな。
by 木戸孝紀
tags:IT ゲームデザイン 経済 山形浩生 社会 書評
ついさっきこんなアイデアが降ってわいたのだが、実際に遊べるだろうか? twitterやチャット・BBSなどでリンクを投げ合って遊ぶことを想定。
基本ルール
2人あるいは2チームで遊ぶゲームです。追いかける「鬼」と逃げる「人」に分かれます。
- まず人は自分のスタートするページを好きに選びます。
- 鬼はそのページから、1つの内部リンクを指定します。
- 人は指定されたページに飛んでまた1つの内部リンクを指定します。
- 以後繰り返します。
終了条件
一度指定したことのあるページは、その勝負中二度と指定できません。指定できるリンクがなくなったら追い詰められたと見なされ捕まります。
鬼はできるだけ早く捕まえられるよう逃げ道がなくなるような選択をし、人は捕まらないようにできるだけ逃げ道が広くなるように選択します。
ルールの補足
- リダイレクトですでに通ったページに飛ばされた場合は選択し直し。まだ通っていないページに飛ばされた場合はそこを選択したものとして続行。
- 選んだ項目がまだ存在せず編集となる場合は、その選択は無効となりもう一度選択し直します。
- もちろん勝負中に意図的にページを編集するのは禁止。
- 内部リンクとは以下のようなものを除く、記事内のリンクをたどって他のwikipediaのページに飛べるリンクを指す。
- 上または左のメニュー内のリンク
- 目次
- 注釈
- [編集]
- 要出典
- ISBN
- 外部リンク
おまけ
鬼つながり。ラビさんおもろすぎる。
by 木戸孝紀
tags:web Wikipedia ゲーム ゲームデザイン
という、FF13が一本道だというニュースを見ていて、昔、
という記事を書いたことを思いだした。
後でFF13について何か書くときに言及しようと思い、備忘のためにはてブをつけておいたら、Nao_uさんに拾われた影響か、新しく何か書く前に30ブクマついてしまった。こういうことってあるんだな。
いや、別にだから何だというわけではないのだけど、初めての経験なので記録しておく。ちなみに画像はとある櫻花の画像生成より。
おまけ
とある筋では有名なタイトル。
by 木戸孝紀
tags:DQ FF ゲームデザイン 時事ネタ
PCのモニタでプレイできるようにするなどしたおかげでようやく普通に一回クリアまでプレイできた。かなりの名作だと思う。
そもそもゾンビという概念は偉大な発明であった。それは、
- 死後
- 殺人
- 食人
という、およそ性を除いた世界の主要タブーを一発で崩壊させる。させるだけではない。たださせるだけなら誰でもできるが、そうしてもなおアングラにならずにいられる。
また群れると怖いが個体としては非常に弱いモンスターであるため、日常感が失われず「俺ならこうするのになあ」というゴジラやターミネーター相手では不可能な感情移入ができるという利点がある。
しかし、ゾンビはゲームという媒体には向かない大きな弱点が3つあった。
- 動きや見た目の生理的な気持ち悪さを表現しづらいこと
- 群れを表現できないこと
- ゲームにはボスが必要なこと
1,2は単純にスペック的な問題なのでわかると思うが、3は説明がいるだろう。ゲームというのはシステム上どうしてもザコとボス、弱い敵と強い敵が必要だ。弱い敵がゾンビなら、強い敵は何か? 強いゾンビか、強いゾンビ以外のモンスターだ。
ゾンビ以外のモンスターなら当然だがもはや(少なくともその部分は)ゾンビゲーではない。強いゾンビだとしても、弱いが故のゾンビ最大の魅力、「俺ならこうするのになあ」という妄想可能性が失われる。
ゾンビゲーとして超有名な『バイオハザード』はハードがPSになったことによって1を克服したが、2,3はクリアできなかった。一度に登場できるゾンビは1では確かせいぜい2,3体だったし、中盤以降の敵やボス敵は皆ゾンビではなかった。
だが同じカプコンの作品であるデッドライジングは、ハードがXbox360になったことによって1に加え2を克服した。これだけでも大進歩だが、ボスを全員人間(サイコパス)にすることによって3も克服した。
近代ゾンビの概念を確立したのはジョージ・A・ロメロの一連の作品であるが、中でもショッピングモールを舞台とする2作目の『ゾンビ』は消費社会や人間性への皮肉が効いていて飛び抜けた傑作とされている。
- ショッピングモール丸ごと占拠
- 一番の敵は人間
デッドライジングはこのふたつの要素をそこに立ち返って持ってくることによって、ついにゾンビ映画の魅力を完全にゲーム化することに成功した。
実質的に映画『ゾンビ』のゲーム化だとして訴訟になりかけたようなことがwikipediaに書いてあるが、大人の事情は置いといて、プレイヤー視点では素直にその通りだと思う。
おまけ
ゾンビ映画のメイキングみたいな。(ゾンビ映画相当のグロ注意)
by 木戸孝紀
tags:Xbox360 ゲーム ゲームデザイン ゾンビ 映画
突然ですが問題です。次のふたつの言葉は、一方が基本的な攻撃呪文で、もう一方が基本的な回復呪文です。どちらがどちらでしょう? すでに答えを知っている人は知らないつもりで答えてください。
わかりましたか? では続いてもう一問。やはり一方が基本的な攻撃呪文で、もう一方が基本的な回復呪文です。どちらがどちらでしょう? 答えを知らない人はいないような気がしますが、一応知っている人も知らないつもりで答えてください。
さあどうだろう。実は最初の問題はウィザードリィの魔法で、ハリトが攻撃魔法、ディオスが回復魔法なのだが、知らなかった人の正答率は半々にしかならないのではないだろうか。もしかしたらちょっと下回るかもしれない。
対して、後の問題はもちろんドラクエの魔法である。知らない人はほぼいないと思われるが、ギラが攻撃魔法でホイミが回復魔法だ。たとえ知らなくても間違える人間はほとんどいないことに、あなたは同意できるだろう。
しかし、なぜそれがわかる? 知らない人間がどう思うかなんて、普通に考えたらわかるわけがないだろう? それが今回の主題。このような現象は、
と呼ばれている。
数字の桁数の件もよく似た構図だが、要するに魔法をCGで視覚的に表現することができなかった時代に、共感覚的なものでそれを補おうとした工夫なのだ。こうした工夫の積み重ねが今でもドラクエブランドを支えている。
だからなんだというわけでもなく、立て続けにドラクエの記事と脳の記事がヒットしたので、合わせてみたらどうなるかなと思っただけなのだが、FF13(公式:音注意)がCGを極限に突き詰め、DQ9はDSで出るという戦略は、基本的に正しいんじゃないかな。
おまけ
いまだにゲームと言えばドット絵しか思い浮かばない私。
by 木戸孝紀
tags:ゲームデザイン ドラクエ 共感覚 脳
1.「どく」状態は何のためにある?
DS版ドラクエ5のエントリで予告していた話だが「毒を治すために決まってんだろ!」ということを言っているわけではもちろんない。
そもそもドラクエの「どく」状態というのは実はほとんどペナルティがない。戦闘中にはダメージがないし、移動中に数歩に一歩だけ画面が赤くフラッシュして1ダメージを受けるだけだ。仮に全員がずっと毒に犯されっぱなしでも、鬱陶しいのを我慢しさえすれば普通にプレイすることが可能である。
Wizardryのように毒のダメージが大きくて、毒消しは序盤では買えないほど高く、宝箱のどくばりの罠にうっかりかかったら死あるのみ、というような状況はありえない。毒がパーティーメンバーを殺すためにあるのではないのなら、毒消し草の存在意義以前に、そもそも毒状態は一体なんのためにあるのだろう?
ファミコン版ドラクエ3まで遡ってみよう。ドラクエ3について思い出しておかなければならない事は3つ。
- 初期のドラクエではアイテム欄が1人8個まで
- 毒の治療法は教会・どくけしそう・キアリーの魔法
- ドラクエ3で毒を使用するモンスターは出現順に
- バブルスライム
- ポイズントード
- どくいもむし(毒の息)
- くさったしたい
- どくどくゾンビ(毒の息)
2.ナジミの塔でのトレードオフ
最初のダンジョン、ナジミの塔に「とうぞくのカギ」を取りに行く道中にはバブルスライムが登場する。この時点でキアリーを習得していないため、バブルスライムに毒を受けて「どくけしそう」を持っていない場合、レーベの村まで引き返さなければならない。
冒頭とはいえ全員「よろい」と「ぶき」は装備するため、アイテム欄は一人6個以下しかない状態だ。開いた欄には「やくそう」「どくけしそう」「キメラのつばさ」のどれかを持つ事になる。
「キメラのつばさ」は一個持てば足りるため、事実上これは薬草を持つか? それとも毒消し草を持つか? のトレードオフである。薬草が多すぎれば、毒消し草が切れHPを残しながら町に引き返さざるを得なくなり、悔しい思いをする。毒消し草が多すぎれば、アイテム欄が圧迫され薬草を持てる数が減りHPが切れて、やはり悔しい思いをする、というわけだ。
3.キアリー習得による解放のカタルシス
ロマリアに渡ってしばらくするとキアリーを憶えるレベルに達する。このキアリー習得によって、プレイヤーはついに毒消し草を何個持つかなどという下らないことに頭を悩ます必要もなければ、失敗して悔しい思いをする必要もなくなるわけだ。
習得してすぐ使う機会があるように、ちょうどロマリア周辺にはポイズントードが配置されている。さらにそこから少し進んだシャンパーニの塔とその周辺には、毒の息で複数に毒を与えてくる「どくいもむし」が登場する。もちろん「一度に何人毒に犯されようがもう怖くないぜヒャッハー!」という開放感を確認させるためである。
と、いうわけで、
- 毒のダメージが戦闘中にある(戦う代わりに毒を治すこととのトレードオフ)
わけでもなければ、
わけでもないドラクエ的な毒なのに、
- アイテムの個数制限が厳しい(他のアイテムを持つこととのトレードオフ)
- “後で”キアリーを憶える。
- それを確認させるための毒使用モンスターが登場する。
というカタルシスを得るための条件が用意されていない「毒」ステータスは、ほぼ存在意義がない。「毒を受けたら毒消しを使う」という単なる作業をプレイヤーに強制するだけのものになってしまう。
「RPGには毒があるのが当たり前だろう」「毒があったら毒消しがあるのが当たり前だよね」と惰性で決めただけだと、そうなってしまう。実際そうなっている事が、ままある。むしろ、そうなっていない事例の方が少数派なのではないかと思う。
もちろんドラクエは、そこのところはきちんとしていた。1人が持てるアイテムが12個になりアイテム制限が大幅に緩んだ5では、戦闘中でもダメージを受ける「もうどく」状態が追加されたり、「のろい」状態とシャナクの習得タイミングで同様のカタルシスを用意したりしている。
おまけ
Wizつながり。組曲の替え歌はなんでもあるな。
by 木戸孝紀
tags:Wizardry ゲーム ゲームデザイン ドラクエ
DS版ドラクエ5クリア。十分面白かった。ちょっと気になったことをとりとめもなく。
まずピエール様の優秀さは健在。自然すぎてしばらく気がつかなかったが、一度の戦闘に参加できる人数が4人になっていた。SFC版では3人だった。やはり3人は少なすぎ、5人は多すぎるということなのだろうか。
そのせいもあって、「たたかいのドラム」のバランスブレイカーぶりがもっと過激に。クリア後アイテムとは言え鬼畜過ぎる。使う以外の選択肢がまったくない。破壊の鉄球との組み合わせにより、攻撃魔法の存在意義もほぼなくなってしまう。
やっぱり「ふくろ」があるとまったくゲーム性が変わってしまうな(これは5だけの話ではないが)。「やくそう」や「どくけしそう」の位置づけとか。これ話が膨らんできたから別にエントリ起こそうかと思う。
4でオムニバス型式とAI戦闘という突飛なシステムが採用されたせいで見えにくくなっているが、ドラクエは4までと5以降でゲーム性がかなり変質している気がする。きっちり制御された箱庭を楽しむゲームから、制御しきれない多様なおもちゃ箱を引っかき回して楽しむゲームに。
5の象徴である結婚イベント、3人目の選択肢デボラが追加されビアンカ一択シナリオだったのを是正する措置が取られているが、むしろイベントとしての魅力は減退したような気がする。ゲームの選択肢というのは不平等でなければいけない。圧倒的に一択の選択肢であればこそ、王道には王道として、ありえない選択肢にはネタとして、それぞれ選択する意味が生じるわけで。どれを選んでも正解ではないようなイベントは乱数でいいのだ。
それと移動中に仲間に話しかけることができるようになった。ムスコス・ムスメスのボケ倒しは面白かったが、結婚後のビアンカがかなりうざい。媚びすぎのような気がする。……あれ? そういう需要に応えてデボラが配置されてるってことか? デボラでもっかいプレイしてみるべきか? いや、やっぱそこまでやり込むのはちょっとむり。デッドラとXbox360も届いたし。
おまけ
やっぱゲームの選択は理不尽でなきゃ……って、さすがに限度があるわ(笑)。
by 木戸孝紀
tags:DS ゲームデザイン ドラクエ
もう何年も前の話だが『Mind Hacks』という本で“サビタイジング”という効果のことを知って、どうして歴代FFの戦闘画面のうちFF4のものだけがこんなにも見づらいのか? という長年の疑問に決着がついた気がした。
(FF4:6分過ぎから戦闘シーン)
(FF5:1分半から戦闘シーン)
最初に思いつく説明は単純に縦にキャラが5人・ステータス画面5行が並ぶのは多すぎるからというものだが、FF5やFF6でも4人(4行)はいるのに、その戦闘画面は全然見づらくない。この差は数1つの違いだけでは到底説明がつかないと思っていた。しかし、
サビタイジングの際、脳では、普通に数を数える場合と全く異なった処理が行われているように思える。いくつかの実験により、数える物が4つまでの場合は、1つあたり40〜80ミリ秒で数えられるのに対し、それを超えると、必要な時間は1つあたり250〜350ミリ秒に増えるということがわかっている。
(中略)
サビタイジングの場合は、意識して注意を向けるというようなことは必要ない。視点を物から物へ移すこともない。(中略)そのため、研究者の中には、「サビタイジングは動作ではなく、視覚信号処理の副作用である」などと主張する人もいる。
『Mind Hacks』P134-135ページ
というわけなので、実際に起こっているのはおそらくこういうことだろう。
- プレイヤーが視線を移動させる。
- 脳はそこにキャラが何人いるか・コマンドやメッセージが何行あるかを、無意識的に把握しようとする
- 4人・4行の場合、無意識のまま約240ミリ秒で数え終わる
- 5人・5行の場合、一瞬意識を持って行かれ、約540ミリ秒で数え終わる
- 次の行動に移る
戦闘中画面においてプレイヤーは、コマンドを入力し(下)・アニメーションを見(上)・ステータスを確認する(下)、といった具合に頻繁に視線を移動する必要がある。その度に一瞬数えることに意識を持って行かれて、約300ミリ秒を無駄にさせられることの積み重ねが「見づらい」という印象となって現れるのだろう。
要するに4人(4行)と5人(5行)の間には実際に越えがたい差があり、5という数は多すぎるという最初の説明以上のものは必要なかったという結論になる。だからなんだというほどのものでもないが、もしかしたら誰の役に立たないとも限らないので書いておく。
おまけ
年代的にヒャダイン氏の作品はいつもツボに入ります。
by 木戸孝紀
tags:FF ゲームデザイン ライフハック 脳