『ガイアの素顔』をきっかけにフリーマン・ダイソンを読み直していたのだが、何年かぶりに読み返したこの『多様化世界』はやはりすごい。
ソ連崩壊などで古くなった――もっとも初めて読んだときにもすでにソ連は崩壊してたが――部分はもちろんあるが、少々の古さなどものともさせないパワーがある。私の価値観形成にもかなり影響を与えている重要な本である。
今後何かの機会に引用したくなりそうな部分も結構あるし、何より入手困難状態みたいなので、この際ちょっと時間をかけて特に重要と思われる箇所を抜き出して注釈をつけて……いたら今年の最後を飾るにふさわしいでかいエントリになってしまった。ではどうぞ。
1 多様性の讃美
私は、科学の問題と人間の問題のどちらをも多様性を愛する者の立場から見ている。多様性は生命が我々の惑星にもたらした大きな贈り物であり、いつの日か宇宙の他の場所へも与えられるかもしれないものである。多様性を守り育てることは、宇宙の大目標であり、私は、それが我々の倫理原則や我々の政治的行為の形をとって現れることを望むのである。
(中略)
科学と宗教は多くの共通の特性を持つ二つの人間的な事業である。両者が共有するそれらの特性は、美術、文学、音楽のような事業にもある。これら全ての事業の最も顕著な特性は、規律(discipline)と多様性(diversity)である。個人の奔放な思いつきをより大きな全体の中に沈潜せしめる規律。無限に多種多様な人間の魂と気質に活躍の場を与える多様性。規律なしには大業はありえず、多様性なしには自由はありえない。大業のための規律、個人のための自由――両者は、互いに対称的だが両立しえないことはない二つのテーマであり、科学の歴史も宗教の歴史もそれによって作られている。
おそらく今日なら「規律」と「多様性」というこの二つのキーワードを「複雑性」の一つにまとめ(られ)そうな気がする。
2 蝶と超弦
超弦と蝶は、宇宙の異なる二つの側面、二つの異なる美の概念を例示するための見本である。(中略)蝶は具体性の極に位置し、超弦は抽象性の極に位置する。
マレイ・ゲルマンがここで言う「蝶と超弦」と全く同じ意味合いを持つ『クォークとジャガー』というタイトルの本を書いている。2人の思想にはかなり重なり合う部分が見受けられ、内容的にもこの『多様化世界』の内容(の一部)を、複雑系の理論による理解と言葉をもって言い直したようなものになっている。
3 マンチェスターとアテナイ
統一派は目を過去に向かって内側へ後ろ向きに向ける。多様化派は目を未来へ向かって外側に前向きに向ける。統一派の人々を駆り立てる情熱は、万物を説明できる普遍的原理を発見することにある。彼らは宇宙を自分たちの目に映ったものより少しでも単純に見えるようにすることができれば幸福である。多様化派の人々の情熱は詳細を探ることにある。彼らは自然の不均一さを愛し、「神様は細々しいことを愛される」という諺に同意する。彼らは宇宙を自分たちの目に映ったより少しでも複雑なものにできれば幸福である。(中略)私の主張は、どんな科学も健全な成長のためには統一派と多様化派との間の創造的な釣合いが必要だということである。
私はグールドとドーキンスの論争が、大きな視点では同じ釜の中の湯加減論争に過ぎないことを認めながらも、やはり彼ら二人の思想の間には根本的な部分で重要かつ決定的な違いがあることも確信している。それを言い表すにはこのダイソンの定義を用いるのが一番適当に思える。ドーキンスは間違いなく統一派の代表であり、グールドは紛れもない多様化派の代表である。
私は、物理学の諸法則の最終的言明が可能と考えることは、数学全体を決定する形式的手続きが存在すると考えることと同様に幻想であることが判明するのではないかと思う。もし物理的実在全体が有限個の方程式の組で記述できると判明したら、私は落胆することだろう。そうなったら私は、創造主は不似合いにも想像力が欠けていたのだと感じるだろう。アインシュタインがかつて同様な文脈で言ったように、私も「それなら私はおそらく神様をお気の毒に思ってよかろう」と言わねばなるまい。
幸いにも、素粒子物理学と宇宙論の最近の成果は、物理学の世界が本当に無尽蔵である可能性を排除してはいない。それは(中略)エミール・ウィーヒェルトが「宇宙はあらゆる方向に無限である」と言ったことが正しかった可能性である。
『あらゆる方向に無限』(INFINITE IN ALL DIRECTIONS)は原著のタイトル。
8 迅速を尊ぶ
反応時間が三年のものと十二年のものとの違いは決定的に重要である。ゲームを支配しているルールは、アメリカでも他の世界でも、十年以内に劇的な予測できない変化をこうむりやすい。ここで言うゲームのルールとは、金利、人口変動、技術革新、ならびに大衆のムードや政府の規制を指す。
アジャイル開発? 巧遅より拙速。
9 科学と宇宙
二〇一〇年のミクロ宇宙船は、金属とガラスとシリコンで組み立てられたものではなく、毛虫のように地球上で飼育され、蛹として宇宙へレーザー光線を使って打ち上げられ、宇宙で蝶のように羽化する生物だと考えるのが妥当である。それは宇宙で蛹から出ると、太陽帆の形に翼をひろげ、(中略)それは望遠鏡の眼を成長させて行く先を眺め、クモの糸のようなアンテナで電波信号を送受信し、長いバネのような脚で小惑星に着陸して歩行し、化学センサーで小惑星上の鉱物や太陽風を味見し、発電器官によって翼を惑星間磁場内で向きかえさせ、高級な頭脳でその活動を調節して目的地へ向けて航行し、観測結果を地球へ報告してくる。
再来年って……師匠! いくら何でも楽観的すぎだったんではないかと思います!(方向性は正しいと思うけど)
11 力の均衡
世界政府には一つの致命的な弱点がある。誰もそれを望まないという弱点である。(中略)北と南の間の利害や文化の食い違いは、世界政府にとって、共産主義国と資本主義国の食い違いよりも一層大きな障害になる。
それゆえ世界政府は、今後少なくとも数世紀は平和への道ではない。(中略)そうではなく民族主義を平和の探求における同盟者にしようと努力せねばならない。(中略)そこで我々は力の均衡という古い考えに引き戻される。(中略)
第一次世界大戦は、大戦の開始を意識的に計画するヒトラーがいないときでさえ力の均衡は不安定な場合があることを示した。核戦争が一九一四年の場合のような計算違いの連鎖の危険を消滅させたなどということは少しも明らかではない。(中略)今日確かにわかっていることは、核兵器はそういう計算違いの代価を莫大に増加させたということだけである。(中略)もし世界政府は実現不可能だが核軍備を持つ複数の主権国家からなる現在の体制は容認できないとするなら、それに代わる道は今日我々に開かれているだろうか?
この辺は異論も出そうなところだなあ。確かに核兵器が計算違いの連鎖の危険を消滅させはしないだろうが、核とは別の技術や理論の進歩が、計算違いの連鎖の危険を着実に(少なくとも我々自身が思っている以上には)下げていると思う。
12 スターウォーズ
スターウォーズ計画は、打ち上げ段階防衛を強調する限り行き詰まりになる。それは軍事的に有益な結果に到達することはできず、打ち上げ段階防衛を配備へ向かわすことを許容するようなどんな軍備管理協定にもソ連が反対することは確実である。これに反し、終端段階防衛技術の探求に帰着されるスターウォーズ計画は技術的に現実的で政治的に交渉可能な何らかの結果に到達できる見込みがある。
遠い昔、遙か彼方の銀河系で……ではもちろんなくて、レーガン大統領とかスターウォーズ計画とかソ連とかみんな憶えてる?(笑) でも現在と無関係ってわけじゃないぞ。ここでいう終端段階防衛技術というのは今でいうMDのことだ。
14 駱駝と日本刀
核兵器の廃止に至るための実際的な計画は、三つの原則に基づかねばならない。第一に、何かを無に置き換えることは不可能である。車輪をなくすには、代わりに駱駝が必要である。われわれの駱駝は、我が国の利益とわれわれの同盟国をわれわれを破滅させずに防衛できる非核兵器、そのための強靱で融通の利く技術でなければならない。第二に、核兵器を廃止できるほど強い力を持つ唯一の政治勢力は、軍そのものである。大量殺戮兵器からの離脱は、恐怖への反応としてでなく、軍の名誉と自尊心の必要に対する反応として、国民に提示されなければならない。第三に、ソ連の軍に対して、計画の作成に我が国の軍と対等に参加することを許さねばならない。
わかると思うけどタイトルの日本刀は江戸時代の日本が鉄砲技術を意識的に封印したことを指す、念の為。
15 核の冬
核兵器についてのイギリス人とアメリカ人の考え方は、核兵器の起源をめぐる二つのよく知られた神話に強く影響されている。一つは、核兵器は第二次世界大戦の勝利に決定的役割を果たしたという神話である。もう一つは、もしヒトラーが核兵器を先に獲得したら、彼はそれを使って世界を征服することができたろうという神話である。
(中略)
私は、どちらの神話も誤りだと信じている。(中略)仮にイギリス人とアメリカ人は核兵器の開発を本気で推進はせず、ドイツ人は全力をかけて推進していたとすれば、ヒトラーは、最も早ければ一九四三年までに原爆を一個持っていた可能性があり、一九四五年までにはおそらく二、三〇個持っていたろう。(中略)ロンドンとモスクワは、間違いなくハンブルクとドレスデンと同様の運命に陥ったろう。(中略)だが、ロシア兵のベルリン到達とアメリカ兵の東京到達が著しく遅くなったことはほとんどありそうもないように思われる。
(中略)
変えられていただろうものは、核兵器についてのわれわれの戦後の感覚である。われわれは核兵器を、以後永久に軽蔑すべきものと見て、あれは一人の悪者が邪悪な目的で使ったが勝利を得るのに失敗したものだと考えていただろう。(中略)この(頭の)体操をやれば、核兵器をソ連国民が見ているのと同じ眼で見ることに近づける
日本では核というとほぼアメリカとの関係でしか考えないし、核廃絶を訴える人というと明らかな○○だったり△△だったり、その両方だったりするので偏見持ってしまいがちだが、こういう緩やかな核反対の思想にはもうちょっと注意が向けられて然るべきだろうと思う。
16 二十一世紀
マクスウェルの方程式から都市の大規模電化までにかかった時間は、トムソンの電子の発見からテレビの普及までの時間や、パスツールの微生物の発見から抗生物質の普及までの時間より長くはなかった。今日の世の中のせかせかした動きにもかかわらず、新しい科学的アイディアが大きな社会的革命に転換するまでにはやはり二世代か三世代かかる。
(中略)
二〇五〇年頃までは、大規模技術は今日すでになされている発見から育ったものであろう。(中略)現代の科学を見ると、既存の知識がまだ十分に利用されていない主要領域が三つ見える。(中略)第一は分子生物学で、(中略)第二は神経生理学で、(中略)第三は宇宙物理学で、(中略)いずれも技術に深刻な革命を引き起こしそうである。これらの新技術の名は遺伝子工学、人工知能、宇宙植民技術である。
第三に宇宙物理学が入ってるのはさすがに個人的な思い入れの要素が強すぎるのではないのかな。宇宙開発にかけられている情熱が現在と当時では大幅に異なるのも確かだが。前者二つに比べれば、宇宙物理学が社会に重要革命をもたらす大規模技術になるのは、さらに数百年先の話ではないかと思える。
生命が宇宙に広がり多様化して、どの一つの惑星が包みうるよりはるかに幅広い範囲に渡る様々な環境に適応してゆくにつれて、人類はやがて、その祖先がアフリカで木から下りていとこのチンパンジーを置き去りにしたとき以来選ばねばならなかったどんな選択よりも重大な選択に直面するであろう。われわれは、一つの共通の体型と一つの共通の歴史で結合された一つの生物種であることを続けるか、または他の動植物の種が放散してゆくにつれてわれわれ自身が様々な種へ放散してゆくのを許すかを、選択せねばなるまい。われわれは永久に一個の人類であり続けるべきか。百万種もの知能生物となって銀河系全体に渡る百万種類の様々な場所で様々な生活様式を追及してゆくべきか? これは遠からずわれわれに課される大問題である。幸いにも、これに答えることは今日の世代の責任ではない。
グレッグ・イーガンの『ディアスポラ』を連想させるような記述。私は、『ディアスポラ』のスタート時点の地球とその周辺の状況は、1000年程度の中程度の未来予測の中では一番ありえそうな選択肢だと、半ば本気で思っている(ただし宇宙に出てからの話はまったく別)。
17 蝶に戻って
まもなくわれわれは祖先の細胞のDNAの塩基配列の恒久的な記録を保持する技術を獲得するだろう。(中略)DNA配列の記録から祖先の遺伝学的複写、すなわちクローンを再生することが可能になることを意味する。その後、おそらく、祖先の脳のなかに記憶の形で残されている生涯の経験の記録を読み取る技術が現れるだろう。そうなれば、おそらく、祖先の記憶と感情を生者の意識の中に再録し再生する技術が生まれる。
(中略)
二十一世紀より先の人類の未来を眺めると、将来の事物についての私のリストに上がってくるのは、われわれの探求心が客観的な科学の領域から主観的な感情と記憶の領域へ伸びてゆくということである。(中略)われわれの好奇心は、心の次元の探検を空間と時間の次元の探検に劣らず精力的に行うようにわれわれを駆り立てるだろう。
一見突拍子もない話に聞こえるけど概ね同意見。私が、ここでちょっとだけ触れたように、言語などの文化多様性の軽視が未来において想像以上の罪悪と見なされるだろうと考えているのはこうしたことも一因。
科学と神学の間の無人地帯には、信仰と理性が衝突するように見える特異地点が五つある。
(中略)
五つの哲学的問題の最後は、窮極目的の問題である。(中略)なぜわれわれは苦しめられねばならないのか? なぜ世界はこんなに不正なのか? 苦痛と悲劇の目的は何なのか?
(中略)
私の答えは、(中略)宇宙は最大多様化の原理に従って構成されているという仮説である。この仮説によれば、自然法則と初期条件は、宇宙をできるだけ興味深いようにするようになっている。その結果、生きることは可能だが、あまり容易ではないことになる。物事が沈滞に陥った場合にはいつも、何か新しい事が起こってわれわれに挑戦し、われわれが型にはまってしまうのを阻止する。(中略)そのため悲劇が起こる。最大多様化は、しばしば最大のストレスをもたらす。
(中略)
生命と人類が宇宙へ広がれば、生物の生態と人間の文化に莫大な多様化がもたらされるだろう。過去と同様に未来においてもまた、われわれの生活空間の拡大は、成功ばかりではなく悲劇にも多くの機会を開くだろう。人類が味わう可能性のある多種多様な、物理的、知的、および宗教的な経験を今日われわれが想像しようとすることは無益である。われわれが宇宙への涯しない旅へ船出してゆくにつれて人類がどんな変態をするかを描くため、私は謙虚に再び蝶の変態を頭に浮かべる。
一つ目から四つ目の問題は、信仰を持たず神学にもあまり関心がない人間にとってはほとんど意味を成さないので省いた。この五つ目も単なる個人的な信仰告白以上のものと見なすのは難しい。本人もわかっていて「仮説」と断っているのだろうと思うが。
しかし『最大多様化の原理』という着想には無下にするには惜しい何かがあると思っている。この話は単独で取り上げる価値があると思うのでまた別の機会に。
おまけ
これは讃美せざるを得ない。それでは皆さんよいお年を。
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