2011 8/27

人間の本性について (ちくま学芸文庫)

 エドワード・オズボーン・ウィルソンのピュリツァー賞受賞作。内容はタイトル通りで、賞に相応しい素晴らしさ。

 私が生まれた年の本だが、いま見てもそれほど古びていない。問題になりそうなほど古いのは、同性愛を擁護するのにヘルパー説に頼っているところぐらいか。

 同じ人間が『創造』みたいなすっとこどっこいな本を書いたとは、なかなか信じられないほどだが、この本のラストには、それに繋がった問題意識がすでに見られる。

 科学的自然主義scientific naturalismの決定的な強みは、その主敵たる伝統的宗教を、物質的な現象としてあますところなく説明してしまうことができるという点にあると言える。つまり、神学が独立した知的分野として生き残れる見込みはなくなったのである。しかしそれでも、宗教それ自体は、社会に重大な影響力を及ぼすものとして、今後も長く存続することであろう。産みの母である大地からエネルギーを吸収したという神話上の巨人アンティオスと同様に、宗教もまた、単に地上に打ち倒されたぐらいのことで打破されるものではないからである。科学的自然主義の精神的な弱みは、アンティオスにとっての大地に相当するような力の供給源を、それが欠いているということに由来している。科学的自然主義は宗教的感情の強固さの唯物学的源泉を説明しはするが、現在のままの形態では、その力を自らの側に引きよせることはできないのである。なぜなら、科学的自然主義の進化的叙事詩は、人間個人の不滅性を否定し、その代りにただ人類という生物種の実存的な意味を示してみせるばかりだからである。ヒューマニストたちが、精神的帰依や自己放棄の強烈な快感を享受することは決してないであろう。科学者たちは、司祭の役目など金輪際果たせるものではないのだ。かくして我々は次の問いに逢着した。宗教の源泉を白日のもとにさらしてしまうこの偉大な新しい企てに、当の宗教の力そのものをふり向けさせる方法が、一体存在するのだろうか。

関連書籍

おまけ

 MMD杯は今回もレベル高かったな。

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2011 6/18

宗教を生みだす本能 ―進化論からみたヒトと信仰

 原題”THE FAITH INSTINCT”。スティーブン・ピンカーの”THE LANGUAGE INSTINCT”(『言語を生みだす本能』)を意識して、その向こうを張ったものだ。

 宗教を生み出し運用する能力は、言語を生み出し運用する能力と同じく、集団を内部で結束させ、他集団との戦闘などで有利にするために、進化によって積極的に選択された本能であり、何かの副作用でたまたま生じたわけではない。

 というのが主な主張になる。

 私は、この問題に限って言えば、ある程度グループ淘汰的な見方を受け入れるべきであろうと思っているので、全体としては同意できる部分が多い。

 ドーキンスやピンカーが宗教の適応的意義を軽視しすぎている、という意見には、ほぼ完全に同意する。

 厳しい戒律やタブーなど、宗教の持つ一見理不尽な要素も、それを行うコストによってフリーライダーの侵入を阻むためのものだ、という説明は、まあ常識的といってよいと思う。

 たとえば『神は妄想である』のドーキンスが伝統宗教の理不尽な点をあげつらうばかりで、分かっていないはずはないのにそのような基本的な説明をしないのは、確かにずるいと思う。

 最初の方はかなり期待していたのだが、後半に行くに従って、だんだん失速している。根拠に乏しいまま、ただ「〜だっただろう」とそれまでと同じようなことを繰り返す部分が多くなってくる。

 7章のイスラムの起源に関する仮説*1は、かなり極端で、まかり間違って結果的にそれが正しかったとしても、現時点でこの本に入れるのは適切ではないように思われる。

 全体的には、勇み足っぽく見えるところも多いが、悪くない本だったと思う。「勇み足」という単語にデジャビュを感じて検索したら、以前同じ著者の本に対して同じ単語を使っていたのに気がついた。著者がそういう気質なのだろうか。

*1:ムハンマドは実在の人物ではなくその歴史は後世の創作であり、初期の碑文などにある「ムハンマド」という言葉はイエス・キリストを指すものだったというもの。

関連書籍

おまけ

 マイクラ三大宗教のひとつイカ教。

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2010 11/14

繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史(上)

 原題は『合理的楽観主義者――繁栄はどのように進化したか』ぐらいの意味。直訳の方が良かったのではないかと思うこと以外はまったく素晴らしい。強くおすすめする。

 内容的には、すでによく紹介されているところがあるのでそちらに譲るが、ちょうど関連書籍に並べたような本の内容をまとめたような感じになっている。これまで好意的に紹介してきたものばかりなので、同時におすすめ。

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おまけ

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2010 11/7

言葉は身振りから進化した―進化心理学が探る言語の起源 (シリーズ認知と文化 7)

 言語の起源については大昔から、神話的なものから、こんなのみたいに多少は実証的なものまで、いろいろな説があったわけだが、それが「音声」言語であることは、比較的近代になるまで自明のことと思われていた。

 しかし最近は、音声言語より先に手話のようなジェスチャー言語が先にあったのではないかと思われている。この説はわりとよく聞いていて正しそうだと思っていたが、これ一本に絞った本は初めて。

 声と言語は同じではない。むしろまったく異なる別個のものだ。たとえば笑い声・泣き声・うなり声・悲鳴を、それぞれ全く正常に出していたとしても、発する音声がそれだけだったとしたら、その人はしゃべっているとは普通言わない。

 対して、手話は音声でこそないが、あらゆる意味で完全な言語の特徴を持ち、その役割を果たすことができる。

 類人猿を訓練しても、喉の構造などのせいもあって、音声言葉をしゃべらせることは全然できないが、ジェスチャーや記号を使って「言語的」なやりとりをさせることは、わりとできる。

 模倣したり統語したり解釈したりする言語的な能力は、顔や身体のジェスチャーに対してまず発達し、それが後に声、すなわち耳で聞き取ることができる舌と喉のジェスチャーに流用されるようになったのでないか。

 やはり、ここまでの考え方は正しそうに思える。

 また、ジェスチャー(手や足)から音声(舌や喉)に移ったことによって、言語から解放された手足が複雑な道具を作ることなどに利用できるようになったのではないか。

 つまり、初期の言語は道具や技術の発達をむしろ抑制しており、これが外れたことが、いわゆる飛躍的大前進に関係しているのではないか、というような話も出てきた。

 これは初めて聞いたが、大胆な発想の転換で面白い話だと思う。正しいかどうかはよくわからない。確かに手話で手作業を教えるのは難しそうだから、あってもおかしくはなさそうだ。

 ただし、自分はそもそも飛躍的大前進という考え方そのものが錯覚で、実際は漸進的なものだったという説の方がありそうだと思っているが。

 二足歩行への移行に関してアクア説支持に傾いているみたいなのだけが非常にアレだが、まあそこが本筋じゃないのでいいか。全体としては面白かった。

おまけ

 手話つながり。

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2010 7/26

火の賜物―ヒトは料理で進化した

  • イントロダクション 料理にまつわる仮説
  • 第1章 生食主義者の研究
  • 第2章 料理と体
  • 第3章 料理のエネルギー理論
  • 第4章 料理の始まり
  • 第5章 脳と食物
  • 第6章 いかに料理が人を解放するか
  • 第7章 料理と結婚
  • 第8章 料理と旅
  • エピローグ 料理と知識説

 中国神話の燧人(すいじん)氏は、人に初めての「火食」を、つまり、木をこすり合わせて火をおこし、食物を加熱することによって、生臭さを除き食中毒を防ぐことができることを、教えたという。これによって人は鳥獣と異なるものになり、ついには天意に適うものになったのだという。

 非常に大づかみに言えば、この神話は人類進化史上の事実をかなり正確に言い当てているのではないか、という仮説が提示されている本である。

 現生人類は、その祖先や進化上の親類である類人猿に比べて、歯や顎が小さく、噛む力も弱い。外から見える特徴だけではなく、内臓に占める消化吸収器官の割合も小さい。そうなった理由はもちろん、比較的に小さく・軟らかく・消化効率の良いものを食べているからだ。

 小学生の頃に読んだ学習マンガで、小さくなって口から入って消化器官の中を冒険する話があった。その中で、人体の中で最も頻繁に更新される細胞は、小腸の微絨毛の表面であるというトリビアを得た。

 その知見が今でも通用するかどうかは知らない。しかし、おそらく正しいだろう。飲み食いした様々な物質――常に良いものとは限らない――が通り過ぎていくだけでなく、そこから有用な栄養分を常に効率よく吸収できるようにメンテナンスされていなければならないからだ。

 小腸は、エネルギーを取り入れる器官であると共に、大量のエネルギーを消費する器官でもあるのだ。消化器官を小さくすることで、エネルギーを大量に節約でき、そのことが他のエネルギーを消費する器官、すなわち脳の巨大化を可能にする条件だったかもしれない。

 現代では、栽培植物や家畜動物そのものも軟らかくなるように品種改良されている。とはいえ、その効果を含めてもなお、最終的に口に入る小さく・軟らかい食物は、圧倒的に料理≒火によって可能になっている。

 まったく火を使わない食物だけ食べて暮らしている人は誰もいない。火を使わない民族はいないし、料理しない民族もいない。現生人類が火を使わない食事だけで生命を維持するのは、(火以外の)あらゆる現代文明の力を借りてさえ、極めて困難なようだ。最近まで全く不可能だったろう。

 人類は、火を使うようになってから現代までの間に、火を使うという文化が存在するという環境に適応して、進化したことになる。その過程で小さな歯や顎、消化吸収器官を進化(あるいは退化)させた。代わりに焦げの発癌性への耐性などを進化させている可能性がある。

 人類が火を使い始めたのはいつからか。『アシモフの科学と発見の年表』では50万年前になっていたが、最近はもっと古いと思われているようだ。160万年ぐらい前まで、もしかしたらそれ以上に、さかのぼる可能性があるらしい。

 今までよく考えたことはなかったが、火の継続的な使用の開始と料理の開始が、時間的に大きく離れていたはずがないという指摘は、言われてみればもっともだと思われる。

 また料理の必要性が、社会性や男女の分業などを促進したのではないか、というあたり、まだまだこれからの仮説と思われる。しかし、全体として非常に重要な指摘が詰まった本であることは確かだろう。人類進化もので久しぶりにかなり面白かった。

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 料理つながり。炎の妖精も出てくるし。それにしてもひでえカオス。

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2010 1/11

人はなぜ走るのか

 当たり前だと思うかもしれないが、人間はマラソンができる。誰でもというわけではないにしても、鍛えれば42.195キロ以上走ることができる。

 そんなことができる類人猿は、人間以外にはいない。人間は投擲力に優れているという話は前にもあったたが、持久走力も大変優れているのだ。

 ところが「人間は精神的に優れた動物であり、代わりに肉体は貧弱で非効率的である」という根拠のない伝統的偏見が根強く、なかなかそのような事実は意識されていない。

 仮に科学が、もっと自分たちの肉体の素晴らしさを強調するような文化の影響の下に進んでいたら、このあたりの歴史はかなり違っていたのではないかと思われる。

 この持久走力は、狩猟への適応であると思われる。狩られる者としての適応をもっと重視すべきという意見(参考)を考慮に入れたとしても、現生人類が高度な適応を遂げた狩猟者であることは変わらない。

 長時間追跡する狩りをすることが、将来を予想することなどの精神的な進化にも重要だったのではないかと臭わせており、これはさすがに飛躍しすぎではないかと思った。

 しかし、『飛び道具の人類史』で、投擲への適応が結果を予測することなどの精神的な進化にも影響を及ぼしたのではないかという意見を読んだときには、必ずしも飛躍とは感じなかった。

 後者を受け入れるなら、必ずしも前者を否定することはできないような気がする。

 もしかして、人間的な知性の進化には、持久走的な狩りをし、かつ投擲を重要な武器とする動物、という条件が必須だったなどということがありうるのか?

 後知恵の理屈すぎると思う反面、やはり否定する根拠は何もないように思える。むしろ、知性の進化が必然ではない理由を解明するヒントが、このあたりにあったりするのかもしれない。

 全体的に面白かった。同著者の他の本も読んでみたくなった。

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 人はなぜ走るのか。う〜ん、哲学

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2010 1/10

切除されて

 ここしばらくヒューマン・ユニバーサルの話題を並べていたのは何故かというと、ちょっと前*1に見かけた一連の女性器切除の話題に関して、一言だけ触れておきたいと思ったから。

  1. 女性器切除
  2. ちょっと待って、「女性器切除」の話題! – キリンが逆立ちしたピアス
  3. 割礼儀礼の現場から Circumcision

 1の匿名のような素朴な意見は、もちろん2のような批判を免れえない。

 だが「女性器切除と一括りに呼ばれるものの中にも多様性がある」とか「現地女性の意見も様々だ」なんてことは百も承知の上で、3のような素朴な相対主義も、もはや支持しえない。

 現代の医学・人類学・霊長類学が明らかにしつつあるのは、女性の陰核や性感は、男性のペニスやリビドーの副産物などではなく*2生物学的にも社会的にも重要な武器のひとつ*3だということ。

 またさらに、陰核切除などの慣習にも、これ*4に代わるべき説得力のある説明はなく、別の脈絡では意味をなさない。この慣習を「女の割礼」――加入儀礼として男の包皮を切除するのと並ぶ慣習――と呼ぶことで説明してしまおうとするのは、あまりにあからさまな人類学的婉曲法である。このような説明はあてにならない。文化的な諸観念は、陰核の除去手術や陰唇の縫合(陰部封鎖)を行なって女の解剖学的構造を作り変えようという直截的な努力の上塗りにすぎない。それぞれの処置が男と女に対して及ぼす影響は根本的に異なっているのである。男の割礼は性的能力にきわだった影響を与えない。しかし、陰核切除は性的快楽を減少させる効果的手段である。

(サラ・ブラファー・ハーディー『女性の進化論 』)

 すでに多くの人が指摘していることだが、あらゆる意味で*5陰核切除を含む「女子割礼」に正しく相当する「男子割礼」は、包皮切除ではなく亀頭切断である。

 もちろんそんな男性にとって都合の悪い「文化」など、非難する・しない以前に、どこにも存在しない。何が文化かを決める権力は、常に男性が握っているからだ。*6

 (極端な)文化相対主義が徐々に批判に耐えられなくなってきた以上、人権の概念の方を大きく書き換えるのでない限り、少なくとも「男子の包皮切除が非難されないのは欧米中心主義だ」などという類の言説は、もはや批判に耐えられない。

 「じゃあどうすんの?」という話になるのだけど、今回の絡みで読んで一番バランスが取れていると思ったのは、流石に専門の文化人類学者らしいこちらのエントリ。

 心理学ではよくある話*7だが、実際には大したことがないものを魅力的に見せるのに、上から頭ごなしに禁止するより優れた方法はない。人間はただ禁止されているという理由だけで毒薬でもなめる。

 このような心理的傾向は、ほぼ間違いなく優位者の操作に対抗するために進化してきたものであろうから、一概に否定もできない。ただ、分かっていてそういう方向に追い込むなら、追い込んでしまう側には責任がある。

 仮に女性器切除の廃絶だけを目標とするにしても*8それを実現するベストな手段はおそらく、女性器切除への関心などおくびにも出さず、ひたすら現地の女性に対するエンパワーメントを進める、というようなものになろう。

 当然、このような見方を受け入れるならば、長い間、多くの女性に生じる現実の被害を、積極的に見て見ぬふりをすることを要請することになるわけで、そのことの倫理性は大きな問題になるであろうが、それはまた別の話。

*1:すでにちょっとどころではない前だけど。
*2:男性の乳首が、おそらく女性の乳首の単なる副産物であるようには。
*3:何も特別な意味ではなく、単に脳や目や手足がそうであるように。
*4:女性の社会行動・性的戦略を制限して男性の父性を確実にすること。
*5:相同器官であるという生物学的な意味でも、実際に果たしている生理的・社会的機能の上でも。
*6:完全な女権社会は、地球に未だかつて実在したことはないと思われている。いわゆるアマゾネスの伝説は、現代人にとってのビキニアーマーの女戦士が登場するアニメ同様、男性の男性による男性のための性的ファンタジー以上のものではなかったであろう。(念の為に断っておくが、だからいかんと言ってるわけではないよ。性的ファンタジー大いに結構。現実とごっちゃにしなければ。)
*7:『影響力の武器』か何かにも出てきたと思う。
*8:もちろん「だけ」を目標にする必要などないだろうが。

関連書籍

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 亀頭とか書ける機会はあまりなさそうなのでこの際遠慮せず。

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2009 12/27

ヒューマン・ユニヴァーサルズ―文化相対主義から普遍性の認識へ

 ここ1世紀ぐらいの人類学の歴史を超大雑把に捉えれば、文化相対主義が盛り上がって頂点を極めた後、徐々に後退している歴史であるといえる。

 もちろん、今日の基準に照らせば馬鹿馬鹿しいほどに極端な相対主義は、さらにその前の、もっとずっと極端に酷い文化差別・性差別がまかり通った時代への反動として生まれてきたものだ。

 そのことを忘れて、単に後知恵の批判をするだけではまずい。それらの歴史も踏まえた上で、新しい知見を受け入れていかなければならないのだ。

 で、これはその人類の普遍特性、ヒューマン・ユニバーサルに関する本。エディプス・コンプレックスの存在を自明視していることだけちょっと疑問だが、いい内容だと思う。

おまけ

 要するに、人間のすることが全て文化の産物だというのなら、なぜこんなことが可能なのかということ。

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