- 藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業―「自然との共生」が生んだ「民族の絶滅」』
- ボリア・サックス 『ナチスと動物―ペット・スケープゴート・ホロコースト』
と合わせて“いまここにいるナチス”三部作と私が勝手に命名しておすすめしている本の中の一冊。全体の趣旨がよくわかるように序文から抜粋。
本書はファシズムについての本である。と同時に、科学についての本でもある。おそらく我々はどちらに関してもかなりの知識があり、また恐怖の写真の数々を見ている。
(中略)
しかし、ダッハウ〔強制収容所のあった所〕の囚人が有機栽培で育てた花からハチミツを作っていたこと、ナチスの健康促進派が世界最大規模の反タバコ運動をおこなったこと、などはおそらくほとんど知られていないのではないか。世界の先端を行くナチスのガン撲滅運動により、アスベスト(石綿)、タバコ、発ガン性の農薬や食品着色料の禁止まで、広範な規制がおこなわれたことをどれだけの人が知っているか?
(中略)
私はこの本で違った意味のショックと嫌悪感を感じていただきたいのである。(中略)ナチスの医学はことによると今日「先進的」ないし社会意識が高いと見なされうるものであり、しかもそれがナチスのイデオロギーの延長上にあるというのもまた不愉快なことなのである。ナチス・ドイツの栄養学者たちは防腐剤や石油を原料とした着色料を使わない食品の重要性を強調していた。ナチス・ドイツの保健活動家たちは、ビタミンと繊維が豊富な全粒食品を強力に推奨した。党員の中には環境保護活動家も、菜食主義者も多かった。絶滅危惧種を保護し、動物の福祉を守ろうという意識も高まっていた。ナチスの医師たちは医薬品やX線の使いすぎを懸念し、劣悪な職場環境に対する警告をおこない、医師は患者に対し正直に情報を与えるべきだと主張していた。もっとも、「人種的に不適な」あるいは無価値な相手に対してはこれは適用されないのだったが。
(中略)
ナチスのタバコ撲滅キャンペーンを、あるいはガン征圧のための国民健康運動を、我々はどう考えるべきなのだろうか? アスベストの害やX線・ラジウム被曝への警告を、食品の安全性を確保し食品の虚偽広告を排する運動を、どう理解すればいいのか?
(中略)
ナチス・ドイツの科学を歴史的に扱うということになると、まがりなりにも科学が滅びなかったのは不屈の知性の証しである、という話になりがちだ。しかし私はむしろ、次のように問いかけたいのである。ファシズムのもとでも元気に栄える科学とはいったい何なのか? 少なくともある種の科学を強力に支援したドイツ・ファシズムとはどういうものだったのか? 歴史のこうした一面がこれまでまったく顧みられることがなかったのはなぜか?
(中略)
こうした視点から見ると第三帝国の「善い科学」がイデオロギーに染まらない英雄的行為ではなく、まさにヘルベルト・メルテンが「無責任な純粋さ」と言ってのけた、その精神状態をやすやすと受け入れた結果と見えてくるのである。
(中略)
ナチスの指導者たちがタバコに反対していた、ナチスの公衆衛生担当者たちがアスベストの発ガン作用を警戒していた、ということを知るとき、歴史の見方は変わるのだろうか? 変わる、と私は思う。我々がふつう考えている以上にナチズムというのは込みいったもので、まことしやかな、そして妙に魅力的な側面すらもっているのである。「我々」と「奴ら」とを隔てる壁はそれほど高くないのである。
(中略)
歴史家の仕事のひとつは、一見脈絡のないところから一定のパターンを見つけだすことである。雑多なものがより大きな真実を指し示していることがある。だから私がこの本でとくに扱いたいのはナチスの恐怖ではなく(中略)、むしろふつうはファシズムと関連づけて考えられることのない、たとえば飲食物、化学物質・放射性物質、工場の衛生管理、アルコール・薬物嗜好の排除といった面である。ファシズムの知られざる一面、現代の嫌煙運動、食品・飲料水の安全キャンペーン、運動および予防医学の振興へとつながる一面である。
ナチズムそのものを私はある種の実験、排他的な健康ユートピアを実現するための壮大な実験として扱うことになる。このユートピア構想は、ファシズムのよく知られた集団殺戮の側面と無縁ではない。ドイツの工場の空気と水からアスベストと鉛を除去しようというのと、ドイツ国家からユダヤ人を一掃しようというのは同じ発想だ。ナチス・イデオロギーは国家の環境浄化と人種浄化を結びつけた。
(中略)
歴史や社会哲学の専門家はこれまで、ファシズムの悪の面を資本主義のせいだ、全体主義のせいだ、軍国主義、反ユダヤ主義、「権威的な人格」のせいだと言って片づけようとしてきた。そのすべては核心的なものであるけれど、それですべてが説明できるわけではない。(中略)この時代の残虐な犯罪と、公衆衛生の分野における(今は顧みられることもない)先駆的業績との、謎のギャップをつなぐ橋となるのがこの健康ユートピア願望なのではないかと思うのである。
(中略)
こうした事実に驚くのはかまわない。が、だからといって今日自分か何を食べ、どう働くかを変えることはできないだろう。あるいは、それも変えるべきなのか? じつは、私がこの本を書いたひとつの理由は、その答えを得るためである。ことによると、必要なのは、かつて科学と道徳を結びつけていた、そして今ではもうすり切れそうになっている絆をあっさりと切断してしまうことなのかもしれないのだが、よくわからない。平生私は、科学に価値判断はないとか、あってはならないと主張するタイプの人間ではないのだが、それでもなお、ナチスがかつてガン研究のパイオニアであったのならば、それはなぜか、そのことがどういう意味をもっているのかを知るべきだと考えている。
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