「ウェットとドライ」
だが、大臣が「日本の生命観は自然と共生であり、日本人はウエット」という持論を話し出したあたりから、分からなくなってきた。「死刑廃止論はドライでかさかさした人たちの考え。人の命を奪ったんですよ。何人奪っても死刑がない、そんなドライな世の中に私は生きたくない」
さて、鳩山法相の言うウエットとドライは普通の用語では何のことだと思う? たぶん言っている本人もよくわかっていないことだが、これは多神教と一神教のことだ。
大臣は、日本人は木や石などすべてのものに神をみるアニミズム(汎神論者)と考えている。「すべての命を大事にする文明だ。すべてと共生するアニミズムこそ、洞爺湖サミット最大の課題である地球環境を救う唯一の道だ」
法相がアニミズムをウェットな考え方と見なしていることは明らかだろう。アニミズム(汎神論)と多神教は今の文脈ではほとんど同じである。どちらも一神教とは対置されるべきものなので今回はまとめて非一神教と呼ぶ。一神教の生命観は非一神教とは大きく異なり、その一神教的生命観がEUが示していたような
- すべての人間には生来尊厳が備わっており、その人格は不可侵である
- 生命の絶対的尊重というこの基本ルール
- 最も基本的な人権、すなわち生命に対する権利
というような死刑全廃の論理を構成している。唯一の全能神を信じていない非一神教徒である日本人は、一神教文化の基準でいう人命の尊さを本当には信じていない。信じているつもりでも本心では疑っているか、間違った意味で信じている。これが今回の眼目だ。
ちなみに、大臣にそっくりなこと言ってる人たちが欧米にもいるな? 彼らは要するに「地球全体をもっと日本みたいに(捕鯨という一点を除いて)しなければならない」と考えている人たちであって、私は要するに「お願いだからどうかそんな怖ろしいことはやめてくれ」と言っているのだ。これはガイア教シリーズの本流だからそちらに譲る。
「人命は地球より重い」
日本で死刑反対派が、
- 人間の生命には絶対的尊厳があるのだから死刑は悪だ。
と訴えると、賛成派からは、
- わかった。じゃあ殺人罪以外での死刑は廃止しよう。その代わり1人以上を意図的に殺害したら、正当防衛などの理由がない限り必ず死刑だよね? だって人間の生命の尊厳は絶対なんだから。それ以外の罰で済ますのは悪だよね?
という反論が返ってくる。反対派が、
- 冤罪で死刑にしてしまったら取り返しがつかない。せめて終身刑にすべきだ。
と訴えると、賛成派からは、
- 冤罪で終身刑にされても取り返しはつかないだろ。冤罪がない方がいいなんてことは当たり前で誰も反対してない。話を逸らすな。
という反論が返ってくる。そして反対派はこれにまともな再反論が返せない。これは生命の尊厳の絶対性の意味を(一神教文化基準で)正しく理解できていないからだ。
日本人にとって「人命は地球より重い」という言葉は、テロに屈する時や少年犯罪についてコメントを求められたときに使い勝手のよい、単なるスローガンに過ぎない。内心誰も信じていない。死刑反対派であってもそうだ。
よく「命は地球より重い」「命に代えてでも」「命の大切さ」などというが、空虚な言葉だ。命そのものでもって、なにかを成すことはできない。生け贄は嫌い。
その通りだ。皆、空虚な空しい言葉だとしか思っていない。
だが一神教文化においては違う。一神教文化において人間の生命の尊さは∞である。人間の生命はGODから直接与えられたものだ。全知全能の唯一神と比べると全く何の価値もないが、その全知全能の神から与えられたが故に、他のものとは比較できない絶対無限の価値がある命である。
人間以外の全ては、大空も・大地も・人間以外の全ての生き物も、人間が支配し使うためだけに作られ神から与えられたものだ。(だから他の生き物を食う時にはGODに祈る。)1人の人間の命はまったく文字通りの意味で、人間を除いた残りの地球全部よりも重いのだ、それも無限に。
だからこそ、人間の生命を絶つことは神の領域に属する権利であり、いかなる人間も政府も手を触れてはならないという考え方が、空虚な言葉に留まらない重みを持つことができる。
もちろん日本人も人命は尊いと考えている。当然だ。さすがに自分たちの命が(少なくとも実際上)一番大切ではないという教えをわざわざ作り出すほどの間抜けは我がホモ・サピエンスの中にはおらん。しかし、非一神教の生命の尊さは一神教のそれとは性質が大きく異なる。
たとえば日本では未成年による殺人事件が起きる度に校長先生が「命の尊さを学びましょう。」と言うが、それはもうちょっと正確に言うと、「人の命には、たとえば100億ライフポイント(以下LPと表記する)という、とても大きい尊さがあるのですよ。」という程度の意味である。
牛は500LPぐらいあるかもしれない。ネズミは3LPでサンマは1LPぐらいかな。米粒は0.0001LPぐらいで、大腸菌は数億分の1LPぐらいだろうか。もちろん人間とは大きく異なるが、比較可能な命の重さである。(だから他の生き物を食うときはその魂に祈る。来世はそいつに生まれ変わるかもしれないのだし。)そして地球はその全ての足しあわせなので、当然1人の人間よりも最低67億倍以上大きい。
「人命は地球より重い」などというのは、よくて空しい言葉、悪くすれば思い上がった傲慢な考えである。このような非一神教的な倫理では、いくら誰もが尊い100億LPの命だからといって、他の人間を殺した殺人者の命の価値は、100億引く100億でゼロとなり、複数人殺害した殺人犯のそれはマイナス数百億LPということになる。
対して一神教的な倫理では、人命は無限大の大きさだ。∞同士の足し算引き算に意味はない。少なくとも有限の数同士の足し算引き算と同じような意味は。たとえば、全ての自然数(∞個)から全ての偶数(∞個)と全ての3の倍数(∞個)と全ての5の倍数(∞個)を取り除いた残りはやはり∞個である。
従って、たとえ何人・何十人殺した殺人犯であろうとも、その命の価値はやはり∞のままであり、やはり(より上位の無限大であるGOD以外の)何人もそれを奪う正当性は持たないということになる。たとえ神の名が、もはや法律の条文に現れることがなくても、これが一神教文化の死刑全廃を裏打ちする哲学である。
日本文化の下にいる死刑反対派はこの大前提を持っていないので、賛成派の反論に自信を持って答えることができない。これは何らかの議論や調査の結果として出てくるものではない。持っているか、持っていないかだ。持っていないものは出せないのである。(つづく)
おまけ
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