2017 10/18

第41回】 【目次

 また1年以上間が開いてしまった。このまま年に1回のようなペースだと、100歳まで長生きしても未完に終わってしまいそうなので、なんとしてでもペースを上げようと考えている。

 今回取り上げるのは、今度こそ、押しも押されもせぬSF作家の正真正銘SF小説、ロバート・A・ハインライン異星の客』(1961)である。

 前回同様、いま読んで面白い小説だとは言いがたいので、長くなりすぎるのを防ぐため、大胆に要約・省略しながら行く。

 ネタバレも気にしないので、自分で読む気がない人は、先にあらすじと基本設定ぐらいはWikipedia等で予習してもらいたい。特にハインラインの項目は詳しく、このシリーズの観点からも有益な記述をいくつも含む。

 主人公のヴァレンタイン・マイケル・スミス(マイク)は、第一次有人火星探査のクルーが消息を絶った25年後、第二次探査によって発見された彼らの遺児であり、遺伝的には地球人だが、誕生直後から火星人に育てられ、地球や人間を一度も見たことがなかった。

 第一次クルー達のものだった莫大な株と特許を相続し、さらに法のいたずらで火星全土の所有権を持つことにさえなるかも知れないマイクが、赤ん坊よりも何も知らないと来れば、トラブルが起きないはずはない。このマイクが辿る生涯が、小説の本筋だ。

小説の世界観と時代精神

 まず以下は『自由諸国の世界連邦の事務総長という最高の地位にあるジョセフ・E・ダグラス閣下』(P127)が朝食をとりながら読んでいる電子新聞、という設定。風刺小説としての世界観がよく凝縮されていると思うので、ここは直接引用する。

 太陽の第三惑星は、今日は昨日より二十三万人多くの人間をかかえていた。五十億の地球人口のなかで、このくらいの増加は目だたない。連邦の協力者である南アフリカ帝国は、またしても少数民族の白人を圧迫したと、最高裁に召喚されていた。ファッション界の大御所たちがリオに集まり、スカートの裾が下がるだろうし、へそはかくすようになると発表した。連邦防衛ステーションが空中で動きを見せて、この惑星の平和を乱すものはなんであろうと殺してみせると約束した。コマーシャル宇宙ステーションが、無数の商標の商品の無限につづく騒音で平和を乱している。ハドソン湾岸には昨年の同じ日に移住してきた数より五十万も多い移動住宅が落ちついた。中国の米作地帯は連邦会議で緊急対策を要する栄養失調地区と発表された。世界一の金持ち女性として知られるシンシア・ダッチスは、六人目の夫に慰籍料を払って離婚した。
 新啓示派(フォスタライト派)教会の最高大司教ダニエル・ディグビー博士は、連邦上院議員トーマス・ブーンを導くためにエンゼル・アズリールを指名し、今日中に天の承認が下るであろうと発表。各通信社はそれをまともなニュースとして送った。過去に、フォスタライト派が何軒もの新聞社を打ちこわしたことがあるからだ。ハリソン・キャンべル六世夫妻は、シンシナチ小児科病院で仮親からただひとりの男の嗣子を得たが、幸福なこの両親はペルーで休暇を楽しんでいる。イェール神学大学の余暇芸術教授ホレース・クァッケンブッシュ博士は、信仰にもどり精神価値をつちかえと呼びかけている。ウェスト・ポイントのフットボール・チームのプロ選手の半分が、賭け競技の醜聞に巻きこまれた。細菌戦化学者三人が、トロントで、情緒不安定ということで休職になった。彼らはこの事件を最高裁にもっていっても争うと発表している。連邦最高裁は、合衆国最高裁判所の、ラインバーグ対ミズーリ州の連邦州議員がからむ党大会予選会の件に関する判決を破棄した。(P126-127)

 話の筋に絡んでくるのは「フォスタライト派」だけであり、細かい内容にいちいち論評しないが、人口問題・人種・ファッション・軍事・商業主義・性・宗教・生命倫理・政治、と様々なトピックに対して、作者の抱いている時代精神が垣間見えて面白いだろう。

 このダグラスが、マイクの財産と権利を押さえ政治的混乱を避けるため、彼を替玉の役者とすり替えて、その存在を抹殺しようとするところを、善玉サイドの看護婦ジリアン(ジル)が救出して、アナーキスト気質*1の老学者ジュバル*2の家へ駆け込むのが序盤のプロットである。

火星人とその考え方

今日の一コマ

 マイクを保護したジュバルらは、マイクを通して、火星人について詳しく知ることになる。火星人のキャラが直接本編に登場することはないが、小説全体を通して最重要要素である。

 今日の私達にとっては、「火星人」という単語がギャグやたとえ話以外の文脈で出てくる、ということだけでも、まず驚きだろう。

 意外と最近まで、太陽系の惑星のことですらよくわかっていなかったのだ、と理解するのは、それはそれで面白いことだが、今回の主題とはあまり関係ない。問題はこの火星人がいかなるものとして設定されているかだ。

 卵で生まれ、ニンフと呼ばれる毛羽だらけの球体状の幼生を経て、やがて帆を張った氷上船を思わせる巨大さの成人となる。雌雄同体で、ニンフのうちは全て女性で、成人後は全て男性に変化し、人間的な意味での性の意識はない。

 ニンフは物理的には活発だが精神はごく鈍い。大量にいて大事にはされず8/9*3までは最初の年に死ぬ。たまたま生き延びたニンフは成人に保護され、受胎・産卵を終えると成人に変わるよう指導される。成人は物理的には不活発だが、精神的には能動的である。(P160-161)

 まあこのあたりまではいい。今日たとえばハリウッドでリメイク映画化されるとしたら、火星人の雌雄はほぼ確実に逆の設定にされるだろうし、それも時代精神の興味深い変化のひとつを示唆しているが、今は置いておこう。本当に興味深いのはその先だ。

 数分、あるいは数年間の思索を必要とする火星人は、ただそのまま思索にはいる。もし友だちのひとりが彼に話しかけたいと思っても、その友だちは待つだろう。永遠の流れのなかで、急ぐ理由はありえないし、急ぐということは火星人の概念にはなかった。スピード、速力、同時性、加速、その他の永遠性のパターンの抽象概念は、火星人の数学の一部としてあっても、火星人の感情としてはなかった。反対に人類のたえまのないあせりは、数学的な時間の必要からではなく、人間の性的両極性につきもののいきりたった性急さからきているのだった。(P227)

 成人は長命で急ぐということを知らず、決して争わない。「死ぬ」ことはなく、適切な時が来たら自らの意志で「分裂」(discorporate*4して霊的存在となるだけで、事実上不死である。不要になった肉体は皆で尊敬を込めて喰われる。(P224)

 霊はごく当たり前の存在であり、肉体的に生きている成人より多い。古くからいる上級霊は「長老」(Old One)と呼ばれ、ほとんど全能である。一例として、第五惑星*5は、大昔に、長年かけて住民を悪と完全に「理解」した火星人の長老によって破壊されたことになっている。(P163)*6

 火星には病気も暴力も殺人も犯罪もなく、金銭も財産も政府も税金もない(P251)。長老の教えが完全なため、「宗教」「哲学」「科学」は火星語では不可分で「研究」とか「疑う」という概念もない。(P242)。「創作」という概念もない*7。おそらく「嘘」や「欺瞞」もない。「笑い」もない。(P252)

 生まれたときから火星人に育てられたマイクも、少なくとも当初は地球の常識を一切理解せず、火星人には遠く及ばないものの、多彩な超能力を持っている。

 念動力や空中浮揚は当然できるし、幽体離脱もできる。「悪」と認識したものを四次元の彼方に一瞬で消し去ってしまうこともできる。*8肉体を自由に操作し、脈拍や呼吸をコントロールして仮死状態になったり、感覚を遮断したり、太ったり痩せたり顔つきを変えたりできる。

 他人の視点から見る――考え方のたとえではなく実際に――ことができたり、他人にまた別の他人の視点を見せることもできる。宇宙の法則についても人間の科学者に説明することすら不可能なところまで理解している。

 「なんぼなんでも盛りすぎやろ!」……とツッコまずにはいられないのだが、それもいったん置いといて、『失われた地平線』と続けて読んでもらった*9ので、私が何が言いたいか、わかるね?

 設定の違いのために一見派手になってはいても、ハインラインとその読者達が、火星・火星人・長老に仮託しているものが、ヒルトンとその読者達が、シャングリラ・ラマ僧・大ラマに仮託していたものと、実質的に全く同じだということが。

 そしてもちろん、単に似ているとか、たまたま同じであるのではなくて、ミーム的な意味で前者が後者の子孫である*10ことが。

 もはや地上では見つけられなくなった神秘の逃げ場が、忙しい自分達「西洋人」を省みるための道具が、当時まだフロンティアだった宇宙に見いだされるようになったのだということが。

 最後におまけ的に一箇所引用。

 人間とはなんだ? 羽毛のない二足獣か? 神の姿をうつしたものか? それとも、循環のなかで「適者生存」の偶然の結果なのか? 死と税の相続人か? 火星人は死に打ち勝っているらしいし、人間的な意味での金も財産も政府ももっていないらしい。彼らにどうして税金がありうるだろう。

(中略)

 しかし、火星人の見かたからすると、人間とほかの動物を区別するのはなんだろう? 宙を飛べる種族が(そのほかになにがあるかだれにもわからないが)機械工学なんかに感心するだろうか? そうだとしたら、いちばん高く買われるのはアスワンダムだろうか、千マイルにもおよぶ珊瑚礁だろうか? 人間の自意識? ただのうぬぼれで、抹香鯨*11やセコイア樹がどんな人間にも劣らぬ哲学者で詩人ではないと証明する手だてはないのだ。
 ただひとつだけ、人間がほかに負けない領域がある。殺し、奴隷にし、いじめ、あらゆる方法でたがいに自分たちを耐えられないくらい迷惑な存在にすることに、ますます大きくさらに多くの有能な方法を発明する無限の才能を人間が示していることだ。人間は自分自身に対するいちばん意地悪い冗談なのだ。ユーモアの土台そのものが、そこに――(P251)

 これはジュバルの内省ではあるが、小説全体のトーン、ひいては著者の人間観・時代精神の一面を代弁するものと考えて間違いない。

 この本でクジラが出てくるのはこの一言のみで、他には一切絡んでは来ないものの、高知能説がすでに知られており、謙虚に考えるためのネタのひとつに過ぎずとも、少なくとも真面目に受け取る余地のあるものだったことがわかる。

*1:『彼はときの権力の邪魔をしてやると思うと、わくわくしてくるのだった。彼もアメリカ人すべてが生得の権利とともにもつ無政府主義的傾向を、人なみ以上にもっていた。惑星政府に体あたりすることに、彼はこの世紀にどんなものに対していだいたよりも鋭い熱情を感じるのだった。』(P159)
*2:『弁護士にして 医師、理学博士、善人で美食家、逸楽の徒にしてなによりも人気作家、しかも超厭世派哲学者であるジュバル・E・ハーショー』(P142)
*3:「十中八九」あるいは「大半」の意。中途半端な数なのは火星では3進法らしいため。
*4:まとまった複数部分に分かれるニュアンスが強い「分裂」よりも、「分解」の方が適切に思われる。おそらく(原文の時点で)意識して避けていると思われる既存の宗教用語を含めれば「入滅」が一番妥当か。さらに意味もずらしてよければ「解脱」でもいいかも。
*5:現実の太陽系第5惑星:木星のことではなく、火星と木星の間の小惑星帯が、かつてひとつの惑星であったとする(おそらく正しくない)仮説上の惑星。仮説自体は実際あったもので、この小説独自のものではない。たとえば『星を継ぐもの』でも重要な要素として登場する。参考:仮説上の天体
*6最強議論スレ――厨設定が集まることで有名――でもそこそこ上位に入れそうだ。
*7:『マイクがロメオは実在した人物だと信じているのがわかったし、マイクが彼に期待しているのは、ロメオの幽霊を呼びだして、現世でのその行動の説明を求めることらしいと、どうやらつかめた。(中略)創作の概念がマイクの経験の埒外にあるのだった。』(P192)
*8:実際に追っ手の警官隊やその武器・乗り物を次々消してしまう。
*9:現実時間では1年以上経ってるが……。
*10:ここで都合がいいのは、火星人が実在しないのは、少なくとも今日時点では明白で、このイメージは地球のどこかからきたものでしかあり得ない、ということだ。
*11:今はそれほど重要でないので追及しないが、ひとつ宿題。ここで鯨類代表として出てくるのがマッコウクジラであるのはなぜだろう? それは何を意味しているのだろう?

第41回】 【目次

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2017 6/10

 寄生獣のアニメをやってたときに書いたものの清書です。内容的には上とほとんど変わっていません。TwitterやTogetterもいつまで存在するかわからないので、こちらにまとめておきます。


 『寄生獣』のストーリー展開の変化、作者にすら予想していなかった変化は、進化論のダーウィン以来最も重要な進展をそのまま取り込んでいる。

 ハミルトン革命とか血縁淘汰とか、呼び方はどうでもいいが、要は遺伝子視点での進化の見方と、それに伴う生命と利他行動に対する人間のものの見方の変化だ。

 で以前書いたように、寄生獣オープニングのモノローグと、パラサイトの設定は、まさしくガイア理論のとりわけトンデモなバージョンを連想させるもので、実際そこに着想を得たとしか考えられないものだ。

 要するに、地球(全体)の利益を守るための、地球(全体)に意思のようなものが存在するという発想である。

 いま、それなりの教養のある「普通」の人が、ガイア理論のことを聞くと、どうしてこんなあからさまにアホなオカルトっぽいトンデモが、知的なはずの人々にまでもてはやされたのか、不思議に思えるだろう。

 だが、それは後知恵というやつで、血縁淘汰の理解以前の生物学について知る必要がある。

 ダーウィンの進化論の時点では、DNAはもちろん遺伝の実際の仕組みは不明だった。メンデルの法則が再発見されるのさえダーウィンの没後だ。

 ダーウィン時点で進化論で説明できない(と思われていた)最大の問題は、たとえばハチのコロニーにおける働き蜂のような不妊カーストだ。

 自分で子を作らず、コロニーに尽くし、巣が危機にさらされると自殺攻撃を行う。こうした利他行動は、進化が子孫の変異を通じて起きるものだとしたら、進化できないではないか、というわけだ。

 しかし、進化できないのが問題だと考えること自体が、ある意味進化論になれきった人間の後知恵の見方とも言える。従来は特に問題視されていなかった。集団の利益、あるいは種の利益、言ってみれば「みんなの未来」を守るため、と解釈されていた。

 他にも、たとえば、鋭い牙を持つ狼が、腹を見せて降参するのも、殺し合いを避けて「種の利益」を守るためだとか、鳥が虫を食うことによって虫が増えすぎて森が禿げてなくなってしまうことを防ぐのだ、とかいう言い方も普通にされていたりした。

 抽象的な「種の利益」を守るために「他人」――もちろん姉妹同士であることは認識されていたが――のミツバチ同士が協力したり、森の秩序を保つために多種の生物が協力しあったりしているという、(今日の視点では間違った)認識が普通だったのだ。

 そんな時代には、地球のために生物全体のバランスを保つための仕組み、というのも、それほど馬鹿げて見えなかったのは理解できよう。

 パラサイトが繁栄しすぎた種を食い殺す本能を持つが、自分の子孫を作らない、という設定は、いわば不妊カーストがなんらかの抽象的価値を守るためのものだと認識されていた時代のものだと言える。*1

 さて、もし寄生獣1話掲載時点にタイムマシンで戻って、当時の人に「この作品は完結からずっと後になっても大傑作として広く認知されており、改めてほぼ原作準拠のストーリーでアニメ化されたりしてますよ」と伝えたとしよう。

 当然、その人は冒頭モノローグの「みんなの未来を守らねば」と思った誰かについての話があって、何らかの決着がつけられただろう、と解釈するだろう。その結末を教えてくれないか、と言うだろう。

 ところが、ご存じの通り、この「地球上の誰か」、素朴に解釈すればガイアの意思とでも言うべき存在については、1話以降最後までまったく触れられない。地球の絵によって暗示されるのさえ「この種を食い殺せ」のシーンが最後である。

 広川市長の演説としてかなり不自然な形*2で繰り返されるだけで、そんなモノローグは最初から存在しなかったのごとく、ふっつり消えてしまう。

 にも関わらず、なぜ不朽の傑作たり得るのか? 普通なら「傑作だったけど、風呂敷は畳みきれずに最初の伏線未回収のまま思いっきりすっぽかしたよね」ぐらいのツッコミは避けられないところだろうに、なぜそうならなかったか?

 なぜならば、この作品の連載とほぼ平行して――もちろん時代精神的な大雑把な意味でだが――まさにこのガイア幻想は、ふっつり消えたんだ、そんなものは最初っから存在しなかったのだと。

 そのガイア幻想を消し去った最も重要な要素こそ、作中で田村玲子が聴講している利己的遺伝子の理解と、利他行為(≒共生)およびその逆たる捕食・寄生に対する解釈の変化だ。

 利他行為≒共生(そしていわば共生の拡大解釈の極限がガイア理論)が謎だった時代には、共生は善いことで、寄生は悪いことだと思われていた。

 たとえばアリやハチは集団で協力する働き者の進化した善い生物で、たとえば寄生虫というのは、他者を利用する怠け者の退化した悪い生物であるというわけだ。*3

 言うまでもなく、これらは人間視点での擬人化でしかないわけだが、「擬人化でしかない」と切って捨てられるのは、「では本当は何なのか」ということが、現在ではすでにしっかりと確立しているからだ。

 遺伝子視点での進化の見方は、利他行為の謎を完全に解いた。不妊カーストは不思議でも何でもなくなった。個体に利他行為を取らせる遺伝子は、その遺伝子を共有する血縁を通して子孫に伝わる。個体の利他行為は、同時に遺伝子の利己行為であり、そこに矛盾はない。

 女王蜂と働き蜂との関係は、人間の生殖細胞と手の細胞との関係と変わりない。手の細胞や脳細胞は繁殖しないが、その存在は不思議ではない。手や脳が生殖細胞に子孫を作らせることによって、生殖細胞にある手や脳を作る遺伝子が生き残り、次代の手や脳を作らせるからだ。

 遺伝子視点では、同種の共生が不思議ではないのと同様、他種との共生も特別なものではなくなる。同種の遺伝子プールにないというだけで、ある遺伝子とある遺伝子の利害が一致しているというだけだ。

 アリとクロシジミは何らかの意味で他の(共生しない)生物より偉いわけではない。アリの中のある遺伝子とクロシジミのある遺伝子の利害が一致している――彼らのゲノム内の遺伝子同士の大概と同じように――というだけのことでしかない。

 田村玲子との大学での会話に出てくる「豚と人間は共存していると言えない?」というのはそのあたりの話だ。豚の遺伝子は人間(の遺伝子が作る個体とそれが集まって作る社会)を使って自分を増やす。

 その関係が、手の遺伝子が脳を使い(あるいはその逆)自分を増やそうとする行為より、なにか特別なものと考える必要はない。

 人間のゲノム内にも、出現当初はエイズのような病気であったであろうレトロウイルスの名残と思われるものがたくさんある。

 そうなってくると通常「(寄生生物でない普通の)生物」とされるものは、単に「もはや別々に観察されることがあまりない寄生生物同士の集合」でしかないことになる。

 また寄生生物の研究も進んで、サナダムシやらその他の寄生虫も退化した単純な生き物なんてものではなく、環境と宿主に適用するためとてつもなく複雑な進化を遂げただけなのだと考えられるようになった。*4

 寄生に対する嫌悪感が存在すること自体は、人間(を含む大型動物)にとって不思議でも何でもないことだとしてもだ。

 もう少し身近な話にたとえよう。我々は「腐敗」と「発酵」が、どちらも単なる「微生物の活動」であり、人間にとって都合が良いか悪いか、という恣意的な基準で呼び分けられているだけだ、ということを知っている。

 遺伝子視点の進化の理解によって、「寄生」と「共生」にも同じことが起きた。

 「寄生」と「共生」はどちらも「遺伝子同士の利害に基づく離合集散」であり、人間にとって悪いイメージか善いイメージかというだけで、恣意的に呼び分けられているだけだということだ。

 もちろん微生物の活動を理解したからといって、肉が腐らなくなるわけでも納豆が作れなくなるわけでもないように、遺伝子について理解しても、サナダムシが寄生虫でなくなるわけではないし、蜂が共生しなくなるわけでもない。しかし人間の考えは以前と同じではいられない。

 ちょっと寄生獣から離れすぎたから戻ろう。さっきの「もはや別々に観察されることがあまりない寄生生物同士の集合」という表現、ミギーやその他のパラサイトが徐々に人間社会に溶け込んで目立たなくなっていった、という終盤の表現に通じるところないかな。

 そしてタイトル寄生獣のトリプルミーニング。パラサイト、広川の言うガイア理論的な意味での地球への寄生獣≒人間、ラストの寄り添って生きる獣。最初のひとつのガジェットを通して、二番目の解釈が三番目に移り変わっていく思想史を描くことになった――最初から意図したわけではなしに――と言えるだろう。

 そしてもうひとつ、ラスボス後藤さんについてだ。面白いことに、彼の設定はまさに悪しきガイア幻想のカリカチュア的な存在になっているのだ。複数の生物が、「ひとつの意思」のものに「完璧」にひとつの生物として「統一」され、「完全生物」となる。*5

 取り込まれていたミギーの感想、「意外なことにとても気持ちよかった〜」とかいうのも、より大きなものの一部として何も考えずに過ごすというガイア幻想(というかずさんなホーリズム全般)の持つ魅力を表現しているようでなんか面白い。

 毒物によってその後藤さんの統一が崩れてそれぞれの利害が表に出てきて、最後は爆散するってところも、前に触れた遺伝子視点によるガイア幻想崩壊を連想させるものがないかな。

追記

 元のTogetterに来たものの中で、ひとつだけ重要と思われる指摘について追記する。『寄生獣』以前にもう利己的遺伝子は知られていた、というものだが、もちろんそれは知っている。

 最先端の学説が、学者に広まり、インテリに広まり、一般向けエンタメまで広がって、法律や制度に埋め込まれ、しまいに誰も意識しない常識になるまで、長い時間がかかるものだ。今は「一般向けエンタメまで広がって」あたりの期間に注目しているだけだ。

 エポックメイキングなドーキンスの『利己的な遺伝子』原著は1976年。それでさえ20世紀を通じて発展してきた社会生物学、1970年代に確立した血縁選択説を一般向けにわかりやすく説明しただけ*6で、真にオリジナルなのは「ミーム」を造語したことだけと言われるぐらいである。

 『利己的な遺伝子』の日本語版は『生物=生存機械論―利己主義と利他主義の生物学』の名前で1980年。1989年に『利己的な遺伝子』の邦題に戻して第二版。

 『利己的な遺伝子』の内容を粗雑かつ扇情的に扱った竹内久美子『そんなバカな!-遺伝子と神について』がベストセラーになったのが1991年。『寄生獣』の発表期間は1988年から1995年である。

*1:ただし新一が即座に「この世のもんじゃねーよ」とか反応してるので、すでに現代に近い価値観が混じってはいる。
*2:仮に第1話に遡って描き直せるのであれば、同じ表現にはしなかったであろう、というぐらいの意味で。
*3:特に後者は「福祉に頼る貧乏人は社会の寄生虫である」というアナロジーとなり、重大な影響を及ぼしたが、今回その話はしない。
*4:この辺は『パラサイト・レックス』に詳しい。超オススメ。
*5:戦闘狂であるというところは合わないが。
*6:だけとは言えないと私は思うが。

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2017 5/3

 歴史上「わいせつ」の要件を具体的に示しえたためしがない、というのはよく言われることで、それはそれで正しいと思われる。

 だが進化心理学的視点に立てば「わいせつ」を過不足なく単純に定義することは容易だ。

  • 性が社会≒権力≒年配の男性(の同盟)にとって適切に管理されていない状態

 だ。そもそも具体的にどんな行為や表現であるかは問題ではないのだ。たとえば、

  • 一夫一婦制は社会的にひとつの安定解だから、夫婦間の性は基本的にわいせつではない。
  • 男性の性は、おおっぴらにアピールされて比較されると、年配の男性が若い男に負けてしまうので、露骨な場合のみわいせつである。
  • 男女の利害は一致しづらいので、女性の主体的な性アピールは基本的に――自分ひとりに向けられる場合を除き――全てわいせつである。

 もし、ホモ・サピエンスの祖先が、強い一夫一婦傾向(わずかに一夫多妻)で、メスが群れを出てオス同盟(≒男系)で権力が受け継がれるタイプの類人猿でなかったら「わいせつ」の定義はどんなものになっていただろう?

 これをまともに想像するのは難しい。なぜならすでに現在の「男性」「女性」の心理は、人類の祖先がそのような類人猿だったことと不可分だからだ。

 しかし、進化的に形成された心理が変わらないまま、現在の社会環境が変わったらどうなるかは、考える意味がある。それが実際に起きたことだからだ。

 ここ100年やそこらで、これまでと比べて、社会が家父長制権力的でなくなってきて、同時に女性の政治力が上がってきた。

 男性が実際にやってきたように、女性が自分たちに都合よく「わいせつ」を定義するとしたら、一体どのようなものになるだろう。

 よく知られているように、進化視点で男性の利益を突き詰めると皇帝のハーレムになる。この世で性行為できる男性は自分ひとりでいい。

 男性の皇帝のハーレムにあたる、女性の進化的利益の究極形は、乙女ゲーによくあるように、金と権力のあるイケメンがみんな自分に求婚してくる状態だが、男性との重要な違いは、基本的・相対的に「量より質」になることだ。

 皇帝のハーレムは、どんな美女でもひとりではだめであり、多少それより劣った女性・並程度の女性であっても、追加されるのは普通歓迎である。

 しかし、女性にとっては、究極に金と権力のあるイケメンがひとりいるだけでも、別に構わない。それより劣った男性・並程度の男性が追加されるのは、あまり嬉しくないどころか、むしろ邪魔でさえある。

 女性の進化的利益を最大化するように進化によって形成された心理傾向を正当化するような道徳を、進化心理学を知らない状態で、女性が作るとしたら、どのようなものになるのか。

 自分が求婚を受け入れるような最高クラスの男以外からの性的アプローチはすべて「わいせつ」であると定義することになるはずだ。

 ……はずだというか、それはもう実際に起きたことで、こうした女性主体で定義された「わいせつ」は特に「セクハラ」と呼ばれている。*1進化心理学による、いわゆる後ろ向きの予言だ。

 だから「ただしイケメンに限る」的な皮肉は、確かに一面の真理をついていると思われる。

 「セクハラ」の具体的要件、いつどこで誰がやっても変わらないというような意味でのそれは、「わいせつ」の具体的要件と同様に、誰にも示しえないと思われる。特に誰がやるかが決定的に重要なのだ。

 ただしそれは、歴史的に年配の男性が自分たちの都合のいいように「わいせつ」を定義してきたのと、何も変わらない。

 「セクハラ」の定義の方が恣意的に見えるのは、男性の性は基本的・相対的に「質より量」で、相手の質が重要でない、ということの反映に過ぎない。

*1:もちろん現在の「セクハラ」は対女性限定の用語ではないが。

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2016 10/30

 久々に単独エントリでおすすめしたくなった本。個別には、どれもすでに聞いたこともあるような話ではある。しかし、全部まとめて一貫して説明されると、わずかなりとも世界観を揺るがされるような話でもある。

 アレルギーの衛生仮説はなんとなく外部の細菌・寄生虫ばかりに目が行っていたが、常在菌に関するものである可能性もあるのか。

 肥満や胸焼けはともかく、自閉症にさえ腸内フローラの影響があるかもしれないというのは、にわかには信じがたいほど衝撃的。

 あと、本の内容とは関係ないが、訳者の長崎大学熱帯医学研究所・国際保健分野主任教授は例のアレと同姓同名で実に気の毒。

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2016 7/16

失われた地平線 (新潮文庫)

第40回】 【目次】 【第42回

 あのハンターハンターさえ連載再開するぐらいだから自分も頑張ろうと思ってこのエントリを書き始めたら、書き上がるまでに再び休載してしもた(笑)。まあ仕方ない。始めよう。

 今回取り上げる作品、記念すべき後半戦最初の作品は、ジェームズ・ヒルトン失われた地平線』(1933)である。

 未来・SFの世界にご案内しようとか言っておいて*1いきなり普通はSFに分類される作品ではない。時代も、未来どころかリリー博士の時代から30年ほどもさかのぼる。前回のダライ・ラマの前振りがなかったら、そもそもなんで取り上げるのか全くわからないだろう。

 おまけに、小説そのものは今読んで面白いとは全く言いがたい。適当に最低限のあらすじだけ紹介しながら、このシリーズにとって意味のある点でのみ、少し引用して立ち止まることにしよう。

 物語の舞台は1931年。古い小説にはたまにあるように、何重かの伝聞という形式を取っているが、メインストーリーの主人公はコンウェイというイギリス領事。理想的なイギリス紳士(独身)である。

 彼はバスクール*2という土地に駐在していたのだが、そこで革命が起き、「白人」居住者は軍の飛行機でペシャワールへ避難することになった。

 ところがコンウェイ他4人が乗った飛行機は、操縦士がいつの間にか見知らぬ「現地人」に入れ替わっており、彼らは勝手にチベットの山奥へ連れて行かれてしまう。

 その操縦士すらも心臓麻痺か何かで急死してしまい、途方に暮れた4人は駕籠を担いだ「東洋人」の集団に出会い、シャングリ・ラのラマ教(チベット仏教)寺院へ迎えられる。

 シャングリラという名前について少し調べてもらいたい。後にどれほどの影響力を持ったかについては、モデルになったあたりの地域が実際にシャングリラ市に改名した、という一事をもってしてもわかるであろう。*3

 シャングリラは下界より遥かにゆっくりとした時間の流れる理想郷であった。シャングリラについての描写を2箇所ほど抜粋。

 ところがこのラマ僧院には、そうした中国風の装飾品の他に、まだ注目すべきものがあったのだ。例えば、それの一つとして、すこぶる快適な図書室があった。(中略)そこには世界の代表的な文学作品が洩れなく取り揃えられているばかりでなく、彼の評価の及ばない玄妙珍奇な典籍がぎっしりと並んでいるのだった。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語の書物がふんだんにあり、中国語その他の東洋語の筆写本にいたっては、まず数えきれないほどだった。

(中略)

 とにかくプラトンのギリシャ語原典が英訳のオマー・ハイヤームと隣り合っているかと思うと、ニーチェニュートンと手をつなぎ、トマス・モアがいると、傍らにハンナ・モアトマス・ムーアジョージ・ムーア、おまけにオールド・ムーアまでも揃っているのだった。

 個別の書名や著者名にこだわる必要はない。ざっと雰囲気を掴むだけでよい。

 コンウェイがさらに驚いたことには、その小亭の内部には一台のハープシコードと最新型のグランド・ピアノとが据えつけてあるのだった。(中略)ラマ僧たちは西洋の音楽を、なかでもモーツァルトを、非常に高く評価し愛好しているとのことだった。ヨーロッパの偉大な作曲家の作品は残らずここに取り揃えてあるし、ラマ僧たちのうちにはさまざまな楽器の練達者が何人かいるという話だった。

 お、おう……。

 コンウェイは、シャングリラに滞在するうち、僧院のトップである「大ラマ」に異例の目通りを許される。

 大ラマがシャングリラの歴史を語る。普通に引用していたら長くなりすぎるので、かなり大胆に要約させてもらう。ここから次の引用部までの間、鍵括弧内が原文ママの表現。

 1719年のこと、ペローというカプチン会の修道僧が、ネストリウス派の信仰の名残を探す旅で偶然シャングリラに行き着いた。

 古いラマ教寺院をキリスト教の修道院に建て直して宣教を始め、53歳の時には定住するようになった。ローマから召喚状が来たりもしたが、もはや老齢のため従うことができず、生涯シャングリラに留まることになった。

 98歳の時には仏教の経典を紐解き始めた(最初はキリスト教信仰の立場から批判するためだったし、実際そうしたのだが)。「インド人がヨガと呼ぶ神秘的な黙想修行」の研究を始めた。108歳の時臨終の床についたが、やがて回復し始めた。

 臨死体験で、ある意義深い幻覚をこの世へ持ち帰ったペローは「直ちに厳格な自己訓練を開始し、しかも奇妙なことにも、それと平行して麻薬に耽溺し出した」「いまや谷間の寺院では『感謝聖歌』と『南無阿弥陀仏』とがこもごも洩れ聞こえるようになった」

「そんな馬鹿なことが……」と彼は吃りながら言った。(中略)
「わが子よ、いかがなされた?」
 ゆえ知らぬ情感のため体が震えるのを覚えつつ、あえてその震えを押さえようともせずに、コンウェイは答えた。
「あなたはまだ生きていらっしゃる、祖師ペロー様!」

 200歳を軽くを超えるペロー神父その人であることが明らかになった大ラマが語るシャングリラの魅力。大事なところなので少し長めに抜粋。

 私が描いて進ぜた見通しは、魅力的なものでしょう。ながいながい静謐の境涯にあって、俗世の人々が時計の鳴るのを聞くと同じ気持ちで、それよりもはるかに心労のない態度で、あなたは夕陽の沈みゆくのを眺めていることだろう。時は来たり、年は去り、あなたは肉体的な享楽から解脱して、漸次より厳しい、それでいてそれに劣らぬ満足を与えてくれる境地に入って行かれることでしょう。(中略)あなたは深い静けさを、老熟した叡智を、そして明晰な記憶力の陶酔を味わうことになるなる筈です。そして、なによりも貴重なことは、あなたが『時』を獲得なされるということですぞ。よろしいか、あなたがた西洋の国々が追求すればするほど見失ってしまっている、あの得がたく貴重な贈物を……なのですぞ。まあ、考えてもごらんなされ、あなたは書物を読む時間を得られる……もはや二度と、時間を惜しんで、頁から頁へと拾い読みをしたりすることはありますまい。また、あまり熱中しすぎないようにとの配慮から、なにかの研究を控えるというようなこともなさらなくなるでしょう。(中略)楽譜も楽器もが、妨げられず果てしない『時』とともに、その最も豊潤な香りをあなたに捧げるべく、すべて用意されてあるのですよ。(中略)賢明で波立たぬ静穏な交友、いつもあわただしく人を呼び立てる『死』を恐れることのない、久しく温かい心と心の交わりというものを考えられて、あなたは心をひかれることはありませぬか?

 ひとつめのポイントは、この大ラマことペロー神父の語り、ひいてはジェームズ・ヒルトンが抱き、当時の欧米人が共感したイメージは、かなり普遍的な魅力を備えている、ということだ。

 多くの個人差・地域差・時代差があるにしても、説明する必要のない明白な問題点に引っかかるのは割り引かなければならないとしても、これに魅力を感じ、心をひかれない読者がいようか。(私ももっと書く時間取りたいよ!)

 ふたつめのポイントは、強調部に表れている(西洋)文明批判の側面だ。ここを補完する場面として以下の引用を見てほしい。話の順序が前後するが、シャングリラ到着翌日に4人のうちのひとりが早く帰りたがっている、という場面。

「誰かがよっぽど機敏に立ち回ってくれないと、とても今日中には出発できそうにないな」などと、マリンソンは呟いていた。「あの連中は典型的な東洋人だからね。ちょっとやそっとで事をてきぱき敏活に処理させられるもんじゃないからなあ」
 コンウェイは黙ってその言葉に頷いてみせた。マリンソンはもうイギリスを出てから一年近くにもなるのだ。二十年も東洋に住んでいたとしてもおそらく繰り返すだろう同じ結論に、もうそろそろ到達してもよかろうと思われる頃だ。そして、実際に、彼の言葉はある程度正当だった。ただコンウェイの見るところでは、必ずしも東洋の諸民族が異常なまでに遅鈍なのではなくて、イギリス人やアメリカ人が常軌を逸した熱にうかれて、間断なく地球上を駆けずり回っているように思われてならないのだった。こうした考え方には彼と同じ西洋人たちが同感する筈もないのは、彼にだってわかってはいたが、年を追い経験を積んでゆくにつれて、彼のその見解は強められてきていた。

 この東洋観が差別的だ、というような見ればわかることを言いたいのではない。私たちが過去について誤った期待を抱いていない限り、それは1933年が1933年であるという自明の事実を意味するに過ぎない。

 オリエンタリズム一般について、ここで説明することもしない。例によって、このシリーズの観点から重要な点に絞ってまとめよう。

 この時点において「東洋(人)」は「西洋(人)」に対して、平等な関係・対等の選択肢として存在するのではない。あくまで忙しい自分たち(「西洋(人)」)を省みるための小道具に過ぎない。実際の「東洋(人)」は、ある意味どうでもいいと思われている。

 実際チベットの扱いは極めていい加減だ。私はチベット仏教の教義について何も知らないが、それが「麻薬をやりながらゆっくり西洋の文学や音楽を楽しもう」というようなものではない、と断言しても、文句は来ないと思う。(枝葉末節だが『南無阿弥陀仏』も唱えないと思う。)

 このような「東洋」の扱いは決して珍しいものではなかったし、この作品は、そのような創作の中で最も有名なものでも最も洗練されたものでもない。*4それでも私が時代精神の代表としてこの作品を選んだ理由は、一番最後でまとめよう。

 大ラマは、そもそもコンウェイらが連れてこられたのも偶然ではなく、外部の人間を招くため計画だったことを明かしてくれる。

 まず大体から申して、この土地の高度や其の他の条件に馴らされているチベット人は、外部の人種の人たちほど感覚が鋭敏ではありません。(中略)百歳以上の寿命を保つ者はどうも少ないように思われます。中国人はまだよろしいようですが、それでも失敗する者はかなり多いようです。最も成績のよろしいのが、ヨーロッパの北部の人たちやラテン系の種族でして、アメリカ人もほぼ同じくらい適応性があるのではないかと思われます。

 わっはは、チベット人は鈍いからダライラマに向かないか。中国人に替わってもらった方がましだな。

「その理由は、ちゃんとあるのですよ。(中略)それこそが、この偶然寄り集まった異邦人たちのこの群落にとって、寿命を越えてまで長生きすべき理由のすべてなのです。(中略)われわれには一つの夢があり、幻想があるのです。(中略)かつて一七八九年に老ペローがこの部屋で臨終の床についておったときに、その枕頭を訪れた幻想だったのですよ。(中略)そうした追想を通して彼が感じましたのは、すべて美しいものがはかなく滅びやすく、この世の戦乱や欲望や獣性がいつの日にかそれらをことごとく破砕してしまうかも知れぬ、という憂慮だったのです。(中略)つまり、この世界の国々が、叡智においてではなく、卑俗な欲情や破壊の意志において、次第に強化されてゆくさまを見ていたのです。機械の力が倍加して行って、ついには武装したただ一人の人間が大君主ルイ十四世の全軍にも匹敵するようなことになるだろうことを見て取ったのです。

(中略)

殺人の技術を手にして驚喜した人類が、この世界の隅々まで荒れ狂いまわって、(中略)書物も絵画も音楽も、二千年の歳月を通じて貯えられた、微小で繊細で防御のすべを持たぬすべての宝物が、(中略)破壊されてしまうだろう……とな。

(中略)

 おそらくこの破局は、あなたが今の私ほどの年齢になられるよりも前に、やって来ることでしょうから」
「それで、このシャングリ・ラがその破局を免れることができると、そうお考えなのですね?」
「おそらくはな。(中略)ここには、われわれが育み護って、やがて残し伝えるべき遺産があります。その時がやって来るまで、お互いに人生を楽しみ味わうことにしようではありませんか?」
「そして、その時が来ましたら?」
「その時には、よろしいか、強者どもが相互にむさぼり合って果てたその時には、初めてキリストの倫理が履行され、柔和なる者は幸福なるかな(マタイ伝、第五章、第五節)……ということになるのですよ」

 1933年はヒトラーがドイツ首相に就任しナチスが政権を取った年であり、日本が国際連盟を脱退した年でもあることを参考にどうぞ。

 また、時代の反映であると同時に、時代を越えた普遍的な魅力を備えてもいる。間もなく来る破局、そして復活というテーマは、古くからよく知られているものだ。このミームを受け継いでいる未来の「子孫」を思いつく人も多いだろう。*5

「これから来たらんとしている暗黒時代は、この世界全体を一つの棺衣でおおい包んでしまうのです。遁れる道もなければ、隠れる場所もなく、ただ見出しかねる僻地か物の数に入らぬささやかな場所のみに、助かる見込みが残されるのみでありましょう。シャングリ・ラは、そのいずれでもありうるわけです。大都市に死を運ぶ飛行士とても、(中略)ここを爆弾を一発投下するだけの価値がある土地だとは思わぬでありましょうからな」

 「なんでこいつら最終戦争が起こっても山奥にこもってるだけで大丈夫だと思ってるの? ばかなの? 死ぬの?」と思った人いませんかね? 私は初めて読んだ時に思いましたよ。

 でも、ちょっと考えて気づきましたね。馬鹿は我々の方です。1933年には、核兵器という概念は、一部の先進的な物理学者やSF作家の想像の中にしかなかったのです。死の灰とか核の冬という概念も当然まだありません。この「一発の爆弾」は核爆弾ではなく通常爆弾なのです。

 この場面の直後、大ラマはコンウェイを自分の後継者に指名して亡くなる。小説の筋としては、ここからあともうひと盛り上がりあるのだが、このシリーズの観点からはどうでもいいので無視する。

 まとめに入ろう。

 繰り返すが、東洋(人)観が差別的だとか、見ればわかることを言いたいのではない。80年以上も先から振り返っている未来人である我々の目には、そのような問題点はあまりにも明白であり、大まじめに説明するのは野暮というものだ。むしろ馬鹿にしているのかと怒られかねない。

 何より、そのような問題点に今日一番敏感なのは、日本人以上に、まずガイア教の支持層である欧米のリベラルな人々であろう。

 たとえば現代のワトソン船長がどれほど自意識の肥満した男であっても、自分がダライ・ラマの後継者に指名されるとは絶対に期待していないだろう。もはや馬鹿らしすぎて冗談にもならない。

 それでもこの作品が当シリーズの観点から有用なのは、まさにその古さゆえだ。このシリーズで着目すべき重要な変化――私がガイア教の本質と考える変化――のスタート地点およびそこから向かう方角を、見事に捉えたスナップショットと見なせるからだ。

  • 地上*6に神秘が残されていた最後の時代であるが、それがまもなく消えてしまうのではないかという予感はある。
  • 伝統的な差別――白人種の他人種に対する優越・西洋文明の他の文明に対する優越・キリスト教の他の宗教に対する優越――はまだ自明のものだった最後の時代。だが、それが正しくないのではないかという意識も芽生えている。
  • 第二次世界大戦もまだ起きておらず、核兵器が存在しなかった最後の時代。しかし、文明の全てを破壊するような最終戦争が起きるのではないかという恐怖はすでにある。

 このスタート地点と、今現在あなたが生きている瞬間と、それが書かれた時代を三角測量することによって、これから見ていく作品を、よりよく理解することができるだろう。「オリエンタリズム」の糸においてだけでなく、このシリーズの最後の最後まで重要な視点となるはずだ。

*1第39回
*2:ちょっと調べた限りではどこのことかわからなかった。架空の地名?
*3:ついでに個人的なことも言うと、私はその名を冠するホテルチェーンに何度も宿泊したことがある。参考:シャングリ・ラ・ホテルズ&リゾーツ
*4:たとえばエーリッヒ・ショイルマン『パパラギ』(1920)の方が、どちらにおいても上であろうと思う。
*5:私が真っ先に連想するのは『風の谷のナウシカ』のヒドラの庭園だ。
*6:ここでは「地下・海中を除く地球上」ぐらいの意味。

第40回】 【目次】 【第42回

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2016 3/7

だれもが偽善者になる本当の理由

 最近の話ではないが、『だれもが偽善者になる本当の理由』を読んだ時に思いついたこと。まだかなり曖昧というか本当に思いつきレベルの乱暴な話だが一旦まとめる。

 この本で提唱されている「意識の報道官モデル」というのは、意識の役割は大統領報道官のようなもので、大統領にとって不利な事実は知らない方がいいし、実際に知らされていない、というもの。

 基本的にいいところをついているように見えるのだが、これが本当に正しいとすると、同時に、かなり興味深いことを示唆すると思われる。

 意識とかアイデンティティとか日常的な概念で言われるもの、少なくとも言葉で自分のことを語れるような、なんとなく我々が人間性の本質だと見なしているようなそれは、従来思われていたよりも、ものすごく進化的に新しい可能性が出てくるのではないか?

 「自己」が一貫しているかどうかを気にする他人が誰もいなかったとしたら、「自分」の一貫性について誰かに弁明する必要が、生涯にただの一度もないとしたら、そもそも一貫した(と主観的に感じるだけかもしれないにせよ)何かを(実際に)持っている必要などあるだろうか?

 ないように思われる。

 「自己」とか「アイデンティティ」は、たとえその本質がなんにせよ魔法ではないはずだ。進化によってデザインされ、コストがかかる具体的な何かのはずだ。コストを正当化する理由が何かなければ作られず、維持されない。

 そして、一次元的に定義できるかは別の話として、アメーバは持ってなくて、人間は持っている。では、それはいつからだったのか。なんとなく連続的なもののような気がしてきたが、それが政治的にも正しいような気もしていたが、実はそうではないのでは?

 言語(噂)による他人の評価が行われたり、そこまでいかなくても、ある程度高度な心の理論を持ち、それによって他人を評価するようになるまでは、少なくとも現生人類と同じような意味の、「意識」は持ってなかった可能性の方が高いのでは?

 「自分は他人以上に他人である」というのは、単なるモラトリアムの文学的表現ではなく、まったく言葉通りの事実である可能性が出てくるのでは? つまり自分(自己・自我・自意識となんとなく呼ばれるところのもの)は他人(の心の理論)より進化的に新しい可能性が高いのでは?

 一年前の自分と今日の自分が同じ自分であるというような意味での「自分」という意識は、かなり最近――とは言っても数十万年から数百万年レベルの話だが――まで存在しなかったのではないか?

 まるで『神々の沈黙』の緩やかな、その代わりトンデモではない(かもしれない)バージョンと言おうか、そんな可能性が出てくるのではないか?

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2016 3/2

脳はすごい -ある人工知能研究者の脳損傷体験記-

 こりゃおもろい。久々に脳関連でのヒット。

 原題”The Ghost in the Brain”(脳の中の幽霊)。邦題はちょっと間抜けな感じになってしまっているが、直訳ではわかりにくいし、副題まで合わせて考えると、まあまあ妥当か。

 著者は人工知能研究者。元から知能が極めて高い上に、絶対方向感や共感覚を持っているなど、かなり特殊な脳の使い方をしていたようだ。オーディオオカルトにはまっているようであったり、神秘体験をしたことがあったり、事故前からいろいろ変わっているところもあった模様。

 交通事故による脳震盪によって、モジュール間の連絡に様々な不都合が生じ、世にも奇妙な症状が生じるが、視覚を通じた介入と訓練によって、そこから回復する。

 メガネとパズルによって壊れた脳が回復しました、なんて、予備知識がないとトンデモ代替医療かと思ってしまうであろうほどの超展開である。

 多くの抽象思考が、視覚処理とそのアナロジーに依存しているというのは面白い。発生学的には、眼は外に飛び出した脳そのものだ、というような言い回しはよく聞くが、それを別の方向からも裏付けるような話である。

 脳のとてつもない複雑さと、それが曲がりなりにも正常に機能しているということが、どれだけありがたいかということを、思い知らされる。

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2016 2/16

脳が認める勉強法

 タイトルから期待されるハウツー的なものよりも、脳科学というか学問寄り。とても分厚くて冗長。悪い内容ではないと思うので、自分用に超要約しておく。

1語で要約

 「変えろ」。

1行で要約

 絶えず環境・やること・やり方を変えろ。脳は差分を記憶する。

4行で要約

 まずはすぐ取りかかり、飽きたらすぐやめろ。場所を・道具を・時間を・BGMを変えろ。詰め込んだら自己テスト、テストで考え込まずすぐ答えを見る、という具合にやることも変えろ。連続して繰り返しても実は変化がない。分割し間を置いて反復せよ。よく勉強し・気分転換し・寝ろ。

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