エドワード・O・ウィルソン『創造―生物多様性を守るためのアピール』

創造―生物多様性を守るためのアピール

 エドワード・オズボーン・ウィルソンが、科学とキリスト教が協力して生物多様性の保護に取り組もうと、仮想の南部バプティスト派牧師に対し訴えかける、という本。

 はっきり言って、試みそのものが成功しているとは全く思えない。当たり前だが、ウィルソンは神の創造は嘘で進化が事実であるということについては一歩も譲る気はないわけで、牧師にとっては、

「私たち科学者は、君たち牧師が一番大事だと信じていることが全くの間違いだということについては、一歩も譲るわけにはいかないけど、私たちが一番大事だと信じているものを護るために君たちが協力できることは、沢山あると思うよ?」

 と言われているようなものだと思うのだが。*1これで「はいわかりました是非協力しましょう」と言ってもらえると、少しでも本気で期待しているのなら、ちょっと人を舐めすぎではなかろうか。

 ただ、言うなれば宗教右派に対してすり寄る内容だけに、私がウィルソンに対して気にくわないと思っている点が濃縮されたような感じになっていて、個人的には、なかなか興味深かった。印象深かったところを数ヵ所抜粋する。

第二章 自然の位に上ること

 人工的な生態系の中だけの暮らしに満足する人々も多いことは事実でしょう。これは飼育動物たちも同じこと。飼育用のグロテスクに不自然な生息環境のもとで満足しています。私の気持ちをいえば、これは倒錯です。手の込んだ飼育場の牛となることは、人間の本性にかなうものではないでしょう。誰しもが、人を生み出した複雑で原生的な自然の世界を難なく旅することができてしかるべきです。私たちには、誰の所有地でもなくすべての人々によって保護される大地、私たちの太古の祖先たちの世界を境界付けていたのと同じ地平を変わらず維持しているような大地を、縦横に行く自由が必要です。人類誕生のころの人の心理を作り上げた驚異の感覚は、エデンの遺産ともいうべき、人の都合とは独立した、生きものたちの賑わいに満ちた世界の中でこそ、体験することが可能なものです。

 人間的でかつ適切に教育される科学的な知識は、我々の暮らしに永続的なバランスをもたらす鍵です。生物学者たちが、生命圏の豊穣についてより多くを学ぶほど、生物圏のイメージはより豊かで感動あるものになります。同様に、心理学者たちが人の心の発達についてより多くを学べば学ぶほど、自然の世界が私たちの精神と、魂に及ぼしている重力のような普遍的な力をさらによく理解することになるでしょう。

 この星との平和な暮らしを実現するために、そして人類相互の平和な暮らしを実現していくために、私たちはまだ長い時間を必要としています。私たちは、新石器革命を発動したおりに、道を誤りました。そのときから人間は、大自然の位置に上る(ascend to Nature)のではなく、自然の位置から離れ、上昇すること(ascend from Natrue)を目指してきました。しかし、自然遺産が与えてくれる深く満ち足りた恩恵を享受するために、これまでに手に入れた暮らしの質を失うことなく方向転換を果たすことは、まだ可能です。宗教の包容力、そして教導者たちの寛大さと想像力の豊かさは、聖書に十分に記されることのなかったこの大きな真実を理解する偉大さを、必ずや発揮してくださることでしょう。

 うーん、これだよこれ。人によっては「ポスト・キリスト教」と呼び、私がガイア教と呼ぶ、リベラル派と伝統的キリスト教的世界観のねじれた野合。素晴らしい考え方だ、間違っていることを除けば。

  祖先的進化環境へのESSとして適応してきたに過ぎないものを「人間の本性」などと呼んで善と同一視することがそもそもおかしい、ということをいったん脇に置いたとしても、ホモ・サピエンスという種は、すでに圧倒的に自己飼育化*2の産物である。

 今日、人々がアメリカで「手つかずの自然」と信じているものは、一万年数千年前に起きた人類の進出(参考)と、近代のヨーロッパからの大規模な生態系移植(参考)の結果である。

 そしてもちろん、アフリカ=ユーラシア大陸の「手つかずの自然」とは、人類とその他の生物の数百万年の共進化の結果でしかありえない。

 「人間の本性」とか「人間の都合とは独立した生きものたち」などというのは、ただ単に間違っているのではなく、間違うことすらできていない幻想である。

第三章 本来のいのちある自然とは何か

 ポストモダンの哲学者の中には、真実は個々人の世界観にのみ依存する相対的なものであり、大自然というような客観的な実在はないと主張する人々がいます。彼らは、自然という区分はある種の文化に発生した誤った二分法に基づくものであり、他の文化には存在しないものであると主張しています。私はそのような考え方を面白いとも感じますが、それも数分のこと。これまで私は、自然の生態系と人間の干渉を受けた生態系の非常に鮮明な境界を何度も横切ってきた経験をしており、生きた本来の大自然(Nature)の客観性を疑うことはできません。

 私は、いわゆるポストモダン哲学や極端な相対主義も嫌いだが、ここではそちら側に加担せざるをえない。

  • 「大自然というような客観的な実在はない」

 などということは、ポストモダン哲学者よりも、むしろ進化生物学者こそが、キリスト教者に対して訴えるべきことだろう。

 次の引用部分は、若干補足が必要だと思う。キリスト教の中には、

  • 自分たちが生きている間に今の世界には終末が訪れる、そして自分たちは素晴らしい天国に迎えられる

 という考え方が、今も根強く生きている。そのような考えの人は当然、持続可能性などには関心を持たない。ウィルソンは本全体を通してそれを危惧している。

第九章 否定とそのリスク

 パストール、私か最も恐れるのは、創造された生きた自然[the Creation 被造物]への破壊に、ほとんど何の危険も感じないような、宗教的・世俗的なイデオロギーの結びつきが蔓延していることです。以下は、生物多様性にほとんど重要性を認めず、人は大自然をますます離れてこそ益多い者なのであり、自然に向けて次元上昇[アセンド]するようなものではないとする意見を持つ牧師がいれば、こんなスピーチもするだろうと想像して、私か創作したものです。

 兄弟姉妹、やがて地上から消えていくものたちのために、嘆くことなかれ。生命は変化です。絶滅もまたときにはよきものです。私たちは生命の新たな次元として、人を祝福しましょう。「略取」された地球を、新しい生命圏として祝福しましょう。進歩の障害となる種は消滅するにまかせましょう。人の登場する以前も、生態系と種の変転は通常のことでした。人のさらなる利益のために、世界の生物多様性が貧しくなることがあるとしても、私たちヒトという種に危険はありません。資源が枯渇すれば、天才的な科学技術者たちが、新たな資源を見つけるでしょう。

 善き人々よ、宇宙に目を向けましょう。天国を見上げましょう。絶滅した動植物を、未来世代への苦き遺産と考えるのはやめましょう。わたしたちは、歴史的な建造物を保存するのと同じように、過去の形見として、自然公園を保存することができます。高度の生物工学的な技術によって新しい生態系を創造し、人の力で創造された生物種をそこに棲まわせることもできるでしょう。どんなにすばらしい生物が創造されていくか、まだ私たちは知りません。それはかつてないほど審美的な魅力に満ち、多方面で有用な、技芸の産物となることでしょう。古く、原始的な環境は、人の手によって作り出されるはるかに優れた環境に置き換えられていくのです。完全に人間化された環境、人間が自分自身で作り上げるパラダイスのもとで、かつてない繁栄を果たすこと。それは私たちの未来技術によって可能なことであり、神の摂理にもかなうことです。それが私たちの定めなのです。来たるべき世代、人々は在庫の化学物質を利用して薬剤を合成するようになるでしょう。遺伝的に改良された数十種の穀物種から食料を生産するようになるでしょう。持続可能なエネルギー資源をコンピューターで管理することによって、大気も、気候も制御されるようになることでしょう。この古き地球は、これまで数十億年(これは、六千年とするのが望ましいと言われるかもしれませんが)の間そうであったと同じように、自転を続けていくことでしょう。

 しかし、地球というこの惑星は、比喩ではなく、文字通りの存在として、宇宙船になっていくのです。宇宙船地球号の操縦室には、人類の最も優れた人材が配され、モニター画面を見つめ、ボタンを押し、私たちの航行を安全なものとしてくれることでしょう。

 ここにあるのは、地球で特別の位置を占める人間は、大自然の法則の外にあると考える、人間特例主義の哲学です。人間特例主義は、以下の二つの、いずれかの形をとります。第一の形は、先に例示したような、世俗的な形式です。コースを変える必要はない、人間の天才が解決策を見出していく、という考え方です。第二は宗教的な形です。コースを変える必要はない。何にせよ、私たちは神の手の中、あるいは神々の手の中、地球という業の中にあるのだと考える形式です。

 実を言うと、地球の未来に関する私自身の意見は、ここでウィルソンがあげている悪い例と、そう遠いものではない。もちろん、わざと馬鹿に見えるように書いてある部分を除けば、だが。

 第一、この本それ自体が、科学と宗教が協力して

  • 「宇宙船地球号の操縦室には、人類の最も優れた人材が配され、モニター画面を見つめ、ボタンを押し、私たちの航行を安全なものとしてくれる」

 ようにしよう、という訴え以外のなにものでもないではないか。

  • 「持続可能なエネルギー資源をコンピューターで管理することによって、大気も、気候も制御されるようになる」

 ことを敵視しながら、どうやって地球温暖化を解決しようというつもりなのか。

 ウィルソンがその程度のことも考えていないとは思わない。もしかしたら、これは宗教右派にすり寄るためのテクニックのつもりかもしれない。

 宗教右派自身の主張を、彼らが嫌っている「科学」の主張であるかのように見せかけて内部で離間させようとする、巧妙な藁人形論法のつもりなのかもしれない。

 しかし、実際にこの例のような考え方をする宗教者がいたとして、こんなレトリックで意見を変えるとは思わないし、変えたとしても別の馬鹿な考えに行き着くだけだろう。

 アメリカの現状を鑑みるに、宗教の力を借りたいという気持ちはわからなくはない。むしろ、大いにわかる。だからといって科学の方からこんなすり寄り方をするのは、元も子もなくす可能性が高い、危険すぎるテクニックに見える。

第十章 最後のゲーム

 人類のハンマーが振り下ろされ、第六の絶滅が始まってしまいました。人類によるこの破壊行為が停止されず継続すれば、回復不可能な激しい消失の過程は、今世紀末には中生代末の大絶滅のレベルに達すると予想されています。

(中略)

 先行する五回の大絶滅は、自然選択によって修復されるのに平均一〇〇〇万年を要しました。一〇〇〇万年のスランプをまた経験するというのは受け入れがたいものでしょう。人類は決断を必要としています。それもいますぐです。地球の自然遺産を保全しましょう。そうしなければ、未来の世代は生物学的な貧困の世界に適応していくしかありません。この選択を回避する道はありません。動物園や植物園に頼れないことはすでに説明したとおりです。空想的な著者の中には、最後の手段にかかわるアイデアをもてあそぶ人々がいることも承知しています。未来の再生を目指して、受精卵や組織を凍結する方法で数百万の現存種やさまざまな品種を保全しようなどと彼らは主張しています。あるいはすべての種の遺伝暗号を記録して、後日、そこから種の再生を目指そうなどとも主張しています。どちらの提案もリスクが高く、膨大な経費を必要とし、最終的には実のないものとなるでしょう。仮にそれらの方法によって、危機に瀕した地球の生物多様性がことごとく再生され、交配を通して集団としても再生され、二一世紀において「野生」と判定される領域への帰還を待つばかりになったとしても、その場において生存可能な個体群を個々に再構成していくことは、実行不可能というしかありません。生物学者は、複雑で自律的な生態系をゼロから組み立てる方法などまったく知らないからです。いずれ理解できる時が来るとしても、その時、人間による改造を強く受けてしまった地球の条件下では、もはやそのような再構成は不可能と判明するのではないでしょうか。

 人間特例主義者たちは、以上のオプションの先にさらに最後の提案を用意しています。いつの日か科学者たちは人工生物や種を創造し、それらを組み合わせて合成生態系を作り出すはずとの希望を持って、生命圏の貧困化など気にすることなくこのまま進もう、という主張です。未来の世代には、大自然の失われたニッチを再び人工生命で満たさせよう。たとえば人間を襲わないようにプログラムされたトラモドキ。トラモドキは人工的に輝き燃え、刺しも噛みもしないムシモドキたちの満ちる森林モドキの中を行く――というわけですね。仮にファンタジーの世界だけの話だとしても、人工的な生物多様性という発想には、以下の言葉が適切です。冒涜、堕落、嫌悪。

 以上に紹介した有効性のない諸提案は、残念ながらどれも実際に提案されたことのあるものばかりなのです。それらの夢はいずれも愚かなものです。いまという時代はサイエンス・フィクションの時代ではありません。常識をもって、以下のような処方に従うべき時代です。生態系と種を救うには、個々の種の独自の価値を一つ一つ理解し、それらの運命を左右することのできる人々を説得して、生態系と種のお世話役をつとめてもらうしかないのです。

 私は知らないが、科学者の誰かがそんな非現実的な提案をしたことはあるのかもしれない。だが、それが科学の世界で真剣に受け取られたり、ましてや広範な支持を受けたりしたことはないはずだ。

 これもまた前の引用部分と同じ、宗教右派自身の主張を、彼らの嫌う「科学」の主張と錯覚させようとする巧妙な藁人形論法にしか見えない。

  • 「人間を襲わないようにプログラムされたトラモドキ。トラモドキは人工的に輝き燃え、刺しも噛みもしないムシモドキたちの満ちる森林モドキの中を行く」

 という描写には、私はイザヤ書の一節を連想させられる。これはやはり、科学の言葉に置き換えられただけの、伝統的なキリスト教的自然観だ。

 今の世に「人間特例主義者」などと呼ぶべき人々がいるとすれば、それは、

  • 人間以外の自然は全て神に創造された完全なもので、悪や不完全さの全ては人間の罪に由来する

 という宗教的ドグマを無理矢理にでも維持しようとする宗教者と、それにすり寄る科学者であろう。

*1:まあ、もし自分が、確固たる信仰を持つアメリカ南部の牧師だったら……というのは、私に取ってあまりに大きすぎるif なので、まともな想像が可能とは思えないが。
*2:この単語でググってみたら何かトンデモくさいページばかり引っかかるが、最近『火の賜物』でも出たばかりの話だ。

おまけ

 この世はでっかい宝島♪

コメント

  1. あーごめん。「自尊心」はテキトーかつウカツすぎなので取り消しさせてくだされ。

    なんちゅーか
    「僕たちが善とよぶものが善だ」
    というメタ倫理学の話と
    「善の感覚は進化のたまものだ」
    という話の両方とも正しい、ということをいってみたの。

  2. グールドが『共存できるか?』本を科学者への警告を主要な目的として書いたということなら、その通りだと思います。一方、NOMA概念そのものはもっとやっかいな気がしてきました。科学と宗教のあいだの問題と捉えるか、科学と倫理のあいだと捉えるかでも話は変わりそうですね。NOMA批判の科学者は、前者と捉えていると思います。

    ところでESSに関して「手の込んだ飼育場の牛となることは、人間の本性にかなうものではないでしょう」のあたりはバイオフィリアを指しているんだと思います。もしバイオフィリアが正しかったとしても、文字通りの原生的な自然ではいつ捕食者にかみつかれるかわからないから気軽に駆け巡ったりできなさそうですし、里山のような人為的な自然でも十分じゃないかと思いますが。

  3. 木戸孝紀 より:

    直接関係ないけど、今見直すと「ESSへの適応」
    だと安定戦略に向かう適応じゃなくて
    安定戦略に対抗する適応みたいに
    見えて変な気がしたので、表現を修正。

  4. 木戸孝紀 より:

    >地下猫さん
    前半部は言葉の綾レベルの話かなあ
    そりゃ彼の中ではそうなんでしょうとしか。

    んで、後半部はよくわからない。
    「自尊心」って単語はどこから?

    猫さんがわかってないと思って言うわけじゃないけど、

    ・善の感覚は祖先的進化環境で進化してきたものだ
    ・祖先的進化環境で進化してきた感覚は善だ

    の二つは全然違う。前者はそれこそ

    https://tkido.com/blog/2643.html

    あたりの話で、乱暴に言えば単なる事実。

    でも後者を許すなら、
    人種差別も性差別も科学よりホメオパシーのような
    オカルトを信じることも善の極み。

  5. アラバマ生まれのウィルソンは、自分の宗教感情を否定できないんだよ。宗教と対話しようとすると、その部分がどうしてもでてしまうわけで、野合というのなら自分の宗教感情との野合というべきなんじゃないかな。

    あと、「ESSへの適応に過ぎないもの」こそが伝統的に善といわれてきたんではないかという気がするんだけど、どないだ?
    自尊心なしでやっていける人は稀なのだから、それを善だといってしまっていいんじゃねえかと思うんだけど。

  6. 木戸孝紀 より:

    >huwahuwamohumohuさん

    まあ概ね同意します。
    今回は私の興味の焦点がガイア教に向いているので、
    気にくわない部分が強調されているだけで。

    ドーキンスや、(まだ読んでませんが)モリスと
    比べればここでのウィルソンの態度がNOMAに
    近いとは言えるでしょう。

    私は別にウィルソンの理解できないとは言ってませんし、
    思ってもいません。うまく行かないだろうと思うだけで。

    ウィルソンの思惑が仮にうまく行くなら、
    少々やり方が気にくわなかろうが、歓迎します。
    私にとっても別に損はないことです。

    ただ、「宗教が事実について語らなくなったら、
    信者にとっては何の魅力もなくなるだろう」
    というのは、もちろん多くの信者には当てはまるでしょうが、
    明らかにある人々、たとえばグールドには当てはまらない。

    グールドの視点では、宗教が事実を侵犯すること以上に、
    事実(≒科学)が宗教(≒倫理)を侵犯したときに起きる
    (起きた)悲劇に重点が置かれていて、それには
    もっともな点が多く含まれることに私は同意する。

    彼の立場を「宗教のことはほっとけ」と要約したり、
    単なる戦略と見なすのは間違っていると考える。

    まあこの辺は微妙な話なのでコメントなんかでなく、
    いつかまた。

    >The case against perfection

    内容はもちろん見ているはずですが、
    リー・シルヴァーの本読んでたときはサンデルという
    名前に特別興味はなかったので気づいてなかったです。

    翻訳は後で読みますが、まとめをぱっと見、
    特別興味深いことは言ってないように思えます。

  7. 木戸さんこんにちは。この本は一読してみて、グールドに似ているなあと感じました。木戸さんと逆の感想ですね。事実問題は科学の領分であり一歩も譲る気はない、という点ではウィルソンもグールドのNOMAも一致すると思うんですよね。

    NOMAについては、信者にとって宗教が魅力的なのは宗教が事実の問題について積極的に発言するからで(生命の起源の説明とか奇跡とか)、もし厳密に棲み分けをして宗教が事実について語らなくなったら、信者にとっては何の魅力もなくなるだろうという指摘(誰の指摘か忘れましたが生物学者のジェリー・コインだったか…)に共感したので。もっともグールド自身はそれほど厳格な棲み分けを目指していたわけではなくて、宗教のことはほっとけと言いたかったのか、あるいはドーキンスが指摘したように政治戦略だったような気もしますが。

    そして自分のブログでも取り上げたのですが、より露骨に科学と宗教を混ぜ合わせようとするサイモン・コンウェイ・モリスのような科学者と比べると、まだウィルソンの戦略は理解できる、という印象です。

    ところで話は変わりますが「ポスト・キリスト教」に絡んで、リー・シルヴァーがサンデル教授のThe case against perfectionを取り上げられているのにお気づきになりましたか?420ページあたりです。The case against perfectionはima-inatさんが翻訳されてらっしゃいますのでググれば読めます。たぶん興味を持たれるのではと思います。

  8. 木戸孝紀 より:

    そうですね。

    私はいわゆる科学と宗教の問題については、
    「原理に基づく敬意を伴う分離」
    (参考:https://tkido.com/blog/519.html)を支持します。

    ドーキンスみたくガチンコで否定しても、
    こんな風にすり寄ってもろくなことにはならんと思ってます。

  9. リヒター.アーベント@朱 より:

    科学の歴史は古くから宗教と密接に接していた聞きます

    哲学と科学ですねσ(^_^;)

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