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2008
11/25
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【第32回】 【目次】 【第34回】
前回でリリー博士に関しては最大の山場を越えたが、まだいくつか興味深い部分が残っているので『イルカと話す日』から抜き書き風に進めよう。
第一章 イルカに関する新学説の展開
イルカに関する学説を最初に記録したのはアリストテレスである。その著作『動物誌』の中で、アリストテレスはイルカに関して鋭い観察を数多く書き記しており、イルカが胎生であること、授乳すること、呼吸をすること、水中で音をやりとりしてコミュニケーションを交わすことなどを述べている。
これは本当。さすがは万学の祖と言おうか、一般の学者たちがアリストテレスの観察に追いつくには、その後1800年ぐらいかかっている。第17回で少し言ったが、知識が時間を追うごとにどんどん進歩するという常識は、近代以前に関してはあまり通用しない。
アリストテレスはさらに「少年たちとイルカとはおたがいに愛情を抱いている」とまで述べており、背中に少年を乗せて海中を泳ぐイルカの話を紹介している。(中略)現代になってこのアリストテレスの観察の正しさは裏づけられたが、それは私がイヴァン・トースと一緒に、彼の映画『フリッパー』をバハマ諸島で撮影中のときのことだった。
(中略)
私たちが水に入るとすぐにイルカたちは近づいてきて、二人の少年たちは母親イルカの背びれのうしろに乗れるようになった。母イルカは二人を乗せて海の深い方まで連れていくと、水中に潜ってみせたが、二人の息が切れる前に水面に上げてやり、また海岸の端の浅瀬に送りとどけた。(中略)その結果は映画『フリッパー』全編と、同じ題名のテレビの連続番組(邦題は『わんぱくフリッパー』)にうかがえる。こうしてアリストテレスの観察の正しさは証明されたのである。
私たちは水中で人間に遭遇した現代のイルカが、二〇〇〇年前のイルカと同じ行動をとることを明らかにした。紀元前四〇〇年頃から一九六二年まで、イルカと人間の関係は変化していないのである。その間実に二〇〇〇年以上もの時間が経過しているのだ。アリストテレスのイルカについての学説は、海で本物のイルカを観察したことが基盤になっている。アリストテレスのイルカについての記述のほとんどが正しかったことが今世紀に入って確認されている。しかしそれ以前、彼の観察は疑いの目で見られていた。
リリー博士の名は知らなくても『わんぱくフリッパー』を見たり聞いたりしたことがあるという人は珍しくないはずである。彼が作ったものと知ってショックを受ける人もいるかもしれない。
後で見るように彼の思想は(それなりに)真面目な学問の世界にも少なからぬ影響を残したが、今日のガイア教にはむしろこうした大衆文化を通じて与えた影響の方が重要である。*1
それにしても、イルカ・シャチのショー及びその映像に慣れ親しんでいる我々の感覚からすると、イルカに乗る人間が数十年前までファンタジーと見なされていたというのは、とても不思議な気分だ。
我々は彼が作った――重要とは言えないまでも決して無視できない一部分を――世界の中で生きている。あまりユリカさんを笑えないようだ。
少年たちがイルカに乗るところを自分の目で観察しておきながら、それを信じることができないなどというばかな話があるだろうか。こうした権威主義的な物の見方はいまでも横行していて、イルカについての研究を阻んでいる。
十九世紀の終わりから二十世紀の初めにかけて、いくつかの水族館がイルカ類を飼育していた。ビクトリア期のイギリスではイルカのショーが禁止された。イルカの性行為を一般公開してはならないというのが禁止の理由であった。どうやらこのイルカたちは、今日水族館に入れられたイルカ同様にさまざまな形の性行為をしきりと見せたようだ。
この記述だけで言うわけではないが、リリー博士のイルカの性に関する描写からは、彼が性的に自由奔放であることを「善い動物」の属性と見なしていることは明らかである。
仮にイルカが、長い婚約期間や複雑な求愛儀式を要求し、飼育下では絶対に交尾などしないような「お堅い」動物――実際にそういう動物は珍しくないのだが――だったらそのエピソードを同じように本で取り上げたか?
そもそもそんなイルカを好きになって、人間以上の知性を持っているかもしれないと考え、研究するようになったか? もちろん憶測にしかならないが、私は疑問だと思う。
これもまた彼の属したニューエイジ的文化の特徴にフリーセックスが含まれていること*2を踏まえていなければ意味不明になってしまうところだ。
皮肉ではあるが、彼の言うとおりだ。時代に応じて変わったのはイルカではない。ロンブローゾがかつてそうしたように*3、そして我々が現在もそうしているように、人間が勝手に擬人化して、その時々の文化的基準を自然・動物に投影しているのである。
このことはまたリリー博士も時代の子であり、ただ単に狂っていたわけでも本当に異星文明からやってきたわけでもないことの傍証ともなるだろう。我々の倫理観はリリー博士のそれとは様々な点で違っているかもしれないが、ビクトリア朝のそれに比べれば、互いに遙かに似通っているのだ。
第二章 実験で得られた新学説
セント・トーマスの研究所が完成した頃、人類学者のグレゴリー・ベイトソンがイルカの研究に興味を示してきた。ベイトソンはセント・トーマスへの移住に同意し、研究所の運営にたずさわった。(中略)ベイトソンは研究所に一八ヶ月間勤務して、三頭のイルカの行動を観察し、いくつもの重要な発見をした。
グレゴリー・ベイトソンって知ってるか? ポストモダン界隈ではむしろリリー博士より有名な人物だ。彼はこのシリーズにそれほど重要な役割は果たさないが、そのベイトソンの妻はかの有名なマーガレット・ミードなのだ。
後でもう少し詳しく取り上げるように、いわゆる「マーガレット・ミード的」な原始社会および性に関する見方は、世界中のリベラルな人々の間で広く受け入れられ、ピークはとうに過ぎたとは言え、現在もガイア教の重要な構成要素となっている。「世間は狭い感」*4を感じてしまう場面である。
『人間とイルカ』は一九六〇年に執筆された。アメリカで出版されたあと、この本は数ヵ国語に翻訳された。ロシア語訳はロシアの科学者や大衆のあいだで広く読まれ、漁業大臣が黒海とアゾフ海でのイルカの捕獲を禁止するほどであった。フランス語版(“L’Homme et Dauphin”)が出版されたことで、ロベール・メルルの『イルカの日』が生まれた。この小説はおそらく私たちの研究をもとに書き上げられたものである。その後、一九七〇年代になって、この小説はアメリカで映画化された。(中略)一九六六年、私は『イルカの心』を執筆し、私たちの研究の進展を詳しく述べ、多数の科学論文をも掲載した。
いい加減信じてもらえるようになってきたと思うので言うが、リリー博士は当時、決して異常な例外でも孤立した狂人でもなかった。私が叩きやすい対象としてわざわざ可哀想な老人を捜してきて晒し者にしているわけではないのである。
逆に、今まで私に対してこの程度の疑いも持っていなかった人はちょっと人が良すぎる。そんな人は今は私の意見に賛成してくれても、別の誰かに別のうまい話を聞かされたらまたコロッとそっちに転ぶに決まっているので、私にとってあまり有り難い読者ではない。
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おまけ
イルカ→ジャンプ→飛び込み



木戸孝紀
今日の一コマが面白すぎなんですがww
なんですこれ。
>yamadanさん
1844年パリと書いてあるので、おそらくそこの教会によって書かれたもの。
イギリスじゃないけど、ビクトリア朝の性倫理で思い出したのがこの画像だったもので。
白豪主義オーストラリアと反捕鯨 youtubeからニコ動に転載分
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1976307
まぁまぁ反響があったみたいっすね。どういう意図で編集されたかにかなりよるけど、日本人にもわかりやすい。でも、ニコ動のコメントを見る限りでは捕鯨自体に深く考えているやつはいない感じ。「お前らの方が残酷」言ってるのに対してそーだ、そーだ、言ってるだけ。まぁそれが普通でしょうな。
あと、クジラ料理の体験版なのかフルコースなのかはっきりしてほしいっていうか、絶対MAD素材逝きだろうコレ・・・・・
かなりはしょって言ってしまうと、キリスト教もイスラム教も、基を辿れば道徳です。
仏教は少々異質ですが、こちらも深い意味では究極の道徳です。
神道はかなり異質ですが、やはり突き詰めると道徳であることが分かります。
ガイア教がどういった思考に立脚しているか、回が進むほど散っているように感じ、読む気力を失ってきました。
哲学や倫理・宗教において、難しく捉えることは容易です。
日本の伝統では、極めて短い言葉で本質を捉える事をよしとします。
宜しくお願いします。
一筋縄でいかない問題には、しばしば、
簡潔で気持ちがいい間違った答えと、
難しく不愉快で正しい答えがあります。
私が書きたいと望んでいるのは、もちろん後者です。
前者を提供してくれる場は、すでに他に山ほどあるので、
そちらが欲しければそういうところに行くのがよいでしょう。
……まあこれだけでは突き放しすぎと思うので、
あなたの好きそうなポイントだけ書くと、
全ての善さと偉さが神GODの作った厳格なヒエラルキーに
由来するという一神教的道徳と、みんながなあなあと
仲良く和気藹々としてればそれでよしという日本
(だけではないが)的道徳は違う、ということです。
でも、それぐらいのことはもう知ってるんだよね?
問題はその先です。私がブログタイトルに選んだ
標語をごらんあれ。
はじめまして。コラムを一通り読ませていただきました。
目からウロコが落ちると共に、日本人の立場から陥りがちなミスを
戒めねばならん話が多いとしみじみ感じた次第でございます。
最近木戸さんが書かれたベルガリアード物語のエントリで
LoTRに言及された際にふと思いついたのですが、
指輪物語やシルマリルの物語に登場するエルフという存在や、
アルダという世界観も、トールキン教授の敬虔なカトリック信者としての
古いキリスト教的願望をかなえつつ、「クジラ」や「存在の大いなる連鎖」を
提示しているように思えてきました。
ヒッピーがベトナム戦争中、「ガンダルフを大統領に!」というスローガンを
上げていたのはより直裁な証拠になってるとおもいますが。いかがでしょうか。
>なまくらさん
第24回あたりで大雑把に言ったように、
キリスト教否定(異教)願望を叶えたいという
切実な需要がまずある。
それを、キリスト教徒が効率的に、つまり
精神的負担少なく達成するにはどうしたらいいか。
ありうる方法は、表面的には無数にあるけど、
本質的にはひとつしかないんだね。
本当に重要なコアの部分は変えないまま、
表面的に異教的なものを沢山まとうことだ。
ガイア教と指輪物語的なファンタジームーブメントを、
同じ戦略の別の現れと見なすことは、
できなくはないと思う。
本編で出てくる予定は全くないけど、
考えの方向性は悪くないんじゃないかな。
肯定的な見解を頂けてうれしい限りです。
実際のところ、トールキン教授の神話体系にはキリスト教的願望以外にも
教授の古典及び言語学者としてのこだわり、その他多くの人生経験が絡んでいて
それらにも言及しなければ全貌は把握できないと思うのですが、
自分が読む限り、アルダの神話が実に多神教の皮を被った一神教であること、
サルマンを科学技術による環境破壊の権化そのものと見なして
物語上の文脈はおろか語り言葉ですらも徹底的にこき下ろしている点などは
ガイア教の要素が濃いものと考えていました。
木戸さんの理論で補強しつつ、
今後自分なりに分析を形にできればと思っています。
アドバイスありがとうございました。
肯定的な見解を頂けて、さらに自分なりの分析の目処が立ってきました。
実際のところトールキン神話には、教授の古典、言語学者としての知的試みを
筆頭に多面的な要素があると思うのですが、例えばその言語の側面にすらも
20世紀前半西欧当時の言語学の主流的考え
──言語には優劣があってそこから文明の成熟度合いが明らかになる
といったまさに「人間の測りまちがい」が絡んでいると考えています。
これらをさらに発展させることで、
創作面において自分なりの結実が得られそうです。
アドバイスありがとうございました。