2010 5/30

(本文とは無関係)

 最近読んだ本、またはずっと紹介したいと思っていた本の中から、個別エントリにするタイミングがなさそうなものを、まとめて一挙紹介。

 ★は1-5個でオススメ度。人に薦める価値がまったくないと思うものはそもそも取り上げないので、1個でもつまらないという意味ではない。

『「標準模型」の宇宙 現代物理の金字塔を楽しむ』★

 ブルース・シューム著。ゲージ理論とか真面目に解説している一般書って貴重なのではないかと。エミー・ネーターは確かに知っとくと通っぽい感じの名前なので憶えておくといいかも。

『地球全体を幸福にする経済学―過密化する世界とグローバル・ゴール』★★★★

 ジェフリー・サックス著。原題”Common Wealth: Economics for a Crowded Planet”。まあ常識的に非常にいい内容。

『完全なる証明』★

 マーシャ・ガッセン著。ポアンカレ予想よりもグリゴリー・ペレルマンに焦点を当てた本。特にソ連の数学事情の部分はあまり知らなかったので面白かった。

『進化とゲーム理論―闘争の論理』★★

 J・メイナード・スミス著。古い本だけど古びてはいない。『囚人のジレンマ』を読んでもうちょっと詳しく勉強したいという人向け。

『合理的な愚か者―経済学=倫理学的探究』★

 アマルティア・セン著。やっとどういう分野の人なのかわかった。やや専門的なので初めての人にはおすすめしない。近い分野で入りやすいのは『選挙のパラドクス』あたりか。

『量子が変える情報の宇宙』★★★★★

 ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー著。これはよい。一般向け啓蒙書としてここまで完成度の高いのは久しぶりに見る。一応情報理論が中心ではあるが、実際に扱う範囲は科学・数学のかなり幅広い分野に及ぶ。敷居も低めなのでどんな人にもおすすめ。

『彼女の「正しい」名前とは何か―第三世界フェミニズムの思想』★★★

 岡真理著。女性器切除の件でリンクだけ載せた覚えがあるが、他の文脈で出てくる予定があるのでちょっと先回りしてここで一回おすすめしとく。特にいいと思っているのが、P200-215の「蟹の虚ろなまなざし」についての部分。

『新装版 日本語の作文技術』★★

 本多勝一著。確かに、こういう作文「技術」を学校でやった記憶はまったくない。やった方がいいんじゃないだろうか。中高生ぐらいの時に読みたかった。

『心の発生と進化―チンパンジー、赤ちゃん、ヒト』★★

 アン・プレマック、デイヴィッド・プレマック著。タイトルの通りの内容。冒頭などにある人類学の情報が若干古くなりかけているような気がするが、メインの内容はよい。

『自由は進化する』★★★

 ダニエル・デネット著。『スウィート・ドリームズ』の件で読んでいたのを思い出した。非常に微妙な内容で全面賛成とも言えないのでまだ言及していないのだが、一読の価値は確実にあるので先に紹介だけしておく。巻末にある山形浩生の訳者解説から読み始めることを強く勧める。

おまけ

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2010 5/29

スウィート・ドリームズ (NTT出版ライブラリーレゾナント059)

 目下バカ検知ワードとして大活躍中の「クオリア」についての議論。

  • 分子やエネルギーについて何もわからなかった頃の「フロギストン
  • DNAや酵素について何もわからなかった頃の「生気
  • 素粒子や時空について何もわからなかった頃の「エーテル

 などと同様に、まだ神経や脳について詳細がわからない時代であるが故に抱くことが可能であるだけのどうでもいい概念だというのが著者の立場。

 内容そのものは特に珍しいことはない。むしろ、それ以外の立場がこうしてまだ真面目な議論になるほど生き残っているのだということを奇妙に感じた。

 やはり現在は、脳が理性と神秘と境界線上に載っている過渡期なのだろう。

参考リンク

関連書籍

おまけ

 夢→『パプリカ』

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2010 3/3

(本文とは無関係)

国民の「幸福度」を調査へ=新成長戦略の指標に?政府

2月28日14時3分配信 時事通信

 鳩山由紀夫首相は28日、首相公邸で菅直人副総理兼財務相や仙谷由人国家戦略担当相らと会い、新成長戦略の具体策取りまとめに向け、国民の「幸福度」を調べる方針で一致した。具体的な調査項目を詰めた上で、3月初めにも着手する。
 会談後、仙谷氏は公邸前で「単なる数字のGDP(国内総生産)だけじゃない成長をわれわれがどうつくっていくのかと(いうことだ)」と記者団に述べ、新たな指標として検討していることを明らかにした。
 「幸福度」については、昨年12月にまとめた新成長戦略の基本方針でも「国民の『幸福度』を表す新たな指標を開発し、その向上に向けた取り組みを行う」と盛り込まれた。 

国民の「幸福度」を調査へ=新成長戦略の指標に?政府(時事通信) – Yahoo!ニュース

 何もしないよりはいいことだと思うから否定はしないけど、どうしてもリアル『パラノイア』という皮肉が出てこざるをえないなあ。

 原文が手元にないので孫引きだが、

幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある。

(Anna Karenina by Leo Tolstoy トルストイ『アンナ・カレーニナ』: tomokilog – うただひかるまだがすかる)

 というトルストイの有名な言葉がある。この言葉は、不幸(な家庭)に目を向けようという文脈では価値があると思うが、私の考えではまったくの間違いだ。事実はまさにその逆である。

 今ググったら発見した。また孫引きになるが天声人語で逆転させた言葉がすでに言われていたらしい。

幸福はさまざまだが、
不幸は驚くほど一様である

(朝日新聞、2002年11月19日)

(名言集>ヒントの名言>幸福はさまざまだが、不幸は驚くほど一様である)

 もちろん、不幸も多様である。それは言うまでもない。しかし、いくら多様といっても、古来八苦などとまとめられる程度のパターンしかない。

 幸福の多様さに比べたらまったく単純そのもの。幸福がどんなものかは、人によって千差万別だからだ。

 幸福を調査するとか測定するとかいうことが滑稽に感じられるのは、まさに調査や測定というのは、幸福の多様性にもっとも馴染まない行為だからではないのかな。

参考リンク

おまけ

 しあわせって何だっけ→ポン酢醤油はキッコーマン

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2009 8/20

パンセ (中公文庫)

 人間は自然のうちで最も弱い一茎の葦に過ぎない。しかしそれは考える葦である。これを押し潰すのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれを押し潰すときにも、人間は、人間を殺すものよりも一層高貴であるだろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれらについては何も知らない。

 それゆえ、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆえ、われわれはよく考えるように努めよう。そこに道徳の根源がある。

パスカルパンセ』)

 考える葦――私が私の尊厳を求めるべきは、空間に関してではなく、私の思考の規定に関してである。いかに多くの土地を領有したとしても私は私以上に大きくはなれないであろう。空間によって、宇宙は私を包み、一つの点として私を呑む。思考によって、私は宇宙を包む。

(パスカル『パンセ』)

 時間ないので『紙』のゴミ箱から没ネタ救済キャンペーン実行中。あーやっぱりパンセはいいよパンセ。

おまけ

 パンダもいいよパンダ。

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2009 5/28

人間の境界はどこにあるのだろう?

 詳しくはshorebirdさんのところを参照してほしいのだが、私も長谷川眞理子先生訳と書いてなければ手に取らなかったような気がする。内容的にも訳者あとがきのところが一番有益だったような。

 どうも『ゲノムと聖書』に似たような「西洋思想の枠組みからは絶対に出ないぞ!」というマイナスの決意みたいなものがちょっと鼻に付く。

 『ゲノムと聖書』同様に、最初からキリスト教と西洋思想の伝統にしがらみがない人には大いに価値が薄れると思う。この分野には、

 と、先におすすめすべき本が沢山あるのでまずはそれらから。

おまけ

 人間の境界→不気味の谷現象……ってレベルじゃねーぞ。(ある意味ホラー注意)

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2009 4/14

TAP (奇想コレクション)

 久々にグレッグ・イーガンの短編集。やっぱり現代最高のSF作家と言われるだけのことはある。『TAP』『銀炎』『ユージーン』の3作は思想といい知識といいネタといい、この人らしさがよく出ていて私は好きだな。おすすめ。

『新・口笛テスト』

 一度聞いたら絶対忘れない曲を計算で編み出す方法が発明された。星新一を連想させるコマーシャルネタ。まあまあ面白い。

『視覚』

 撃たれた後遺症で常に主観的に幽体離脱状態になってしまった男。『脳の中の幽霊』でも読んだのかな。面白さはいまいち。

『ユージーン』

 宝くじに大当たりした夫婦がちょっと怪しげなデザイナーベビー業者にかかろうとするが……そこに意外な展開が。面白い。

『悪魔の移住』

 外にいるだれでもいい。思いやりというものを見せろ、あたしを殺しに来い。

 から始まり全編一人称で語り通される話。面白い。

『散骨』

 これはSF要素なし。普通にホラー。面白さも普通。

『銀炎』

 内側から皮膚を剥がれるようになって死ぬ怖ろしいウィルス性伝染病。その謎を追っていくと遭遇する本当の恐怖。これもかなり面白い。

『自警団』

 これもSF要素なし。普通にホラー。面白さはいまいち。

『要塞』

 あからさまな移民排斥運動に隠れて気づかぬうちにもっと別の要塞が築かれているとしたら……どうだろう。『繭』の前身みたいな話か。面白さはそこそこ。

『森の奥』

 ボスのカネをちょろまかして殺し屋に始末されそうなハッカーがすすめられた神経インプラントの効果は……。イーガン作品おなじみのガジェットだが、この作品自体はいまいち。

『TAP』

 ある神経系の状態を丸ごと一つの単語のように伝達し、感じたり分析したりできる総合情動プロトコルTAP。あるTAP詩人の死を追っていくと、子供にTAPをインプラントすることの是非を巡る問題と意外な繋がりが……。表題作になるだけあってかなり面白い。

関連書籍

おまけ

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2008 12/20

地球

 科学の公理の話の補足的なもの。

 たとえばオッカムの剃刀のような話は、哲学者がこねくり回して遊ぶものであって、現実には全く、あるいはほとんど関係ないと思っている人がいるかもしれない。

 だが、全然そんな事はない。しばしば科学の進歩の代表例みたいな扱いを受けている天動説地動説のどちらが正しいかという問題だって、それなしには決められないのだ。

 たとえば、元の元のページを見つけられなかったので孫引きだが、相対性理論を習うと、

 地球から見ると太陽が動いて見えます.太陽から見るとおそらく地球は動いて見えると思います.一般的に言われている「地球は太陽の周りをまわっている」という現象は一体どこから見ているんでしょうか?絶対的な基準となる神様の視点みたいなやつがあるんでしょうか?

(Life is beautiful: 天動説と地動説)

 と、いうような疑問が生まれることがある。

 この質問に対して「本当は双方が共通重心の周りを回っているのです。」と答えるのはもちろん正しいが、おそらく元の質問者の意図はそういうことではない。

 相対性理論を勉強する頃には、共通重心云々についてはたぶん理解しているはずで、質問者は、宇宙に絶対座標が存在せず、相互に変換可能という意味で同等な記述が可能なのに、

  • なぜ「地球の周りを太陽(との共通重心)が回っている」のではなく「太陽(との共通重心)の周りを地球が回っている」とされるのか?

 が知りたいのだと思う。そうであれば答えはこうなる。

 その通りです。宇宙に絶対座標は存在しません。「地球の周りを太陽が回っている」という理論は全く正当です。ただし、その場合、観測事実と矛盾しないようにするためには、

  • 他の惑星や銀河の全てを「ちょうど(本当は)太陽の周りを地球が回っているとでも言いたくなるような軌道」を取らせるように動かしている摩訶不思議な力

 の存在を新たに仮定しなければなりません。もちろん、その摩訶不思議力がなぜ水星でも金星でも木星でも火星でも月でも他の星でもなく、地球を特別視して働いているのかの理由も仮定する必要があります。

 したがって、我々は思考節約の原理、すなわち同じ事実を説明できる理論が複数あるときは仮定の少ない方を採用すべきである、という原則に従い、どちらも同等に観測事実を説明できる、自己矛盾のない二つの理論、

  1. 「太陽の周りを地球が回っている」
  2. 「地球の周りを太陽が回っている」+「全宇宙に摩訶不思議力が働いている」

 のうち前者を正当と認めるのです。

 地動説が正しいと言うのは意外に難しいのである。この質問の主はなかなかいい着眼点をしている。むしろ相対性理論を勉強したのにこのような疑問が生まれなかった人は、自分はまだ相対性理論をよく分かっていないのではないかと疑った方がいいのではないかと思う。

おまけ

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2008 12/6

(本文とは無関係)

1.専門家団および公共性の軽侮

 ある人が家に入ってくる。机の上の財布をポケットに入れ家を出て行く。この行為は正当か?

 この問いには、イエスと答えるのもノーと答えるのも馬鹿げている。その家がその人の家であるか、そうでないかによる。前者ならその人は財布を忘れた人であり、後者ならその人は空き巣だ。その前提を知らないままでは正当も不当もありえない。何の話かといえば、

 これの話。例によって出遅れているため、もはやあまり言うべきことは残ってない気がするが、残った部分にちょっと興味のある部分があるので、まずはそこ以外の部分の整理、地ならしに努めよう。

 医者団が執刀中の手術室に物理学者がいきなり入ってきて「人体なんて原子の塊に過ぎないのにわかってないお前ら馬鹿」と言ったら叩き出されても仕方がないと大抵の人は思うだろう。医学物理学歴史学とポストモダン的認識論に置き換えても同じことだ。

 東浩紀の言っていることは正しいと擁護する人は、このたとえ話において「物理学者の言ってることは間違ってないよ。人体は原子からできているよ。そんなこともわかんないで叩き出すとか、やっぱり馬鹿だろお前ら」と言っているに相当する。これは擁護になっていない。元の誤りをそのまま繰り返しただけだ。

 「究極の真理などというものはない」というようなことは、18世紀ぐらいに確立した話でポストモダニズムではない。今日人体が原子からできているのが常識であるのと同様、それは近代以降の哲学の基本である。医師団の中には人体が原子が集まってできていることを忘れている医師もいるのかもしれないが、そんなことは手術中はどうでもいいことだ。

 物理学者が叩き出されるのは「人体が原子の集まりである」という彼の命題が誤りだからではなく、それを執刀中の手術室にわざわざ入ってきて言うことが、医師団と医学を愚弄し患者を危険に晒す行為だからである。言っている内容は間違っていなくても、言う時と場所が間違っているのだ。

 空き巣は自分の家に入っても儲からないが他人の家に入れば儲かる。水からの伝言という詩集のコーナーにあるべきポエムが、理科の教科書のあるべき小学校に入り込めば、ただの水や何の役に立たない装置を高値で売って儲けられるようになる。

 哲学者がニセ科学批判や南京事件に口を出せば「俺は金銭や政治などという“俗事”を超越した高邁な哲学精神の持ち主なんだぜい」と取り巻きにアピールして虚栄心を満たすことができる。正当な場所にいては得られない不当な利益を得るために、いる場所を間違えようとする東発言は知的空き巣である。

2.個人的経験の偏重

 特定の歴史認識問題に不用意に極端な相対主義を持ち込む愚については、これ以上言うことはない。だが今回はそれに加えてさらに酷い一面がある。そうして散々愚弄し引っかき回しておいた上で彼が重視するのが、

 歴史的真実が云々というのならば、ぼくにとっては、まず20歳代のときの以上の体験が「真実」です。

表現の自由を脅すもの (角川選書)

 というような自分の経験であり“実感”だということだ。またも『表現の自由を脅すもの』から引かせてもらうが、

 多くの人々は、科学のユニークさはその経験主義にあると考えている。現実についての命題を確認するか投げ捨てるかは経験に依拠して行われる。勿論科学はそうする。しかしこの意味での経験主義は、何も科学独自のものではない。全ての人間は、経験に訴えて決定を行う。パウロをキリスト教に改宗させたのは、天から一条の光が射したのを見、「サウロ、サウロ、何故私を迫害するのか」(「使徒行伝」9章4節)と尋ねる声を聞いたという経験であった。

 問題なのは、「客観的命題について決定をするのにあなたは経験に頼るか」という質問ではなくて、「誰の経験にあなたは頼るのか」という質問である。まさにこの点で経験法則は「特に誰のというのでなしに、ただ経験に」という独自の答を生み出すのである。

 経験法則は述べる。「ある命題が知識として確立したと言えるのは、それをチェックする方法が、チェックするのは誰かということやその命題がどこから来たかということとは無関係に、同じ結果を生み出す限りにおいてである。」

(中略)

 個々人(我々は全て同じルールで協議する)の互換性は、自由社会哲学の極印である。ある行為がいずれの人、従って全ての人にとって正しいならば、それは一人の人にとっても正しいものであり得るとカントは明言し、自由な正義の基準を定立した。

 科学的経験主義は、一つの社会哲学である。これは再三見落とされてきた点である。もし経験主義者達が「我々は経験に依拠して判断しなければならない。取り分け、法王の経験に」と言ったとすれば、彼らは何の独創的な貢献もしなかったであろう。(中略)公共の(あるいは公共のものになり得る)経験だけが物をいうのである。

(中略)

 偉大なるアメリカの哲学者チャールズ・ピアスは一世紀前に書いた。「一人の人の経験は孤立したままでは取るに足りない。もし彼が他の人達には見えないものを見るなら、それは幻覚と称えられる。考慮されなければならないのは〈私の〉経験ではなくて〈我々の〉経験である。そしてこの〈我々〉が無限の可能性を持っている。」

 鑑識眼のある小さなサークル外では、ピアスは悲劇的なまでに無視され、あまり世に知られることはなかった。しかし彼ほどに、客観性に関する科学的に柔軟な観念の社会的意義を解した者は他になかったであろう。

 真理が公のものとして、――つまり、自分で探求し、不動の信念の真面目な追及を十分に深く行えば、如何なる人でも確信に到達するであろうものとして――承認されるのでないならば、我々各人が他の全ての人が信じようとしない全く自分勝手な信念を抱懐したって良いことになってしまう。各人はそれぞれ自分を小さな予言者として押し立てるだろう。つまりちっぽけな、〈変わり者〉、自分自身の偏狭さの間抜けな犠牲者に成り下がる。

 最後の部分は今の東浩紀の置かれた現状を描写する文として適当と思われる。彼の発言内容はポストモダンではなく近代以降の常識であるとはすでに言ったが、さらにもう一歩後退して、前近代(プレモダン)にまで逆戻りしているとすら言えるだろう。

3.還元主義の罠

 ここまでは全て今回興味の中心ではない部分を整理するための地ならしである。今回の東浩紀発言は最大限の批判と軽蔑を受けて然るべきだが、それは他でも沢山されているしこれからもされるだろうから、ここではこれ以上やらない。私が今回興味があるのはこのような愚を犯させる独特の思い上がりについてだ。

 冒頭のたとえ話の逆パターンを考えてみよう。物理学者達が粒子加速器の調整をしている部屋に医者がいきなり入ってきて「人体は素粒子が作り上げた最高の精密機械なのに上腸間膜動脈がどこにあるかもわかってないお前ら馬鹿」と言う場面を想像できるだろうか。

 私にはできない。元々のたとえは、愚かしいなりにありそうな話だと思うが、この逆パターンは、愚かであるとかないとか以前に何かまったくありえない滑稽な話であるように感じられる。たとえでなく現実にも東発言の逆のケース、すなわち特定の時代や事件に精通した歴史学者が思い上がりを抱き、認識論専門の哲学者集団に「馬鹿」と言い放つも同然の口出しをするというようなことは、まったくありえないように思われる。

 どちらも理屈では「愚かなことだ」としか言えないのに大きな差異が生じる理由は何だろう? これは興味に値する疑問だ。

 私はたまたま科学史に興味があるので、物理学者が医師団に対して思い上がりを抱きうる理由はかなりの部分までわかる。物理学は、他の科学分野よりも「偉い」という感覚を常に持ち続けてきた。たとえば古生物学が化石を研究することを“切手収集”すなわち単なる事実の下らない寄せ集めであるとして馬鹿にするような態度が見られた。

 そして物理学の次には「偉い」順に化学・生物学・医学・経済学など社会科学・文学などと続く、つまりより還元主義的な学問が「偉い」というヒエラルキーの概念があった。これは化学と錬金術、科学と宗教がまだ未分化だった近代科学の黎明期、大雑把に言えばニュートンの時代、物理学が創造主の御心を探求する学問だったころの名残だ。

 物理学をいくら極めたところでを誰かの盲腸を手術できるわけでもなく、化学をいくら極めたところで金融政策に助言できるわけでもないのに、どちらが「偉い」などと言っても無意味ではないか、

 どんな科学も健全な成長のためには統一派と多様化派*1との間の創造的な釣合いが必要だ(フリーマン・ダイソン『多様化世界―生命と技術と政治』)

 というのが、現代的な考え方ではあるが、思うに今日の社会はまだ総体としてこの還元主義の罠から抜けきっていないのであろう。科学は還元主義と同一ではないし同一視してはいけないのであるが、ずっとそう見なされがちであったし、現在でもそう見なされがちである。

 自然科学が誤って人文学を軽侮しがちなのと同様、人文学の内部にも、たとえば歴史学のような学問を“切手収集”すなわち単なる事実の下らない寄せ集めであるとして馬鹿にし、より還元主義的な(?)たとえば認識論のような哲学の方が「偉い」とするような意識が存在するのではあるまいか。

 結局何が言いたかったかというと、上の地下に眠るM氏のエントリで「なんで哲学者気取りのポモ批評家のチョンボで自然科学がけなされるんじゃい!」みたいな反発があるようだが、私はこの件に関して“自然科学教”つまり科学の神秘化の臭いを嗅ぎ取った地下猫にゃんの嗅覚は異常!!*2と思うのである。

*1:今の文脈ではほぼ「還元主義」と「その反対」に相当する。「還元主義の反対」を表すいい言葉が見つからないのだが。
*2:に鋭い。流石は猫!

おまけ

 俗事は任せる→シャルル皇帝→若本

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