2009 5/7

読書について 他二篇 (岩波文庫)

  • 『思索』
  • 『著作と文体』
  • 『読書について』

 ショウペンハウエルの三編を収録した薄い文庫本。引用はすべて『著作と文体』より。

 書名は手紙のあて名にあたるべきものであるから、先ずその内容に興味を持ちそうな読者層に、その書物を送付する目的をもつはずのものである。だから、書名は独自の特徴をそなえるべきである。また短いことが書名の生命であるから、きわめて簡潔で含蓄豊かであるべきで、その上なるべくその本の内容に対して花押の役を果たさなければならない。したがって冗長な書名、何一つ特徴のない書名、曖昧不明瞭な書名、あるいはそれどころではなく内容を誤った見当はずれの書名はいずれも、つたない書名である。ことに見当はずれの書名をつけられた本は、あて名を間違えられた手紙のような目にあいかねないのである。

 タイトルのつけ方。

 ドイツでは、出版言論の自由は最近かちとられたばかりであるが、たちまち破廉恥きわまりないほど濫用されるようになった。だが少なくとも、匿名、偽名はすべて厳禁という手段によって、この自由に制限を加えるべきであろう。我々の言葉を広範囲に伝達する印刷というメガフォンによって、公衆に呼びかける者ならばだれでも、少なくともひとかけらはそなえているはずの名誉心に訴えて、自分の発言に責任を負わせること、また名誉心のひとかけらもない者に対しては、その名前だけでその発言を無効にすることが、この自由制限の目的である。匿名で書いたことのない人々に匿名による攻撃を加えるのは明らかな破廉恥行為である。

 匿名批評家は、他人や他人の著作についてとかくの批判を加えながら、自分が批判している当人であることを明示しようとしない者、その名を示さない男である。匿名批評はすべて欺瞞を目ざしている。だから警察が覆面の往来歩行を許さないように、匿名執筆も容赦すべきではないだろう。いったい匿名主義の評論雑誌は、無恥が学識を裁き、愚昧が聡明を裁いても、また悪書を奨めて大衆から金銭と時間を詐取しても処罰されずにすむまったくの無法地帯である。いったいこのようなことが許されてよいのか。匿名こそ文筆的悪事、特にジャーナリズムの悪事一切の堅固なとりでではないか。したがってこのとりでは、根こそぎ破壊されなければならない。すなわち一般にいかなる新聞記事にも、執筆者の名前を付し、署名の正しさについては編集者にきびしく責任をとらせるようにしなければならない。このような措置をとれば、とるにたりない人物の住所でも明らかなのであるから、虚偽の新聞記事の三分の二までが消滅し、厚顔無恥の毒舌も制限をうけることになるだろう。

 匿名論議。

 確かにできるだけ偉大な精神の持ち主のように思索すべきではあるが、言葉となれば、他のだれもが使うものを使用すべきである。(中略)大切なのは普通の語で非凡なことを言うことである。しかし彼らのやり方は逆である。すなわち彼らは俗悪な概念を高尚な語で包もうとする。ごく普通の思想を異常な語句、気取りきった不自然奇妙この上ない言い回しでくるもうとする。彼らの文章はつねに竹馬に乗ったように、気取った足どりで進む。要するに彼らに気に入りの文体は僭越、高慢、華美、誇張、大げさを特徴とする。

 この後「現代の三文文筆家連が我が国の美しい国語*1を亡ぼそうとしておーる!」みたいな話が延々と続く。

 ほんまにいつの時代もやってることはなんも変わらんな、という感想。これ自体としてあまり面白かったとは言えない。

*1:この場合はドイツ語。

おまけ

 ドイツ語つながり。もう何年も前の事件のような錯覚に襲われる。

by 木戸孝紀 tags:


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