リベラルでも保守でも原理主義になりうるということ

表現の自由を脅すもの (角川選書)

 前回の記事の時に発見したエントリ

結論から言えば、やはりそこには「絶対的」なものがあって、そこから外れるものは認めない(というか見えない)のだろうと思う。

彼らの言う「話し合い」とは、彼らの許容範囲内での「話し合い」であって、それ以外のものは「意見」ではないのであろう。「意見ではない」とは、自分と異なる意見を認めないということではなくて、「意見ですらない」という意味。じゃあ何かといえば、具体的に言えば「別の意図を隠すまやかし」、「権力者に騙されている可哀想な人」あるいは「狂人」のたわごとということ。

かつての共産圏の国、又は今でも一部の国で、体制に都合の悪い人間を「裏切り者」とか「資本主義国のスパイ」とみなしたり、「再教育」したり「精神病院」に収容したりしたのは、実質的に逮捕監禁しているのをごまかすための名目というだけではなかろうと思う。絶対的に正しいイデオロギーに従わない・落ちこぼれるというのは、「有り得ないこと」であり、それにもかかわらず、そういう人間が存在する理由が、「敵国に通じている」とか「教育が足りない」とか「頭がおかしい」という結論に行き着くのは必然ではなかろうか。(このへん詳しく解説してある本を探しているんだけどなかなか見つからない)

(国家鮟鱇 – リベラルの攻撃性)

 tonmanaanglerさんがお探しの本ですが、私がことあるごとにお薦めしている、ジョナサン=ローチ著『表現の自由を脅すもの』がまさしくそれなんですね。第4章「ファンダメンタリストからの脅威」からいくつか相当しそうな箇所を引用しましょう。

 ファンダメンタリズム(原理主義)といっても、宗教運動ではなく、知的スタイルを表すのだが、それは、あなたも間違うことがあり得るということを真面目に受け取ることを断固拒否する態度である。

 あまりにもかけ離れた突拍子もない信念を持っているイスラムの国家主義的ファンダメンタリストに出会うのと、信念は似通っているが、その信じ方が異なっているという誰かに出会うのとでは、雲泥の差がある。そこをどう考えたらいいのか。進化を聖なる教義とし、『種の起源』を聖典とするダーウィン主義の信奉家のグループを発見したとして見たまえ。彼らの実践を、科学でないと無視し得ても、その信じるところは誤りだと一蹴し得ないであろう。

 こちこちのファンダメンタリストにとっては、世の中には一つの明白な真理と、多くの嘘つきが存在する。向こう側は、間違っているだけでなく、嘘をついているのである。だから中絶反対のファンダメンタリストからすれば、中絶支持者はただの殺人ではなく謀殺に賛成するものである。生命選択論者は、人間であることを知りながら計画的に殺すことを許容しようとするものである。(中略)生命選択論者であるファンダメンタリスト達は、生命尊重を称える彼らの反対者に対して、彼らは本当は胎児が人間だなんて信じていないんだ、信じるわけがないとしばしば主張する。それどころか、胎児に対する関心と言っているが、それは仮面であり、計略であって、本当のところ中絶反対論者の闘いは、女性の権利の撤回、出産を目的にしない性行為の禁圧のためだと主張するのである。ワシントンの多くの保守主義者を含めて、アメリカの政治的右翼のファンダメンタリスト達は、自由主義者である彼らの反対者達は故意に国を害そうとしているから、反逆者、でなければせいぜい非愛国者であると主張する。政治的左翼のファンダメンタリスト達は、彼らの敵である保守主義者達は意図的に貧者を飢えさせ、地球を吹っ飛ばそうとしていると主張する。真理が明らかなのにそれが見えないとすれば、それは気が変か、バカか、騙そうとしてやっているかである。

(反対意見の者に対してソビエトが、精神医学を用いるのは、確信的ファンダメンタリストから見れば明白な真理が分からない人は、馬鹿か性悪でなければ、気が変であるに決まっているので、そんなに風変わりなことではなかろう。)

 つまりこの場合のポイントはリベラルであるとか保守であるとかの思想というよりも、その思想の実践法(あるいはメタ思想とでも言おうか)であって、どんな立場であっても絶対的なものの考え方をすることはできるし、それに基づいて行う議論は健全ではないということですね。

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