2012 4/26

生き物たちは3/4が好き 多様な生物界を支配する単純な法則

 およそ意味のある現象は、常に何かと何かの境界で発生する。

 人体は大雑把に言って複雑に折りたたまれた内臓表面であり、それらを構成する細胞は大雑把に言って折りたたまれた膜(表面)の塊だ。

 脳みそに皺が寄っているのも、肺が肺胞に分かれているのも、小腸が絨毛でびっしりなのも、全ては表面積を増やすためだ。

 パソコン環境の生産性を上げるには、CPUやHDDの能力を上げるより、モニタの面積を増やした方がしばしば有効であり、紙に印刷して広げて見ることも有益だ。

 全然関係ないが、量子重力理論では、物理的に一定範囲に詰め込みうる情報の限界は体積でなく表面積で決まるのだという話を連想する。

おまけ

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2012 3/14

喪失と獲得―進化心理学から見た心と体

 いつかまとめてそれなりの長さで書こうと思っていた話だが、この本にまったく同じ表現が出てきたので、もう出してしまおう。

「重心」は実在するか?

 ある意味では、もちろん重心は実在しない。

 たとえばサッカーボールの重心には何もない。空気しかない。ボールの重心はまだしも内部の点だが、ドーナツの重心は内部の点ですらない。

 しかしまた、ある意味では、もちろん重心は実在する。実在するとの前提の元で行われる大抵の活動は概ね正しい答えに到達する。

 私の重心は、私の体重とか、私の銀行口座とか、日常的に「実在する」とされているあらゆるものとまったく同じように、実在する。

 しかし、細かく見ていくと重心が存在するという直感にはうまく当てはまらないケースが出てくる。たとえば、オリンピックの走り高跳びで見事な背面跳びを成功させた選手がいたとする。この時、選手の重心はバーを越えていない。

「魂」は実在するか?

 ある意味では、もちろん魂は実在しない。脳を分解してよく探せば見つかると本気で信じている人は今日時点ではあまりいないはずだ。

 しかしまた、ある意味では、もちろん魂は実在する。実在するとの前提の元で行われる大抵の活動は概ね正しい答えに到達する。

 私の魂は、私の体重とか、私の銀行口座とか、日常的に「実在する」とされているあらゆるものとまったく同じように、実在する。

 しかし、細かく見ていくと魂が存在するという直感にはうまく当てはまらないケースが出てくる。たとえば、念入りな心理学実験や脳に損傷を負ったりするような場合には。

おまけ

 仕様変更にめげずイカ教祖復活。

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2012 2/21

ポスト・ヒューマン誕生―コンピュータが人類の知性を超えるとき

 最近UIEジャパンに入社した山宮隆さんのエントリを読んでいて、いつかしようと思っていた技術的特異点の話を思い出した。

 私はレイ・カーツワイルの言うような意味でのシンギュラリティの概念は眉唾だと考えている。

 確かに、いかなる人間よりも賢い人工知能を作ることはそう遠くない将来に実現する。(考えようによっては既にできている。)しかし、そのAIを作る(作った)のは、人類文明であって人間ではない。

 そのAIは人間より賢いかもしれないが、それを作った人類文明より「賢い」わけではないし、それが人類文明を大きく変容させることなどない。

 私の考えは、知っている限りでは、このケヴィン・ケリーに一番近い。

 たとえ話でざっくり言えば、私の腸に住んでいる大腸菌界のレイ・カーツワイルは「まもなく特異点がやってきて超菌が誕生するだろう!」と言っているに違いない、ということだ。

 タイムテレビで過去をありのままに観察できたとしても多細胞生物誕生の瞬間を特定することなどできないのと同じように、超人類誕生の瞬間を確定することはできないだろう。

 しかし、確定はできなくても、多細胞生物の誕生がすでに過ぎていることが明らかなように、超人類の誕生もすでに過ぎている。おそらくは言語の進化と文字の誕生あたりの時期に。

おまけ

 謎の技術。

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2011 12/18

(今日の一コマ)

第35回】 【目次

 ある現象を理解するということは、何が変化して何が不変であるかを、理解することだと言える。

 何も変化がないのであれば、そもそも考えるべきことが存在しないであろうし、何もかもが変化してしまうなら、やはり考えるべきことが存在しないであろう。

 たとえば物理学であれば、変化しない保存量が何かがわかれば、その保存則を用いて現象を理解したり予測したりすることができる。

 社会や歴史に関しても、もちろん物理学ほど単純にはいかないが、同じようなアプローチはできる。すでに第30回で一度その実例を見せた。時代とともに神話の内容が変わっても、変わらないものは人生と社会に意味を求める人間の心だった。

 さて、私たちは、第15回から続けていた時間旅行で、3冊の本を教科書に3つの時代を見てきた。

  1. キリスト教が全ての中世
  2. 科学が勃興した近代
  3. いわゆるポストモダンの現代

 そして今、この似たところなどひとつもないかのように見える3つの社会を貫き通している一本の柱を、指摘することができるようになったはずだ。それは、このシリーズの文脈に沿う形で思いっきり圧縮・要約するなら、以下のような考え方だ。

 宇宙のあらゆる存在には永久不変の「偉さ」の階層があり、ゼロから*1無限大(≒神)の数直線上にランクづけ可能なひとつの実体である知能によって位置する階層が決まり、階層の上下関係によって誰が誰を殺し・食らうのが当然であるか犯罪であるかが決まる。

 時間に余裕のある人は――捕鯨問題ばかりのエントリ35回分も読んできて忙しいとか言わさんぞ――これを何十回か読んで、いつでも暗唱できるようにしてほしい。

 私は、これこそ鍵だと信じている。多くの人間――とりわけ日本人――に捕鯨・反捕鯨問題を理解しがたいものにしている高い壁を通り抜けるための鍵だ。

 この鍵さえ持っていれば、多少の努力と時間を費やすことを厭わない人は誰でも、少なくとも「訳が判らない。」*2と言わなくて済むようになると信じている。

(暗唱できたら次に進んで下さい。)

 はい、暗唱できるようになったかな。おめでとう。あなたは鍵を手に入れた。では早速、鍵を手に入れたらすることをしよう。これまでに見つけた、開けられなかった扉を開けて回ってみよう。

扉その1

  • なぜリリー博士はイルカを食べていたシャチを「例外」と記述したか?*3

 これは「普通」に考えると「胃の内容を調べたところ、ヌーを食べていたライオンがいた」と記すようなもので、頭がおかしいとしか思えない。

 しかし、鍵を持っている私たちには、もう特に不思議なことではない。

 シャチとイルカは(彼にとっては)人間以上に高度な知能を持つ同じ鯨類同士である。同じ偉さの階層に属する彼らが喰い合うのは、ちょうど人間同士が喰い合う食人行為が犯罪であるのと同様に、自然に対する犯罪行為ある。

 これは鯨類が善きものであるという彼の思想と相容れない。したがって、これはあくまで例外でなければならない。たとえば人間の飼い方が悪かったからとか、人間の漁業のせいで魚が枯渇したからとか、なんらかの例外的影響で発生したもので、鯨類の自然な生態であることはありえない。

 簡単とは言わないが、そんなに難しくもあるまい。

 ついでに関連問題(?)をいくつか片付けてしまおう。

  • 近代の学者チェーザレ・ロンブローゾは、ある植物が虫を食べる行為を「犯罪に等しい行為」だとまで述べている。*4なぜか?

 もちろん、必ずしも自明ではないが直感的にも理解できる生態的制約によって、植物が動物を食べることは、動物が植物を食べることより珍しい。それは間違いない。

 だから「犬が人を噛んでもニュースにならないが人が犬を噛めばニュースになる」的な原理で、食虫植物に特別な印象を受けたとしても不思議ではない。

 しかし、現代の「普通」の人間は、これを犯罪だとは絶対に言うまい。不思議だと思っただろう、鍵を持ってなければ。

 私は19世紀イタリアの法律については何も知らないが、食虫植物を処罰する法律があった可能性は無視していいだろう。この「等しい」は厳密にイコールだという意味ではない。犯罪にたとえられるべき何かだという意味だ。

 では、犯罪ではないが犯罪にたとえられるべき何かとは? 人間の法律ではなく神の定めた「自然の法律」を破る犯罪だということだ。動物は植物より知能が高い、すなわち神に近い*5から、動物が植物を食べるのは当然だが、植物が動物を食べるのは「犯罪」なのだ。

 簡単だろ。はい次。

  • 「人間の子供を殺した豚の親子が裁判に掛けられ、母豚が絞首刑に処せられる」中世の動物裁判*6は一体なんだったのか?

 集団狂気? 動物虐待? もちろん現代の価値観に当てはめればそうだ。しかし、当時の人間にも言い分はあるだろう。彼らの考え方はこうだ。

 魂を持たぬ(≒知能の低い)豚は神によってアダムに奉仕するために創造されたものだ。だから「偉さ」の階層は当然アダムの子孫である人間が上で豚が下だ。だから豚が人間を殺して食うことは神に対する反逆で大罪だ。だから豚は裁判にかけられ、死刑に処せられなければならない。

 楽勝だな。

  • 人間の赤ん坊を食い殺したブタを裁判にかけた中世の神父
  • 食虫植物の行いを犯罪に等しいと述べた近代の科学者
  • シャチがイルカを食べていたことを異常な例外として記述した現代の科学者

 彼らはそれぞれ過去の人間の思想を否定し、軽蔑すらしていたに違いないのだが、一皮むけば、それぞれ過去の人間が従っていたのと同一の、より基本的なルールに忠実に従っている。代入する変数は時代とともに変わっても、使っている式はひとつだ。

扉その2

  • 「イルカには人間並みの知能があるが、その知能は海生動物ならではの独特な形をとっている」*7とはどういう意味か?

 人間、ピアノ線を張り巡らされた真っ暗な部屋を巧みに飛翔するコウモリ、何百ものドングリを埋めた場所を冬の間じゅう憶えているリス、誰に教わるでもなしに大規模な社会で農業や奴隷狩り戦争を行うアリ、誰が一番「頭が良い」か?

 そんなこと誰がどうやって決められる? 決められるわけがない。前足・胸ビレ・手・翼のうちどれが一番「肢が良い」か? という問いが無意味であるのと同じだ。神経系に備わった知能もそれぞれの生物の生態に応じて進化で生じた特徴のひとつに過ぎない。

 このような、21世紀人の我々がほとんど無意識的に採用している「非人間中心主義的」思想の下では、アントニエッタ・L・リリーの台詞は、正しいとか間違っているとかいう以前に*8意味不明である。*9

 人間は海生動物ではない。「海生動物ならではの独特な形をとっている」なら「人間並み」ではありえないし、「人間並み」なら「海生動物ならではの独特な形をとっている」ことはありえない。

 だが、鍵を持ったものにはその意味は明白だ。ほとんどそのまんまだな。知能はゼロから無限大の数直線上にランクづけ可能なひとつの実体だ。だからイルカと人間がいれば、互いの知能は上か、下か、同等か、しかありえない。数学的に。

 リリー博士とその仲間たち、彼らと同時代に生きた大勢のリベラルな西欧人は、動物差別的・性差別的で、人種差別や先住民のジェノサイドに利用されたキリスト教が嫌いだった。軽蔑していた。憎んですらいた。それは決して嘘ではない。

 「男児の包皮に異常な関心を持つ老年白人男性のようなものが土をコネコネして息をプーッとやって人間を創りました」なんて、もはや全然信じていないし、むしろ、どちらかと言えば、信じているような人たちを、金満権力者に騙される貧乏で無学な宗教ウヨクども*10と小馬鹿にしている側の人間だ。

 だがしかし、さらにそのキリスト教の前提となっていた幾つかのドグマ、それがひとつの立場だとか思想だとは夢にも思わないほど基本的な考え方は捨てなかった。

 彼らが無能だったとか嘘つきだったとか悪党だったとかいうわけではない。時代の限界だったのだ。神ならぬ人間には、できることとできないことがあり、持っていると知らない考えを捨てることは、できないことのひとつだということだ。

 次回は、ある有名な本の力を借りて「キリスト教」と「さらにその前提」を分けて考える話をもう少し補強しよう。そしてさらにエントリをさかのぼって扉開けを続けよう。

*1:負の知能というのは――ジョークでそう表現したくなるような人間はいるにしても――意味不明であるので。
*2第1回
*3第34回
*4第23回
*5:もちろん神は動物でもないが植物ではないのはより確実だ。
*6第16回
*7第26回
*8:もちろん、彼女自身が考えていたような意味でも間違っているが、たびたび強調しているように、それはただの後知恵だ。
*9:我々がほとんど無意識的に非人間中心主義的な思想を操れるのは部分的には彼らのおかげなのだと思うと、これまた皮肉な話だが。
*10:もちろんこれは説明を早くするための戯画化であって、一般に上品な彼らはそんな露骨な言い方はしないが。

第35回】 【目次

おまけ

 「ローンブローゾー」

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2011 9/25

イルカと話す日

第34回】 【目次】 【第36回

 さて長かった*1『イルカと話す日』の本文も、ついに今回が最後である。名残を惜しむとともに、抜かりなくここまでのまとめと今後の展望についての準備を始めよう。

第一〇章 生態系の一員としての自覚を持った科学的観察者

 これまで科学者といえば、実験を行ない、こうした実験から自分なりの推論を引き出し、学術論文を発表する者のことであった。(中略)科学者は、学術誌や学会で研究成果を発表するものと考えられてきた。
 こうした方法による科学上の通説の形成過程は、テレビやラジオが登場して公衆と即座にコミュニケーションが図れるようになったことで、いくぶん変化しつつある。(中略)それとはうらはらに、科学者たちの考え方は、いままで変化がみられなかった。すなわち、科学者の義務は、まず同僚の科学者に研究成果を報告することだった。こうしてその研究は質を判断され、他の科学と統合されて、ようやくマスメディアに発表されるのである。
 この手続きを踏まずに、仲間や同僚の科学者の意見を仰ぐことなく研究を発表する科学者は、誰であれ科学者の社会から爪弾きの目にあってきた。(中略)ある科学者の著わした本が、専門の学者の審査を受けずに、定評のある科学専門の出版社からではなく、一般向けの本を手がける出版社から出版されたとする。しかも編集にあたったのは科学専門の編集者ではなかったとする。その場合、こうした研究は黙殺されるのがつねだった。
 ところが一般の読者、つまり科学者でない人間向きに書かれたこうした書籍は、科学者ではない読者のあいだで強い影響力をふるってきた。つまり、通常の科学者仲間のあいだでは伝わらない、数多くの学説が通説として評価を受けるようになり、青少年の教育に欠かせないものとなってきたのである。
 この経路で発表されてきた学説は、多くの人びとから強力な支持を得るようになった。(中略)ついで、こうした学説は、大衆の側から科学者の集団へと逆に伝えられたが、たいていは結束を固めた科学者から頑強に拒絶された。

(中略)

 新しい世代の若い科学者の中には、社会的な参加意識を持つ者もあらわれてきた。(中略)われわれの子供たちは、テレビを観たり、ラジオを聞いたり、大集会に参加したりして成長するが、これらはいずれも十九世紀には存在しなかったものである。より多くの情報が、より多くの方面から迅速に伝達され、若い科学者を育成して、彼らを二十世紀の参加意識を持つ観察者へと育て上げていくことだろう。

  • 「自分の画期的な発見・理論を、頭の古い学者・学会が結託して黙殺しているのだ!」

 というのも、またしてもトンデモ学者の発言テンプレに当てはまりすぎて怖いぐらいだ。

 メディアを通して直接大衆に語りかけることに希望を見いだしているところがとても興味深い。大局的に見て、彼の狙いは大成功を収めたと言わざるをえない。このシリーズは今後かなりの部分を、その成功の結果を追いかけることに費やすことになるだろう。

第一一章 クジラ類を保護する新しい法律の提案――さしあたっての戦略

 神経解剖学の研究の進展により、クジラ類の脳の大きさがさまざまであり、類人猿程度のものから、人問並みの大きさのもの、さらに人間の脳の六倍もの大きさのものまであることがわかった。生物学的研究が進んだ結果、クジラ類が人間の言語に似た、複雑な音声を水中で発してコミュニケーションを交わすことがわかった。人間並みの脳を持つクジラ類の場合、人間とコミュニケーションを取ろうと努力することが確かめられている。

 (中略)

 こうした事実と観察から、次のような法律を作ってはどうかと思う。

  1. およそクジラ類を、人間の所有物と考えたり、産業資源や家畜の一種であると見なしてはならない。
  2. クジラ類には、個々の人間に与えられているのと同じ法的権利を与えるべきである。
  3. 個人または団体に権利を付与して、人間から虐待されているクジラ類のために訴訟を起こしたり、クジラ類の代理人として法廷に立てるようにするべきである。
  4. 科学的研究を振興させ、資金を援助してクジラ類とのコミュニケーション方法を確立すぺきである。
  5. こうしたコミュニケーションが確立されたあかつきには、クジラ類と人間双方の合意にもとづいて、両者のあいだのコミュニケーション活用を保護する法律案を作成し、アメリカ合衆国の議会に提出すべきである。
  6. したがってクジラ類と人類のあいだで結ぶ新しい法律や協定、条約を、クジラ類と協力して研究すべきである。

 いまこそ認識をあらためて、これまでの人類の地球上での生き方が、自己中心的であり、孤立した生き方であったことを認めなければならない。人間がこうした生き方をしてきたのは、自分と同等の大きさの脳を持つ海中の生物とのコミュニケーションに失敗したからである。クジラ類は人間の現実とは異質の現実の中に生きている。人間は独自の言語と社会的能力を備え、一五〇〇万年間かけて淘汰を免れてきた経験で規定されるクジラ類の現実を尊重し、研究するべきであり、その研究結果をまとめて人間の法律としなければならない。

 以上に述べた提案がSF小説じみていて荒唐無稽だと決めつけて、真剣に考えようとしない人がともいるにちがいない。そうした見解を持つ人びとにたいしてはこう答えよう。あなたたちの考え方は、ただ単に脳と地球の生態系に関する無知をさらけ出しているだけなのだと。荒唐無稽だと決めつけてしまえば、この壮大なプログラムから安閑と身を引いていられる。しかし人間は長いあいだ、固い信念を抱いて、頑なな考えにとらわれたために、数々の文明を衰亡させてきたのである。この地上に生きる人間以外の生物の中でも、非常に複雑で古い歴史と倫理を持つ生物とのコミュニケーションの可能性に目を見開くためには、過去から受け継いできた、こうした盲目的な信念を振り捨てることが必要である。

 かっこよく決めてもらったところで、本文からの引用は最後である。

 シリーズの前後に対して有益な部分を、長くなりすぎないように選ぶという制約がある以上仕方がないが、私はこの8回に渡る引用でも、リリー博士の魅力を十分に表現できてはいないと思う。

 この現代の魔導書と呼ぶにふさわしい本の魅力を十分に味わうには、ぜひ自分で手にとってもらいたいと思う。*2

 私の意見では、彼の悲劇は生まれてくる時代を間違えたことだ。彼は、世が世ならイルカをトーテムとして崇める部族の大酋長として何千年も語り継がれる人物になっていたかもしれない、イエスや釈尊やムハンマドと並んで世界の大宗教の祖となっていたかもしれない、真の天才だった。

 実のところ今後このシリーズに、彼以上に独創的な人物も・彼以上のカリスマ性を持つ人物も・彼以上に善意の塊のような人物も出てこない。彼との直接対話がここで終わってしまうのは正直とても残念だ。

 だが、あまり寂しがることはない。ある意味では、このシリーズは今後も最後までずっと彼との対話だとも言えるのだから。

 ここ数年の反捕鯨問題に多少なりとも興味があって報道を追っている人にはわかる思う。宇宙文明に還ったはずのリリー博士の霊は今もなお、シー・シェパードの船長ザ・コーヴの監督彼の元で働いていた飼育係、様々な人々の口を借りて、我々に語りかけているのだから。

 最後なのでもう一度強調するが、ここで「頑なな考えにとらわれ」「脳と地球の生態系に関する無知をさらけ出しているだけ」なのは誰かということを問題にするのはやめよう。それは不毛である。

 1960年代の学者や研究が、2010年代の基準を満たしていないからと言ってそれを非難するのは、織田信長の比叡山焼き討ちを「大気中への二酸化炭素排出に無頓着だった」と言って非難するのと本質的に大差のない、ただの時代錯誤である。

 批判すべき点は、しかもそれが有益であると思われる点は他にある。

 さて、約150年前のアメリカに住む(当時の基準で)リベラルな白人科学者たちは、社会や政治の悪影響を受けない客観的知識を追求した結果、

「黒人やインディアンは脳が小さく、類人猿に近い人間とは別種の生き物で、女性や子供に似ていて、白人に比べて痛みを感じない」

 という科学的事実を発見した。彼らは本当に事実を見ていたのだろうか? それとも、

「ネイティブ・アメリカンのジェノサイドや黒人奴隷制度に寄って立つ自分たちを正当化したい」

 という願望を「自然」という名の鏡に映して見ていただけだったのか? 今日時点では、もはや考えるまでもないことだ。

 一方、約50年前のアメリカに住む(現代の基準でも)リベラルな白人科学者たちは、生態系の一員として社会的な責任を果たそうと努力した結果、

「イルカやクジラは脳が大きく、人間以上の知性を持っていて、言語を話し、太古からの知恵を語り継いで、地球と調和して生きている」

 という科学的事実を発見した。彼らは本当に事実を見ていたのだろうか? それとも、

「先祖の土地を返せといって立ち上がる足も銃を取る手も持たず、バスの席をよこせといって犬をけしかけたりしなくてもよく、曾々祖父さんたちが滅ぼしてしまったインディアンの歌よりも何千倍も古くから歌い継がれてきた地球の叡智を教えてくれる、新しい都合のいい隣人がほしい」

 という願望を「自然」という名の鏡に映して見ていただけだったのか?

 厄介なことに今年は西暦2111年ではなく2011年なので「考えるまでもない」とはとてもいかない。考えるまでもないどころか、多くの人には考え始める材料も動機も与えられてはいないだろう。

 だが、正しい答え――と言って悪ければ100年後に考えるまでもなく選ばれる答え――は、もう明らかだと思う。

 私は博士を「感傷主義者、空想家、物欲しげな思想家であると非難」*3したい気持ちを否定できない。否定すべきでもないと思う。だからと言って、もちろん19世紀のルイ・アガシたちの態度に戻ることもできない。

 真に望ましい道は、おそらくその間のどこかにあるのだろう。それを探ることは博士の悲劇に報いることにもなると思う。

 次回からしばらくリリー博士から得た教訓をまとめて「存在の大いなる連鎖」の概念を確認するとともに、ここまでずっと引っ張ってきたいくつかの問題に、ついに回答を与えよう。

 それが終わったら、またしても脳内タイムマシンの旅を再開しよう。しかし以前も強調した*4ようにここは既に現代だ。一体どこへ行こうというのか? もちろん、未来へだ。SF小説じみていて荒唐無稽な世界から、本物のSF小説の世界へ突入するのだ。

*1:ほぼ間違いなくシリーズ最長である。
*2:ただし間違いなく精神的な劇薬でもあるので、必ず子供の手の届かないところに保管するようにしてほしい。事故が起きても責任は持てない。
*3:参考:第20回
*4:参考:第24回

第34回】 【目次】 【第36回

おまけ

 しんみりしたので適当なおまけが見つかりませんでした。

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2011 8/29

(今日の一コマ)

第33回】 【目次】 【第35回

 前回から3年弱も間が開いてしまったが、何事もなかったように再開しよう。あと2回ほど『イルカと話す日』を続けたあと、リリー博士のまとめに入る。

第三章 クジラ類との異種間コミュニケーションに必要な諸科学

 一九五五年から現在までのあいだに、異種間コミュニケーションを実現するためには、事実や理論を理解するためにさまざまな科学が必要だということが明らかになった。こうした理解を助長する科学は、少なくとも一〇種類(おそらくはそれ以上)ある。
 トマス・クーンが述べているとおり、科学が飛躍的発展を遂げるためには、従来の思考の枠組み(パラダイム)とはまったく異なる新しい思考のパラダイムが形成され、若い世代に教えられることが必要である。そうしてはじめて古いパラダイムはその支持者とともに消滅していくのである。

 パラダイムシフトをやたらと強調する学者はトンデモって相場が決まってるじゃん。なんで大勢がこんなのにコロっと騙されたの?」

 みたいな感想を持つ人も読者の中にはいるだろう。(いてほしい。)そして、そこまで分かる人には、それは因果が逆転した後知恵の発想だということにも気がついてほしい。

 リリー博士のような学者が――イルカ・クジラの話に限らず――過去に大勢いて、そしてさらに大勢の人々がそれに騙されたおかげで、現在の我々が

  • パラダイムシフトをやたらと強調する学者はトンデモって相場が決まってる

 というような知識を持ちえているのだ、と考えるべきだ。

 パラダイムの概念は元々問題が多く、ここではさらに通俗的な述べられ方をしているので、あまりまともに受け取らないようにしてもらいたいが、通俗的だからといって必ずしも間違いとは限らない。

 結局のところ、時代精神というものは、古い考え方を身につけた古い世代が死んでいなくなり、新しい世代に取って代わられることによってしか、本当には変わらないのだ。

 このことは、良くも悪くも、好むと好まざるとにかかわらず、しばしば事実であり、今後このシリーズにとって重要なテーマのひとつとなる。

第四章 クジラ類(イルカ、クジラ)とは何か?

 ある人間が自明と信じて疑わない真の偏見は、しばしば、意識的に強力な主張を行っている時よりも、むしろ一見客観的に事実を羅列しているだけの時にこそ、よく現れる。その好例としてひとつ表を見てもらおう。

 いちいち突っこんでいたらきりがないので、間違っている点や意味不明な点を逐一指摘することはしない。それは読者自身の宿題とする。その能力すら自分にないと思う人は読まないようにしてほしい。

表2_1

表2_2

 ……どうだろう? 個人的に、この表は好きだ。博士が人間やイルカをどのように見ていたのかがよくわかるし、そこかしこから静かな狂気とでも言うべきものの片鱗が伝わってきてゾクゾクする。

 特に「8.戦争も徴兵もない」のくだりなどは、なかなかケッサクではないか*1と思うが、今回一箇所だけ取り上げたいのは、そこではなく、シャチの部分だ。

 シャチの胃からイルカやスナメリが出てきたらなんだというのだろう。「胃の内容を調べたところ、ヌーを食べていたライオンがいた」と記すようなものではないか。頭がおかしいのか? と思うのが「普通」だろう。

 ここで博士の頭がおかしくないと言ったら、たぶん嘘になる。彼はどうも鯨類全体を同種のようなものだと考えているようで、それはいくら当時の基準で最大限の情状酌量を試みたとしても相当におかしい。

 だがしかし、それでもなお、ここには「普通」の現代日本人が一読して感じるであろう印象よりも、かなり深い話が隠れている。

 すなわち動物が他の動物を――人間のことはひとまず考えないとしても――食べるとき、何が何を食べるのが「正常」で「自然な」ことであり、何が何を食べるのがそうでないのか? ということだ。

 この本のまとめのところで近いうちに詳述するが、重要なことなので、一度それまでに自分なりに考えておいてもらいたい。第23回のロンブローゾの発言がヒントになるかもしれない。

 次の第八章は、リリー博士をはじめとする当時のリベラルな科学者および科学的教養を持つ人たちの科学観がよく出ていて有益だと思われるので、やや詳細に紹介しよう。

第八章 科学的観察者の進歩と社会の進歩

 宗教的な世界観は、人間の本能に「人間の中の獣」というレッテルを貼り、これを退けた。人間の性行為、攻撃的な行動といったものはすべて「人間の中の獣」に属するものとされた。他の哺乳類が擬人化され、人問の性格を言い表わすのに用いられた。だらしのない、不潔な人間はブタのようだと形容され、あたかもブタの性格を持っているかのようにいわれた。また「羊のような(気が弱い)」といわれる人間もいた。言葉を換えれば、「(羊のように)気が弱い性格」という場合、それは大半の人間ではなく、羊というものの特性と考えられているのである。すべての動物が人間よりも劣るものとして考えられていた。人間に向かっていわれる、「サン・オブ・ア・ビッチ(犬の子供=畜生)」のような罵声は、動物にたいする蔑視から生まれたものであり、その淵源は人間の中に獣を認める宗教的な物の見方にある。

 事程左様に、リリー博士および彼と同じ時代に生きた多くの人々は、キリスト教を、とりわけその動物蔑視を、厳しく批判した。人間だけが魂を持ち、自明に優れており、だから偉いのだという聖書的・西洋的な思想を、差別的な・劣ったものとして激しく断罪した。

 だからなんだとは言わないが、誰かさんたちとそっくりな意見だな?

 現代の医学は、心は脳の中にだけにあるという点で意見が一致している。現代の見解にしたがえば、観察者や科学者は次のような限界を設けられている。

  1. どの観察者も脳の中に一つの心しか持っていない。
  2. どの観察者も知識に限度がある――経験から得られた知識、実験から得られた知識、理論から得られた知識のどれにも限界がある。観察者が作る現実のシミュレーションは、その人間の現実にたいする観察に限界を設ける。
  3. どの観察者も自分の内面を外界に投影して生きており、自分のシミュレーション・スペース、自分の信念の体系の中で生きている。とりわけ観察者の信念は、彼が観察する事象に制限を設け、彼が真実と考えるもの、努力を注ぐに値するものを限定する。

 ここだけ見ると、単語の選び方などに若干SFくさく感じる部分はあるものの、結構まともなことを言ってるように見える。現代でも賞賛されるべき、知的に謙虚で誠実な態度であるように見える。見えるだけでなく、実際に大部分は*2そうだと思われる。

 この科学的観察者がさらに成長するためには次のような明瞭な必要条件がある。

  • a 各観察者は自己の信念を厳密に点検し、見直しをほどこして、その信念が経験と実験から得られた現実と一致するものかどうかを見定めなければならない。自分を取り巻く社会にたいする信念も再検討して、これまでの社会経験との整合を図らなければならない。
  • b 科学的観察者は人類の脳の発達と他の生物の脳の発達を研究しないかぎり、公平な立場に立つことができない。自分自身の中枢神経系の構造について学習し、その機能と起源を理解し、他の生物の場合と比較してみることなしには、観察者は地球上での自分の位置を的確に把握することはできない。
  • c 現代の科学的観察者は、自分がいまだに発達過程にある哺乳類であるという認識を持つ必要がある。科学的研究は西欧の啓蒙主義の産物であって全能ではない。
  • d 現代の科学的観察者が理解しなければならないのは、自分が、人類と他の生物とが構成する巨大なフィードバックシステムをになう一員だということである。観察者が理解すべきなのは、人類が確立した、切り離された「現実」とは、この社会で承認されている通説によって定義されたものだということである。
  • e さらに現代の科学的観察者が理解すべき点は、人間社会の外部を取り巻く現実が、いずれはその要求を明瞭に提示して、地上に生息するさまざまな生物の将来の発展と衰退のパラメーターを決定するという点である。

 このあたりまで来ると、依然としておおむね現代にも通じる謙虚な態度であると認められつつも、いくつか見過ごせない部分が現れてくる。

 特に強調した部分に見られる「科学は西洋の産物にすぎない」とか「社会と切り離された現実なるものは存在しない」とかいう類の、当時流行した極端な相対主義の言説は、現代では行き過ぎであったと見なされることが多い。

 これはまだ歴史の一ページと言えるほど古い話でもないし、まだまだ単独でも分厚い本が何冊も出ているようなテーマなので、このシリーズでこれ以上つっこんで論じることはおそらくできない。文句があれば聞くが、いったんそういうものだと思ってもらいたい。

 ここでは次のことを再確認してもらえれば十分だ。客観性の軽視をはじめとするリリー博士の様々なおかしさを、ただ彼一人の狂気として片付けてしまうことはできない。当時の思想・哲学全体の傾向の一部分だということを考慮に入れなければ正しい理解はできないのだ。

 こうしてわれわれは、現代の科学的観察者が人類の生物学的構造と進化の過程とを意識しているということを理解する。また観察者は人類の将来の進化について、さまざまな可能性のあることに気がついているが、そのうちのどれが実現するかは、現代の社会の通念がどのような発展を遂げ、どのような構造を持つかにかかっている。観察者はもはや世界中に遍在するわけでもなく、全能でも、全知の存在でもない。彼は全知全能の存在になりたいという望みをあきらめ、世界がこれからも現在の構造を維持したまま構築されうるのではないかという願望も捨てている。
 人間は、自分自身の願望を法律や社会通念の中に投影することをやめなければならない。

 それを自分自身に適用することができていれば……と思わざるをえない。しかし同時に、もしそうしていたら、彼は歴史にあまり独創的な貢献は成しえなかったに違いないとも思う。難しいところだ。

*1:真理だ!(笑)
*2:実を言うとこの中にはひとつ、今まさに激しい挑戦を受けている主張があり、そのことはこのシリーズ全体にも少なからぬ影響を及ぼすのだが、それはかなり後の話。今はまだ気にしないでいい。

第33回】 【目次】 【第35回

おまけ

 学校も試験もない。

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2011 8/27

人間の本性について (ちくま学芸文庫)

 エドワード・オズボーン・ウィルソンのピュリツァー賞受賞作。内容はタイトル通りで、賞に相応しい素晴らしさ。

 私が生まれた年の本だが、いま見てもそれほど古びていない。問題になりそうなほど古いのは、同性愛を擁護するのにヘルパー説に頼っているところぐらいか。

 同じ人間が『創造』みたいなすっとこどっこいな本を書いたとは、なかなか信じられないほどだが、この本のラストには、それに繋がった問題意識がすでに見られる。

 科学的自然主義scientific naturalismの決定的な強みは、その主敵たる伝統的宗教を、物質的な現象としてあますところなく説明してしまうことができるという点にあると言える。つまり、神学が独立した知的分野として生き残れる見込みはなくなったのである。しかしそれでも、宗教それ自体は、社会に重大な影響力を及ぼすものとして、今後も長く存続することであろう。産みの母である大地からエネルギーを吸収したという神話上の巨人アンティオスと同様に、宗教もまた、単に地上に打ち倒されたぐらいのことで打破されるものではないからである。科学的自然主義の精神的な弱みは、アンティオスにとっての大地に相当するような力の供給源を、それが欠いているということに由来している。科学的自然主義は宗教的感情の強固さの唯物学的源泉を説明しはするが、現在のままの形態では、その力を自らの側に引きよせることはできないのである。なぜなら、科学的自然主義の進化的叙事詩は、人間個人の不滅性を否定し、その代りにただ人類という生物種の実存的な意味を示してみせるばかりだからである。ヒューマニストたちが、精神的帰依や自己放棄の強烈な快感を享受することは決してないであろう。科学者たちは、司祭の役目など金輪際果たせるものではないのだ。かくして我々は次の問いに逢着した。宗教の源泉を白日のもとにさらしてしまうこの偉大な新しい企てに、当の宗教の力そのものをふり向けさせる方法が、一体存在するのだろうか。

関連書籍

おまけ

 MMD杯は今回もレベル高かったな。

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2011 6/24

なぜ科学を語ってすれ違うのか――ソーカル事件を超えて

 東大生協で見かけて、あまり期待せずに読書リストに突っ込んでおいたものだったが、予想外に素晴らしかった。

 ソーカル事件に関するものの中では、『知の欺瞞』そのものは別として、私の知る限り一番いい本だと思う。

 いま何やかやで時間をかけられないので、内容そのものには詳しく触れられないが、このあたりの問題に興味のある人には、強くオススメしておく。

参考リンク

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おまけ

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