2016 10/30

 久々に単独エントリでおすすめしたくなった本。個別には、どれもすでに聞いたこともあるような話ではある。しかし、全部まとめて一貫して説明されると、わずかなりとも世界観を揺るがされるような話でもある。

 アレルギーの衛生仮説はなんとなく外部の細菌・寄生虫ばかりに目が行っていたが、常在菌に関するものである可能性もあるのか。

 肥満や胸焼けはともかく、自閉症にさえ腸内フローラの影響があるかもしれないというのは、にわかには信じがたいほど衝撃的。

 あと、本の内容とは関係ないが、訳者の長崎大学熱帯医学研究所・国際保健分野主任教授は例のアレと同姓同名で実に気の毒。

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2016 7/16

失われた地平線 (新潮文庫)

第40回】 【目次

 あのハンターハンターさえ連載再開するぐらいだから自分も頑張ろうと思ってこのエントリを書き始めたら、書き上がるまでに再び休載してしもた(笑)。まあ仕方ない。始めよう。

 今回取り上げる作品、記念すべき後半戦最初の作品は、ジェームズ・ヒルトン失われた地平線』(1933)である。

 未来・SFの世界にご案内しようとか言っておいて*1いきなり普通はSFに分類される作品ではない。時代も、未来どころかリリー博士の時代から30年ほどもさかのぼる。前回のダライ・ラマの前振りがなかったら、そもそもなんで取り上げるのか全くわからないだろう。

 おまけに、小説そのものは今読んで面白いとは全く言いがたい。適当に最低限のあらすじだけ紹介しながら、このシリーズにとって意味のある点でのみ、少し引用して立ち止まることにしよう。

 物語の舞台は1931年。古い小説にはたまにあるように、何重かの伝聞という形式を取っているが、メインストーリーの主人公はコンウェイというイギリス領事。理想的なイギリス紳士(独身)である。

 彼はバスクール*2という土地に駐在していたのだが、そこで革命が起き、「白人」居住者は軍の飛行機でペシャワールへ避難することになった。

 ところがコンウェイ他4人が乗った飛行機は、操縦士がいつの間にか見知らぬ「現地人」に入れ替わっており、彼らは勝手にチベットの山奥へ連れて行かれてしまう。

 その操縦士すらも心臓麻痺か何かで急死してしまい、途方に暮れた4人は駕籠を担いだ「東洋人」の集団に出会い、シャングリ・ラのラマ教(チベット仏教)寺院へ迎えられる。

 シャングリラという名前について少し調べてもらいたい。後にどれほどの影響力を持ったかについては、モデルになったあたりの地域が実際にシャングリラ市に改名した、という一事をもってしてもわかるであろう。*3

 シャングリラは下界より遥かにゆっくりとした時間の流れる理想郷であった。シャングリラについての描写を2箇所ほど抜粋。

 ところがこのラマ僧院には、そうした中国風の装飾品の他に、まだ注目すべきものがあったのだ。例えば、それの一つとして、すこぶる快適な図書室があった。(中略)そこには世界の代表的な文学作品が洩れなく取り揃えられているばかりでなく、彼の評価の及ばない玄妙珍奇な典籍がぎっしりと並んでいるのだった。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語の書物がふんだんにあり、中国語その他の東洋語の筆写本にいたっては、まず数えきれないほどだった。

(中略)

 とにかくプラトンのギリシャ語原典が英訳のオマー・ハイヤームと隣り合っているかと思うと、ニーチェニュートンと手をつなぎ、トマス・モアがいると、傍らにハンナ・モアトマス・ムーアジョージ・ムーア、おまけにオールド・ムーアまでも揃っているのだった。

 個別の書名や著者名にこだわる必要はない。ざっと雰囲気を掴むだけでよい。

 コンウェイがさらに驚いたことには、その小亭の内部には一台のハープシコードと最新型のグランド・ピアノとが据えつけてあるのだった。(中略)ラマ僧たちは西洋の音楽を、なかでもモーツァルトを、非常に高く評価し愛好しているとのことだった。ヨーロッパの偉大な作曲家の作品は残らずここに取り揃えてあるし、ラマ僧たちのうちにはさまざまな楽器の練達者が何人かいるという話だった。

 お、おう……。

 コンウェイは、シャングリラに滞在するうち、僧院のトップである「大ラマ」に異例の目通りを許される。

 大ラマがシャングリラの歴史を語る。普通に引用していたら長くなりすぎるので、かなり大胆に要約させてもらう。ここから次の引用部までの間、鍵括弧内が原文ママの表現。

 1719年のこと、ペローというカプチン会の修道僧が、ネストリウス派の信仰の名残を探す旅で偶然シャングリラに行き着いた。

 古いラマ教寺院をキリスト教の修道院に建て直して宣教を始め、53歳の時には定住するようになった。ローマから召喚状が来たりもしたが、もはや老齢のため従うことができず、生涯シャングリラに留まることになった。

 98歳の時には仏教の経典を紐解き始めた(最初はキリスト教信仰の立場から批判するためだったし、実際そうしたのだが)。「インド人がヨガと呼ぶ神秘的な黙想修行」の研究を始めた。108歳の時臨終の床についたが、やがて回復し始めた。

 臨死体験で、ある意義深い幻覚をこの世へ持ち帰ったペローは「直ちに厳格な自己訓練を開始し、しかも奇妙なことにも、それと平行して麻薬に耽溺し出した」「いまや谷間の寺院では『感謝聖歌』と『南無阿弥陀仏』とがこもごも洩れ聞こえるようになった」

「そんな馬鹿なことが……」と彼は吃りながら言った。(中略)
「わが子よ、いかがなされた?」
 ゆえ知らぬ情感のため体が震えるのを覚えつつ、あえてその震えを押さえようともせずに、コンウェイは答えた。
「あなたはまだ生きていらっしゃる、祖師ペロー様!」

 200歳を軽くを超えるペロー神父その人であることが明らかになった大ラマが語るシャングリラの魅力。大事なところなので少し長めに抜粋。

 私が描いて進ぜた見通しは、魅力的なものでしょう。ながいながい静謐の境涯にあって、俗世の人々が時計の鳴るのを聞くと同じ気持ちで、それよりもはるかに心労のない態度で、あなたは夕陽の沈みゆくのを眺めていることだろう。時は来たり、年は去り、あなたは肉体的な享楽から解脱して、漸次より厳しい、それでいてそれに劣らぬ満足を与えてくれる境地に入って行かれることでしょう。(中略)あなたは深い静けさを、老熟した叡智を、そして明晰な記憶力の陶酔を味わうことになるなる筈です。そして、なによりも貴重なことは、あなたが『時』を獲得なされるということですぞ。よろしいか、あなたがた西洋の国々が追求すればするほど見失ってしまっている、あの得がたく貴重な贈物を……なのですぞ。まあ、考えてもごらんなされ、あなたは書物を読む時間を得られる……もはや二度と、時間を惜しんで、頁から頁へと拾い読みをしたりすることはありますまい。また、あまり熱中しすぎないようにとの配慮から、なにかの研究を控えるというようなこともなさらなくなるでしょう。(中略)楽譜も楽器もが、妨げられず果てしない『時』とともに、その最も豊潤な香りをあなたに捧げるべく、すべて用意されてあるのですよ。(中略)賢明で波立たぬ静穏な交友、いつもあわただしく人を呼び立てる『死』を恐れることのない、久しく温かい心と心の交わりというものを考えられて、あなたは心をひかれることはありませぬか?

 ひとつめのポイントは、この大ラマことペロー神父の語り、ひいてはジェームズ・ヒルトンが抱き、当時の欧米人が共感したイメージは、かなり普遍的な魅力を備えている、ということだ。

 多くの個人差・地域差・時代差があるにしても、説明する必要のない明白な問題点に引っかかるのは割り引かなければならないとしても、これに魅力を感じ、心をひかれない読者がいようか。(私ももっと書く時間取りたいよ!)

 ふたつめのポイントは、強調部に表れている(西洋)文明批判の側面だ。ここを補完する場面として以下の引用を見てほしい。話の順序が前後するが、シャングリラ到着翌日に4人のうちのひとりが早く帰りたがっている、という場面。

「誰かがよっぽど機敏に立ち回ってくれないと、とても今日中には出発できそうにないな」などと、マリンソンは呟いていた。「あの連中は典型的な東洋人だからね。ちょっとやそっとで事をてきぱき敏活に処理させられるもんじゃないからなあ」
 コンウェイは黙ってその言葉に頷いてみせた。マリンソンはもうイギリスを出てから一年近くにもなるのだ。二十年も東洋に住んでいたとしてもおそらく繰り返すだろう同じ結論に、もうそろそろ到達してもよかろうと思われる頃だ。そして、実際に、彼の言葉はある程度正当だった。ただコンウェイの見るところでは、必ずしも東洋の諸民族が異常なまでに遅鈍なのではなくて、イギリス人やアメリカ人が常軌を逸した熱にうかれて、間断なく地球上を駆けずり回っているように思われてならないのだった。こうした考え方には彼と同じ西洋人たちが同感する筈もないのは、彼にだってわかってはいたが、年を追い経験を積んでゆくにつれて、彼のその見解は強められてきていた。

 この東洋観が差別的だ、というような見ればわかることを言いたいのではない。私たちが過去について誤った期待を抱いていない限り、それは1933年が1933年であるという自明の事実を意味するに過ぎない。

 オリエンタリズム一般について、ここで説明することもしない。例によって、このシリーズの観点から重要な点に絞ってまとめよう。

 この時点において「東洋(人)」は「西洋(人)」に対して、平等な関係・対等の選択肢として存在するのではない。あくまで忙しい自分たち(「西洋(人)」)を省みるための小道具に過ぎない。実際の「東洋(人)」は、ある意味どうでもいいと思われている。

 実際チベットの扱いは極めていい加減だ。私はチベット仏教の教義について何も知らないが、それが「麻薬をやりながらゆっくり西洋の文学や音楽を楽しもう」というようなものではない、と断言しても、文句は来ないと思う。(枝葉末節だが『南無阿弥陀仏』も唱えないと思う。)

 このような「東洋」の扱いは決して珍しいものではなかったし、この作品は、そのような創作の中で最も有名なものでも最も洗練されたものでもない。*4それでも私が時代精神の代表としてこの作品を選んだ理由は、一番最後でまとめよう。

 大ラマは、そもそもコンウェイらが連れてこられたのも偶然ではなく、外部の人間を招くため計画だったことを明かしてくれる。

 まず大体から申して、この土地の高度や其の他の条件に馴らされているチベット人は、外部の人種の人たちほど感覚が鋭敏ではありません。(中略)百歳以上の寿命を保つ者はどうも少ないように思われます。中国人はまだよろしいようですが、それでも失敗する者はかなり多いようです。最も成績のよろしいのが、ヨーロッパの北部の人たちやラテン系の種族でして、アメリカ人もほぼ同じくらい適応性があるのではないかと思われます。

 わっはは、チベット人は鈍いからダライラマに向かないか。中国人に替わってもらった方がましだな。

「その理由は、ちゃんとあるのですよ。(中略)それこそが、この偶然寄り集まった異邦人たちのこの群落にとって、寿命を越えてまで長生きすべき理由のすべてなのです。(中略)われわれには一つの夢があり、幻想があるのです。(中略)かつて一七八九年に老ペローがこの部屋で臨終の床についておったときに、その枕頭を訪れた幻想だったのですよ。(中略)そうした追想を通して彼が感じましたのは、すべて美しいものがはかなく滅びやすく、この世の戦乱や欲望や獣性がいつの日にかそれらをことごとく破砕してしまうかも知れぬ、という憂慮だったのです。(中略)つまり、この世界の国々が、叡智においてではなく、卑俗な欲情や破壊の意志において、次第に強化されてゆくさまを見ていたのです。機械の力が倍加して行って、ついには武装したただ一人の人間が大君主ルイ十四世の全軍にも匹敵するようなことになるだろうことを見て取ったのです。

(中略)

殺人の技術を手にして驚喜した人類が、この世界の隅々まで荒れ狂いまわって、(中略)書物も絵画も音楽も、二千年の歳月を通じて貯えられた、微小で繊細で防御のすべを持たぬすべての宝物が、(中略)破壊されてしまうだろう……とな。

(中略)

 おそらくこの破局は、あなたが今の私ほどの年齢になられるよりも前に、やって来ることでしょうから」
「それで、このシャングリ・ラがその破局を免れることができると、そうお考えなのですね?」
「おそらくはな。(中略)ここには、われわれが育み護って、やがて残し伝えるべき遺産があります。その時がやって来るまで、お互いに人生を楽しみ味わうことにしようではありませんか?」
「そして、その時が来ましたら?」
「その時には、よろしいか、強者どもが相互にむさぼり合って果てたその時には、初めてキリストの倫理が履行され、柔和なる者は幸福なるかな(マタイ伝、第五章、第五節)……ということになるのですよ」

 1933年はヒトラーがドイツ首相に就任しナチスが政権を取った年であり、日本が国際連盟を脱退した年でもあることを参考にどうぞ。

 また、時代の反映であると同時に、時代を越えた普遍的な魅力を備えてもいる。間もなく来る破局、そして復活というテーマは、古くからよく知られているものだ。このミームを受け継いでいる未来の「子孫」を思いつく人も多いだろう。*5

「これから来たらんとしている暗黒時代は、この世界全体を一つの棺衣でおおい包んでしまうのです。遁れる道もなければ、隠れる場所もなく、ただ見出しかねる僻地か物の数に入らぬささやかな場所のみに、助かる見込みが残されるのみでありましょう。シャングリ・ラは、そのいずれでもありうるわけです。大都市に死を運ぶ飛行士とても、(中略)ここを爆弾を一発投下するだけの価値がある土地だとは思わぬでありましょうからな」

 「なんでこいつら最終戦争が起こっても山奥にこもってるだけで大丈夫だと思ってるの? ばかなの? 死ぬの?」と思った人いませんかね? 私は初めて読んだ時に思いましたよ。

 でも、ちょっと考えて気づきましたね。馬鹿は我々の方です。1933年には、核兵器という概念は、一部の先進的な物理学者やSF作家の想像の中にしかなかったのです。死の灰とか核の冬という概念も当然まだありません。この「一発の爆弾」は核爆弾ではなく通常爆弾なのです。

 この場面の直後、大ラマはコンウェイを自分の後継者に指名して亡くなる。小説の筋としては、ここからあともうひと盛り上がりあるのだが、このシリーズの観点からはどうでもいいので無視する。

 まとめに入ろう。

 繰り返すが、東洋(人)観が差別的だとか、見ればわかることを言いたいのではない。80年以上も先から振り返っている未来人である我々の目には、そのような問題点はあまりにも明白であり、大まじめに説明するのは野暮というものだ。むしろ馬鹿にしているのかと怒られかねない。

 何より、そのような問題点に今日一番敏感なのは、日本人以上に、まずガイア教の支持層である欧米のリベラルな人々であろう。

 たとえば現代のワトソン船長がどれほど自意識の肥満した男であっても、自分がダライ・ラマの後継者に指名されるとは絶対に期待していないだろう。もはや馬鹿らしすぎて冗談にもならない。

 それでもこの作品が当シリーズの観点から有用なのは、まさにその古さゆえだ。このシリーズで着目すべき重要な変化――私がガイア教の本質と考える変化――のスタート地点およびそこから向かう方角を、見事に捉えたスナップショットと見なせるからだ。

  • 地上*6に神秘が残されていた最後の時代であるが、それがまもなく消えてしまうのではないかという予感はある。
  • 伝統的な差別――白人種の他人種に対する優越・西洋文明の他の文明に対する優越・キリスト教の他の宗教に対する優越――はまだ自明のものだった最後の時代。だが、それが正しくないのではないかという意識も芽生えている。
  • 第二次世界大戦もまだ起きておらず、核兵器が存在しなかった最後の時代。しかし、文明の全てを破壊するような最終戦争が起きるのではないかという恐怖はすでにある。

 このスタート地点と、今現在あなたが生きている瞬間と、それが書かれた時代を三角測量することによって、これから見ていく作品を、よりよく理解することができるだろう。「オリエンタリズム」の糸においてだけでなく、このシリーズの最後の最後まで重要な視点となるはずだ。

*1第39回
*2:ちょっと調べた限りではどこのことかわからなかった。架空の地名?
*3:ついでに個人的なことも言うと、私はその名を冠するホテルチェーンに何度も宿泊したことがある。参考:シャングリ・ラ・ホテルズ&リゾーツ
*4:たとえばエーリッヒ・ショイルマン『パパラギ』(1920)の方が、どちらにおいても上であろうと思う。
*5:私が真っ先に連想するのは『風の谷のナウシカ』のヒドラの庭園だ。
*6:ここでは「地下・海中を除く地球上」ぐらいの意味。

第40回】 【目次

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2016 3/7

だれもが偽善者になる本当の理由

 最近の話ではないが、『だれもが偽善者になる本当の理由』を読んだ時に思いついたこと。まだかなり曖昧というか本当に思いつきレベルの乱暴な話だが一旦まとめる。

 この本で提唱されている「意識の報道官モデル」というのは、意識の役割は大統領報道官のようなもので、大統領にとって不利な事実は知らない方がいいし、実際に知らされていない、というもの。

 基本的にいいところをついているように見えるのだが、これが本当に正しいとすると、同時に、かなり興味深いことを示唆すると思われる。

 意識とかアイデンティティとか日常的な概念で言われるもの、少なくとも言葉で自分のことを語れるような、なんとなく我々が人間性の本質だと見なしているようなそれは、従来思われていたよりも、ものすごく進化的に新しい可能性が出てくるのではないか?

 「自己」が一貫しているかどうかを気にする他人が誰もいなかったとしたら、「自分」の一貫性について誰かに弁明する必要が、生涯にただの一度もないとしたら、そもそも一貫した(と主観的に感じるだけかもしれないにせよ)何かを(実際に)持っている必要などあるだろうか?

 ないように思われる。

 「自己」とか「アイデンティティ」は、たとえその本質がなんにせよ魔法ではないはずだ。進化によってデザインされ、コストがかかる具体的な何かのはずだ。コストを正当化する理由が何かなければ作られず、維持されない。

 そして、一次元的に定義できるかは別の話として、アメーバは持ってなくて、人間は持っている。では、それはいつからだったのか。なんとなく連続的なもののような気がしてきたが、それが政治的にも正しいような気もしていたが、実はそうではないのでは?

 言語(噂)による他人の評価が行われたり、そこまでいかなくても、ある程度高度な心の理論を持ち、それによって他人を評価するようになるまでは、少なくとも現生人類と同じような意味の、「意識」は持ってなかった可能性の方が高いのでは?

 「自分は他人以上に他人である」というのは、単なるモラトリアムの文学的表現ではなく、まったく言葉通りの事実である可能性が出てくるのでは? つまり自分(自己・自我・自意識となんとなく呼ばれるところのもの)は他人(の心の理論)より進化的に新しい可能性が高いのでは?

 一年前の自分と今日の自分が同じ自分であるというような意味での「自分」という意識は、かなり最近――とは言っても数十万年から数百万年レベルの話だが――まで存在しなかったのではないか?

 まるで『神々の沈黙』の緩やかな、その代わりトンデモではない(かもしれない)バージョンと言おうか、そんな可能性が出てくるのではないか?

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2016 3/2

脳はすごい -ある人工知能研究者の脳損傷体験記-

 こりゃおもろい。久々に脳関連でのヒット。

 原題”The Ghost in the Brain”(脳の中の幽霊)。邦題はちょっと間抜けな感じになってしまっているが、直訳ではわかりにくいし、副題まで合わせて考えると、まあまあ妥当か。

 著者は人工知能研究者。元から知能が極めて高い上に、絶対方向感や共感覚を持っているなど、かなり特殊な脳の使い方をしていたようだ。オーディオオカルトにはまっているようであったり、神秘体験をしたことがあったり、事故前からいろいろ変わっているところもあった模様。

 交通事故による脳震盪によって、モジュール間の連絡に様々な不都合が生じ、世にも奇妙な症状が生じるが、視覚を通じた介入と訓練によって、そこから回復する。

 メガネとパズルによって壊れた脳が回復しました、なんて、予備知識がないとトンデモ代替医療かと思ってしまうであろうほどの超展開である。

 多くの抽象思考が、視覚処理とそのアナロジーに依存しているというのは面白い。発生学的には、眼は外に飛び出した脳そのものだ、というような言い回しはよく聞くが、それを別の方向からも裏付けるような話である。

 脳のとてつもない複雑さと、それが曲がりなりにも正常に機能しているということが、どれだけありがたいかということを、思い知らされる。

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2016 2/16

脳が認める勉強法

 タイトルから期待されるハウツー的なものよりも、脳科学というか学問寄り。とても分厚くて冗長。悪い内容ではないと思うので、自分用に超要約しておく。

1語で要約

 「変えろ」。

1行で要約

 絶えず環境・やること・やり方を変えろ。脳は差分を記憶する。

4行で要約

 まずはすぐ取りかかり、飽きたらすぐやめろ。場所を・道具を・時間を・BGMを変えろ。詰め込んだら自己テスト、テストで考え込まずすぐ答えを見る、という具合にやることも変えろ。連続して繰り返しても実は変化がない。分割し間を置いて反復せよ。よく勉強し・気分転換し・寝ろ。

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2015 7/26

 「テレビは幼児の発育に悪影響がある」という主張に対する反論をしたいのだが、真面目にやるとすごい長さになってしまうので、ポイントを絞って3点だけ。

そもそも検討に値する主張ではない

  • 発育が良いとは何であるか?
  • 子供がどう育つのが望ましいのか?

 ということがまったく曖昧なため、そもそもこの主張は反証不能である。「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」としか言いようがないのである。

 しかし、すでに影響を受けてしまっている人はそれでは納得しないだろうし、今回は一般家庭での実践の問題であって、厳密な話ではないので「発育が良い」とはどういうことかは、常識の範囲でどう捉えても問題ないとしておこう。

良い刺激はビタミンと同じ

 悪影響がありうるとすれば、その原因はテレビ視聴の【存在】ではなく、人――あるいは一般に視聴覚以外の刺激をもたらしたり相互作用ができるもの――との接触の【欠如】である。

 テレビの【存在】が積極的な害をもたらすと本当に信じるならば、大人もテレビを見るべきではないことになるが、そのような主張はあまりないようだ。

 人との接触がすでにある程度確保されているなら、従来テレビを見ていた時間にテレビを消したからといって、より退屈になるだけである。知能に悪影響はあっても良い影響があるとは考えられない。

 テレビを消した分の時間が全て(他人との遊びのような)より情報密度の高い活動にあてられるなら、もしかするともしかするだろうが、少なくとも一般家庭では、そんな条件はありえないだろう。

バイアスは大きく「悪い」側にかかっている

 もうひとつ重大な要素がある。

 テレビの世帯普及率を調べてみよう。1955年以前はほぼゼロだ。

 そして、現在偉い学者というのは大抵50代〜60代の老人である。主に働いているのがもう少し下の世代であったとしても、彼らの仕事を評価するのは結局その上の世代だ。

 つまり現在の偉い学者は幼児の時テレビを見ていない。

 偉い学者にとって、テレビが幼児教育に悪いということは自分は後の世代より賢いということに等しく、テレビが幼児教育に良いと認めることは、自分は後の世代よりバカだと認めることに等しい。

 そして「自分が育ってきた環境が知的教育に悪いと認める教育学者」など、「自分の属する人種は知能が劣っていると主張する人種差別主義者」と同じぐらい稀だと考えられる。

 たとえ本当の正解がどうだったとしても、今現在の偉い学者からのテレビの評価には、悪い方に極限までバイアスがかかっている*1ことを割り引かなければならない。

*1:ただし今後このバイアスは急速に消えていくことが予想される。

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2015 7/26

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 岸見一郎著、古賀史健著。源流というだけあってなかなか面白い。ほとんどは単なる自己啓発の屁理屈のように見える反面、自己欺瞞の考察として先進的な部分もあるように見える。

(おすすめ本書評まとめ2014年11月版)

 以前このように評したことがあるが、これだけじゃ意味がわからないのでちょっとだけ追加しておく。

 アドラー心理学で一番問題なのは「個人をそれ以上分割できない存在であると考える」というところだろう。これは脳のモジュール性の観点からの自己欺瞞理解とは正反対だ。

 たとえば、引きこもりの「彼」は「本当」は引きこもりを止めたくないのだ、というようなことを言うわけだが、

  • 長期的利益を司る部分は、引きこもりを止めたいと思っている
  • 短期的利益を司る部分は、引きこもりを続けたいと思っている

 とすれば、これ以上の説明はない。このどちらかが「彼」の「本当」の意見だと考える必要はどこにもない。

 この引きこもりに「ダイエット中なのに夜中に起き出して冷蔵庫をあさる人」以上に、何か本質的に問題があるとかおかしいとか考える必要はない。

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2015 7/12

ヒトはなぜ笑うのか

 マシュー・M・ハーレー著、レジナルド・B・アダムズJr.著、ダニエル・C・デネット著。原題”Inside Jokes”(『ジョークの内幕』)。

 やっと読んだ。詳しい内容については例によってshorebird先生にお任せ。

 私もそこでほぼ全内容を知っていたので、今回初めて思ったわけではないが、これはやられたと思った。

 以前この記事で少しだけ触れているが、「笑い」――単に笑顔や笑い声のことではない――は、人間精神の最大の謎のひとつであった。

 そしておそらくそれ故に、人間性の本質とも見なされてきた。たとえば、ほんの一例だが、最近アニメ化された『寄生獣』で、パラサイト田村玲子の精神が人間らしくなってきたことの表現のひとつとして「笑い」が選ばれている。*1

 しかし著者らは「笑い」ついて、残りは全て細部の問題だと言えるような「正解」に辿り着いてしまっているように見える。進化に関してダーウィンの『種の起源』がそうであるような意味で。

 個人的には、死ぬまでに知りたかった重大疑問のひとつが解決してしまって、すごく嬉しいと同時に少し寂しい気分だ。

*1:この本の知見に沿って考えるならば、人間に混じってバレずに暮らせるほどに人間的な知性を備えながら、笑いを理解せずにいるパラサイトというのは、哲学的ゾンビと同じく、細部までよく考えていないから可能に思えるだけの幻想ということになろう。

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