2017 12/1

第43回】 【目次

 今回取り上げるのは、前回のハインラインに続いて海外SF御三家*1、正真正銘のSF作家、アーサー・C・クラークの『海底牧場』(1957)である。

 前回の『異星の客』よりも4年前だが、まあ細かいことは気にするな。今は、最低でも10年単位で考えるような時代精神の話をしているのだから、それぐらいは誤差だ。

 短めで適度なスペクタクルがあり、ある意味王道ビルドゥングスロマンでもあり、ここまでの2作に比べれば今でも読めるが、やはりネタバレは気にしないので、自分で読みたい人は先に読んでほしい。

ストーリーライン

 月や火星に植民地ができていて金星も開発されようとしている近(?)未来*2の地球。世界連邦*3食糧機構が、海で、プランクトンを育てる農業と、超音波の柵でクジラを管理する牧鯨を行っている。

 主人公のウォルター・フランクリンは、優れた宇宙飛行士であったが、船外活動中に宇宙空間に投げ出されて漂流する事故により、重度の開放空間恐怖症*4になり、職業生命を絶たれてしまう。

 適性を生かせる第二の人生として、クジラを保護したり、サメやシャチを駆除したりする牧鯨者(ホエール・ボーイ*5)と呼ばれる潜水艦乗りの道を選ぶ。

 第一部:練習生時代では、挫折から立ち直ったり、後に妻となる女性に出会ったり、第二部:監視員時代では、大イカを捕まえたり、伝説のシーサーペントを探したり*6するものの、このシリーズの観点から重要なのは、第三部:官僚時代に巻き込まれる倫理問題だ。

 ちなみに、後に妻となる女性は、インドラという名前の生物学者で、オランダ人・ビルマ人・スコットランド人の血が、同じくらい入っていて、日本生まれである、という設定になっている。だからなんだというほどではないが、世界観をうかがえるであろう。

『白鯨』≒マッコウクジラのイメージ

 彼には、必読書以外の本を読む時間はほとんどなかったけれども、『白鯨』に読みふけっていた。これは半ば冗談に、半ば本気で、牧鯨局のバイブルと呼ばれていた。

 練習生時代の1シーンから、第42回の脚注で出したばかりの宿題の答え合わせ。

 ハインラインが鯨類代表として言及したのがマッコウクジラである理由は、つまるところハーマン・メルヴィル白鯨』(1851)に出てくるのがマッコウクジラだからだ。

 そして『白鯨』のモビィー・ディックがマッコウクジラなのは、鯨油を目的とした捕鯨で特に重要なのがマッコウクジラだったからだ。(なぜマッコウクジラの鯨油が特別かというと……ここでやる必要はなさそうなので自分でググってくれ。)

 『白鯨』は世界有数の有名小説であり、19世紀半ば時点の捕鯨イメージの総まとめであり、20世紀半ばまでの鯨イメージをかなりの部分支配したということ。その際代表となる種はマッコウクジラだったということ。これだけでも憶えておくとよい。*7

 そして宿題がすぐ解消してしまったので、また代わりの宿題。シーシェパードのワトソン船長が、一番好きなクジラとしてマッコウクジラをあげている*8のはなぜで、そのことは何を意味しているだろう?

鯨肉のカニバリズムイメージ……はなかった

 第三部で官僚となったフランクリンがジャーナリストを相手にしている場面。

「わたしよりもだな、ボブ、きみのほうが今じや統計に詳しいんじゃないか。局としては、次の五年間に、牧鯨の規模を、十パーセントほど拡張したいと思っている。(中略)目下のところ、局では、人類の食糧需要総量の十二・五パーセントを賄っているが、これは大変に責任の重いことだ。ぼくとしては、在任中に、十五パーセントにしたい希望を持っているよ」
「そうなると、世界中の人が、少なくとも週に一回は、鯨肉のステーキを食べることになるわけですね?」
「そういう見方もできるがね、みんな、知らずに鯨を食べているんだよ――食用油を使ったり、パンにマーガリンを塗ったりするたびにね。局では、生産高を二倍にすることもできるが、だからと言って、それで面目を施すことにはならんだろう。局の製品はほとんど必ずといっていいほど、ほかの形に変えてあるからね」
「図版部で、それを正確に載せることになってます。この記事が出るときは、一般家庭の一週間分の献立を写真にして、その何パーセントを鯨に負うているか、各項目ごとに円グラフをつけてあるはずですよ」

 グリーンピースやシーシェパードの諸兄姉が読んだら気絶しそうな設定だが、さて、クラークは読者を気絶させようと思って、嫌がらせでこんな世界を描くゲテモノ作家なのだろうか? 違うと思うなら、例によって、おかしいのは我々の歴史感覚だ。

 この一見淡々とした記述は、捕鯨・反捕鯨問題を考える上でとても重要な事実を突きつけている。「欧米」では昔から鯨肉食がカニバリズムに類するタブーだったかのようなイメージは、全くの大間違いだということだ。

 そのようなイメージは、ある種の民間語源のように、単に「普通の人が現在の状況から逆算して想像したときに一番自然に思える説明」であるに過ぎず、「実際の過去で起こった経緯」ではない。

 ほぼ不可避的にそうなってしまうから問題になっているのであり、「普通の人」を責めているわけではない。しかし、何か現在の事態を改善したり、問題を解決しようとするときに役に立つのは、ほとんどの場合、後者である。

 このカニバリズム感覚に関する誤解は、国家間・国内の捕鯨論争を不毛で敵意に満ちたものにしている要因のひとつであると私には思われ、重要な意味を持つので、次回に独立して集中的に取り上げる。

 ついでにもう一箇所。プランクトン農業の説明のシーン。

 自然によって産み出された鉱物を汲み上げることで満足せずに、人間は海中ふかく、要所要所に、原子力発電機を沈めた。そこでは、発電機のつくる弱い熱が、広大な水中に噴流を起こして、そこにある貴重な鉱物資源を、恵み豊かな太陽のほうへと、押し上げてよこす。自然がおこなう掘り返しを、こうして人工的に促進することは、核エネルギーの多くの応用部門の中で、もっとも期待の少なかったものであるが、また同時に、もっとも酬いることの多いものでもあった。この方法によって初めて、海産食糧の収穫高が、十パーセントも増加したのだった。

 グリーンピースやシーシェパードの諸兄姉ならずとも気絶しそうな設定だ。原子力のポジティブイメージ、「食糧生産」への強いこだわり、どちらも詳細は別の「糸」に譲り、今は追及しないが、現在との大きなギャップがなぜ生じる(生じた)のか考えておくとよいだろう。

噴飯モノの宗教イメージ

 そして、肝心のフランクリンと牧鯨局が巻き込まれる倫理問題だが、その前提となっている作中の宗教関連の設定が、単独ですでに注目に値する。

 宗教の力を過小に評価することは、それが仏教のように、おだやかで寛容な宗教であっても、決して賢明なことではない。その位置は、百年前には、とうてい考えられないことであっただろうが、前世紀の政治的・社会的大変革が相まって、それに必然性を与えた。競争相手であった三大宗教*9が没落したために、仏教は今や、人間の心になんらかの形で現実的な支配力を持つ、唯一の宗教となっていた。キリスト教は、ダーウィンフロイト*10によって与えられた痛打から、完全には立ち直っていなかったのだが、ついに去る二十世紀の考古学的発見*11の前に、あえなく屈服してしまった。幻想的な男神女神の万神殿を持つヒンズー教は、科学的合理主義の時代に、生き残ることができなかった。そしてモハメッド教の宗旨も、同じ力によって弱体化された上に、ダビデの昇る星*12が、予言者の青白い新月*13に照りまさった*14とき、威信はさらに失墜してしまった。これらの信仰は今も生き残ってはおり、まだ数世代の間、余命を保つであろうが、その支配力はすっかりなくなっていた。ただ一つ、釈迦の教えだけが力を保ち、ほかの宗教の後にできた空白を満たしつつ、その影響力を増してさえいた。哲理であって宗教ではなく、考古学者の槌に弱い啓示*15に依ることのない仏教は、ほかの大宗教を破壊した衝撃によっても、ほとんど影響をこうむらなかった。(P275-276)

 なんかもう私も気絶しそうな設定だ。(ツッコミが追いつかないので重要性の低いものは脚注で済ませる。)

 私が言うまでもなく、この宗教観は、冷戦終結で民族紛争と宗教紛争がクローズアップされ、911で話題の主役に返り咲き、ビンラディン殺害で911が歴史の1ページになっても変わらない時代に生きている我々にとっては、噴飯ものとしか形容しようがないものだ。

 しかし、もちろんクラークは、21世紀人にごはんを噴かせてやろうと思ってこれを書いていたわけではない。当時はそれなりにマジだったのだ。

 私がこのシリーズの観点からここで読み取ってほしいことは2点だ。

 宗教が著しく――そう「宗教の力を過小に評価することは(中略)決して賢明なことではない。」と前置きしつつ、科学的合理主義によって宗教はあと100年やそこらで滅ぶ*16という設定を開陳する自分に疑問をおぼえないほどに本当に著しく――過小評価されていたということ。

 お世辞にも宗教が盛んとは言えない現代の、とりわけ宗教の力が弱い地域のひとつであろう日本*17に住んでいてさえ、一見信じがたいほどに著しく、宗教が過小評価されており、逆に「科学的合理主義」に、今では思いも寄らないような過大評価が与えられていたということ。*18

 そして、本当に標的になっているのはあくまでキリスト教であり、当時の進歩的な人々が広く共有したキリスト教に対する強い反発の現れであるということ。

 クラークに特異な仏教びいきの設定すら、大局的に見れば、その反動に過ぎないとも言える。他の宗教の扱いはおざなりであり、要するについでなのだ。よく見れば、

  • イスラム教には「お前はキリスト教と同じ啓示宗教*19だから同罪ね」*20
  • 仏教には「お前はキリスト教と似てないから宗教扱いしないで見逃したるわ」*21
  • ヒンズー教には「お前も多神教でキリスト教に似てないから罪状は思いつかないけど、仏教だけ残った設定にするのに邪魔だから、まあとりあえず氏ね」

 ぐらいのことしか言ってないのだ。

*1:ちなみにアイザック・アシモフもどこかで登場する予定なのでお楽しみに。
*2:明確な数字は出てこないが、牧鯨局に半世紀の歴史があるような台詞があるので、最低でも21世紀。おそらくその半ば以降。
*3:『異星の客』でも同名のものが西側の統一体として出てきたが、この作品では世界政府そのもののようだ。詳しくは政治の「糸」に譲るので深入りしないが、近い将来世界が政治的に統一されるというアイデアは、今ではほぼディストピア方面にしか見られないが、昔はポジティブ方面にも存在したのだ。
*4:本当にそういう症状がありうるかは知らんが。
*5:言うまでもなくカウ・ボーイのもじり。
*6:結局これは失敗するが。
*7:『白鯨』そのものを直接取り上げる予定はない。もしかすると宗教か芸術の「糸」で取り上げるかも知れないが、それでも本格的にではない。
*8:特定のソースは思い出せないが確かなはずだ。確かめればすぐわかるだろうが、あえてしない。仮にその話を一度も見たことも聞いたことも読んだこともないとしても、私にはそうだろうと考える根拠があるからだ。
*9:文脈的に、キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教。
*10:現在、フロイトの評価は、議論の余地は大きいものの、この時代に比べてハッキリ低下しているように見える。今のSF作家だったら、宗教とフロイトそれぞれに対する評価がどうあれ、この発想は出てこないだろう。ダーウィンと並び称されることも、古い本ではよくあるが、現在ではほとんどなくなった。
*11:何を念頭に置いているのかよくわからない、この時期話題になっていた宗教関係の考古学的発見でも何かあったのだろうか? 誰かわかる人います?
*12ダビデの星ユダヤ教を指す。
*13:ややこしいが、この「新月」は新月ではなく三日月のこと。三日月はイスラム諸国でしばしば使われるシンボル。
*14:ここも正直何を考えていたのかよくわからない。イスラエルがまだ目新しい存在で、イスラム教そのものの存続を危うくしかねないような破竹の勢いに見えていたのだろうか? 執筆時期がちょうど第二次中東戦争の時期に当たりそうなのと関係があるのか?
*15:なぜ啓示宗教が考古学に弱いと言われているのかよくわからない。古生物学者なら意味はわかるので誤訳かと思ったが、原文でも古生物学者(palaeontologist/paleontologist/fossilist)ではなく考古学者(archeologist)である。
*16:仏教びいきをいったん置けば要するに。
*17:「日本は宗教の力が弱い」あるいは「現代日本人は“無宗教”である」という類の言説は、このシリーズの観点から見て極めてまずい別の文脈で使われることがしばしばあり、誤解を招きたくないが、今の文脈で不当とまでは思えない。これについては宗教の「糸」でちゃんと取り上げる機会があると思う。
*18:これについては当然「科学」の糸でもっと追及する予定だ。
*19:啓示宗教・セム系一神教・アブラハムの宗教などいろいろな呼び方があるが、このシリーズの観点からは表記揺れのレベルで、要するにどれもユダヤ教・キリスト教・イスラム教のことである。どれでも構わないが、私は特に理由がなければ「セム系一神教」を使う。一番重要な特徴である「一神教」以外の字面で余計なイメージを喚起せず、偶然似ているわけでなく系譜的に関連があることを意識できるからだ。
*20:今となってはほぼ意味不明なイスラエルに対する言及を除けば。
*21:仏教は宗教というより哲学だ(から一神教よりましである)という主張は、現在でも真剣にもなされることがある。たとえば、まだそんなに昔ではないドーキンスの『神は妄想である』でも、ほぼ同趣旨の部分がある。個人的には、セム系一神教偏重の世界観・宗教観を批判しようとして、結果的に盛大に追認してしまっている、極めて筋悪な論調と思っている。これもやはり宗教の「糸」に譲り、今ここでは追及しない。

第43回】 【目次

by 木戸孝紀 tags:

2017 10/31

第42回】 【目次】 【第44回

 しかし、同じものを仮託されていても、『失われた地平線』に比べて、マイクがコンウェイやシャングリラのラマ僧と比べて、大きく変わった部分もある。

 すでに公民権運動の時代でもあり、マイクが「白人」である*1ということをいったん置けば*2あからさまな白人優越の意識は、もはや見られない*3

 キリスト教より異教が優れているのではないかという意識は、その場だけの単なるネタ*4から、本気に変わりつつある。

 中でも最も目立つ違いは、性に対する意識だろう。マイクのそれは、理想的なイギリス紳士(独身)で、性的なことなど終始おくびにも出さなかったコンウェイとは、全く異なる。

 後半ではこれらの差異に注意して見ていこう。

宗教に対する意識

 ジュバルらの支援によって、最低限の常識を身につけたマイクは、全ての財産と法的権利を自ら放棄することによって混乱を収束させる。さらに地球と地球人について学び、後に「フォスタライト派」の影響を受けて、自ら「世界の全ての教会 (Church of All World)」なる新宗教を創設する。

 以下は、マイクがフォスタライト派を知るきっかけとなったテレビ放送*5の場面。

「精霊行動青年隊はデモをおこなう。だから、早くきて、派手にやろう! 青年隊コーチのブラザー・ホーンスビーから、諸君にはへルメットと手袋と角材だけをもってくるように伝えるようたのまれた――こんどは罪人たちを追うことはしない。しかし、小天童たちは、熱意過剰な場合にそなえて、救急箱を用意すること」牧師はひと息ついて、顔一面に微笑を浮かべた。「それから、こんどはすばらしいニュースです。わが子たちよ! ラムザイ天使から、ブラザー・アーサー・レンウィックとそのよき妻ドロシーへの知らせ。あなたがたの祈りは聞きとどけられ、木曜日の夜明けにあなたがたは天国に召されます。立ちなさい、アーサー! 立ちなさい、ドロシー! お辞儀をして!」
 カメラは逆にカットし、会衆とそのまんなかにレンウィック夫妻を写しだした。割れるような拍手と「ハレルヤ!」の叫び。ブラザー・レンウィックはボクサーのように頭上で両手を組みあわせて答え、その妻は赤くなって微笑しながら、夫のわきで目頭をおさえていた。
 カメラがもどると、牧師が手を上げて静粛を求めているところだった。彼はきびきびと言葉をつづける。「送別パーティは真夜中にはじまり、同時に戸口には鍵がかけられます。だから、早目に集まって、われわれが見たこともないような最高の楽しい宴にするように。われわれはみな、アーサーとドロシーを誇りにしています。葬儀は夜明の三十分後で、早く勤めにいかなければならないひとびとのため、朝食はすぐそのあとです」牧師の表情が急に厳しくなり、カメラはその顔が映像タンクいっばいになるくらい、ズーム・レンズで接写していく。「このまえの送別パーティのあと、幸福の間のひとつで役僧が空のパイント・ビンを一本発見した。罪人のつくった銘柄の酒ビンです。これはすぎてしまったことで、こっそりそれをはこびこんだブラザーも罪を悔し、七倍の罰金をいつもの現金割引きの恩典も辞退しておさめましたから、彼が信仰の道を逆もどりをするようなことはなかったと思います。しかし、ひるがえって考えてみなさい、わが子たちよ――俗世の商品を買うことによって数ペニーを節約することが、永遠の至福を危険にさらすだけの値打があることだろうか? 常にかの浄福のディグビー司教の笑顔の承認シールがはってあるものを求めなさい。“同じようなものだ”という罪人たちの甘言にのってはいけませんぞ。われわれのスポンサーがわれらをささえ、彼らはまたみなさんの支持に値するのです。ブラザー・アーサー、こんな至福のときに、こんな話をもちだして申しわけないが――」(P231-233)

 このディグビー司教は、金と権力を独占するため、創始者のフォスターを毒殺したことになっているわ、後にマイクに近づき、「悪」と認識され四次元の彼方に消されてしまう*6わで、言うまでもなく馬鹿にされきっている。

 現代日本人読者には、もはや何かのギャグにしか見えないと思う。もちろんそれでいい。著者も明らかに冗談めかして書いている。

 しかし、ここで意識しなければならないことは、この描写は、アメリカの宗教事情の一面のみをさらに誇張した戯画ではあっても、全く架空の存在・全くの絵空事では決してないということだ。

(本当はここで、アメリカの宗教事情についていくらか補足がほしいが、長くなりすぎるのでいったん諦める。自分で読む気がある人には、適切な参考文献として『宗教からよむ「アメリカ」』を薦める。)

 フォスタライト派はキリスト教というよりはキリスト教系新宗教であるなどと、どれほど割り引いても、当時のハインラインや読者がキリスト教に好意的でなかった――少なくともアメリカにおけるその一側面に満足していなかった――ことは明らかだ。

 同時に、マイクに関する描写は、明らかにイエス・キリストを意識した、少なくともそのオマージュである部分をいくつも含む。*7自分で本を読んだ読者には「ハインラインはキリスト教的なのか?」という疑問が生じるかもしれない。

 これは今後何度も繰り返し出てくる論点であるので、一度簡単にまとめておきたいのだが、この疑問は「名古屋は西にあるか東にあるか?」と問うのに似ている。

 東京から見れば西にあるし、大阪から見れば東にある。それ以上に正しい答えはない。より本質的な唯一の絶対的回答というものは存在しない。相対的にしか答えられない問題というものはあるのだ。どこから見てか次第だ。それを指定せずに問うても意味がない。

 アメリカは過去も当時も現在もはっきりキリスト教国であり、日本人から見てキリスト教的に見える部分があるのは当然である。ここでのハインラインは、日本人から見ればキリスト教的で、従来のキリスト教徒から見ればキリスト教的でない。それ以上の答えはない。

 ヒルトンやハインライン、今後見てもらういくつかの作品の宗教的態度についても、あくまでその文化自身の前段階との比較で考えるべきである。つまりここでは、少なくとも当面、イエスのイメージに影響された面よりも、アンチキリスト教・異教趣味の側面に注目すべきである。

性に対する意識

 マイクは地球の常識を知らないのをいいことに、今でいうラッキースケベに近い経験もするし、ジルをはじめ大勢の女性と関係するし、話が前後するが、自分の教団でも独身どころかフリーセックスを推奨するようになる。

 そこでマイクだが、彼はいっている。“わたしの妻を欲しがる必要はない……彼女を愛せ! 彼女の愛には限度がないし、われわれは欲しいものはすべてもっているし、失うものも不安とうしろめたさ、憎悪と嫉妬以外にはなにもない”とね。この申し出は、信じられんようなものだよ。わしの記憶にあるかぎりでは、文明化されるまえのエスキモーだけが、それほど素朴だった。しかも、彼らは火星からきた男たちといってもいいくらい、まわりと隔絶していたんだ。しかし、われわれがわれわれの美徳をおしつけてしまったので、いまでは彼らも、ほかのわれわれと同じように、貞節と姦通をもっている。べン、彼らはそれによってなにを得た?(中略)わしが生まれた家は、エスキモーの天幕小屋と大差ないくらいの、上下水道の設備も悪い家だった。わしはいまのほうがいいよ。それにもかかわらず、エスキモーは明らかに地球でいちばん幸福な種族だったといわれている。彼らの味わったどんな不幸も、嫉妬からではなかった。嫉妬という言葉をもっていないんだ。彼らは必要に応じて、またおもしろ半分に、配偶者を借りる。それが彼らを不幸にはしなかったのだ。だから、狂っているのはだれなんだ? きみのまわりの陰険な世間を見まわして、わしに教えてくれ。(P648)

 この部分はフリーセックスへの傾倒以外にも、複数の重要な論点を含む。

 まずは当然、自分は今の(≒「西洋化」された)豊かな暮らしの方がいいと言いながら、貧しい他の誰かの方が素朴・純粋で幸せなのではないかと思う、典型的なオリエンタリズムの視線。

 そのオリエンタリズムの対象が、地球上の異文化から宇宙に移される過程の最後にあたる「現行犯」場面を捕らえた、いわばミッシングリンク(中間型化石・移行化石)であること。

 そしてフェミニズム(≒反男尊女卑)の進歩は、いま着目している多文化主義(≒反西洋優越)・宗教的多元性(≒反キリスト教優越)・人種平等(≒反白人優越)の機運に比べて――どう比べてなのかはともかく――ワンテンポ遅れたように見えるということだ。

 フェミニズムの歴史についてはそこまで自信がないが、少なくとも今日のフェミニストで、この妻の提供の習慣を好意的に評価する者は絶無だろう。*8単に男性(同士の同盟)が女性を搾取する形式(のうちかなりマイナーなもの)のひとつ、としか見なさないはずだ。

 まだ先の話になるが、この女性視点の欠如ないし遅れは、捕鯨問題に密接に関わる特定鯨種が今日持っている精神的地位に、微妙な影響を与えたように思われる。

女神崇拝・女性性に対する意識

 次は、マイクを病院から連れ出す際も協力した新聞記者のベン・カクストンがマイクの教団を見に行く場面。

 ジルは場ちがいな衣装をつけてましたよ。マイクが抑揚をつけてなにかいいはじめる。英語もまざって、万物の母とか多数の合一とかいうようなことを歌うようにいって、一連の名前をいいはじめたんです……しかも、その名前といっしょに、彼女の衣裳が変わって……」

(中略)

「母神(シビリー)!」
 ジルの衣裳がいきなり変わった。
「豊穂の女神(アイシス)!」
 また変わる。
「結婚女神(フリッグ)!」
ジェーデヴィ*9イシタールマリアム
マザー・イヴ マーテル・ディウム・マグナ! 愛し愛される不滅の生の――」
 カクストンは聞いてはいなかった。ジルは栄光だけを衣裳にした、マザー・イヴ。光がひろがり楽園の彼女が見える。そばの木には大きな蛇がからまっていた。
 ジルがにっこりして手をのばし、蛇の頭をなぜる――くるりと向きなおり、両腕をひろげる。

(中略)

 カクストンはその場に残って、ジルの輝く幻に包まれていたいと思った。みんなの列に加わりたかった。だが、彼は立ってその場を去った。ふりかえると、マイクが列の先頭の女を両腕で抱くのが見えた。パトリシアにつづこうと向きなおったので、彼はマイクの接吻を受けた女のローブが消えるところは見のがしてしまったし、ジルが最初の男に接吻するのも、その男のローブが消えるのも、見てはいなかった。(P604-606)

 異教の女神がごちゃ混ぜに出てくるゲームが珍しくもなんともない今日視点だと、アホみたいに見えるだろう。このストリップショーあるいはそれ以上の何かを、好意的に見る女性もまずいないと思う。

 しかしこれは、あからさまに男尊女卑的・唯一神教的だった旧来のキリスト教(文化)との差分で見るべきところだ。この女神崇拝・多神崇拝の趣向は、当時は確かに革新的で新鮮なことだったのだ。

 旧約聖書を意識した(肯定的にではないが)部分については、さっきしたばかりの「名古屋は西にあるか東にあるか?」の話を適用してもらいたい。

 あと、今は重要でないので追及しないが、シリーズタイトルに含まれながら、ろくに言及されてこなかったガイアの名前が、ついに登場していることに着目。

同性愛に対する意識

 今日視点で見た場合、もうひとつ特に目立つのは、同性愛に関する記述だろう。ジルの台詞としてではあるが、

 同性愛のことは、マイクが本で読んで認識できなかったので、彼女は説明してやったし、そう思われないようにするルールのいくつかを教えたのだった。こんなに好男子のマイクがそういう連中をひきつけることは、彼女にもわかっていたからだ。彼はジルの忠告にしたがい、それまでの中性的な美しさのかわりに、もっと男らしい顔になった。(中略)しかしマイクの男の水兄弟が、女の水兄弟がいたって女らしいのと同様、はっきりと男性的なのはさいわいだった。いずれにしてもマイクは、哀れな中性的存在には悪を認識するだろうとジルは考えていた。そんな連中に水兄弟になろうというはずがない(P535-536)

 と、男性同士の同性愛をはっきり悪とする一方、10ページも離れていない箇所で、同じジルに、

 しかし、彼の目をとおして*10ほかの女たちを見ているうちに、自分の興奮が高まってくるのに気がついて、彼女はびっくりした。

(中略)

 マイクが見ていると、彼女は色っぽい喜びから完全な発情まで、彼と気分をともにした。しかし、マイクの関心が浮わついていると、モデル、ダンサー、ストリッパーもただの別の女にすぎなくなる。彼女はこれはさいわいだったと思った。自分に同性愛(レスビアン)の傾向もあるのを発見しただけでも充分すぎる。
 しかし、おもしろかった。彼の目をとおして女たちを見るのは、とてもよいことだったし、彼が彼女のことも同じような見かたをしているとやっと知ることができたのは、陶然とするほどいいことだった。(P542-543)

 と女性同士の同性愛はまんざらでもないようなことを言わせている。*11

 何をどうしたらこんなことが可能なんだと、笑えてくるのを堪えるのに苦労するレベルであるが、おそらく何か真剣に考えてそうしたわけではない。

 このあたりは単にマイクが地球文化をいろいろ体験するという背景描写に過ぎず、(おそらく異性愛者の)男性である著者の性的嗜好が、そのまま出たに過ぎないように思われる。

 だからどうだと言っているのではない。私自身異性愛男性で、男女の同性愛コンテンツに対する直感的嗜好も、著者と大して違うわけではない。単に時代錯誤的な優越感で、ハインラインをあげつらって言っているのではない。

 このシリーズの観点から特に重要なポイントとは言えない同性愛を取り上げるのは、時代精神が、その時々の当たり前が、どこまで変わりうるかを示す好例としてだ。

 過去のある部分が、現在と比べて遅れていない、それどころか行きすぎてさえいる、ということの意義を本当に認識するには、同じ時点で、ある意味予想通りに遅れている部分も、同時に知っておかなければならないのだ。

マイクの最期とその後

 超能力ショーで信者を獲得したり、超能力チートでラスベガスで稼いだり、なんだかんだして教団を広げるマイクだが、反発も増していき、教会に放火された事件をきっかけに、ついにカタストロフが発生する。

 テレポートで脱出→誤解(?)から投獄→超能力で留置所の鍵や警官の武器を消してしまい脱獄→町を去ろうとするついでにいっそ大掃除だと町中の悪人数百人を消してしまう……等々の流れで暴動が起きる。

 マイクは自ら暴徒の元へ赴き、リンチされ惨殺される。遺体は当然残った皆で尊敬を込めて喰われる。「分裂」したマイクは、天国のスタジオで*12フォスターやディグビーと会って仕事にかかり、これから変えていきたい点が山ほどあるな、と考える。

 おそらく現代日本人読者が初めてこの作品を読んだなら、似たり寄ったりの感想を抱くと思うが、マイクの教団は全然魅力的なものには見えまい。

 ゲバ棒・テレビ・商売の代わりを全部超能力で済ませているだけで、フォスタライト派と、どれほど差があるか、甚だ疑問である。フォスターやディグビーと違って自覚がない分、考えようによってはもっと悪質にさえ思える。

 私の見る限り、ハインライン自身は、すでにその視座も十分持っているように見える。彼は、他の作品については右派と批判されることもよくあるほどで、少なくとも単純なヒッピーなどではありえない。

 本気でマイクが絶対的に正しく優れていると思っているなら、そもそもフォスタライト派に影響を受けた設定にはしないし、作品のラストの場面にフォスターやディグビーを出してきたりしないだろう。

 しかし、読者がそのようには受け取らなかったことは明らかだ。*13この作品はヒッピーの経典とあがめられ、現実にも大きな影響を与えた。そこまで重要なものとは思えないが、一例として、実際に設立された同名の教団は現在も活動しているそうな。

 一方で、私は、葬式で遺体を食べるように薦められたこともなければ、友人を訪ねてその妻と性交するように薦められたこともない。私が人付き合いが悪くてモテないだけ、という可能性を考慮する必要はなかろう。

 すでに21世紀の未来から振り返っている我々には、起きたことは明白だ。この本に示されたような世界観は、主流になっていないのはもちろん、ありうる選択肢のひとつにさえなっていない。間接的な影響は残るものの、一部の人たちの間だけの一時的なブームで終わったのだ。

 そうなった理由を追い、理解(グロク)することは、このシリーズの本筋そのものであるので、今ここで全部はやらないし、量的にも不可能だ。

 今後本筋で詳しくは取り上げ「ない」が重要であろうことだけあげておけば、単純に*14ムーブメントの担い手であったアメリカのベビーブーマーが若くなくなったこと、耳目を集めるいくつかの大事件、

 など*15によって、日本ではやや遅れてオウム真理教事件(1995)ひとつに集約されたような時代精神の転換が起きて、いわゆるカルト宗教・オカルト的なるものの印象が悪くなったこと、がある。

おまけ

 最後に一箇所だけ印象深い箇所を引用して終わりにしたい。マイクが自ら殺されに出ようとする直前、ジュバルに対して弱音を吐く――結局結論を出すにはまだ早い的な励ましを受けて立ち直るのだが――場面。

 先に言っておくが、ハインラインがこの部分をそんなに重要視して書いたとは思えない。私はたぶん、後知恵によって、著者が意図した以上の意味を読み取りすぎている。

 しかし、そう自覚してもなお、私は感動を抑えられない。マイクはここで、クソ下らない超能力なんぞではなく真に神の域に手を掛け、人類思想の半世紀先を、それどころか今日ですら未だ到達しきってはいない未来を、幻視したように、私には見える。

 ところがジュバル、わたしはかんじんなことをひとつ忘れていました。
 人間は火星人ではないということです。 わたしはこの誤りを何回もくりかえし、そのつど、自分で正し、しかもまだまちがえるんです。火星人に対して効くことは、必ずしも人間に効くとはかぎりません。もちろん、火星語でしか表現できない概念的論理は、たしかに人類にも役にたちます。論理は不変です……しかし、条件は変わります。だから、結果も変わります。 *16(P750-751)

 このシリーズのこれから先は、ある意味このマイクの境地に追いつくための旅とも言えよう。

 初っ端からSFの最悪と最良の部分をともに体現する特濃作品でとても疲れた。次回は、質・量ともにもうちょっとさらっと行きたいと思う。

*1:マイクの人種が殊更に話題になる場面はないが、最後のリンチの場面で『あん畜生に、黒ん坊の首吊縄をかけてやれ!』(P762)という群衆の台詞があり、少なくともアフリカ系ではない。小説自体に挿絵はないが、ペーパーバックの表紙などでは「白人」に見えるように描かれている。
*2:オリエンタリズムの糸の最後でまとめて話題にする。
*3:というより、人種に関する話題が全くない。前回冒頭の電子新聞のようなちょっとした背景部分を除けば。
*4:『失われた地平線』の影響でチベット仏教に改宗した「西洋人」がいたとは思われない。どこまでを影響と見なすかにもよるが、少なくともリアルタイムに、直接的に、社会的に意味のある数では。
*5:このシリーズの観点から特に重要なことではないが、テレビが一般に普及して間もない時代であることにも留意。
*6:具体的な場面は描かれないので、直接のきっかけがなんだったのかは不明。
*7:長くなるし、見ればわかるレベルなので、ここで詳細には取り上げない。
*8:あなたが男性で、嘘だと思ったら、母親でも妻でも彼女でも誰でも女性に聞いてみるといい。聞けないと思うなら、たぶんそれが答えだ。
*9:なぜか原文の方ではGeの次がIshtarで、このデヴィに対応する語はない。確かにインドの女神も入っていた方がそれっぽいが、いつどこで付け加わった? 底本のバージョン違い? それとも翻訳段階で? 今のところ不明。
*10:もののたとえではなく、前述の視点共有の超能力を使っている。
*11:ジルは終始善玉の副主人公格であり、これらが反語的に言われている可能性はまったくない。
*12:テレビがまだ新鮮なものだったことを思い出さないと、ここは意味不明だろう。
*13:この落差、著者と読者の温度差とでも言うべきものは、優れた著者が、時代に先んじ先導する者である以上、必然的に生じるものだ。今後このシリーズで見てもらう作品でも、何度となく問題になる。
*14:実はそれほど単純とは言えない。人口動態が文化に与える影響というものが当たり前に考えられるようになったのは割と最近になってからだ。なぜだと思う?
*15:後ろふたつの概要は上で紹介した『宗教からよむ「アメリカ」』でも読める。
*16:たとえば、今年のノーベル経済学賞はリチャード・セイラー行動経済学研究に与えられたが、火星人≒経済人と考えれば、この一文は行動経済学の神髄を要約するものと言っても過言ではないと思う。

第42回】 【目次】 【第44回

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2017 10/18

第41回】 【目次】 【第43回

 また1年以上間が開いてしまった。このまま年に1回のようなペースだと、100歳まで長生きしても未完に終わってしまいそうなので、なんとしてでもペースを上げようと考えている。

 今回取り上げるのは、今度こそ、押しも押されもせぬSF作家の正真正銘SF小説、ロバート・A・ハインライン異星の客』(1961)である。

 前回同様、いま読んで面白い小説だとは言いがたいので、長くなりすぎるのを防ぐため、大胆に要約・省略しながら行く。

 ネタバレも気にしないので、自分で読む気がない人は、先にあらすじと基本設定ぐらいはWikipedia等で予習してもらいたい。特にハインラインの項目は詳しく、このシリーズの観点からも有益な記述をいくつも含む。

 主人公のヴァレンタイン・マイケル・スミス(マイク)は、第一次有人火星探査のクルーが消息を絶った25年後、第二次探査によって発見された彼らの遺児であり、遺伝的には地球人だが、誕生直後から火星人に育てられ、地球や人間を一度も見たことがなかった。

 第一次クルー達のものだった莫大な株と特許を相続し、さらに法のいたずらで火星全土の所有権を持つことにさえなるかも知れないマイクが、赤ん坊よりも何も知らないと来れば、トラブルが起きないはずはない。このマイクが辿る生涯が、小説の本筋だ。

小説の世界観と時代精神

 まず以下は『自由諸国の世界連邦の事務総長という最高の地位にあるジョセフ・E・ダグラス閣下』(P127)が朝食をとりながら読んでいる電子新聞、という設定。風刺小説としての世界観がよく凝縮されていると思うので、ここは直接引用する。

 太陽の第三惑星は、今日は昨日より二十三万人多くの人間をかかえていた。五十億の地球人口のなかで、このくらいの増加は目だたない。連邦の協力者である南アフリカ帝国は、またしても少数民族の白人を圧迫したと、最高裁に召喚されていた。ファッション界の大御所たちがリオに集まり、スカートの裾が下がるだろうし、へそはかくすようになると発表した。連邦防衛ステーションが空中で動きを見せて、この惑星の平和を乱すものはなんであろうと殺してみせると約束した。コマーシャル宇宙ステーションが、無数の商標の商品の無限につづく騒音で平和を乱している。ハドソン湾岸には昨年の同じ日に移住してきた数より五十万も多い移動住宅が落ちついた。中国の米作地帯は連邦会議で緊急対策を要する栄養失調地区と発表された。世界一の金持ち女性として知られるシンシア・ダッチスは、六人目の夫に慰籍料を払って離婚した。
 新啓示派(フォスタライト派)教会の最高大司教ダニエル・ディグビー博士は、連邦上院議員トーマス・ブーンを導くためにエンゼル・アズリールを指名し、今日中に天の承認が下るであろうと発表。各通信社はそれをまともなニュースとして送った。過去に、フォスタライト派が何軒もの新聞社を打ちこわしたことがあるからだ。ハリソン・キャンべル六世夫妻は、シンシナチ小児科病院で仮親からただひとりの男の嗣子を得たが、幸福なこの両親はペルーで休暇を楽しんでいる。イェール神学大学の余暇芸術教授ホレース・クァッケンブッシュ博士は、信仰にもどり精神価値をつちかえと呼びかけている。ウェスト・ポイントのフットボール・チームのプロ選手の半分が、賭け競技の醜聞に巻きこまれた。細菌戦化学者三人が、トロントで、情緒不安定ということで休職になった。彼らはこの事件を最高裁にもっていっても争うと発表している。連邦最高裁は、合衆国最高裁判所の、ラインバーグ対ミズーリ州の連邦州議員がからむ党大会予選会の件に関する判決を破棄した。(P126-127)

 話の筋に絡んでくるのは「フォスタライト派」だけであり、細かい内容にいちいち論評しないが、人口問題・人種・ファッション・軍事・商業主義・性・宗教・生命倫理・政治、と様々なトピックに対して、作者の抱いている時代精神が垣間見えて面白いだろう。

 このダグラスが、マイクの財産と権利を押さえ政治的混乱を避けるため、彼を替玉の役者とすり替えて、その存在を抹殺しようとするところを、善玉サイドの看護婦ジリアン(ジル)が救出して、アナーキスト気質*1の老学者ジュバル*2の家へ駆け込むのが序盤のプロットである。

火星人とその考え方

今日の一コマ

 マイクを保護したジュバルらは、マイクを通して、火星人について詳しく知ることになる。火星人のキャラが直接本編に登場することはないが、小説全体を通して最重要要素である。

 今日の私達にとっては、「火星人」という単語がギャグやたとえ話以外の文脈で出てくる、ということだけでも、まず驚きだろう。

 意外と最近まで、太陽系の惑星のことですらよくわかっていなかったのだ、と理解するのは、それはそれで面白いことだが、今回の主題とはあまり関係ない。問題はこの火星人がいかなるものとして設定されているかだ。

 卵で生まれ、ニンフと呼ばれる毛羽だらけの球体状の幼生を経て、やがて帆を張った氷上船を思わせる巨大さの成人となる。雌雄同体で、ニンフのうちは全て女性で、成人後は全て男性に変化し、人間的な意味での性の意識はない。

 ニンフは物理的には活発だが精神はごく鈍い。大量にいて大事にはされず8/9*3までは最初の年に死ぬ。たまたま生き延びたニンフは成人に保護され、受胎・産卵を終えると成人に変わるよう指導される。成人は物理的には不活発だが、精神的には能動的である。(P160-161)

 まあこのあたりまではいい。今日たとえばハリウッドでリメイク映画化されるとしたら、火星人の雌雄はほぼ確実に逆の設定にされるだろうし、それも時代精神の興味深い変化のひとつを示唆しているが、今は置いておこう。本当に興味深いのはその先だ。

 数分、あるいは数年間の思索を必要とする火星人は、ただそのまま思索にはいる。もし友だちのひとりが彼に話しかけたいと思っても、その友だちは待つだろう。永遠の流れのなかで、急ぐ理由はありえないし、急ぐということは火星人の概念にはなかった。スピード、速力、同時性、加速、その他の永遠性のパターンの抽象概念は、火星人の数学の一部としてあっても、火星人の感情としてはなかった。反対に人類のたえまのないあせりは、数学的な時間の必要からではなく、人間の性的両極性につきもののいきりたった性急さからきているのだった。(P227)

 成人は長命で急ぐということを知らず、決して争わない。「死ぬ」ことはなく、適切な時が来たら自らの意志で「分裂」(discorporate*4して霊的存在となるだけで、事実上不死である。不要になった肉体は皆で尊敬を込めて喰われる。(P224)

 霊はごく当たり前の存在であり、肉体的に生きている成人より多い。古くからいる上級霊は「長老」(Old One)と呼ばれ、ほとんど全能である。一例として、第五惑星*5は、大昔に、長年かけて住民を悪と完全に「理解」した火星人の長老によって破壊されたことになっている。(P163)*6

 火星には病気も暴力も殺人も犯罪もなく、金銭も財産も政府も税金もない(P251)。長老の教えが完全なため、「宗教」「哲学」「科学」は火星語では不可分で「研究」とか「疑う」という概念もない。(P242)。「創作」という概念もない*7。おそらく「嘘」や「欺瞞」もない。「笑い」もない。(P252)

 生まれたときから火星人に育てられたマイクも、少なくとも当初は地球の常識を一切理解せず、火星人には遠く及ばないものの、多彩な超能力を持っている。

 念動力や空中浮揚は当然できるし、幽体離脱もできる。「悪」と認識したものを四次元の彼方に一瞬で消し去ってしまうこともできる。*8肉体を自由に操作し、脈拍や呼吸をコントロールして仮死状態になったり、感覚を遮断したり、太ったり痩せたり顔つきを変えたりできる。

 他人の視点から見る――考え方のたとえではなく実際に――ことができたり、他人にまた別の他人の視点を見せることもできる。宇宙の法則についても人間の科学者に説明することすら不可能なところまで理解している。

 「なんぼなんでも盛りすぎやろ!」……とツッコまずにはいられないのだが、それもいったん置いといて、『失われた地平線』と続けて読んでもらった*9ので、私が何が言いたいか、わかるね?

 設定の違いのために一見派手になってはいても、ハインラインとその読者達が、火星・火星人・長老に仮託しているものが、ヒルトンとその読者達が、シャングリラ・ラマ僧・大ラマに仮託していたものと、実質的に全く同じだということが。

 そしてもちろん、単に似ているとか、たまたま同じであるのではなくて、ミーム的な意味で前者が後者の子孫である*10ことが。

 もはや地上では見つけられなくなった神秘の逃げ場が、忙しい自分達「西洋人」を省みるための道具が、当時まだフロンティアだった宇宙に見いだされるようになったのだということが。

 最後におまけ的に一箇所引用。

 人間とはなんだ? 羽毛のない二足獣か? 神の姿をうつしたものか? それとも、循環のなかで「適者生存」の偶然の結果なのか? 死と税の相続人か? 火星人は死に打ち勝っているらしいし、人間的な意味での金も財産も政府ももっていないらしい。彼らにどうして税金がありうるだろう。

(中略)

 しかし、火星人の見かたからすると、人間とほかの動物を区別するのはなんだろう? 宙を飛べる種族が(そのほかになにがあるかだれにもわからないが)機械工学なんかに感心するだろうか? そうだとしたら、いちばん高く買われるのはアスワンダムだろうか、千マイルにもおよぶ珊瑚礁だろうか? 人間の自意識? ただのうぬぼれで、抹香鯨*11やセコイア樹がどんな人間にも劣らぬ哲学者で詩人ではないと証明する手だてはないのだ。
 ただひとつだけ、人間がほかに負けない領域がある。殺し、奴隷にし、いじめ、あらゆる方法でたがいに自分たちを耐えられないくらい迷惑な存在にすることに、ますます大きくさらに多くの有能な方法を発明する無限の才能を人間が示していることだ。人間は自分自身に対するいちばん意地悪い冗談なのだ。ユーモアの土台そのものが、そこに――(P251)

 これはジュバルの内省ではあるが、小説全体のトーン、ひいては著者の人間観・時代精神の一面を代弁するものと考えて間違いない。

 この本でクジラが出てくるのはこの一言のみで、他には一切絡んでは来ないものの、高知能説が、謙虚に考えるためのネタのひとつに過ぎずとも、少なくとも真面目に受け取る余地のあるものだったことがわかる。

*1:『彼はときの権力の邪魔をしてやると思うと、わくわくしてくるのだった。彼もアメリカ人すべてが生得の権利とともにもつ無政府主義的傾向を、人なみ以上にもっていた。惑星政府に体あたりすることに、彼はこの世紀にどんなものに対していだいたよりも鋭い熱情を感じるのだった。』(P159)
*2:『弁護士にして 医師、理学博士、善人で美食家、逸楽の徒にしてなによりも人気作家、しかも超厭世派哲学者であるジュバル・E・ハーショー』(P142)
*3:「十中八九」あるいは「大半」の意。中途半端な数なのは火星では3進法らしいため。
*4:まとまった複数部分に分かれるニュアンスが強い「分裂」よりも、「分解」の方が適切に思われる。おそらく(原文の時点で)意識して避けていると思われる既存の宗教用語を含めれば「入滅」が一番妥当か。さらに意味もずらしてよければ「解脱」でもいいかも。
*5:現実の太陽系第5惑星:木星のことではなく、火星と木星の間の小惑星帯が、かつてひとつの惑星であったとする(おそらく正しくない)仮説上の惑星。仮説自体は実際あったもので、この小説独自のものではない。たとえば『星を継ぐもの』でも重要な要素として登場する。参考:仮説上の天体
*6最強議論スレ――厨設定が集まることで有名――でもそこそこ上位に入れそうだ。
*7:『マイクがロメオは実在した人物だと信じているのがわかったし、マイクが彼に期待しているのは、ロメオの幽霊を呼びだして、現世でのその行動の説明を求めることらしいと、どうやらつかめた。(中略)創作の概念がマイクの経験の埒外にあるのだった。』(P192)
*8:実際に追っ手の警官隊やその武器・乗り物を次々消してしまう。
*9:現実時間では1年以上経ってるが……。
*10:ここで都合がいいのは、火星人が実在しないのは、少なくとも今日時点では明白で、このイメージは地球のどこかからきたものでしかあり得ない、ということだ。
*11:今はそれほど重要でないので追及しないが、ひとつ宿題。ここで鯨類代表として出てくるのがマッコウクジラであるのはなぜだろう? それは何を意味しているのだろう?

第41回】 【目次】 【第43回

by 木戸孝紀 tags:

2017 7/29

『ヒルビリーエレジー』★★★★★

 J・D・ヴァンス著。トランプ現象がらみで読んでおくか、程度のつもりで借りたが、単純にめちゃくちゃ面白かった。もちろん現代アメリカ理解のためにも役立つ。

『大いなる天上の河』★★★

 グレゴリイ・ベンフォード著。『BLAME!』映画化の影響で再読。初めて読んだのは大分前。直接の元ネタのひとつとして知られる。

『ゲーム・プレイヤー』★

 イアン・M. バンクス著。何かで思い出した。もちろん古く感じるところもあるけど、時代の割には新しげな設定。

『ベストセラーコード』★

 ジョディ・アーチャー著、マシュー・ジョッカーズ著。まだまだこれからの分野の気はするけど、面白い。

『あなたのセキュリティ対応間違っています』★

 辻伸弘著。セキュリティは専門じゃない自分にはちょうどいいレベルな感じ。

『鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。』★

 川上和人著。内容も味付けも嫌いじゃないんだけど、いくら何でもちょっとギャグ過剰。

『成功する人は偶然を味方にする–運と成功の経済学』★★★★

 ロバート・H・フランク著。成功には運の要素が大きいので、累進消費税によって一人勝ち経済の勝者から取って、不運な人に補助するようにしようという主張。内容はほぼ既知だが、適度にわかりやすくていい。

『ナニワ金融道』★★★★★

 青木雄二著。何度か言及したけど、そのもの自体をおすすめしたことはなかったな、と思って。

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2017 4/30

『マシュマロテスト』★★★★★

 ウォルター・ミシェル著。なんかもうよく知っているような気になっているマシュマロ・テストだが、改めてオリジナルに触れてみるととても面白い。

『へんな星たち 天体物理学が挑んだ10の恒星』★

 鳴沢真也著。ちょっと面白い。

『天と地の守り人 第2部 カンバル王国編』★★★★

 上橋菜穂子著。最終章中編? やはり面白い。

『量子コンピュータが人工知能を加速する』★

 西森秀稔著、大関真之著。内容は興味深いのだが、本としてはいまひとつ。

『ダメな統計学: 悲惨なほど完全なる手引書』★★

 アレックス・ラインハート著。元から興味がある人でないと読みにくいだろうけど。

『将軍と側用人の政治』★★★

 大石慎三郎著。意外なほど面白かった。

『となりの車線はなぜスイスイ進むのか?――交通の科学』★★★★★

 トム・ヴァンダービルト著。これはすごい。単独で全く見たことも聞いたこともないという話は少ないけど。

『未来からのホットライン』★★★★

  J・P・ホーガン著。初めて読んだのは大昔。今ではシュタインズゲートの直接の元ネタとして有名か? 古いけど今でも十分面白い。未読だが星野之宣バージョンあるのか。

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2016 10/1

『ダンジョン飯』★★★

 九井諒子著。3巻。まだまだ面白い。

『ナナのリテラシー』★

 鈴木みそ著。Kindle Unlimitedで鈴木みそのがいっぱいあったのでいくつか読んだが、薦められるのはこれだけかな。時事的なのですでにちょっと話題は古いが。ガチャ関係でたまに見る「脳内麻薬で留めることが大事だ」のページの元ネタってこれだったのね。

『カルチャロミクス;文化をビッグデータで計測する 』★★★

 エレツ・エイデン著、ジャン=バティースト・ミシェル著。こりゃおもろい。もっと早く読めば良かった。内容は例によってshorebird先生にお任せ。

『ホワット・イフ?:野球のボールを光速で投げたらどうなるか』★★

 ランドール・ マンロー著。これも存在は知ってたが、今まで読んでなかった。こういう真面目に馬鹿をやる感じ好き。

『アメリカの真の支配者 コーク一族』★

 ダニエル・シュルマン著。面白かった。原題”Sons of Wichita: How the Koch Brothers Became America’s Most Powerful and Private Dynasty”(ウィチタの息子たち:コーク兄弟はどのようにしてアメリカで最も強大でプライベートな王朝となったか)。邦題はいまいち。

『永遠の終り』★★★

 アイザック・アシモフ著。何かで思い出した。初めて読んだのは大昔。今読むと古さは否めないけど結構好き。

『宇宙が始まる前には何があったのか?』★★★

 ローレンス・クラウス著。宇宙論系。単独でこれという新しい知見はなかったが、いい。

『多世界宇宙の探検』★★★

 アレックス・ビレンケン著。上ので思い出した。初めて読んだのはだいぶ昔。

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2016 9/1

『東方外來韋編 Strange Creators of Outer World. 弐』★

 ZUN他著。東方雑誌2番目。まだ「お布施と思って」レベルか。

『ストーナー』★★★★★

 ジョン・ウィリアムズ著。確かに地味な小説のはずなのに、なんとも面白い。自分も所帯持ちとなったからか、うまくいってない家庭の描写とか、なんか鬼気迫る感じ。

『濃縮メロンコリニスタ』★

 ニャロメロン著。独特のギャグセンス。Kindle Unlimitedでも読める。

『星界の紋章』★★★

 森岡浩之著。名前だけ知ってた古典。1-3巻まで読む。別タイトルで続きがあるようだが、とりあえずここまでで一区切りらしい。いろいろ尖ってて古典になるだけのことはあると感じる。

『女帝』★★★★★

 倉科遼著、和気一作画。名前だけ聞いたことあったので、Kindleの90%OFFセールで期待せずに買った。一言で表せば「R-18の朝ドラ」。中だるみするところもないではないが、非常に面白かった。

『キレる私をやめたい~夫をグーで殴る妻をやめるまで~』★★★

 田房永子著。『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』からの連想。結構面白い。他のも読んでみようか。

『幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII』★★

 岸見一郎著、古賀史健著。前著が面白かったので。やはり自分には「自己欺瞞という非常に重要なテーマに関する、一昔前の惜しい解釈」と映る。自己啓発として有効かどうかは別問題として。

『国民クイズ』★★★★

 杉元伶一著、加藤伸吉著。大学生の頃読んだ覚えがある。Kindle Unlimitedで読み直した。もう時代も違うし難点は多いけど、一度は読んで損なしと思う。

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2016 4/18

『たんぽぽ娘』★★

 ロバート・F・ヤング著。表題作がやはり一番いい。魔夜峰央の短編でこれが元ネタになってるのがあったような。

『人体六〇〇万年史 上──科学が明かす進化・健康・疾病』★★

 ダニエル・E・リーバーマン著。個別にはすでに知ってる話ばかりのようだが、面白い。

『アメリカの世紀は終わらない』★

 ジョセフ・S・ナイ著。タイトルだけから大体再現できそうな順当な内容だけど。

『話しづらいけれど、話しておかないと後悔する相続と節税のこと』★★★

 川合宏一著、武石竜著、関岡俊介著。

『神の守り人』★★★★

 上橋菜穂子著。ここまでのシリーズ中では今ひとつながら、それでも十分面白い。

『量子力学で生命の謎を解く 量子生物学への招待』★★★★★

 ジム・アル-カリーリ著、ジョンジョー・マクファデン著。いや素晴らしい。個別には他で知ってる話もあったけど、この分野、短い期間にも大幅にアップデートされているんだねえ。

『ダーウィンの覗き穴――性的器官はいかに進化したか』★★★★

 メノ・スヒルトハウゼン著。面白い。内容はshorebird先生にお任せ。

『ブラックホール・膨張宇宙・重力波』★★★★

 真貝寿明著。重力波観測のニュースで何か一冊読んでみたいというニーズにちょうどいいかと。

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